今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

マナーの日(2-1)

2013-10-30 | 記念日
日本記念日協会の今日・10月30日の記念日に「マナーの日」がある。
ビジネスマナー、一般マナーなど、あらゆる場面において必要不可欠な「マナー」について見直し、生活に役立ててもらうことを目的にNPO法人・日本サービスマナー協会が制定(※1参照)したもの。日付は協会が設立された2008年10月30日からだそうだ。
同協会のHPでは、同協会について以下のように紹介している。
“企業が成り立つ重要な要素として、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」があると言われる中で、この不況を乗り切るために一番重要とされているのが人材教育だと言われている。 特に最近は「人は財産」という考え方から「人財」とする企業も多くなってきた。
現代の社会では今まで以上に顧客に対する現場の対応力が問われるようになり、相手先の企業やお客様とどのように接することが出来るかということが顧客満足度(CS)を高める重要な要素となってきている。
当協会はエアライン・ホテル・旅行・ブライダルなどの接客サービスが求められる業界の接客サービス研修から、一般企業の社員研修、大学生のための就職活動に向けたビジネスマナー教育などを通じて、相手先の企業担当者やお客様に喜んでいただけるサービスがきちんと提供できるような技能を多くの人たちに身につけていただくための研修教育を提供できる事を大きな目的としている。”・・・・と。

「お客様は神様です」は三波春夫の有名なフレーズである(※2参照)が、確かに、サービス業(サービスを取り扱う産業)のビジネスマンにとって、相手先の企業担当者やお客様に満足度を高めなければ、成果は得られないし、そのために必要なビジネスマナーは当然身に着けておく必要があるだろう。
企業における経営管理(経営管理論参照)とは、企業活動を円滑に行うとともに、企業の目的を達成するために、「ヒト・モノ・カネ・情報」の4つの経営資源を調達し、効率的に配分し、適切に組み合わせる、といった諸活動のことである。
中でも特に、主体的に行動する「ヒト」(人的資源)が重要であり、これに上手く働きかけて、組織化し協働させたり、活性化させ(もしくは能力を発揮させ)たりするようなシステムを如何に構築するかということが主要な課題となっている。

企業は人間を扱い、その人間を使う企業人も人間である。つまり、人間が人間を使う組織であるが、これが、企業経営の本質的問題でもあるともいえる。
そのようなことから、近頃では「人材」に「人財」という言葉が充てられることが多くなった。
人材」の「材」は「材料の「材」であり、「人財」の「財」は「財産」の「財(たから)」である。
「人材」に「人財」という言葉が充てられるようなったのは、企業が、「あなたは企業にとって『材料』ではなく貴重な『財産』ですよ。」というメッセージを、「人財」という一言に載せて発信することで、従業員を大切にする姿勢を伝えようとしているわけである。
つまり、人が企業の中の単なる歯車の一つではなく、感情を持つ一人の人間として、「会社のために頑張りたい!」との意欲を高めるために・・・、
モチベーション(動機づけ)のために使っていると言っていいだろう。
ただ、企業が何の施策もなく、「人財」という流行の言葉を意味もなく使っているだけでは従業員は誰も会社を信用しなくなるだろう。「人財」という言葉を使用するためには、何故「人材」を「人財」と使い分けているかの理由や、「人財」として人を大切にする制度が、会社の中にしっかりと存在していなくてはいけない。
「人材」の「」という字は「木」+音符「」の会意形声文字(字源参照)であり、決して悪い意味だけではなく、「材料」という意味とともに「才能。また、才能のある人」という意味もある。要するに人材は単なる「労働力」や「人的資源」ではなく、今の企業経営にとって大きな役割を担い、多様な資源を提供してくれる企業経営におけるパートナーだということを実感させなければ、「人財」などという言葉を使ってもそれは単なる言葉遊びにしか過ぎないといえるだろう(※3参照)。
私が現役時代関係していたある大手流通業社では、就業規則その他諸規定(※4参照)がよく整備されており、中でも、就業規則の中での賞罰に関する規定(報奨・懲戒処分※5参照)では、守らなければならないことを「こんなこと社会人としての常識じゃ~ないか」と思われることまで、非常に細かく定めていた。
恐らく他社の人達が見れば驚くほど詳しく書かれており、その是非については賛否両論があるだろうが、急成長をし、若い社員や、パート・アルバイトを多数採用していた同社では企業の組織力を発揮するためのツールとして非常に重視をしていた。
それは、「会社の最低限守らなければならない規則を守りさえすれば、あとは何をしようとも自由ですよ」ということの表明でもあり、その趣旨や理由、企業人として会社で働く上で必要な最低限守らなければならないルールやマナー・・・、この基本的なことだけは入社後の教育時に徹底的に教え込まれる。
一方、会社は人を大切にし、特に、個々人の個性は非常に尊重にする。そして、10年20年先を見通した将来の会社に必要な人材の養成にも非常に力をそそぎ、教育投資を惜しまない。学歴や男女間の格差などは一切せず、完全な実力・能力主義を基本とし、こと評価に関しては、同じ仕事をしている以上年齢による差別もしない。
そして、頭は良くても口先だけで行動しない人ではなく、失敗を恐れず積極的に行動する人が評価された。結果的に、たとえ、失敗しても再挑戦のチャンスが与えられた。
そんな会社の人事制度をよく知る人からは「教育の○○」と高く評価されていたが、そのことが、結果的に非常に優秀な人材を多く育て、今では、その人たちが中心となって会社を支えており、業界では日本のナンバーワン企業といわれるまでに急成長を遂げている。

「世の中には、法律とか、法則とかいうものがあって、これは外圧的に人間というものを一束(ひとたば)にしようとする。貴方がたも一束にされて教育を受けている。十把一(じっぱひと)からげにして教育されている。そうしないと始末に終(お)えないから、やむをえず外圧的に皆さんを圧迫しているのである。これも一種の約束で、そうしないと教育上に困難であるからである。その約束、法則というものは政治上にも教育上にもソシャル・マナーの上にもある。
飯を食べるのにサラサラグチャグチャは不可(いけ)ないという。そういうのはこれは法則でしょう。それから道徳の法則、これは当り前の話で、金を借りればどうしても返さねばならぬようになっている。それから芸術上の法則というのがある。これがまた在来の日本画だとか、御(おのう)だとか、芝居の踊りだとかいうものには、非常に究屈(きゅうくつ)な面倒な固(かた)まった法則があって、動かすことが出来ないようになっております。・・・」(夏目漱石 『模倣と独立』 より、引用。※6の「青空文庫」参照)
『模倣と独立』は、第一高等学校校友会雑誌所載の筆記によるものである。
漱石は、1913(大正2)年、第一高等学校における講演で、道徳、芸術、社会などにおいて人は常に「模倣」(英語:イミテーション【imitation】)をする。一方で人間は「独立」(英語:インデペンデント【independent】)していてスペシアル(【special】。特別、特殊)なものである。人はこの両面を持つが、日本に必要なのは他国の模倣ではなくインデペンデントだと説いている。
この中で、「人格から出た品位を保っている本統(ほんとう)の紳士もありましょうが人格というものを度外(どがい)に置いて、ただマナーだけを以て紳士だとして立派に通用している人の方が多いでしょう。まあ八割位はそうだろうと思います。気高(けだか)いというものがない。」・・とも言っている。

ここには、ドイツの哲学者カントの思想が入っているように思われる。
カントは行為の結果よりもそれをなす動機となる《善意志》こそ重要だと考えており、この《善意志》にもとづき、道徳法則(※7参照)の命じる道徳的行為を、実践理性(実践理性批判も参照)で捉え自律的に行う主体である人間を、「人格」と呼んでいる。
カントは道徳律(Sittengesetz)を「仮言命法」としてではなく、「定言命法」(kategorischer Imperativ)として受取ることである。 仮言命法とは、「もし…なら…べきだ」というものである。道徳律においても、このようなものは多く見られる。たとえば,「もし人から信用されたいのならば、嘘をついてはいけない」とか、「早起きは三文の得」などがそれにあたる。それに対して、条件なしに「…すべきだ」とだけ命ずることを定言命法(無上命法)という。(詳しくは、※7、※8参照)
個人の心理面での特性。人柄。または人間の人としての主体である人格形成には、事故や病気等による外的要因を除いて、幼少期における経験や体験が大きく影響を与えているとされている。
人格は、英語でパーソナリティ【personality】とも表現されるが、その場合、日本語の「人格者」のような肯定的な価値は含まれないが、パーソナリティの形成に影響を及ぼすのは主に遺伝要因と環境要因(※9参照)であり、両者は密接に結びついている。
前者は気質と深く関連する生理的・身体的特性に影響を与える。後者は家庭環境と自然的・文化的環境とに分かれ、そこでの成長・適応の過程で個人のパーソナリティに影響を与える。

品位とは、判り易く言えば気品や品格、人品などともいわれるが、個人ないし特定の団体が、礼儀 (人間関係や社会生活の秩序を維持するために人が守るべき行動様式。特に、敬意を表す作法。)や節度(行き過ぎのない適当な程度。ほどあい)や人徳(その人の身についている)、気高さに富む様をいい、そうした、品位の保持は人々より尊敬、或いは信用を受けるとされる。
この品位は特定の作法やマナーなど、立ち居振る舞いを厳格に定める価値基準も存在するが、基本的にはきわめて観念的な国際的価値観であり、国際的な権威であるマナー・プロトコル(国際儀礼)など一位の行動基準を共有する外交や通商の場の他は、それぞれの国や習俗により差異もあり、その価値観も一定ではない。
いずれにせよ、身だしなみや言葉遣いはもとよりルール(【rule】規則)やマナー(作法を含む)、立ち居振る舞い、他者や周囲への気遣い・気配りなど日常的な自律的行動が品位の醸成につながるとされることは確かである。
こうしたことから、幼児期から(しつけ)や行儀作法 (立ち居振る舞いのしかた)やテーブルマナー(食事の際のマナー)などの教育に力を入れる学校や家庭も多く存在する。
このような品位は家庭教育や学校教育の他、社会的な鍛錬などにより洗練されることも多いが、最終的には個人の心がけによるものである。また、身だしなみやマナーや行儀作法の修得といった外面的な修練も品位には欠かせないが、基本にあるのはむしろ内面にあるといえる。
例えば、落ち着いた態度や節度、言葉遣い、他者や周囲への気配り、遠慮、謙虚さなどが重要な要素である。 外面的に品位の保持に努めたとしても、それに相応しい行動や気配りが伴わなければ評価を受けず、人徳が豊かであっても自己流で他者から評価されなければ品位あるともみられない場合もある。
社会的には、就職活動に際しての、身だしなみや言葉遣い、態度が評価される他、営業や交渉、催しの開催に際しての対応、公的な場での言動などにおいて品位が問われる場も少なくなく、公務員や公的な資格に基づく職業については法律にて品位の保持が規定されているものもある(法律で品位の維持を義務付けられている地位・職業参照)。
このような、品位の保持とは自ずから心がけとして行うものであり、他者に見せ付けたり、強要することは本来の様ではない。さり気なく自然に備わる様であるといえる。

さて、本題のマナーについて書く前に、今月初めの毎日新聞の夕刊社会面の「憂楽帳」という記者が書く短めのコラムに面白いことが書かれていたのを思い出す。詳細は忘れたので、以下参考の※10:「憂楽帳 アーカイブ:毎日jp」の2013年10月05日付記事から以下に抜粋する。
アルゼンチンブエノスアイレス2020年夏のオリンピック開催地を決めるIOC(国際オリンピック委員会)の総会が行われ、東京がプレゼンテーションを行いました。その­なかで滝川クリステルさんが「おもてなし」の心をアピールし、IOC委員に東京招致を­訴えました。
ワシントンでタクシーに乗った時、目的地の30メートルほど前で「降りろ」と言われた。戸惑いながら従うと、 運転手は新しい客を乗せて走り去った。米国人の助手に尋ねたら「次の客を見つけたら手前でも降ろす。時々あります」。
政治のあおりとはいえ、今月から観光施設まで閉鎖された(※11参照)のも「サービスは二の次」という体質の表れだろう。
だが、米国には別の顔もある。ワシントンに赴任して間もなく、現地校に通う娘が8歳の誕生日を迎えた。
パーティーに10人以上の同級生を招待したが、「急に転校してきた外国人のためにどれだけ集まってくれるだろうか」と 直前まで気をもんだ。ところが、ほぼ全員が大きなプレゼントを抱えて次々と駆けつけ、盛大に祝ってくれた。
東京五輪の招致演説では「日本のタクシー運転手は世界で最も感じが良い」と「おもてなし」の精神がアピールされた。
確かに日本人のきめ細かな配慮は世界に誇れる。しかし、ヘイトスピーチが公然と繰り広げられる国に外国人を 分け隔てなく迎え入れる文化は根付いているだろうか。」・・・と。

2020 TOKYO Olympic Games滝川クリステル『おもてなし』字幕付フルスピーチ

以下参考※12:MSN産経ニュース-【主張】では「ヘイトスピーチについては今年5月の国会審議で、安倍晋三首相は「結果として自分たちを辱めている」と指摘し、「日本人は和(和の文化を参照)を重んじ、反日デモでは、多くの日の丸が焼かれた。侮蔑的な言動もあったが、その多くは放置された。日本と日本人は国内で、あらゆる国や民族へのそうした行為を許さない。そういう存在でありたい。」・・と述べられているがその通りである。

しかし、最近、ネット上では誹謗・中傷が氾濫し社会問題化している中、金沢市の「餃子の王将金沢片町店」で客の男が裸になってすらりと並び、その画像がインターネット上に 公開された事件でこのうちの客の2人(風俗店経営者・店長)が威力業務妨害と公然わいせつ容疑で逮捕されたり(※13参)、札幌市の衣料品店「ファッションセンターしまむら」で購入した商品が不良品だと訴え、店員に土下座させ、その様子を写真に撮ってTwitterに投稿した女性が強要罪の疑いで逮捕されるといった事件が相次いでいる。
また、危険な携帯電話などを見ながらの自動車や自転車の運転をしたり、公共の場(特に病院内や混雑した電車内など)で携帯電話などの使用を控えるように注意されていても、ほとんどの人は守っていない。若い人だけでなく中年以上のいい大人まででが・・・。
今のIT社会(IT【Internet Technology】。今ではICT【Information and Communication Technology】ともいう。日本語では一般に「情報通信技術」と訳される)、でのマナーや常識がなかなか守られていないなど、近年はIT社会だけでなく、一般の社会でも日本人のマナーはかなり、乱れてきているようには思われる。

マナー (英語【manners】)と は、一般的に礼儀、行儀・作法を指すが、このマナーは、日常生活をしていく中で自然と身につけていく作法であり、○人に会ったら挨拶をする、○目上の方には敬語を使う、○何かしていただいたら「ありがとう」と言う、等々、誰か人と会うとき、誰かと会話をするとき、誰かとものを食べるとき、自分がやりやすいように、そしてほかの人が不快にならないように気をつけることなどありとあらゆる場面にある。
マナーの様式は、多くの場合、堅苦しく感じられるが、その形はその社会のなかで人間が気持ちよく生活していくための文化や知恵であり、こうした方が美しいであるとか、素晴らしいであるとか、気持ちが伝わるであるとか、そのような行儀や作法である。
このようなマナーは国や民族、文化、時代、宗教のさまざまな習慣によって、形式が異なる。また、くわえタバコやものを食べながらでの歩行、など、個人間でも価値観や捉え方による差異もあるし、ある国では美徳とされている事が、他の国では不快に思われることもある。
例えば、日本では食事の際に飯椀を持ち上げて食べることが一般的であるが、諸外国では逆に皿を食卓に置いたまま箸や匙、フォークを用いるのが一般的であり、食器を持って食べることはマナー違反とされる等々・・・。
マナー自体が絶対的な定義によって決められる物ではないため、絶対に正しいマナーが存在しないことも珍しくない。
そのため、人によってマナーと思われる作法、礼儀、行儀が異なるケースがあり、複数のマナーが衝突することもある。
最近は、注意をすれば逆切れする人(特に若者)が多くなったようで,
うっかり、注意も出来ない。それに、戦後教育(教育改革参照)のせいか、法に触れなければ何しても構わない(自由だ)と言う思想がはびこっているように思われる。
そのようなことから、個々人が自分の世界にあり、持っている文化がまちまちになるということは、個々人の文化がバラバラの状況になってくるわけで、そうなると、異文化の衝突が非常なストレス社会(※15参照)を生む一因にもなり、世の中の人の心が荒んでくるのではないかと思われる。


●上掲の画像は、2013年10月8日付朝日新聞朝刊に掲載されていた画象である。インドネシア・バリ島を訪問している安倍晋三首相の昭恵夫人が、7日、アジア太平洋経済協力会議(APEC)参加国首脳らとの記念撮影の際、韓国の朴槿恵大統領(右端)と笑顔で言葉を交わし、握手している場面である。一方、既に別の会議で朴氏と握手した首相(後列左端)は昭恵夫人の様子を見守っている。
この写真を見た翌日の朝日新聞朝刊(10月8日付)の天声人語には、良いことが書かれていた。それを以下に抜粋する。
「いい笑顔は、相手の心に素直に飛び込むらしい。昨日の本紙面に載った安倍昭恵さんの写真は良かった。あの表情で向き合われたら韓国の朴槿恵大統領も白い歯で応じざるをえない。『往く言葉が美しければ、来る言葉も美しい』。かの国の言葉をふと思い出した。
一部地域は紙面の都合で載らなかったが、首相夫人と大統領は笑顔で握手を交わした。朴氏も作り笑いには見えない。冷え切り、すさびきった日韓の関係(Category:日韓関係参照)にかすかな明かりを見た人もいたのではないか。
先月昭恵さんが、日韓交流の行事に参加したとネットに投稿したら、批判が相次いだ。昭恵さんは「色々なご意見がおありだと思いますが、お隣の国ですので、仲よくしてゆきたい」と書き足した。ファーストレディーとしてなんら間違ってはいまい。
歴史や領土でにらみ合う現実は、むろん甘くはない。反日に嫌韓が応酬して「売り言葉に買い言葉」の観をなす。しかし、そうでない人も多い。
ノーベル文学賞候補にあがる韓国の詩人高銀氏が3・11直後に韓国紙に寄せた「日本への礼儀」と題する詩は忘れがたい。一部を紹介すると、
<あんなにもだいじにしていたあなた方の家/みな流れていた。・・・>
<しかしながら、日本は今更にうつくしい/決してこの不幸の極限に沈没せず/犯罪も/買占めも/混乱もなく/相手のことを自分のことと/自分のことを相手のことと思い・・・>(青柳優子訳)。
海峡を越えてこうした言葉が行き来しないか。}・・・・と。

[東日本大地震 ] 日本への礼儀 (韓国詩人 ) -

現在日韓関係は不幸にして領土問題等のために冷え込んでいるが、いかなる国同士であろうが、一国の首脳が、国際舞台で顔を合わせば、笑顔で挨拶ぐらいは、社会人としてのマナーというよりも人としての常識(人格)によるものだろう。国際間のいがみ合いは、いくら時間がかかっても両国間での話し合いで解決するか、それがだめなら国際司法裁判所で解決するしかないだろう。それを、話し合いの機会をも拒否していると、戦争でもしなければならなくなる。
いがみ合っている国の首脳が笑顔で挨拶している姿を報道できない国なんて、文化程度の低い未成熟の国であることを表明しているようなものだろう。
3・11東日本大震災、では高銀氏の詩で歌われるように、悲惨な状況の中で、涙なしには語れない美しい秘話も多く聞いているし多くの人が同情と感動を得たことだろう。それを一番わかってくれた台湾などは国を挙げて支援をしてくれた。本当の意味での友好国と言えるだろう。この様な災害に対する支援の方法を見てもその国の品格が窺える(東日本大震災に対するアジア諸国の対応参照)。
ただ、3・11東日本大震災での高銀氏の歌「日本への礼儀」では、「日本は今更にうつくしい」として、色々褒めそやしてくれてはいるが、実際には、このような美しい話ばかりで悪い話はなかったのだろうか。
わが地元で起こった1995年(平成7年)1月17日(火)の阪神・淡路大震災では、耳にしたくないことも多くあった。
多くの家屋が倒半壊し、その修復にどの家庭も苦労をしている中、これ幸いと非常に多くの業者が、全国各地から神戸に押し寄せてきた。そして、契約をしてお金だけを騙し取り、工事をしないまま帰ってしまったり、工事はしても不当な工事費を請求する。質の悪いいい加減な工事をする等々、よくもまあ、途方に暮れている人間を相手にこれだけあくどいことができるものと感心するほどのひどい話を多く聞いた。それも、いま日本で大流行りのおれおれ詐欺(振り込め詐欺)同様に、お気の毒な年寄を食い物のにしてのものが多い。
こんなことは、建設業界だけでない。電気は意外に早く復旧したがガスが使えないので、ガスボンベなどを買いたいと思っても、それを1本1000円もの高値で販売するといった具合である。私などそれを目にしている。中には、がれきの山で公共交通機関どころか自動車さえ市内に入れない中で、善意のボランティアの人たちが、遠くからバイクなど使って応援に駆け付けてくれ、被災者の家の中に入っている一瞬のうちに、そのバイクが盗まれる。三宮などの市街地では宝飾店等多くの店がどさくさの中でシャッターを破られ盗難に遭う。
また、家屋が倒壊した避難民が宿泊している避難所の中でも現金など貴重品が盗難に遭っているなど、情けないことがあちこちで起こっていた。そして、家屋等倒壊の被害は免れ、避難所に避難することはなかったものの、食べるものがなく、避難所には全国各地からの支援物資が来ているので、それを分けてもらおうと非難所に行くと、家屋が倒壊もせず、非難する必要もないのに食べ物だけを貰いに来たと避難所の人から白い目で見られるなど、数え上げたらきりがないほど嫌なことは多く聞いている。
マスコミではそんな車も入れない街中に入ってまで現実の状況を取材はしていないので、そのような不幸な出来事はごく一部しか報道されず、善意のボランティアの活躍ばかりが報じられていたように思われる(※16参照)。
東北地方の場合には地震での家屋の倒・半壊ではなく津波ですべてを流されてしまったため、神戸のように中途半端な半壊の家屋などが少なかったことから、あくどい建設業者による詐欺や、また盗難なども少なかったのかもしれない。また、素朴な東北の農・漁村地と、世知辛い大都市神戸との地域差によるものなのかは知らないが・・・。
理想主義者の詩人などには、日本が悪いことなど何もない理想郷ように見えたのだろう。
いずれにしても、今の日本が、詩で詠われるような「美しい国」と褒めそやされるといささか恐縮の至りである。もし日本以外の国の人々が、日本がそれほど美しい国に見えるのなら、その国の内情はもっともっとひどい状況なのだろう。そうであれば、やはり、まだまだ、他国から見るとよい国なのだろう。日本に住んでいることを幸せに思う。


マナーの日2-2

マナーの日:参考へ







マナーの日(2-2)

2013-10-30 | 記念日

そもそも人格などの前提ともなる、マナーなどは、生まれてから日常生活をしていく中で自然と身につけるものであるが、特定のコミュニティ、文化の中で作られていったマナーについては、自然と身につける機会は非常に少ない。また、場合によっては一般的なマナーとは全く違う考え方によって「行儀が良い」とされることもある。
漱石の 『模倣と独立』の中にも「約束、法則というものは政治上にも教育上にもソシャル・マナーの上にもある。」と出てくるが、「ソーシャ・ルマナー」という言葉最近よく聞くようになったと思いませんか?
英語では「Social manners 」、ソーシャルは「社会」のことだから、「社会で活用できるマナー」、「社会で役立つスキル」と言える。対人関係の多い商人などには必須となる。
食事のマナーや、冠婚葬祭のマナー、人との付き合いのマナー、ビジネスマナー等々、色々なマナーが想像されるだろうが、結局は、マナーとは、思いやりの心を、形に表すことで、日本語で言うなら、「礼儀作法」と言う言葉になる。
江戸時代のことわざに、「三つ心(みっつこころ)、六つ躾(むっつしつけ)、九つ言葉(ここのつことば)で、十二文(じゅうにふみ)、十五理(じゅうごことわり)で末(すえ)決まる」・・・・というものがある。
江戸の町人のは、意外に厳しく、しかも道理に適っていた。昨今問題になっている社会の教育力が江戸期には息づいていた。
諺の意味は、3歳までは愛情深く、子供に接し、子どもの人に対する信頼感を植え付け、6歳までには作法の基本を身につけさせる。
9歳までには他人への口の利き方を教える。12歳になると文字が自在にあやつれるように仕込み、そして15歳になると森羅万象に対してその真実を見抜く力を養っておく、というのが江戸時代の段階的子育て(躾)の基本であった。

●上掲の画像は、『女中風俗艶鏡』 (じょちゅうふうぞくつやかがみ。西川祐信画)より、子供をあやしている図である。(NHKデーター情報部編『ヴィジュアル百科江戸事情』第二巻生活編より借用).
子供を育て、躾(しつけ)るのは母親の役目である。子供のしつけの基本的なものは、遊び、食事、排泄、睡眠。母親や祖母たちから叱られたり、あるいは、仲間の子と一緒に遊びながらそれを習得してゆく。
昔から「三つ子の魂百まで」ということわざもある。三歳までは愛情いっぱいに子供のを育てる。4 歳から7歳は、理性、知性、社会性が育つ時期といわれているので、6歳までには大人の立ち居振る舞いを見習わせ躾を終わる・・というのもこの時期にしなければならないこととぴったり・・・。
9歳までには、どんな人にも失礼でない挨拶(あいさつ)ができるようにさせる。12歳のころには一家の主(あるじ)の代わりに手紙を書けるようにしておくことである。注文書や請求書、苦情処理の弁解書(弁明書)などもまがりなりにも書けるよう鍛育していたようだ。さらに15歳までには、経済や、物理、科学などのを暗記でなく実感として理解できるようにさせ、真実を見抜く力を養った。当時。15歳はもう一人前の大人であった。
いわば、知識より理解、つまり、「知る」ことよりも「わかる」ことの重要性を昔の人はわかっていたのかもしれない。「わかる」ことが人への共感や、思いやりの心につながる。
現代の感覚をもってしても、この格言には合理性があり、実に説得力がある。・・・というより、もはや現代では失われてしまった教育の原点、あるいは到達点といっても過言ではないだろう。今はどうなっているのだろう。
江戸時代は職業別に身分制度が編成され、それぞれの職業は家職(家業)として相伝されるところとなる。家の存続を願うとき、子どもを家職の継承者としていかにして一人前に育て上げるかが、それぞれの家にとって大きな課題でもあった。だから、育児と教育の責任は父親にあると考えられていた。
江戸時代には「良妻」という考えはあっても、「賢母」という考えはなかった。「賢母」の考えが自覚されるのは明治になってからのこと。父親の指導で育児の実労働に主として携わったのは、母親であったが、小家族の下級武家も庶民の父親も実際の育児を担っていた。父親も出産に立ち会い手伝っていたことがいくつかの史料から確認されているという。家族ぐるみで育児にあたり、親類や共同体もそれを支えていたようだ(※※18参照)。
ただ商いの取引や訪問客が頻繁な豪農や豪商を除くと、普通の人は「自然に放っておけば一人前になる」という考えが当たり前であった。変化が起きたのはサラリーマンの原型が出てきた明治の終わりくらいからだという。幼い頃からいろんなことを覚え、学校教育で成功することで「よりよい仕事に就き、よりよい人生を送るチャンスを得られる」というライフコースができたからだ。
昔だと、男の子の場合、高等小学校を出た14歳くらいで家を出て、住み込みで働いた。女の子だと、7・8歳ぐらいで子守り奉公に出されたりしたケースもあったし、14歳ぐらいで女中奉公や女工として稼ぎに出た。奉公先では、男の子の場合でいうと、最初は風呂焚きや掃除をし、いつの間にか仕事を覚えていく。何年間か見習いをやって、いずれ独立した。
今では学校に在学する期間が長くなっているから、「ここで切れ目」というのがはっきりしない。1974(昭和49)年くらいに高校進学率が90%を超え(※019参照)、90年代になると大学や専門学校への進学率が上昇し、昔だったら社会に出て自立せざるをえなかった年齢の青少年が、今では家庭の中でずっと親子関係を続けている。
現代社会の少子高齢化と人口減少の背景には晩婚化・非婚化の進展、ひいては「皆婚社会」であった戦後日本の常識的な家族像が大きく変わってきていることが挙げられる。
しかし歴史的に見れば、国民の大半が結婚し、直系家族等、親子を中心とする世帯を形成するのが常態化するのは近世(江戸時代)に入ってからであり、それ以前は大家族の中で未婚のまま過ごす者が少なくなかった。また都市における未婚率は高かった。
中世には名主名子被官を動員した大規模な農業経営が一般的であったが、戦国時代から江戸時代へと平和な時代になり、開拓が進むにつれて名子層は平野部に進出して自立し、17世紀中ごろには一夫婦とその直系家族による小規模な家族経営が大半を占めるようになっていった。これを、小農自立という。
この小農自立の流れを決計的にした背景には太閤検地がある。太閤検地は一地一作人制を原則とし、農地一筆ごとに耕作する農民を確定した。このことが家族を単位として耕作を行う近世農村への道を開いたのだ。
昔は、豪農や豪商など以外の一般の家庭では、子供を産んだ母親は、嫁として農作業や夜なべ仕事で休みなく働き、仕事の合間に子供に乳を与える時ぐらいが唯一ほっとできる時間であり、そのため、普段は、働けなくなった年寄りや年長の子供が子守りや世話をしていた。つまり、生活に追われていた母親は余り子育てに手間ひまかけられなかった。
しかし、少し子供が大きくなれば、奉公先や村のネットワークに参加してそこでしつけられた。だから、ムラ共同体の影響力が強かった。礼儀作法をはじめとして世の中を生きていくうえで必要なマナーやスキルはムラのルールの中で暮らしていけば、自然にいろんなことが身に付く、・・・と考えられており、親があまり教育的な配慮をすることの必要がなかったともいえる。いまは全く逆になっている。

幼い頃から子供を熱心に教育するというのは、社会の一部でずっと続いていて、それが「男が外で働き、女が家で子育てし、家庭教育する」というふうに分業したのは明治の後半からのことである。
明治時代に学校制度が誕生し、学校が始まったことで子どもは徒弟のために他家に行かずに、家で家族と共に生活するようになったからだ。このことから、家庭において子どもと見なされるようになった。親子の距離がそれまでよりも接近したゆえに親は子どもに対して愛着という感情を抱くようになり、親と子の関係が密になっていく中でそれまでにはみられなかった「情の結びつき」が発生した。つまり、それまでとは違って、子どもが「小さな大人」=「労働者」としてみなされなくなった。
そして、地域社会の共同体性も失われ、教育期間が伸びるにつれて親子関係が長期化していく中で、今では親が子供の面倒を見続ける時代になった。
つまり、前近代社会のように徒弟として家族以外のところで子どもを教育したり、地域全体で子どもを育てるという意識のあったころと比較し、子どもに対するいわゆる「しつけ」は家庭の母親がその責任を負うような形が出来上がってきたのである。
しかし、親は長期間、親としての責任を果たさないといけない。一方、子供はすぐに自立しなくてよくなった反面、いつまでも親の保護と干渉を受け続ける。親離れや自立が、いつどういう形で達成されるのかが見えにくい時代になった。
一方、地域の共同体(英語:community)というものは同質性を本質としている。村落などに見られるように、何代もに渡って互いに熟知した間柄を保ち、同じ生活価値を共有し、同じ掟を守る。しかし、都市化や郊外化に伴って、異質性が人間関係の基本となっていく。
故郷を後にして都会に出てきた人々は互いに見知らぬ者同士である。生活価値観も異なり、習慣や風習も異なる。この異質な者同士が社会を形成して公共的生活を営んでいくところに近代の特質がある。
同質性の関係から異質性の関係へ。このプロセスのなかで、それまでの地域社会や血縁の深い絆も解体していった。こうして、1960年代にはまだかろうじて残っていた共同体性が消えていった。
高度経済成長の頃から、核家族化が始まり、女性の社会進出、夫婦共稼ぎが普通となった昨今、家庭でのしつけも難しくなっている。

しかも、現代のコミュニティにおいては、様々なマナーが主張されるケースも多くなってきている。また、マナー自体が絶対的な定義によって決められる物ではないため、絶対に正しいマナーが存在しないことも珍しくない。
そのため、人によってマナーと思われる作法、礼儀、行儀が異なるケースがあり、複数のマナーが衝突することもある。

マナーとは個々人の主体的自覚に訴えたものである。人間は本来動物や機械のように外からの圧力(要因)によって動かされるものではない。外から律せられて動かされるのではなく、自ら律して意思で行動することができる。従って、自らの行動によって発生した問題に対して、その行動の「責任」は自分自身に帰するものだ。

だが、会社組織での働きとは、唯我独尊で自分一人が行うものではない。意見の異なる者であったとしても共通の目的に向かって協働して進むものだ。
マナーを守れないだけでなく、各人が、様々なマナーを主張されてはそれが無理だ。そのため、罰則付きの「決まり」の強制に変えたものがルール(rule=規則 )というものだ。
マナーは善悪の判断が主体的にできる人間を前提としたものであるが、ルールは放っておくと何をするかわからない人を前提としている。人間観でいえば、マナーは性善説、ルールは性悪説だ。
実はマナーとルールの対立は、漢字になおせば「」と「」の対立であり、二千年前の中国での儒家(孟子)と法家(韓非子)の対立にまでさかのぼる。
孔子自身は礼は士のもので庶人には無理とあきらめていた。つまり礼を基準として生きる者には法(罰)は不要で、そうでない庶人には法しかない、と思っていた。なぜなら礼とは「衣食足りて礼節を知る」というわけで、衣食を足らせるのに精いっぱいの人々に礼を要求することが所詮無理で、それらの人たちはせめて法に違反しないで他人に迷惑をかけなければよしとされていたが、現実には庶民といえども衣食が足りてくると、礼を求めるようになり、江戸時代初期、江戸庶民の間で小笠原流礼法が大流行した。そして、江戸の町では後に「江戸しぐさ」(※21参照)といわれる公共のマナーまで出来たのだ。
ところが、道徳の基準である武士階級がなくなり、さらに和魂洋才で生きようとした明治の精神も滅び、衣食を足らせることから再出発した戦後の日本人は、すでに礼とは無縁の人種となっていた。
「違法でなければ個人の自由=法に触れなければ何をやってもいい」という倫理の最低水準付近をうろつく発想には、「ベストな振舞いとは何か」という理想水準を問題にする礼の入る余地がない。そうなると、法(罰則)でしばるしかない。
礼は善悪を自律的に判断できる自己の尊厳を守る。「決まりだから守れ」という無思考な発想をとらない。守るべきだから守るのだ。礼で自己制御できる人には権力による強制によって法で縛る必要はない。だから、法など作らなくて済むように礼を守ることが大切なのだが・・・(※22参照)。しかし、現代の日本では、ルールを徹底しなければいけない状況があまりにも多くできてきているように思う。
昨今、緊急性の低い症状でも安易に救急車を利用しようとするため肝心の時に電話が通じないなど、救急車利用のマナー悪化が問題となっており、、今年4月には、総務省消防庁より「救急車利用マニュアル」が公表(※23参照)されたりしているが、最近問題となっているネットでの炎上や自転車の乗車マナー、なども、ただマナーに頼っているだけではなく、徹底的に取り締まらないといけないでしょう。

最後に、今はやりの「おもてなし」。この「おもてなし」とはどういうことかよく理解しておいた方が良い。参考※24:「「接客マナーは心の礎」 おもてなしの「礎」語源」に詳しく解説されている。
「思い遣る心」を【形】として表わすことが「マナー」。
「おもてなし」は、「もてなし」に丁寧語「お」を付けた言葉で、「もてなし」語源は「モノを持って成し遂げる」という意味であり、別に、お客様に応対する扱い、待遇とも言われている。
「おもてなし」のもう一つの語源は「表裏なし」、つまり、表裏のない「心」でお客様をお迎えすることで、 接客業、サービス業に限らず、人の生活する場、すべての家、人にひつようなもの。
この「おもてなし」には目に見える「もの」と、目に見えない「こと」があるという。
この「もの」「こと」を、お茶の世界(茶道)で例えると主客一体の心の元、お見え頂いた「お客人」をもてなす際に、季節感のある生花、お迎えするお客様に合わせた掛け軸、絵、茶器、匂い(御香)など具体的に身体に感じ、目に見えるリアルな「もの」である。
もてなす人の瞬時に消えてしまう言葉、表情、仕草など、目に見えないバーチャルな心を「こと」と言いあらわしている。
東京オリンピックでは、世界からのお客様を「おもてなし」すると約束した。
みなさんも「おもてなし」どのようにおもてなしをするか・・・考えておいてください。・・・でも、その前に、当然守られなければならないマナーをあなた自身は守れているか・・・セルフチェックしておいた方がいいですね。


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マナーの日:参考













マナーの日:参考

2013-10-30 | 記念日
参考:
※1:NPO法人・日本サービスマナー協会
http://www.japan-service.org/
※2:「お客様は神様です」について - 三波春夫
http://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html
※3:戦略的人材マネジメントの考え方
http://granaile.jp/column/shrm01.html
※4:社内諸規定類作成サポート - FMS
http://www.fms9.com/G020.htm
※5:就業規則作成11.賞罰に関する規定(報奨・懲戒処分)
http://kawamura-sr.blogdehp.ne.jp/article/13108838.html
※6:夏目漱石 模倣と独立 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/1747_14970.html
※7:カント(2)-実践理性
http://www.geocities.co.jp/HiTeens/8761/germanphilosophy02.htm
※8:カントの道徳観
http://www.geocities.jp/sa_e1983/reports/kant.html
※9:発達の規定要因 - DTI
http://www.oak.dti.ne.jp/~xkana/psycho/clinical/clinical_10/
※10:憂楽帳 アーカイブ:毎日jp
http://mainichi.jp/opinion/column/yurakucho/archive/
※11:【アメリカ】政府のシャットダウンで観光地も閉鎖。閉鎖と ... - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2138120750301467001/2138121063604091703
※12:MSN産経ニュース-【主張】ヘイトスピーチ 正当な批判と侮蔑は別だ - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/131009/trl13100903330000-n1.htm
※13:「餃子の王将」で裸、客2人逮捕 店の業務妨害容疑 画像はネット公開-msn産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/131007/crm13100716420009-n1.htm
※14:土下座強要女”を逮捕に追い込んだ「鬼女」の正体-東スポWeb
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131009-00000002-tospoweb-ent
※15:ストレス社会
http://www.geocities.jp/kurusiminobara/rose1/sutoresu.html
※16:神戸淡路大震災下での治安状況は? | その他(社会問題)のQ&A
http://okwave.jp/qa/q3116176.html
※17:子育て・しつけのポイント(1)(幼児期)
http://www1.odn.ne.jp/k2/counsering/yasogawa/00y/kougiroku0004y.htm
※18:つれづれ 江戸の父親たち
http://higanzakura.blog107.fc2.com/blog-entry-111.html
※19:図録高校・大学進学率の推移
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3927.html
※20:孟子を読む:梁惠王章句 雑感(その2)
http://suzumoto.s217.xrea.com/website/mencius/mencius02-last_b.html
※21:NPO法人江戸しぐさ
http://www.edoshigusa.org/
※22:作法 マナーとルール 礼と法
http://web.sugiyama-u.ac.jp/~yamane/sahou/rule.html
※23:どんな時に救急車を呼ぶべき?「救急車利用マニュアル」登場
http://woman.excite.co.jp/lifeplanning/news/rid_29346/
※24:「接客マナーは心の礎」 おもてなしの「礎」語源
http://projectishizue.blog60.fc2.com/blog-entry-154.html
しつけはどうしたらいいの - トコトン ハテナ
http://www.tv-tokyo.co.jp/tokoton/backnum/backnumber_06.html
ストレス社会を乗り越えるためには
http://ryosay.web.fc2.com/
日本の心和の精神
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind01.htm
心臓ペースメーカーと携帯電話の問題
http://homepage2.nifty.com/seri/heart/topic-1.htm
共同体性の解体と「小さな文脈」の併存: IT そして人間、社会
http://multiport.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-d50b.html
外務省: グローカル外交ネット:海外のお客様を迎えるために:プロトコールでよくあるご質問(国際儀礼の基本講座)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/local/inspection/protocol_faq.html
労働基準法の基礎知識 - 懲戒事由の規定例|
https://www.rosei.jp/jinjour/article.php?entry_no=55099
189 「家庭のしつけは衰えている」は本当か?
http://www.mammo.tv/interview/archives/no189.html
マナー辞典|NPO法人日本サービスマナー協会
http://www.j-manner.com/
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
ファヨールの管理過程論(マネジメント・サイクル) | 経営用語
http://yamauchi283.com/glossary/administration/functions-of-management/

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