今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

第1回カンヌ国際映画祭が開催された日(2-1)

2014-09-20 | 歴史
1946年の今日・9月20日は第1回カンヌ国際映画祭開催された日である。
世界各地で開催される映画業界の祭典「映画祭」の中で、最も有名ななものは「国際映画祭」であり、同映画祭は、多様な作品の上映を中心に、優れた作品の選考や、映画売買のマーケットとしての機能も備えている。、
世界23か国・26の映画製作者団体で構成され、フランスパリに本部の置かれている国際映画製作者連盟(Fédération Internationale des Associations de Producteurs de Films, 英語:International Federation of Film Producers Associations, 略称:FIAPF)が公認している国際映画祭では、各映画祭を「コンペティティブ」(Competitive)、「コンペティティブ・スペシャライズド」(Competitive Specialised, あるジャンルに特化した映画祭)、「非コンペティティブ」(Non-Competitive, 賞の選考を目的としない映画祭)と「ドキュメンタリー/短編」(Documentary/Short Film) の4つに分類している。
因みに、「コンペティティブ」(competitive)は、名詞:「コンペティショ(competition)」の形容詞で、競争率が高い。つまり、同映画祭では、パルム・ドールグランプリ、監督賞、男優賞、女優賞などの審査対象になる作品のことで、一般的に「カンヌ映画祭○○賞受賞」と言われるものはこのカテゴリの受賞作品のことを指しているようだ。
FIAPF公認の映画祭の中で、イタリアのベネチア国際映画祭、フランスのカンヌ国際映画祭、ドイツのベルリン国際映画祭が世界3大国際映画祭として知られている。
映画祭は政治や社会の動きともかかわりが深く、1932(昭和7)年にスタートした最も歴史が長いベネチア国際映画祭は、第2次世界大戦中にファシズム政権に利用され、「ムッソリーニ杯」が設けられた時期もあった。
FIAPFが公認している国際映画は、世界三大映画祭以外にチェコのカルロビバリ、ロシアのモスクワ、スペインのサンセバスチャン、中国の上海、日本の東京、エジプトのカイロ、スイスのロカルノ、アルゼンチンのマルデルプラタ、など、合計52もあるそうだ。
その中でも、世界最大の映画祭、「カンヌ国際映画祭」は独特である。
世界最古の歴史を持つ映画祭イタリアの「ヴェネチア国際映画祭」は、最も歴史の古い国際美術展であるヴェネツィア・ビエンナーレの第18回(1932年)の際に、その一部門(映画部門)「ベネチア映画芸術国際展」として開始された。
初回の最優秀賞は観客の投票で決められた。
2年後の1934年第2回が開催され、この年からコンペティション部門がスタート。自由な作品上映を目指して始まったが、1936年にはムッソリーニ賞が設定されるなど、独裁政治家だったムッソリーニのプロバガンダとして映画祭が開催されるようになるなど、1930年代後半からファシスト政府の介入を受け、次第に政治色を強めた「ヴェネツィア国際映画祭」に対抗し、自由な映画祭をつくろうという発想のもと、フランス政府の援助を受けて開催される事になったのが「カンヌ国際映画祭」である。
1939年から開催の予定だった第1回は、当日に第二次世界大戦勃発のため中止。
結局、「第1回カンヌ国際映画祭」(La première édition du Festival international du film)は終戦後1年が経過した1946(昭和21)年の今日・9月20日 から 10月5日の間に開催された。しかし、映画祭はまだ「カンヌ」の名を冠していない(正式名=仏: Festival International du Film de Cannes)。又、この時は、古いカジノを改装して上映会場としたという。

上掲の画像第1回の会場近辺。
この「第1回カンヌ国際映画祭」には、長篇映画40本、短篇映画68本、21か国が参加した。現在の最高賞は「パルム・ドール」、次点が「グランプリ」であるが、まだこの時には「パルム・ドール」という名称は生まれておらず、同賞に当たる最高賞「グランプリ」該当作が11本選ばれた(ここ参照)。
審査員は、フランスのエコール・デ・ボザール学長で本映画祭の創立者のひとりであるジョルジュ・ユイスマンを委員長に、18か国から選出された。開会宣言は、当時の国務大臣が行なったという。
その後も、会場設備・予算などの問題などから第2回は1947(昭和22)年9月12日 ~ 同25日に、第3回は1949(昭和24)年9月2日から17日にかけて開催されたが、1948年、1950年と中止が相次ぐなど当初は混乱も見られたものの、1951年(第4回)からは映画祭としての環境が整備され、この頃から1946年に完成したパレ・デ・フェスティバルが会場として使用され、世界最大の国際映画祭へと成長していった。

掲の画像がパレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレ。
カンヌ国際映画祭で賞の対象となるのは、先にも述べたコンペティション部門に出品された作品のみ。審査するのは、映画祭事務局によって選出された著名な映画人や文化人などのシネフィルであり、この審査団がどのような作品を選んでくるかが、この賞の最大の面白味のようである。また、世界最大の所以(ゆえん=いわれ、理由)は、映画祭と併行して行われる「国際批評家週間」と「監督週間」にあるという。
前者はフランス映画批評家組合(SC)が主催するカンヌ映画祭とは独立した並行部門で、1962年から新人監督の作品を、後者もフランス監督協会が主催するカンヌ映画祭とは独立した並行部門で、1969年から世界中の映画監督の作品を、映画ジャーナリストたちに公開している。
 1968年の第21回にはパリの五月革命に呼応したフランスヌーヴェルヴァーグの旗手ジャン=リュック・ゴダール監督らによる実力行使により、各賞選出が中止に追い込まれるといった事件(カンヌ国際映画祭粉砕事件)が起きたり、あるいは1979年(第32回)には、この年の審査委員長を務めた作家のフランソワーズ・サガンからフランシス・コッポラの『地獄の黙示録』がグランプリをとったが、それには“審査に実行委員会から圧力がかかった”と衝撃発言が後日フランス社会党系新聞『ル・マタン』紙に発表され、スキャンダルとなる(※001:「French Mania」のカンヌ映画祭とスキャンダル参照)など、カンヌはスキャンダルにも事欠かなかったようだが、むしろ、様々なスキャンダルとともに成長してきた映画祭とも言えるようだ。
カンヌ国際映画祭は当初9月開催であったが、1951年の第4回頃からは4月から5月にかけて開催されるようになり、1957年(第10回)から5月に開催されるようになったようだ。
併設されている国際見本市「カンヌ・フィルム・マーケット」(Marché du Film)は、イタリア・ミラノの「ミフェド」(MIFED)、「アメリカン・フィルム・マーケット」(American Film Marke)と並び世界三大マーケットのひとつである。マーケットには例年800社、数千人の映画製作者(プロデューサー)、バイヤー、俳優などが揃い、世界各国から集まる映画配給会社へ新作映画を売り込むプロモーションの場となっている。
とりわけ、世界三大映画祭と世界三大マーケットが同時に開催されるのはカンヌだけであるため、世界中のマスメディアから多大な注目が集まり、毎回全世界から数多くの俳優、映画製作者が出席。毎年春の映画祭開催時期、南フランスの小さな観光都市カンヌは映画一色となる。
開催期間中は、メイン会場を始め各映画館では映画が上映され、見本市では各製作会社によるブースでプレゼンとパーティが行われる。これから公開される映画はもちろんのこと、予告編しかできていない映画やまだ脚本すらできていない企画段階の映画までが売り込みに出され売買されるようだ。

戦後アメリカの影響を大きく受けている日本の若者などには、世界三大映画祭の中でも最大の映画祭であるカンヌなどよりもアメリカのアカデミー賞の方に関心があるのではないだろうか。
アカデミー賞は、「アメリカ映画の祭典」という冠詞を付けられることが多い事からも分かる通り、基本はアメリカ映画を対象とした映画賞であり、作品の選考対象も「1年以内にロサンゼルス地区で上映された作品」と比較的狭義である。つまり、あくまでもアメリカの映画人の内輪の大会なのである。
従って、カンヌ等と違い、賞レースには、プロダクション関係のロビーストロビー活動が盛んであり、結果的に、映画の優秀さより、ロビー活動での成否が大きく影響するとも云われている。
それに対して、カンヌは、映画祭と併催される映画関連の巨大マーケットであり、権威と・見識によって各賞が決定され、アカデミー受賞作と比較しても、誰もが納得出来る優秀な作品が選抜されているといわれている。
しかし、アカデミー賞は、その知名度と世界三大映画祭よりも古い歴史(初回は1929年5月16日)を持つ権威ある賞であるため、マーケットへの影響力は国際映画祭の各賞以上に大きく、受賞結果が各国の興行成績に多大な影響を与えていることはまちがいない。このため各国のマスコミは「映画界最高の栄誉」と報道することが多い。

さて、肝心の映画のことだが、最初の1946(昭和21)年の第1回カンヌ国際映画祭開催時は社交界の集まりのようなものであり、ほぼ全ての映画に賞が授与され、世界のスターがレッドカーペットに登場した。「グランプリに選ばれた受賞作(ここを参照)。
11作品中で、私の記憶にあるのは、デヴィッド・リーン監督の『逢びき』(原題::Brief Encounter。セリア・ジョンソントレヴァー・ハワードが主演)くらいか。
互いに配偶者を持つ身でありながら道ならぬ恋に惑う男女の出会いと別れを描いた恋愛映画である。当時jまだ子供であった私が見たのは、大人になってからで、1974(昭和49)年にリチャード・バートンソフィア・ローレンの主演によるテレビ映画化でリメイクされたものだ。日本では1976(昭和51)年に劇場公開された。

上掲の画像はDVD映画「逢びき」(1974年公開)
映画の内容は、不倫してる男女の出会い・・・、邦題タイトルそのままの映画である。日本ではまだ、デートなど、不道徳なこととされていた時代、“相愛の男女が人目を避けてこっそりと会うこと(密会)”を、「逢いびき」などと云う言葉で表していた。江戸後期から使われ始めた語のようであるが、男女の出会いをなんでもデートの一言で言い表す今の時代には、懐かしい言葉ではある。
もう一つ私は映画を見ていないので詳しく語れないが当時話題になった作品が1つある。ロベルト・ロッセリーニ監督による『無防備都市』であるが、この映画のことは、この後簡単に触れる。
第2回映画祭(1947年)では、グランプリは発表されず、部門ごとの受賞となったようだ(受賞結果はここ参照)。その中で知っているのは「アニメーション賞」を受賞した (Best Animation Design)に、ディズニーの子象を主人公にした長編アニメ『ダンボ』(1941年公開映画)ぐらいである。日本では『空飛ぶゾウ ダンボ』という題名で1954(昭和29)年に公開されている。
ダンボが公開された1941年10月の時点で、既に欧州第二次世界大戦が始まっており、日米間の緊張がピークに達し太平洋戦争の勃発(12月)が間近に迫っていた時期でもあった。
Wikipediaによると、真珠湾攻撃直後のアメリカを舞台にしたスティーヴン・スピルバーグのコメディ映画『1941』(1979年)では、米陸軍のジョセフ・スティルウェル将軍が劇場で公開中の『ダンボ』を鑑賞し、母子の愛情に涙するシーンがあるそうで、日本公開当時のパンフレットによると、映画に感動して涙する件(くだ)りはスティルウェルの回顧録にヒントを得たものだという。
MGMMGMカートゥーンの『トムとジェリー』に、本作のパロディである「ジェリーとジャンボ(Jerry and Jumbo)」という短編作品が存在する。同作では子象が「ジャンボ」を名乗っている。
私の家はケーブルテレビJ:KOM(ZAQ)に加入しているが、子供たちの夏休みである8月には、602チャンネル(カートゥーンワークHD)で、日本上陸50周年記念として「トムとジェリー」の漫画を毎週放送していた。数が非常に多いのでタイトル名はいちいち覚えていないが確かその中に、小象の出てくるものがあった。久しぶりに、楽しませてもらった。

1948年は、カンヌ国際映画祭が開催されず、1949(昭和24)年第3回のグランプリ(最高賞のパルム・ドール賞)に輝いたのはキャロル・リード監督の『第三の男』.。原作・脚本を書いたのが、戦後イギリス文壇で代表的な位置に立つカソリック作家グレアム・グリーンである。
第二次世界大戦直後のウィーンを舞台にしたフィルム・ノワール。光と影を効果的に用いた映像美、戦争の影を背負った人々の姿を巧みに描いたプロットで高く評価されている。翌・1950年度のアカデミー賞では監督賞、撮影賞(白黒部門)、編集賞の3部門でノミネートされた。そのうちロバート・クラスカーが撮影賞(白黒部門)を受賞している。
この映画は、オーストリアの民俗楽器、チターが奏でるテーマ音楽と相まって20世紀屈指の古典的名作として現在でもよく知られている。私も非常に印象に残っている映画であり、また、若い頃、この曲でギターの練習もよくしたものだ。
大好きなこの映画のことは、前にこのブログ『グレアム・グリーン (英:小説家『第三の男』) の忌日』 でも詳しく書いた。
1950年もカンヌ国際映画祭は開催されず、1951(昭和26)年第4回、のグランプリにはスエーデンの監督:アルフ・シェーベルイの『令嬢ジュリー』と、ネオ・リアリズモの嚆矢(こうし)で、代表作『自転車泥棒』(1948 年)などで知られるイタリヤの監督ヴィットリオ・デ・シーカの.『ミラノの奇蹟』が入賞している。
又、審査員特別賞(女優賞)に入賞の米国『ジョセフ・L・マンキウィッツ監督のイヴの総て』は、実在の女優エリザベート・ベルクナーをモデルとしたものだそうで、主役のマーゴ・チャニングをベティ・デイヴィス)が演じ、ブロードウェイの裏側を見事に描ききったとして、アカデミー賞では、作品賞をはじめとして6部門で受賞している。
カンヌ国際映画祭はこの第4回から、毎年開催さるようになり、その様子が絶えずメディアに報道され、急速に国際的、伝説的な評判となった。
1950年代には,カーク ダグラス、ソフィア ローレン、グレース ケリーブリジット バルドーケーリー グラントロミー シュナイダーアラン ドロンシモーヌ シニョレジーナ ロロブリジーダ…といった有名人の出席により知名度を上げていった。
創設以来、カンヌ映画祭は、設立時の開催目的を忠実に守り続けているという。その目的とは、映画の発展に貢献するために作品を紹介し、援助すること、世界中の映画産業発展の援助をすること、第7芸術を国際的に称揚することだという(※002参照)。

第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー参考
第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー(2-2)


冒頭の画像はレッドカーペット

第1回カンヌ国際映画祭が開催された日(2-2)

2014-09-20 | 歴史
映画はその誕生から1世紀そこそこの新興芸術であり、その最初期は、遊園地のアトラクションまたは見世物小屋の呼び物であった。当時、映画は大衆娯楽でしかなく、芸術としては認められてはいなかった。
1908年から映画についての執筆活動を始めたイタリアの若き映画理論家リッチョット・カニュードは、映画を既存の芸術ジャンルと対比しながら、その特性の定義を試み、音楽・舞踏・文学の「時間の芸術」と建築・絵画・彫刻の「空間の芸術」というの既成の6つの芸術をつなぐ第7番目の芸術として、「映画は第七芸術という総合芸術である」と宣言した(『第七芸術宣言』1911年。※003、※004参照)。

第二次世界大戦の影響を受け、フリッツ・ラング(ドイツ)やジャン・ルノワール(フランス)等の多くの映画人がアメリカに亡命した。
亡命ではなく招聘(しょうへい=礼を尽くして人を招くこと)されてあるいは自ら望んでアメリカに行ったマックス・オフュルスエルンスト・ルビッチ(ドイツ)、ルネ・クレール(フランス)などの作家も含めると、1930年代から1940年代にかけてのアメリカには著名な多くの映画作家が世界中から集まった。
そのため、映画製作本数も年間400本を超え、この頃、質量共にアメリカは世界の映画界の頂点にあった。このことにより、1930年代~1940年代は「ハリウッド全盛期」、「アメリカ映画の黄金時代」とも呼ばれている。
サイレント映画の黄金時代(1913~1927)、世界各地で数多くの名作・傑作が生まれ、映画は単なる娯楽から、芸術の一分野としての地位を築きあげるようになった。そして1910代初頭は、イタリア映画の時代でもあった。
この時期に世界に名を轟かしたイタリア映画の大半は歴史映画であったというのも歴史の国イタリアらしい。そうしたイタリア史劇の中で、最高の成功作とも言われているのが、現在唯一ビデオで鑑賞することができるらしい『カビリア』(1913年制作)だと言われている。監督は、すでに『トロイ陥落』で成功を治めていたジョヴァンニ・パストローネ(別名ピエロ・フォスコ。1883~1959)。映画の内容等は※005,006参照。
無声映画時代に映画界を革新したイタリア製スペクタクル史劇だが、『カビリア』をピークに、以降,イタリアの映画産業自体の衰退と共に下降線を辿っていく。
ちょうど『カビリア』が公開された1914年に、第一次世界大戦(1914年 - 1918年)が勃発する。凄惨な主戦場となったヨーロッパ全体が大きな損害を受け、イタリアも、映画制作どころではなくなった。
その間に,「スタジオ」と称される大手映画会社を次々と設立したり、世界初の長編発声映画(トーキー映画)を制作したりと着々と力をつけるアメリカが、世界の映画産業の中心となっていった。
第二次世界大戦が終わって1950年代に入ると、イタリアとアメリカで大作主義が回帰した。第一次世界大戦以降、低迷の一途を辿っていたイタリアと、世界の映画産業の中心として既に不動の地位を確立しつつあったアメリカ、ハリウッド。
世界の映画産業をリードし、第二次世界大戦では勝戦国ともなり、順風満帆であるかのように思えたアメリカの映画産業だったが、大戦終結と同時に、世界はアメリカとソ連を中心にした東西冷戦の時代に突入。
1947年から、反共産主義活動が本格的に開始され、赤狩り(レッドパージ。詳しくはマッカーシズム参照)が行われた。
共産主義勢力が拡大することを危惧した米政府は、見せしめのため、娯楽産業を代表する映画業界に第一に赤狩りの矛先を向けた。これによって,映画監督、脚本家など、映画産業に関わる者が多数追放された。しかし,この赤狩りによる追放が、イタリアとアメリカの映画産業を繋げるきっかけを作ることとなった。
赤狩りで追放された1人に、ダルトン・トランボという脚本家がいた(運動の最初の標的とされたハリウッド映画界の著名な10人の映画人ハリウッド・テンの一人)。
追放された後、彼はアメリカ国外に出て偽名を使いながら数々の脚本を書きあげた。その代表作が、ローマを舞台にアメリカ制作で映画化され、オードリー・ヘップバーンが主演の名作『ローマの休日』(1953年)である。
そして,トランボはこの後,依頼を受けてハリウッド史劇大作『スパルタカス』(1960年、製作総指揮・主演カーク・ダグラス)の脚本を手がけた。
『スパルタカス』は、豪華絢爛な衣装やセットに、偉大な英雄を主人公に用意した他の典型的な史劇大作とは少し異なり、社会的身分の低い奴隷スパルタカスを主人公に置き、権力に立ち向かう姿を描いた社会派スペクタクル史劇といえ、人間の自由と尊厳の意義を訴えたこの作品は、祖国に迫害されて全てを失ったトランボ自身に重ねられるものなのかもしれないという。
他にも赤狩りによって追放された者の多くが、国外、特にヨーロッパに逃れ、偽名や匿名で映画の仕事に携わっていた。彼らは、再び母国アメリカで日の目を見る時を待ち望みながら、映画人としての誇りを捨てずに、他国でもその才能を存分に発揮させて映画制作に関わり続けていた。
また、同時期の1948年,パラマウントなどのハリウッドのメジャースタジオ8社に対して,独占禁止法(反トラスト法)違反の罪を問う訴訟の判決が下され、事実上、スタジオ側が敗訴する。
力を失った大手映画会社に成り代わり、スタジオに頼らず低予算のロケーション撮影主体で映画を制作する独立系小規模プロダクションの作品や外国の作品が、急速にアメリカの映画市場を大きく占めていくこととなった。
更に、テレビ放送開始に伴うテレビの急速な普及は追い討ちをかけ,たちまち映画館から観客を奪った。他にもレジャーやスポーツ、音楽など人々の関心が他の娯楽文化に移るようになった。戦後の高度経済成長に伴い、人々のライフスタイル(生活の仕方、生活様式)が多様化していったのだ。
娯楽産業としての地位を脅かされていく映画が、テレビや、他の娯楽文化に対抗して観客を集めるためには、大作を制作する必然性が生じた。
また、この頃,テレビへの対抗意識が高まる中で映画の技術も急速に進み、ほとんどの作品でカラーやワイドスクリーンが採用されるようになった。
その為、撮影スタジオでのミニチュア合成や国内のロケーション撮影による背景映像に、観客は満足しなくなる。こうして,アメリカは豪華で迫力のあるスペクタクル史劇制作に力を入れるようになった。
しかし、赤狩りやスタジオ・システムの崩壊で弱体化し、技術費用や人件費も高騰してしまったアメリカには、大作を制作する費用もスタッフも撮影スタジオも足りなかった。
それに第二次世界大戦後、アメリカ映画が世界中に輸出されたが、輸出先の外貨事情が悪いために収益金が凍結していた。映画会社はそれを回収するために海外ロケで映画を製作、又、映画の制作拠点そのものを海外に移す傾向があらわれた。これを当時はランナウェイ方式と呼んだ。
中でもイタリアは好まれた。アメリカ国内よりもヨーロッパで制作するほうが低予算に抑えられる上、ローマには,ヨーロッパ最大級の撮影所、チネチッタがある。
文化遺産が街に多く残っているイタリアは大規模なロケーション撮影が可能であり、神話や聖書などスペクタクル史劇の題材を十分に持っていて、かつてスペクタクル史劇大作の栄華を極めた歴史と伝統もある。
このようにして、イタリアで数々のハリウッド史劇が制作されるようになり、『十戒』(1956年監督:セシル・B・デミル主演:チャールトン・ヘストン)、『ベン・ハー』(1959年,監督ウィリアム・ワイラー。主演:チャールトン・ヘストン)といった名作が生み出された。
日本の大映の協力の下、奈良や京都で撮影が行なわれたマーロン・ブランド主演、日本の京マチ子共演の『八月十五夜の茶屋』(1956年)や、主演のデヴィッド・ニーヴンや当時新進女優であったシャーリー・マクレーンなど数十人の有名な俳優が部分部分に入れ替わり立ち替わり登場し、世界をロケしまくっている『八十日間世界一周』(1956年)なども海外ロケで映画を製作したランナウェイ映画である。
一方のイタリアも、このようなアメリカの影響もあり、歴史を題材。文化遺産を撮影に使った史劇作品の制作に再び乗り出した。
第二次世界大戦後の1940年代後半から1960 年代にかけての時代は、長いイタリアの映画史にとっても大きな転機となった。敗戦し、多くのものを失い、映画制作自体ままならないはずのイタリアは,、すぐに映画産業を復興へ導いていった。
なぜ大戦直後の短期間で成功を収めたのか。その大きなきっかけとなったのが,ネオレアリズモであったという。
ネオレアリズモとは、イタリアで、主に文学や映画において盛んになっていた「新しい現実」を芸術表現した潮流である。
戦後にわかに強まったネオレアリズモは、イタリア国内に留まらず、アメリカなど世界の戦後映画の流れをも大き く変えた。
その特徴としては,ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』に代表されるように、.ドキュメンタリー要素が強く、社会問題や政治問題など現実的なテーマを取り扱ったものが多い。
この映画は、1945年.第1回カンヌ映画祭でグランプリに選ばれた作品の一つである。
敗戦して多くを失った自国の現状を目の当たりにして、映画制作者たちは、より身近に、より重く「現実」に目を向けた。それは本来の人々の姿をありのままに映像に映し出す原点回帰でもあり、新たな手法による新たな価値の創造でもあった。
ネオレアリズモには、芸術を再生させ、新しい時代を自ら築いていこうとする映画制作者たちの、芸術家としての熱く強い意思が感じられる。
しかし,映画界に再生と転機をもたらしたネオレアリズモの潮流は1950年代初頭にはすっかり勢いをなくしてしまう。
それでも,映画産業復興への流れと、原点を顧みるという方向性は変わらず、新たに戦後復興期を支える映画ジャンルが登場する。
正確には,再来というべきだろうか。代表的なものが、喜劇と、そして、歴史や神話が題材となったスペクタクル史劇であった。
共に,初期の無声映画時代から存在するという古い伝統を持つ。とりわけ、アメリカの影響を受けて再び制作するようになったスペクタクル史劇は、異質な存在感を持ち、圧倒的に人気があった。
イタリアのスペクタクル史劇大作といえば,豪華絢爛なセットに衣装、そして何より欠かせないのがワイドスクリーンを悠々と駆け巡る、屈強そうな怪力ヒーローたちであった。
さて、この時期に恰も大作主義を嘲笑うかの様にひたすら作家としての拘りを追求した作家たちがいた。これは二つのそれぞれ起源の異なるものに分けられる。一つがアメリカの内から生まれた1950年代のB級映画の流れを汲むものであり、もう一つがフランスで1960年代に新風を起こした「ヌーヴェル・ヴァーグ」の流れを汲むものである。
1960 年代の後半から1970 年代の初めにかけて、アメリカの映画産業は最悪の状態にあった。
それを打開したのが「アメリカン・ニュー・シネマ」と呼ばれるものであった。
政治の腐敗というところに帰結し、アメリカの各地で糾弾運動が巻き起こった。アメリカン・ニューシネマはこのような当時のアメリカの世相を投影していたと言われる。
しかし、ベトナム戦争の終結とともに、アメリカ各地で起こっていた反体制運動も下火となっていき、それを反映するかのようにニューシネマの人気も下降していくことになる。
このように、映画も時代と共に年々変化をしながら今日に至っている。映画史等以下参考の※007、008などが詳しく、このブログもこれらを参考に第1回カンヌ国際映画開催前後の大きな流れを書いた。

第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー参考
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第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー参考

2014-09-20 | 歴史
参考:
※001:「French Mania」
http://french.rose.ne.jp/index.html
※002:Festival de Cannes:映画祭について :
http://www.festival-cannes.com/jp/about.html
※003:第7芸術:現代美術用語辞典|美術館・アート情報 artscape
http://artscape.jp/dictionary/modern/1198689_1637.html
※004:映画は見世物から第七芸術へ
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_bcab.html
※005:歴史の国の歴史映画~イタリア史劇「カビリア」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/SILENT/01ITALIA.htm
※006:文芸映画シリーズとイタリア映画 - 映画中毒者の映画の歴史
http://d.hatena.ne.jp/cinedict/20060615/1150376387
※007:ハリウッド100年史
http://www.geocities.jp/gosuke2006/movie.history.html
※008:史劇大作の隆盛からみるイタリア映画産業 - 桃山学院大学(Adobe PDF)
http://www.andrew.ac.jp/gakuron/pdf/gakuron26-6.pdf#search='%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%98%A0%E7%94%BB+%E9%9A%86%E7%9B%9B'
カンヌ国際映画祭 - allcinema
http://www.allcinema.net/prog/award_top.php?num_a=2
カンヌ映画祭のまとめ検索結果(116件)-NAVERまとめ
http://matome.naver.jp/search?q=%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%8C%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD&slot=4&sf=1
カンヌ映画祭スペシャル2014映画専門チャンネル「ムービープラス」
http://www.movieplus.jp/fes/cannes2014/s/about/history.html
カンヌ国際映画祭受賞一覧 - Cannes
http://www.geocities.jp/yurikoariki/cannes.html
カンヌ国際映画祭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%8C%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD

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