今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

老舗の日

2011-10-20 | 記念日
日本記念日協会の今日・10月20日の記念日を見ると、「老舗の日」が合った。
由来には、“日本は創業100年を超える企業が世界一多いといわれる。その日本が世界に誇るべき老舗の良さを見直すのを目的として、老舗の商品を扱う「老舗通販.net」を運営するスターマーク株式会社が制定。日付は商売の神様として知られる恵比寿様の祭り、恵比寿講の日にちなんで。」・・・とあった。
因みに、今日の記念日を「老舗の日」としているのだから、「老舗の店」のことなど何か書いたことがあるかと思って、老舗通販.Net(※1)のHPを覗いてみたが、“現在、江戸の昔より明治初年にかけて創業された、百年以上の伝統を有する、古いのれんの店53店の集い「東都のれん会」加盟店にご出店いただいております”・・とあったこと、又、そこに、出店の店の商品の通販をしているらしいということ以外は何も書かれてはいなかった。要するに、単なる、CMの一環としての記念日登録なのだろう。
記念日の“日付は商売の神様として知られる恵比寿様の祭り、恵比寿講の日にちなんで。”・・・とあるが、恵比寿様とは、「えびす神社」のご祭神「えびす」のことだろう。
現在では一般に七福神の一員で、釣竿を持ち鯛を抱えた福々しい姿で、大黒天(大国さん)とともに、恵比寿大黒と併称され、福神の代表格として知られており、関西では「えべっさん」の愛称で親しまれている。
だが、それは中世以降の信仰で、「えびす」の由来をたどると非常に複雑な経緯をもっている。「えびす」には、夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須などの字があてられ、その語源は、異邦人や辺境に住む人々を意味するエミシ・エビスの語に由来するとされている。
その姿があらわすように、もともとエビスは、漁業の祖神、海上の守護神として漁民の間で信仰され始めたと考えられているが、この神について書けば長くなるので、今日は「えびす」のことを書くつもりはないため、「えびす」のことは、Wikipediaのえびす又、以下参考の※2「豆知識」の“七福神(エビス)”や、※3:「えびす信仰」に詳しく書かれているので、そこを参照されたい。
いずれにしても、えびすが、イザナギイザナミの子である蛭子命(ヒルコ)や大国主命(大黒さん)の子事代主(コトシロヌシ)に結び付けられたのは両神とも水に関連していたためであり、えびすを祀る神社も、概ね「ヒルコ神」系と「事代主神」系に別れているようであり、ヒルコ神系のえびす神社の総本社は、我が地元・兵庫県西宮市西宮神社であり、事代主神系のえびす神社の総本社が、島根県松江市美保神社である。
もともと漁神であったと思われるエビスは中世期には商業神としての性格をもったらしく平安時代後期には、えびすを市場の神(市神参照)として祀ったという記録が有り、鎌倉時代にも鶴岡八幡宮内に市神としてえびすを祀ったという(鎌倉でのえびす神招致については、※4及び、※5のNo139 ,No141 、No 149 などを参照されるとよい)。このため、中世に商業が発展するにつれ商売繁盛の神としての性格も現れ、それは同時に福神としても信仰されるようになったのだろう。
えびす神社では、神無月旧暦10月)に、出雲に赴かない「留守神」とされたえびす神を祀り、えびす講(※6。※7も参照)を催し、1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願している。旧暦10月20日は新暦に直すと年によって変動するため、多くの場所や神社では、11月20日を中心にその前後に行なわれているが、地方や社寺によっては、収穫後の感謝を祝う秋(旧暦10月20日)と年の初めの豊作祈願を祝う春(正月20日)の2回開催したりもしている。地域によって期日は一定ではなく、京阪では、正月10日を十日えびす(※8参照)といって西宮神社や大阪今宮戎神社などへ参拝するが、江戸では、正月と1月20日に祀った。
商家のえびす講は、江戸時代に町民(町人)の発展に伴って大流行し、各地でが結成された。江戸では、10月、京阪では1月に、床の間にえびす神を祀り、得意先と宴を設けて、賑やかに祝った。膳の決まりは無いが、恵比寿大黒にちなんだ鯛や、季節性の高いもの、江戸なら、出始めのべったら漬けなどが好んで載せられたようだ。また、賑やかに座敷にある品などに大きな値をつけ売買の真似事などをした。
江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作家にして俳人でもある井原西鶴が、貞享5年(1688年)に刊行した各巻5章、6巻30章の短編からなる『日本永代蔵』の「見立て養子が利発」(巻六の二)に、えびす(夷)講の様子が描かれている(『日本永代蔵』は、※9:「デジタルアーカイブPORTAL_国立国会図書」で読むことが出来る。)。

上掲の画像は、 『日本永代倉』に(国立国会図書館蔵)に描かれている「夷講」の様子(画像は、NHKデーター通信部編、「ヴィジュアル百科 江戸事情」第1巻生活編より)。
京阪では、この日を“誓文払い”ともいい、商人が平素の利得の罪ほろぼしのために、この日に限って商売抜きで安売りをした。誓文とは、神に誓う起請文のことで、嘘いつわりの罪を払い、神の罰を免れようとするのが誓文払いである。しかし、えびす講には人出が多いことから、次第にそれらの人出を当てにして、誓文払い用の特別廉価品を仕入れて売るようになり、期間ものばされて、売らんかなの催しになってしまっていた。そして、呉服店(和服参照)など商店だけではなく、この日には市が立ち、魚や根菜など青物も売られるようになった。商売の神様を商売人が、利用しない手は無いってことなのだろうが・・・。
そういえば、私が、若かりし頃、商法などの勉強していたとき、佐賀 潜商法の解説のなかに、普通の民事のことは、民法で解決できるのだが、利益を追求する商人は欲が深いので、民法では解決が出来ないことが多く、それで商法がつくられた・・・とあったのを思い出す。
さて、これから老舗のことについて書くが、江戸時代前期・元禄期に活躍した近松門左衛門人形浄瑠璃心中天網島』(享保5年=1720年作。全三段)は、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている作品であり、実説の紙屋治兵衛と遊女小春の網島(大阪市都島区)大長寺(※10参照)での心中事件(享保5年10月14日と伝えられる)を脚色したものであるが、この作品の”天満紙屋内の段”の冒頭に、以下のような語りで「老舗」の名が出てくる。
「福徳に天満つ神の名をすぐに天神橋と行き通ふ所も神のお前町営む業も紙見世に、紙屋治兵衛と名をつけて千早ふるほど買ひに来る、かみは正直商売は、所がらなり老舗なり。」・・・と(本文、※11:「鶴沢八介メモリアル【文楽】ホームページ床本集」の44心中天網島参照)。
治兵衛 は大阪の天満天神社前の御前町に紙を商う店を出している。「ちはやふる」はこの神にかかる枕ことばで、同時に、客が「降る」ほど買いに来る繁昌ぶりを表わしている。「紙は正直」は紙の商売が正直ということと、「正直の頭に神宿る」ということわざを掛けている。「所がらなり」は、天満橋は現在でも賑やかな商店街であり、治兵衛 は、こんな繁華な場所に老舗をかまえていたのである。
この作品には、冶兵衛と小春には、死ななければならない定めがあり、追い込まれた末に心中しなければならない「必然」が描かれているが、そのような因果の網が如何に緻密に張り巡らされているかに驚かされる。興味のある人は、以下参考の※12:「日本古代史論壇」で詳しく解説されているので参照されるとよい。
又、井原西鶴の『日本永代蔵』(副題“大福新長者教”)は、副題が示すように、江戸時代の町人らの勤勉・節倹・才知によって富を築こうとする、またそれに失敗する町人らの盛衰を描いた町人物の代表作の一つであるが、その中の「世渡りには淀鯉のはたらき」(巻五の二)に、商売替えして成功した男の例があり、西鶴は、この男の商売の仕方を「商人は只しにせが大事ぞかし」と述べているが、ここでの「しにせ」は得意先のひいきと信用の意で使われている。
この『日本永代蔵』が刊行された頃になると、それまで高度成長を続けてきた経済都市京・大坂もかげりを見せ始め、商業資本主義も行き詰まって飽和状態を示すようになっていた。そのような時代背景から西鶴は、厳格な身分制度(士農工商)のこの時代にあっては、分相応の生活をすることに加えて、現状を直視した生活を営むことが必要であって、職業は親代々から伝わったものを引き継ぎ、得意先を大切にし、新しい取引もしないで、堅実に商売をすることの必要性を述べているが、ここでは、親代々の商売を継いで成功しなくても、他の商売で成功することもあるという例として挙げている(※9、※13、※14参照)。
老舗」(しにせ)のもともとの語源は、動詞「為似す・仕似す(しに)す」に由来し、「似せる」「真似てする」などその連用形が名詞化され「しにせ」になったとされており、江戸時代になって、先祖代々の家業を絶やさず守り継ぐ意味となり、長年商売をして信用を得る意味で用いられるようになったようだ。老舗を“ろうほ”と呼んでも誤りではない。
「老舗」の定義の一つとしては、東京商工リサーチによると創業30年以上事業を行っている企業となっている。
老舗は昔から伝統的に事業を展開するため信用性が高いとされるが、一方で経営が保守的になりやすい傾向も見出せる。平成不況では、ニッチ市場など末端消費者のニーズ(needs)に即した業態が急成長を見せる一方で、老舗が時代の波に乗りきれずに倒産(いわゆる老舗倒産)するケースも増えてきている(※15参照)。
日本には創業100年以上の企業が10万、200年以上の企業が3000以上ある(横澤利昌・編『老舗企業の研究』生産性出版2000年)そうだが、そこには、酒造・和菓子・製造業など伝統産業が多くを占めるが、それらの会社は常に時代の流れに合わせえて変わってきたから存続できたのだろう。
17世紀の後半の江戸には、伊勢・近江・京都をはじめとする上方出身の新興商人たちがたくさん進出した。その中には近世を通じて豪商としての地位を保ち、近代にまで名を残した家が幾つかある。その代表的な例が、三井高利に始まる三井家であろう(三井家のことは、※16:「三井の歴史【三井公報委員会】参照)。
呉服店には江戸時代に創業した所も多いが、百貨店に変化していった老舗も多く、2000年代現在に生き残っている呉服屋を出自とする百貨店に関しては、三井高利が起した三越(創業1673年。現在は、三越伊勢丹ホールディングス傘下の三越伊勢丹が運営)が代表格である(日本の百貨店参照)。
井原西鶴は先に挙げた貞享5年(1688年)刊行の『日本永代蔵』(副題“大福新長者教”)の中で、実在した人物によって才覚重視を強調しているが、「昔は掛け算今は当座銀」(巻一の四)で、駿河町(現在の日本橋室町の一角)へ移転して6年目、江戸進出15年目の「越後屋」呉服店を紹介している。このタイトルは、「昔は後払いの売掛による商売であったが、今は現金売買である」といったところか。そこには、
「三井九郎右衛門といふ男、手金の光、むかし小判の駿河町と云所に、面九間に四十間((間口が九間に奥行が四十間))に、棟高く長屋作りして、新棚(「棚」=「店」、新しい店)を出し、万現銀売り(すべて現金売り)に、かけねなし(定価より高くした値はない)と相定め、四十余人、利発手代(賢い手代)を追まはし(自由に指揮し)、一人一色の役目」」・・・・とある。三井九郎右衛門は、三井財閥の基礎を築いた三井八郎右衛門の誤りで、三井 八郎右衞門は、三井家総領家である北家の当主が代々名乗った名前であり、ここに登場する三井 八郎右衞門は三井高利の次男で江戸の店を任された三井 高富のことだろうか。それとも高利のことを言っているのだろうか。
寛永12年(1635年)に母・殊法(この母親が素晴らしく有能で三井家の基礎はこの殊法により築かれたとも言われる)の命を受けて、14歳のとき一度は江戸に出て兄俊次が開いた呉服店に入って修行していた高利であったが、慶安2年(1649年)に松坂への帰国を余儀なくされた。
高利は、松阪で母親の仕事を手伝いながら家業を拡張し、商業に加えて金融業をも営み、資金を蓄積し、江戸進出の機会を待った。そして、妻を迎え、子宝に恵まれた高利は、自分の子どもたちが、15歳になると、男子は江戸の商人の下に送って商売を見習わせた。
江戸において自らの店を創業することができたのは、それから38年後の延宝元年(1673年)兄利次が没してからのことであった。しかし、このとき高利はすでに52歳の老齢であった。そのため、江戸で修行中の息子達に指示し、江戸随一の呉服街であった江戸本町に間口9尺(2.7m)の小さな借り店舗に、呉服店関係の店「三井越後屋呉服店」(越後屋)を開業させた。次いで京都に仕入れ店を開いた。京都の店は長男・高平に、江戸の店は次男・高富に管理させ、高利は江戸に赴くことなく、松阪にあってこれらの店の采配を振るった。
しかし、江戸の呉服店としては後発に属し、開業当時は間口9尺で使用人10人足らず、武家屋敷の顧客など一軒もないというような、苦しい立場からの出発であっことから、高利が編み出した新商法が当時当たり前であった掛売から、「店前現銀〔金〕掛け値なし」への切り替えであった。
掛売りは貸倒れや掛売りの金利がかさむため、商品の値が高く、資金の回転も悪かったが、店前売りに切り替え、商品の値を下げ、正札をつけて定価制(掛け値なし)による店頭販売での現銀(金)取引を奨励した。この現金売りによる収入は資金の回転を早め、二節季払い(年二回の「節季」【 盆暮れ等】払い)の仕入れ先には数倍活用された。
その新商法が旧態依然の同業者間からは反感を持たれ、嫌がらせをされ、追い出され、仕方なく、天和3年(1683年)本町1丁目から、近くの駿河町に移転したが、商売は繁盛を続け、両替店三井銀行【現:三井住友銀行】の前身である三井両替店)をももつ大商人の道を歩みだした。
越後屋は、はじめ4間間口の小さな店であったが、あっと言う間に店間口は東西が36間を越し、駿河町表間口の半分を占めるほどになっていった。その後、大阪にも進出し、三都に呉服・両替の店を構え三都の両替店は、幕府の金銀御為替御用にも大きく関与した。

上掲図が、江戸駿河町・三井越後屋の図(三井銀行蔵。写真は、週間朝日百科「日本の歴史84・近世Ⅱ」より)であり、下に掲載の図が「越後屋」の商い風景。三越資料館蔵として、週間朝日百科「日本の歴史68・近世Ⅰに掲載されていたものである。
越後屋は、「現金安売り掛け値なし」での「店前売り」だけではなく、「小裂何程にても売ります(切り売り)」もしていた。また、反物を、金襴類、羽二重類、紗綾類、紅類、麻袴 類、毛織類等などと分類し、店員の担当を生地ごとに明確に分け、顧客の如何なる質問 にも応じられる販売体制を敷いていたがこの手法は、「一人一色の役目」と言われていた。そのほか、数十人の仕立屋を抱え、いそぎ客へは即座仕立てによる販売方法が述べられている他、いろは付きの引出で商品の管理を行い、この店にはないという物がなく何でも揃っていると、『日本永代蔵』では「越後屋」での商品管理の方法や品揃えの良さを述べ、「大商人の手本なるべし」と絶賛している。
それに、広告文を史実的に見ると、天和3年(1683年)3月、越後屋が江戸府内全域に配った引き札(ちらし)の「現金安売り掛け値なし」のコピーが日本での第1号だという。
この引札のコピーは、八郎右衞門自らの起草と見られるが、修辞(レトリック)を一切排した実用文形式で、越後屋の営業哲学を鮮明に盛り込んだものだそうで、これが当時の商慣習を一挙に改変させることになり、以後この形式の引き札が江戸の町に氾濫するようになった。まさに見事なコピーライティングであり、時代を先取るプロモーション戦略であったと言えるだろう。
又、西鶴の『日本永代蔵』でのこのような実在した人物による成功例は、虚構として作り上げた人物の成功譚よりも、当時の町人たちに大きな影響を与えたことであったろう。
しかし、このように成功し、一代で大きな財を成し得ても、それを子孫が維持し続けることはなかなか難しいことである。多くは累代にわたって分散されていってしまうからだ。
高利は、元禄7年(1694年)に没したが、その後も三井が発展の途をたどり、幾多の危難をのりこえて、近代以降も財閥(三井財閥)として繁栄できた一因としては、高利の「真底一致」の方針と、それを細かく規定した二代目、高平が制定した家憲「宗竺(そうちく)遺書」の存在があるという。
つまり、高利は残された資産を分割することなく、共有して運用することを子供たちに望み、子供たちは、その遺志を継ぎ高平の主導のもと兄弟全員の仕事として、家業を続けることにし、また新たなお店(たな)を起こしている。そして三都の諸店や幕府の御為替御用など営業内容も複雑となりこれを統括する組織として「大元方(おおもとかた)」が宝永7年(1710)に設置されている。これは、三井一族の事業を統括し、共有とした財産を維持・運営する今で言うところのホールディングカンパニー(「持株会社」)的な機能をもつ最高機関ともいえよう。
続いて、高平と都市の近い2人の兄弟で享保7年【1722年】に家法である、「宗竺遺書」(宗竺とは高平の隠居名)が作成され、他の12人の同属(三井では同苗と称するそうだ)がその遵守を誓ったという。これらの内容は単なる精神的な家訓や資産の配分方法を示した遺書とは異なり、かなりの長文で具体的なことを示したものだそうであり、この中には、同苗の子弟の教育方針も定められており、例え一人っ子の惣領であっても一家の害になるような者は勘当し、同苗から養子をとるとか、愚鈍で渡世も出来ないような者は出家させよといった厳しい方針が示されているそうだが、その内容等は、※16:三井の歴史【三井公報委員会HP】を参照されると良い。また、越後屋呉服店の創業に関しては、以下参考の※17:「我が国に於ける革新的小売業の源流ー越後屋呉服店の創業に関して」で詳しく解析されているので興味のある人は見られるとよい。
最近、総合製紙大手の大王製紙の井川意高元会長(47才)が子会社から総額80億円超の資金を個人的に借り入れたとして辞任した問題で、元会長の借入総額が100億円を上回る見通しであることが同社関係者の話で分かったという。また、借り入れのうち数億円は米国ラスベガスのホテルに開設された元会長の個人口座に直接入金されていたとみられることも判明したそうだ(※18)。
大王製紙は、愛媛県宇摩郡三島村(現在の四国中央市)出身の井川伊勢吉が1941年(昭和16年)に設立した四国紙業株式会社が前身で、大王製紙は、四国紙業など14社が1943年(昭和18年)に合併して発足した会社。中心である四国紙業の創業者(井川伊勢吉)の孫が、こんなことをしでかし、又、井川意高が社長時代のものもらしいが、東証1部に上場されている会社内で、このような商法違反行為が行なわれていたということが信じられない。三井の同苗から見ればどういうことになるのだろう・・・・。
株式会社は、社長のものではなく、株主のもの。会社には、代表取締役を監視する監査役もおり、会計監査をしている公認会計士もいるはずだ。それらの機関が全く機能していなかった言うことだろうが、なんとも情けない話ではある。
やはり、江戸時代末期の呉服店出身の老舗で、戦後急成長した企業に、三重県四日市市の老舗呉服商「岡田屋」(創業は宝暦8年=1758年。太物【絹織物を呉服というのに対して、綿織物・麻織物など太い糸の織物の総称。】・小間物商「篠原屋」)がある。この「岡田屋」を経営する岡田家に伝わる家訓は「大黒柱に車をつけよ」であり、岡田卓也氏の同名の著書も出版されているが、本来動かないはず、あるいは、動かしてはならないとされているはずの「大黒柱」であっても、時代の変化によっては、車をつけて、動かすつもりで対応しなくてはならないという意味であり、著書では、呉服屋であった岡田屋が、人の流れを見ながら、戦前に繁華街であった場所から、四日市市役所近辺へ、更には四日市駅前へと移転し、更には郊外型のショッピングセンターのモデルへと進化を遂げていったことを例に挙げて、変化への対応の重要性を説明している。
今では、日本の流通業界ナンバーワンといえるまでに育ったイオン株式会社であるが、イオンは、大手流通グループ「イオングループ」を統括する純粋持株会社(※19)であり、このイオングループは、イオン株式会社(旧:ジャスコ株式会社)を純粋持株会社に、イオンリテール株式会社を中核に、国内外190余の企業で構成される大手流通企業グループである。
旧:ジャスコは、1970年(昭和45年)、当時はローカルスーパーマーケットチェーンの域を出なかった岡田屋が、フタギ(兵庫県姫路市)、シロ(大阪府吹田市)と提携し、この3社が共同出資で共同仕入会社の「ジャスコ株式会社」を設立したことを起源とする。
ジャスコは「商業を通じて地域社会に奉仕しよう」を社是(会社や結社の経営上の方針・主張。また、それを表す言葉。)とし、社命も「日本ユナイテッド・チェーン株式会社」の英語訳である"Japan United Stores COmpany"の頭文字をとったものとなっている。この社是の目的と使命に共鳴する同志朋友の参画と結集をもって『連邦制経営』を推し進め、参画企業との合併や買収を続けながら、全国各地へと展開をしていった。
又、ジャスコの事実上の創業者でもある岡田卓也(元岡田屋社長)の強力なリーダーシップのもと、同業他社や百貨店などが駅前や中心街に多くの店を構え苦しんでいる中、岡田屋時代の家訓そのままに、時流のモータリーゼーションの発達に合わせて、既存の駅前や中心街の店を積極的にスクラップし、郊外型の大型ショッピングセンター中心への出店に方向を転換。つまり、スクラップアンドビルド政策により企業規模を拡大してきた。
私は、現役時代の仕事の関係でジャスコのことは良く知っているが、ジャスコの中心企業であった岡田屋はなによりも信用である「のれん」を第一の財産とした経営方針を貫いていた。又、マスコミではあまり取り上げられなかったが、社会貢献活動にも早くから力を入れていた。そして、ズット先の、将来の企業規模が拡大された時の姿を描いて、大きくなった企業を管理運営していけるだけの幹部候補を確保すべく、従業員教育に最大の力を入れていたことは、流通業界で知らぬ人はないほど有名であった。
岡田卓也は岡田屋時代から、岡田屋は地方では成功していたが、企業の寿命は30年しかもたないと常に考え、何時、地方の岡田屋を捨てきれるかを考えていたという(※20)。その結果が、当時では目珍しい3社合併によるジャスコ設立へと繋がったのである。合併後も、絶えず、次の30年後の姿を描きながら、それを実現するための政策を立案し、それを実現してきた人だ。そして、「改革」を重視し、経営幹部には失敗を恐れず新しいことにチャレンジする人間を抜擢してこれに取り組ませ、そのための資格制度を社内に設け、能力主義の人事政策をとってきた。
ただ、基本の本業から大きく外れないことを鉄則としている。つまり、消費者との接点となる小売業(本業)から大きく離れず、将来どんな変化にも対応出来るよう様々な業種・業態開発を行ない、本業である小売業とのシナジー効果を生み出した。小売業以外の分野、例えば保険業や金融業などの業態へも進出もそうだ。
グループ内の企業の幹部を年に一度集めて行なわれる政策会で、求められる決まりごとは、現状に満足しないでの「革新に継ぐ革新をする」ことである。その努力がこの企業を今の姿にした。
1989年(平成元年)にグループ名称を「ジャスコグループ」から「イオングループ」へ変更しているが、「イオン (ÆON)」とは、古典ギリシア語 αἰών(aiōn、アイオーン)に由来するラテン語で、「永遠」を意味している。同社において社名をジャスコやイオンへと商号を変更してきたのは単に多くの企業との合併や買収をし。企業規模が拡大したから変更したのではなく、企業がひとつの目的を達成したときに、それを区切りに、グループ会社の全員に新たなる次の目標を明確にしたトップの意思を表したものとなっているのだ(※20、※21など参照)。商号変更後、イオンは永遠に発展するため、グローバル化の中で、今は世界に目を向けた戦略の下、海外への企業進出に本格的に取り組んでいる。
少子高齢化の進む日本のマーケットの将来は縮小せざるを得ない。イオンは、早くから社員の資格制度の中に英語検定を条件に入れるなど、海外との取引の出来る人材開発を準備してきている。海外への出店が加速していくだろう。
このように、今、歴史のある老舗と言われる企業で、生き残っているところは、その規模の大小を問わず、ただ古くからの伝統を守り、信用を大切にするだけでなく、絶えず、時代の流れに合わせた革新的経営にも取り組んできたところのみが今、存続できているのだろう。
時代の流れがどんどん変化し、変わりながら企業の仕組みや商品サービスが何も変わっていないことなどありえないことだ。表面上は古い伝統を守り続けているだけのように見えても、見えないところで、大変な時代への対応のための努力がされているのだ。
常に改善と変化へ、時にはのリスクを取りながらでも改革へのチャレンジすること意外に、時代の変化に取り残されない方法などないのである。
岡田の危惧していた時代よりも10年ほど遅れて、それでも、今から約30年前の1980年代には「会社の寿命は30年」説が言われるようになったが、これは確か日経ビジネスの統計によるものだったと思う。「企業にも寿命があり、優良企業とはやされても盛りは30年まで」という結論は衝撃的に受け止められた(※22参照。『会社の寿命―盛者必衰』と言う本も1989年に日経ビジネスから出版されている)。
しかも、世界のグローバル化も進み、社会の変化が激しくなってきた中、バブルも弾け、市場規模も縮小してきている今日、長引く不況の中で、ひとつの事業が利益を生み続けられるスパンは年々、短くなっているであろうが、会社の寿命も10年から5年に向かっているという(※23参照)。
この30年で跡形も無くなった会社もあり、いまも健在な会社もあるが、これからどう対処していかなければならないのか?以下参考の※22、※23など読んだ上、※24:「企業の寿命と再生:純丘曜彰 教授博士」など読むと分かりやすいのではないか・・・。
老舗といわれる会社だけでなく、会社と運命共同体の関係にあるサラリーマンも、今後のライフプラン(生活設計)を考える上で、現状をよく理解しておかなければならないだろう。
ギリシャを含むPIIGS(ピーグス)と呼ばれる国々は、今起こっている世界金融危機において金融・財政部門の改善が自国の力のみでは達成出来ない可能性のある国々であるが、2009年末からギリシャを中心とした財政破綻とユーロへの影響の懸念が強まっており、世界の経済は先行きが見えなくなってきているのだから・・・。以下参考の※25:「総括・平成大不況」ではバブルの問題や原因が良くわかるよ。
参考:
※1:老舗通販.net
http://www.starmark.co.jp/
※2:豆知識
http://www.geocities.jp/mitaka_makita/kaisetu/mokuji.html
※3:えびす信仰
http://homepage3.nifty.com/kencho/ebisu.html
※4:ようこそ「金沢・時代の小波 金沢・七福神巡り」へ
http://homepage2.nifty.com/351217/kanazawa8.htm#tomioka
※5:鎌倉TODAY>鎌倉を知る”KIさんの鎌倉レポート”
http://www.kamakuratoday.com/suki/ki/index.html
※6:冠婚葬祭マナー百科:秋の行事:えびす講の由来
http://5go.biz/kankon/q10_4.htm
※7:忌籠祭(いごもりまつり) -Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%BF%8C%E7%B1%A0%E7%A5%AD/
※8:えびす宮総本社 西宮神社 公式サイト
http://nishinomiya-ebisu.com/index.html
※9:デジタルアーカイブPORTAL_国立国会図書:「日本永代蔵」
http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000019950
※10:小春・治兵衛の墓(大阪市都島区)
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage455.htm
※11:鶴沢八介メモリアル【文楽】ホームページ床本集
http://homepage2.nifty.com/hachisuke/yukahon.html
※12:日本古代史論壇
http://www.ribenshi.com/forum/thread-3556-1-1.html
※13:日本永代蔵 - 京都大学電子図書館
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/np/eidai.html
※14:永代蔵・胸算用に見る町人の姿
http://onda.frontierseminar.com/ei.doc
※15:2010年「業歴30年以上の企業倒産」調査【東京商工リサーチ】
http://www.tsr-net.co.jp/news/analysis/2011/1208627_1903.html
※16:三井の歴史【三井公報委員会HP】
http://www.mitsuipr.com/history/edo/tanjo.html
※17:我が国に於ける革新的小売業の源流ー越後屋呉服店の操業に関して
http://www.biwa.ne.jp/~akira036/PDF/write13.pdf#search='越後屋 面九間 四十間'
※18:<大王製紙>井川元会長 借入総額が100億円超の見通し
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111018-00000009-mai-soci
※19:純粋持株会社 - 金融用語辞典
http://www.findai.com/yogo/0265.htm
※20: [PDF]創業時からの家訓「大黒柱に車を付けよ」
http://www.zeroemission.co.jp/B-LIFE/SFC/speech04/sp0406.pdf
※21:「イオン」ネーミング変更に秘められた企業体の意思
http://www.id10.jp/brandingnews/101101
※22:「会社の寿命30年」説を検証 - 日経NEEDSで読み解く
http://www.nikkei.co.jp/needs/analysis/04/a040922.html
※23:【会社の寿命】今や"寿命"はわずか5年:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090212/185916/
24:企業の寿命と再生:純丘曜彰 教授博士
http://www.insightnow.jp/article/5706
※25:総括・平成大不況
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~morisaki/004econo_leaks/fukyou2.htm
老舗倒産の動向調査 | 帝国データバンク[TDB]
http://www.tdb.co.jp/report/watching/press/p050301.html
老舗 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E8%88%97