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死体は鋭利な刃物で頭部と大腿部を切断され、骨は鋸のようなもので引き切られていて、他に外傷は無い。栄養状態は良く、純毛織で英国製の長シャツ、絹紬の長股引(ながももひき)をつけ、年令は50歳ぐらい。被害者は相当の暮らしぶりの人物と推測された。
捜査本部が長岡駅からトランクを運んだ2人の男の情報を得て、東京、大崎に住む農商務省技師に辿り着いた8日、警視庁の正力松太郎監察官に面会を求める男がいた。農商務省技師の山田憲(30)と名乗り、新聞で信濃川の事件を知ったが、犯人は自分方に同居する農学士渡邉惣蔵(65)だと語り、同行の渡邉を残して去った。
渡邉は自分が犯人だというが、つじつまの合わない点が多い。そこへ新潟県警から犯人は山田憲で2人の共犯者がいると急報が届き、山田と麻布に住むいとこの白米商山田庄平(39)が捕まった・・・・(アサヒクロニクル「週間20世紀」057)。
『鈴弁殺し事件』(又、『山憲事件』とも)呼ばれるこの事件がバラバラ殺人事件の嚆矢(こうし=最初)とされているようだが、殺害した被害者の死体損壊事件に、初めて“バラバラ殺人”と表現したのは、この事件ではなく、その後の1932年(昭和7年)2月に名古屋市中村区で発件された「首なし娘事件」に次いで、同年3月に東京府南葛飾郡寺島町(現在の東京都墨田区)で発覚した猟奇的な殺人事件(「玉の井バラバラ殺人事件」)であり、この時「コマきれ殺人」「八つ切り殺人」など、さまざまな表現があったようだが、東京朝日新聞(現:朝日新聞)のつけた見出しが始まりだそうだ。その語感から状況が想像し易いことや、名称としてインパクトがあることから、この事件以降同様の事件報道において用いられるようになったようだ。
しかし、「鈴弁殺し事件」以前に、人間の体をバラバラに解体するような犯罪は全くなかったのか・・・と言うと、そうでもないようで、ネットで検索した以下参考に記載の本『20世紀にっぽん殺人事典』(福田 洋 著、※3参照)のタイトルなどを見ていると、1902(明治35)年「野口男三郎、臀肉切り少年殺し」、1905(明治38)年「生肝取り、四人殺し」、1910(明治43)年、「深川・首なし裸女事件」といったものが見られ、明治の中期には既にバラバラ殺人が発生していたようだが、これらが初となっていないのは公式な記録がないからだろうか・・・・。
そして、「バラバラ殺人」などという言葉が新語として定着するには、そのような事件が連続して起こり、新聞などマスコミ情報により、世間の人々の記憶に焼きつくようになったときなのだろう。
又、人体を解体(死体を損壊)するといったような行為が行われるようになったのは、明治以降の西洋化・近代化によって、人の身体も機械のように手・足・首などの複数の部品の組み合わせで成り立っているといったような醒めた見方(それが科学的なのかどうか知らない・・)をするようになったことからかも知れない・・・。
近年、殺人事件の数などは、年々減少しているにもかかわらず、バラバラ殺人のような凶悪犯罪や猟奇殺人が増えているのも、テレビゲームなどの普及により、子供の頃からの殺人ゲームを通じて人を簡単に殺すことに抵抗がなくなっているからだとも聞いているが・・・(日本国内の事件参照)。
本題の「鈴弁殺し事件」が当時社会問題となっていた『米』が、事件を引き起こしたわけであるが、事件の結論と言うか、核心部分に入る前に、当時の社会的な背景など簡単に振り返ってみよう。
当時件の内容やバラバラ殺人事件等のことについて早く知りたい人は、以下参考に記載の※1:「オワリナキアクム:事件録」や※2:「無限回廊:事件:戦後の主なバラバラ殺人事件」などに詳しく書いてあるので参照されるとよい。
米騒動とは、米の流通量の減少や価格高騰によって民衆が米を入手しづらくなることが要因となって起こる騒動であるが、米騒動の発生契機としては、凶作による米不足や米価格の暴騰が直接的な要因になる事が多い。単純な「米価格の暴騰に伴う民衆暴動」という定義の騒動は、江戸時代の享保の大飢饉の頃から幾度となく発生しているが、戦前には、1890(明治23)年、1897(明治30)年、1918年(大正7年)と3回起こり、特に1918(大正7)年の米騒動は大戦景気の最中とあって最大規模となり、狭義で言う「米騒動」はこの1918(大正7年)年の事件を指していることが多く、ここでもその時の事件について簡単に触れる。
1897(明治30)年の後の1910(明治43)年にも関東大水害により、同年から1913(大正)2年まで続いていた米価高騰期には、政府は、幾つかの米価抑制策を実施し、1912(明治45)年には、定期米(第二次大戦前の米穀取引所で、定期取引の目的物となった米)市場に於ける台朝米(台湾・朝鮮産米)の代用を認める一方で、正米(しょうまい)市場において、述べ取引(代金をすぐに支払わず、一定期間をおいて決済する取引)を禁止し、又、米及び籾(もみ)の輸入税(関税参照)低減、1913(大正2)年には朝鮮米移入税の廃止(※4の中の鮮米移入税問題 (上・下)参照)が実施され、米価は翌1914(大正3)年の第一次世界大戦開戦年の直後には、暴落したため、政府は逆に米価引き上げ策をとらなければならない情勢となり、同年には米価調整令を公布し、米価調整のため必要に応じて、政府が直接米を買入れて交換・売渡しが出来るようにした。
第一次世界大戦開戦下の日本資本主義は異常な好況(大戦景気)に恵まれ、鉄成金、船成金など「成金」が続出した反面、未曾有のインフレ進行は労働者の実質賃金を低下させ、かえって民衆の生活を悪化させた。
そして、大戦開始直後に暴落していた米価も、周りの物価が上昇していく中で、1917年(大正6)から1918(大正7)年にかけて上昇を始め、1918(大正7)年の中頃から急激に暴騰した。その結果、端境(はざかい)期には米を買わねばならない全農家の3分の1を含め、民衆をもっとも苦しめることとなった。
大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年(大正7年)の1月に1石15円だった米価は、6月には20円を超え、翌月7月17日には30円を超えるという異常事態になっていた(当時の一般社会人の月収が18円 - 25円)。7月末から8月初めにかけては各地の取引所で立会い中止が相次ぎ、地方からの米の出回りが減じ、8月7日には白米小売相場は1升50銭に暴騰した(※5参照)。
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この時の米の暴騰は、基本的には大戦景気による都市部の人口増加、工業労働者の増加など、非農業人口の急増をもたらしたほか、養蚕などによる収入の増加があった農家は、これまでのムギやヒエといった食生活から米を食べる生活に変化していった。それに対して、寄生地主制下の米の生産が停滞して供給不足に陥ったことが根本的原因であったが、その上に大米穀商や地主の投機的な買占め、売り惜しみが加わったことが事態を悪化させた。
1916(大正5)年10月、第2次大隈内閣の後を受けて山縣有朋の推挙によって擁立された寺内内閣(元帥陸軍大将・軍事参議官)の仲小路廉農商務大臣は、事態を重く見、1917(大正6)年9月、内地米不作の見通しを受け「暴利取締令」(農商務省令第20号)を発し、商人への取締りを強化し、米・鉄・石炭・綿・紙・染料・薬品の買い占めや売り惜しみを禁止などたが、効果はなかった。常軌を逸した商魂を表わす口語の動詞「ぼる」「ぼられる」「ぼったくる」(暴る、暴られる、暴ったくる)は、この「暴利取締令」の「暴利」に由来する(広辞苑による)。
続いて1918(大正7)年4月には、外米管理令(勅令第九十二号)の制定と、臨時外米管理部の設置及び外米管理規則(農商務省第十三号)によって、政府指定商人(三井物産や鈴木商店など指定七社)による外米及び植民地米の輸移入と政府補給金の支出によるその廉売を実施させ、米価の沈静化を図ろうとしたが米価引き下げには至らずなおも高騰した(※6参照)。
この米価に決定的影響を与えたのは第一次世界大戦の影響で輸入米が激減した事や1917年のロシア革命に端を発し、寺内内閣により1918(大正7)年7月12日にシベリア出兵宣言が出されると、需要拡大を見込んだ商人による大量の米の思惑買い、売惜しみが発生したことが事態を一層悪くしたのであった。(このことは前にこのブログ「米騒動の日」で詳しく書いた)。そのため国民の憤懣は煮えたぎっていたのである。
最初に立ち上がったのは、1918(大正8)年7月22日、富山県魚津町(現在の魚津市の中心となった町)の漁師の妻たちであり、彼女等の井戸端会議からであった。「米がこんなに値上がりするのは、富山で採れた米を、他県にばかり、大量に運び出しているからではないか・・・」といったことになり、翌23日朝、魚津町の漁家の主婦たち数十人が県外移出を差し止めるべく海岸に集合し、米の積み出しを行なっていた船に積み出しをやめるよう要求、このため米の搬送は中止された。
その夜、百数十人に膨れた主婦集団は、さらに町内の米穀商宅に押しかけ、移出中止を求めた。これが富山湾沿岸一帯に不穏な空気が高まり、8月3日には富山県中新川郡西水橋町で数百名の群集が米商人や資産家の家に押しかけ大声で米の安売りを要請するに至った。そのことが「富山の女一揆」と大阪や東京の大新聞をはじめ、各地の地方紙にも報道されたことが発端となり、京都、名古屋大阪の大都市に飛び火し、米問屋と住民の騒動は瞬く間に全国に広がり米問屋の打ち壊しや焼き討ちなどが2ヶ月間に渡り頻発し、全検挙者数万人にのぼる全国的食料暴動(=米騒動)が発生するに至った。
ただ、魚津では米の県外移出を阻止する動きはあったものの、暴動は一切起こっていない。米価の暴騰は一般市民の生活を苦しめ、新聞が連日、米の価格高騰を知らせ煽った事もあり、余計に社会不安を増大させたといえる。余計な話だが、マスコミと言うのは昔から戦争を煽ったり、今回の東北での震災による福島原発事故などでも自らは取材も満足にせずリーク(秘密の情報が漏らされること)情報などをそのまま、中途半端に報道し風評を広めたり、時には真実を正確に伝えずに、恣意的にある筋の思惑を流し、ある方向に持っていこうとすることがあるように感じている。何か、いつの世にも、結構困ったことをしてくれていることが多いような気がするね~。
この為、政府は警察力の増加をもって社会情勢の不安を抑え込む方針が取られ、巡査を増員するという措置が取られた。当時、労働者の米騒動は、8月11日から16日、特に13日がピークであった。
「神戸の鈴木商店に4万袋の米がある」との新聞報道を受け、12日夜、店の前に押し寄せた群衆の、投石、挙句に焼討ちにより、向かいの神戸新聞社もろとも全焼したが、この時兵庫県知事は、警官の抜剣を許可、更に軍隊の要請をした。神戸で4名大阪で2名の刺殺者を出したという(アサヒクロニクル「週間20世紀」057)。
労働者の団結権(労働三権の1つ)すらなかったこの時代、厳しい抑圧と、苦しい生活に喘ぐ一般庶民の怒りの矛先は、次第に高所得者、特に米問屋や商人に向けられるようになっていった。
マスコミのなかでは「大阪朝日新聞」が米騒動の報道に力を入れ、シベリア出兵に抵抗するなど、大正デモクラシーを先導する言論機関として活躍していたようだ。
8月17日以降には、米騒動は山口県や北九州の炭坑騒動へ飛び火し、沖の山炭坑(現在の宇部炭鉱の1つ)の騒動は付近住民を加えた数千人規模の騒動に発展し、米問屋、屋敷の打ちこわしや遊郭への放火などが起こり、出動した軍隊に対してもダイナマイトで対抗するなど、死者13名を数える惨事となった。
寺内内閣は、1918(大正8)年8月穀類収用令(勅令第三百二十四号。)を緊急勅令により制定し、強制収用も辞さずとの威嚇を背景に指定商人による内地米買い付けを行なわせ、同時に外米管理部を臨時米穀管理部に改組し、買い付け内地米をも含む米穀の管理を強化しようとしたが、解決せず、戦争による格差の拡大、新聞社に対する言論の弾圧などの問題を孕んだこの騒動は民間での倒閣運動の高揚に直面し、9月21日、寺内内閣の総辞職をもって、一応の収まりを見せ、「平民宰相」と呼ばれた原敬による日本で初めての本格的な政党内閣に米騒動後の米価対策は委ねられることとなった。原敬は米騒動の原因を、「米は地方に於いて不足せしにはあらず」、「騒動を醸せしは、畢竟法令の力を過信し、法令の力に因りて米価を低下せんと試みたる秕政の致す所なり」と寺内内閣の強権的な米国管理政策が、地方に残存する米の自由で円滑な出回りを疎外した結果、諸都市に於ける米価の引き下げに失敗し、高米価を不満とする騒動が惹起されたと見ていたようだ。それ故、原は寺内内閣の強権的な米価政策の失敗に学びつつ、自らは内閣成立早々、「人為を以て極端なる政策を採るは却(かえっ)て経済上に混乱を与ふるのみならず、法律を以て自然を動かすが如きは深く慎むべし」と言明し、こうした基本姿勢に立った上で、食料政策を進めたという(※6参照)。米騒動は明治期以後の日本の民衆運動の転機となる事件ともなった。
「国内初」と言われるバラバラ殺人「鈴弁殺し事件」(又、「山憲事件」)が、当時社会問題となっていた『米』問題が背景にあったことを述べたが、以下で、事件の顛末を述べよう。
事件を引き起こした「山憲(やまけん)」こと山田憲は、新潟県の医師の子の生まれであり、裕福な家庭に育ち、東大農学部の前身である駒場農科大学卒業後、農商務省に入り、1918(大正7)年4月より設置された外米管理部設置と同時に抜擢され、同年夏、外米調査のためインドに派遣され帰国後、省内一の外米通として重用されていた当時のエリート官僚であったことが、この事件の特徴でもある。
外米管理部とは、前年の米騒動を受けて設置された米価調整機関であった。
当時、米が高騰している中で米を買い占めて価格をつり上げる悪徳業者が跋扈(ばっこ=はびこる)していたことから、外米の輸入を政府が管理することで米価の調整を図ろうとしたのだ。
その政策では、外米は同部が指定した業者しか販売できないこととし、資力と信用の備わる商店を指定して、公定価格で外米を販売させることにした。そして、商店には100斤(60kg)につき30銭の手数料を与え損失が出れば補償することにも・・・。
こんな商売をして損失を補填してくれるほどうまい儲け話はないだろう。当然、指定されるべく名乗りを上げる商店も多かっただろうが、政府が指定したのは東京の三井物産と湯浅商店、大阪の岩井商店、神戸の鈴木商店の4店、それに次いで、間もなく神戸の大黒商店と内外貿易、名古屋の加藤商店の3店が仲間入りし計7店となった。
当然損をせずに誰でも必ず儲かる商売をしたいだろうから、外米管理部の役人と外米商との間では、全国的に贈収賄が横行していただろうことは、誰でも分かることだと思うのだが・・・・。
本件の被害者・鈴弁こと鈴木弁蔵は、神奈川県の農民の子で、18歳で米穀商に住み込み、やがて横浜一の外米輸入商となり資産百数十万円と称されるほどになっていたという。だから、南京米(インド・タイ・インドシナ・中国などから輸入した米の通称)であくどい儲けをしたとか大正7年の米騒動では機敏に立ち働いて50万円もの利をせしめたと噂され、別名を「ズル弁」と呼ばれていたらしいことも分かる。
1918(大正7)年4月、山田憲は静岡県の元代議士の次女と結婚をしたが、元代議士の住む隣村に鈴木の別荘があり、旧知の間柄であったことが、自然と山田に鈴木が近づいたようだ。それなのに、山田が鈴木を殺害した理由は、金銭のトラブルからだったらしい。
外米輸入商と高利貸しを兼ねており、米の買い占めで財をなしていた鈴木だが、更なる利益を求めて農商務省外米管理部の技師となった山田に接触し、山田からリークされた情報を基に利益を得て、その一部をリベートとして渡していたようだ。しかし、山田には投機癖があり、米取引所株を買ったり、相場に手を出したりして借金を抱え、債権者に追い立てられるようになっていたようだ。その返済と生活維持のためたまたま鈴木から「外米取扱い商の許可が下りる様運動してほしい、外米相場を真っ先に自分に知らせて欲しい」などとの要望を利用し、鈴木から金を引き出すことに成功したようだが、山田は鈴木の要望通りに行動せず、度々鈴木から詰問される様になった。
山田は、最初のうちは鈴木を無視する態度でいたが、業を煮やした鈴木が関係を暴露する旨を言い出すに至り、追い詰められた山田は大学時代の同卿学生の泊まる寄宿所に止宿していたときに親交のあった渡邉と共謀して鈴木を山田の家へ招き酒を飲ませた上で、渡邉が背後からバットで背中を打ち、手拭で首を絞めたあと、山田憲がとどめに右手で喉を締め窒息させ、翌朝、いとこの山田庄平と共に死体を切断して2つのトランクに詰め、渡邉と庄平に長岡へ運ばせたのだという。
山田は大正10年3月死刑に処されたが、弁護を担当した弁護士竹内金太郎(※9)は、事件の背後には外米指定商問題をめぐる大きな汚職があり、主犯は農商務省の有力な人物だったという疑惑を捨て切れなかった・・・と言っているようだ(アサヒクロニクル「週間20世紀」057)。
この事件で興味が引かれたのは、警視庁が、山田を逮捕したときの取り調べの担当者の上官が正力松太郎であったということだ。・・・私たちにとって、なんと興味ある人物だろう・・・。戦中・戦後の日本を影で操ってきた影の実力者だと聞かされている。
当時 経営危機に陥っていた讀賣新聞を買い取り社長に就任し、「読売中興の祖」として知られている正力は、ウィキペディアの略年譜を見ただけでその凄い経歴がわかる。
参考に記載の※6:「松岡正剛の千夜千冊『巨怪伝』佐野眞一」によると、佐野真一著『巨怪伝』の副題は「正力松太郎と影武者たちの一世紀」となっているだけあって、あの清張にして、「結局ぼくも新聞社についてだけは書けなかった」と言われる中で、実態を掴むことが難しい情報メディアの総合的発信体であるマスメディアのなかでも図抜けて手ごわい人物正力松太郎についてかなり詳しく捕らえられているようだ。
正力は、東京帝国大学法学部卒。内閣統計局に入り、高等文官試験に合格後、28歳で警視庁入庁。当時は帝大出が警視庁に入るということ自体珍しく、「学士様」として庁内の注目を浴び、翌年日本橋堀留署長。1917(大正6)年、牛込神楽坂署署長、警視庁第一方面監察官となる。1919(大正8)年、警視庁刑事課長になったときが34歳。当時の正力は剛腕コワモテの警察官僚として有名人だったらしい。「警視庁に正力あり、との声価を一挙に高めたのは、第一方面監察官時代に遭遇した早稲田騒動(1917年)と、米騒動(1918年)の水際立った鎮圧ぶりだったという。日本の戦前の警察機構のなかでは、米騒動で発揮した正力の「蛮勇」ぶりこそが、まさに「勲章もの」であったらしく、米騒動の鎮圧活動で「功績抜群」と評価された正力は、天皇の名において勲六等の叙勲を受け、瑞宝章を授けられている。
今話題となっている原子力委員会の初代委員長にも就任していた。今日は詳しく書けないので、興味ある人は※7、※8なども見るとよい。。
(冒頭の画像は、大阪朝日新聞大正7年8月11日付。週間朝日百貨「日本の歴史」111より)
日本初とされるバラバラ殺人事件「鈴弁殺し事件」が発覚した日 参考へ