「ジャズの日」(1月22日 記念日)は、JAZZのJAがJanuary(1月)の先頭2文字で、ZZが22に似ていることから、。「1月22日を日本のジャズの日」として定着させようと、東京都内のジャズクラブオーナーらによる「JAZZ DAY 実行委員会」が2001年(平成13年)から実施しているが、今日4月4日は「KOBE JAZZ DAY4/4」(神戸ジャズの日)である。
制定したのは、 我が地元・兵庫県神戸市の豊かな文化の創造を目的として、さまざまな芸術文化事業を展開している公益財団法人神戸市民文化振興財団(※1)である。
1923(大正12) 年 の4 月、日本で初めてプロバンドによるジャズの演奏が行われた神戸市は、日本のジャズの発祥の地とされている。
その日付は定かではないが、 ジャズと言えば4ビート(4/4拍子)であることから4月4日としたもの。4/4はエイプリル・フォースと読む。
上掲の画像は「KOBE JAZZ DAY 2015」ポスターである。
毎年10月に行われている恒例の「神戸ジャズストリート」は、わが国最初のジャズバンド「井田一郎とラッフィング・スターズ」が神戸で結成されてから60年目にあたる1981(昭和56)年に第1回が開催された。
このバンドはやがて東京に活動の場を移し、デキ シーランドジャズを演奏した。神戸では関西学院の学生などを中心に、デキシーランドジャズ・バンドが多く生まれ、今でも、神戸はデキシーランド ジャズのメッカとされている。
神戸ジャズストリートは、第1回以降毎年秋に、国内外のアーティストを招いて、三宮・北野坂・トアロード周辺のパブ、教会、ホテル、会館等十数か所を会場に して行われている。
この催しでは、演奏者が次々と各会場を出張演奏して廻る、また、アマとプロが一体となって演奏し、街にジャズが溶け込んでいるのが特徴である。
今、日本では、夏になると全国各地で「ジャズフェスティバル」と称するものが開催されているが、神戸には古くから伝統のある「全日本ディキシ ーランド・ジャズ・フェスティバル」があるため、「フェスティバル」に替わるネーミングとして「ジャズストリート」の名が考え出されたという。
この発想は、1930年代半ば頃のニューヨークの52丁目界隈は、ジャズを聴かせるナイトスポットが軒を並べていたそうで、当時のニューヨークっ子は、夜な夜なジャズを聴くために、それも好きな者は、何軒かの店を「はしご」をしたという話しであり、このやり方を、取り入れたのが神戸のジャ ズストリートなのである。
年に一度の「神戸ジャズストリート」では、この日を待ちかねていたように、大勢のジャズファンが集まり、ステージでの演奏と、それを聴くファン が一体になって盛り上がっている
今年の「2015年(34回)神戸ジャズストリート」は、10月11日(土)~10月12日(日)北野町周辺で行われる。前夜祭は10月9日(金)。詳細は、※2:神戸ジャズストリート(公式サイト)を参照。
上掲は「2014神戸ジャズストリート 前夜祭」の様子。動画。
ジャズ(英:jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけて米国ルイジアナ州ミシシッピ川最下流に位置する港町、ニューオリンズで誕生したとされているが、実際のところ、具体的にどう生まれたのかは現在でもはっきりしていないようだ。
ただいえることは、当時は、かつて欧州から移住した人々や欧州系白人と黒人の混血「クレオール」、奴隷制があった時代に、アフリカから労働力として強制的に連行された人々など、多種多様な人種が集まり、新たな文化が生まれやすい土地であったということである。
アフリカから連れてこられた彼らは先祖伝来の独特のリズム感を持っていて、アフリカにいた頃からリズムに乗って仕事や宗教的な行事を行なっていたのだろう。
アメリカ南部の農園などで、奴隷として過酷な労働を強いられた黒人労働者は、故郷を思い起こしながら、その怒りや苦悩、不満といった自らの感情を表現する手段としてトーキング・ドラムを叩いたり、労働の合間に歌ったワークソング (労働歌)などが、ジャズの源流にあるといわれている。その後、ジャズらしい形態が整えられていくのは1800年代後半頃からで、そのワークソング(労働歌)はブルースへ、 キリスト教への強制改宗後も、歌いながらのお祈りは、スピリチュアルズ(現在のゴスペルの基調となる音楽)へと発展した。これに加えて、ニューオリンズでは歓楽街「ストーリーヴィル」などのピアニストたちが軽快なタッチで演奏する「ラグタイム」で人気を集めた。
そして、アメリカに新しく住み着いたアフリカ人たちもヨーロッパ音楽と出会い、トランペット(tp)、トロンボーン(tb)、クラリネット(cl)といった西洋楽器を使った黒人ブラスバンド(ニューオリンズ・ブラスバンド)による街頭演奏を行うようになっていった。
そして、20世紀に入ると、アフリカ系アメリカ人のコルネット奏者バディ・ボールデンが1907年頃までニューオーリンズで人気を博していたとの伝承があり、今日では彼が「初代ジャズ王」と呼ばれているそうだが、本人による録音が残されておらず未詳である。
これが初期「ニューオリンズ・ジャズ」であり、後の多様なスタイルのジャズに分かれていった音楽の一つで、以後のジャズ音楽のおおもとになった形式である。
一方、白人も黒人のジャズをまねて、tp 、tb、clの3管編成を中心とするニューオリンズ・スタイルのジャズを始めた。これが「ディキシーランド・ジャズ」であり、ディキシーランドスタイルが定着してくる頃になると、黒人だけでなく白人のジャズミュージシャンも続々と登場した。
そして、1917年には、ニューオーリンズ出身のニック・ラロッカというイタリア人をリーダーとする白人5人組バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドがジャズ界で、初の商業用レコードを、“Dixie Jass Band One Step”と“Livery Stable Blues”の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンから発表したことが知られている。
上掲は、そのうちの1つ、Original Dixieland Jazz Band "Dixie Jass Band One Step" February 26, 1917 FIRST JAZZ RECORDである。
このように、ニューオリンズを起点に、ヨーロッパのブラス・バンドや伝統音楽に、黒人霊歌などのアフリカの伝統音楽の要素が加わり、発展・融合し、生まれた新しい音楽表現がやがて“ジャズ”(この当時は“jass”と呼ばれていた。「ジャズ(JAZZ)」の語源については※3の“Jazz”という言葉参照)と呼ばれるようになり人気を博すが、1917年アメリカが第一次世界大戦に参入すると、海軍基地のあったニューオリンズでは軍規の乱れを心配した海軍が歓楽街(ストーリーヴィル)の統制を厳しくしたため、歓楽街は衰退をはじめ、やがて閉鎖されることになる。そして、ニューオーリンズで生まれたジャズは、その後メンフィス (テネシー州)、セントルイス(ミズーリ州東部),・・・そしてシカゴへとミシシッピ川を北上して広がっていった。尚、メンフィスはセントルイスと並ぶブルースの発祥地としても有名である。
つまり、ニューオーリンズで仕事にあぶれた多くのミュージシャンたちは、その拠点をシカゴへ・・と移していったのであった。
衰退しはじめたニューオリンズにかわり、1920年代にはシカゴ、カンザスシティが発展する。これは、アル・カポネが活躍した禁酒法が施行(1920-1933)されていた時代と同じである。シカゴでは新しいジャズを売り物にして、キャバレー、ナイトクラブが人気を競った。
ジャズと酒は歓楽街時代から切っても切れない仲である。禁酒法が守られている所ではジャズミュージシャンは失業してしまう。そんな中、アル・カポネを中心としたシカゴ・ギャングは、密造酒と「もぐり酒場(Speakeasy)」(ヤミ酒場)を経営し、多くのジャズミュージシャンの仕事場となった。要するに、禁酒法の執行官は密造・密売業者やそれを纏めるギャングら(アル・カポネ等)に容易に買収されており、禁酒法は、実際にはザル法でありキャバレーや、ナイトクラブが堂々と営業をしていたのであった。
1922年、すでに、ニューオーリンズで人気者になっていた若き日のルイ・アームストロングもジョー・”キング〟オリバー,の呼びかけに応じてシカゴに移住した一人であった。
この時代に、チャールストン、スウィング・ビート(ここ参照)が形成された。ジャズはダンス・ミュージックとして洗練されていき、また、バンド構成もニューオリンズの小さなものから大編成のアレンジされた集団演奏(ビッグ・バンド)が流行するようになる。
上掲の画像は、1922年ジョー・”キング〟オリバーと彼のバンド。左から4番目に、オリバーの愛弟子である、若きルイ・アームストロングも見られる(『朝日クロニクル週刊20世紀』より)。
ジャズはすぐにニューヨークにも波及し、ルイ・アームストロングも1924年には今や「ジャズの聖地」となったニューヨークへと拠点を移ししている。こうして、1920年代初頭にはアメリカを代表する音楽スタイルの一つとして、ジャズはアメリカ国内の大都市に急速に広まっていった。「オリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンド」は1919年に、イギリスに渡り海外で初めてジャズを演奏。以後、イギリス、フランス、オランダなどでもジャズバンドが作られていった。
第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカの隆盛期が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるのはこのためである。
.1930年代になり大恐慌による不況時代から徐々に景気が回復してくると、人々は明るく軽快な音楽を求めるようになり、ダンスホールを拠点にスウィングジャズが台頭してくる。
ベニー・グドマンや、グレン・ミラー、黒人ではカウント・ベイシーやデューク・エリントンなどがスウィングジャズ、ビッグ・バンドの代表奏者に挙げられる。
ジャズは現在ではロックやテクノなど他ジャンルと同様演奏スタイルの多様化とジャンルの細分化が進んでおり、その特徴を一言で言い表すのは難しい。
一般的に日本でイメージされるであろうピアノやサックスなどの生楽器を使用し、スイングと呼ばれる跳ねたリズムで演奏されるジャズは、モダン・ジャズと呼ばれる1940~60頃から演奏されているジャズの一ジャンル(:ジャズのジャンル参照)で、ジャズの主流ではあるものの、その全体の説明としては十分ではないという(特徴、歴史など詳しくは※3 、※4 参照)。
日本におけるジャズの先駆は、1912(明治45)年、東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)卒業者である波多野福太郎ら5名による波多野バンドが、東洋音楽学校初代校長鈴木米次郎と共に横浜港からサンフランシスコ行きの東洋汽船の地洋丸に乗り込んだ事から始まる。波多野バンドは北米航路を中心に楽隊として演奏を続けていて、その度に本場のジャズを聴いて耳を肥やした。そして、1916(大正5)年、東京西銀座の金春館という洋画専門館の館主に口説かれて船を下り、映画の伴奏をするようになった。この頃はまだ、無声映画の時代であった。その後、弟の波多野次郎の主催しているハタノ・オースケストラと合流し、金春館から5分ほどの場所にある帝国ホテルでもオーケストラの演奏をしていたようだ。
1920(大正9)年、横浜鶴見の花月園に日本最初の常設のダンスホールが作られた。ここで最初に演奏したのが宍倉脩(ピアノ)を楽長に、阿部万次郎(サックス)、原田録一(トランペット)仁木他喜雄(ドラムス)・井田一郎(ヴァイオリン)で編成された日本初のダンス専門バンドだった。
この翌1921(大正10)年1月には、経営者が替わった金春館を離れ、ハタノ・オーケストラは、宍倉バンドの後を継いで花月園に進出。波多野福太郎は当時の模様を「船時代にアメリカで買ってきたフオツクス・トロットやワン・ステップ(4分の2拍子の社交ダンスで、フォックストロットの変型のステップ)、ラグタイムの譜面をそのまま演奏した。」・・といっているそうだ(※5参照)。しかし、花月園は、波多野らの演奏が加わってから10ケ月ほどで閉鎖してしまった。
波多野兄弟によるハタノ・オーケストラは日響(日本交響楽協会)の母体となりクラシック、ジャズ(モダン・ジャズ以前のもの)を問わず多くのプレイヤーを生みだすことになる。
ジャズの分野でパイオニアとなった者としては、前野港造は松竹座オーケストラやNHK大阪のオーケストラに所属したのち、井田一郎とジャズ・バンドを組んで多くのダンスホールに出演し、日本のジャズ・サックスの嘱矢となった、高見友祥も、宝塚オーケストラで知り合った井田一郎と共にコロムピア・ジャズ、バンドで活動 し、前野港造と共に日本のジャズ・サックスの長老的存在となった。その他に、作曲や編曲の分野での活躍も注目に値する。奥山貞吉はNHKとコロムピアで作曲・編曲を担当、仁木他喜雄は新交響楽団に所属するかたわらコロムピアの専属編曲者としてジャズ・ソングの編曲を得意とするようになった。
花月園が閉鎖、 そして、関東大震災後はジャズの舞台を東京から大阪へと移動させることとなる(※5、※6参照)のだが、大阪での、最初の本格的ジャズバンドの旗揚をしたのも、井田一郎だった。
井田は、1894(明治27)年、東京・浅草に生まれ、幼少時は家庭の事情で各地を転々とする。1910(明治43)年三越呉服店音楽部オーケストラに入り、トランペットを担当。同楽団ではたびたび社交ダンスの伴奏を手がけたことから、若い頃よりダンス音楽やジャズに関心を持ち、大正のはじめごろにはラグタイムやフォックストロットといった新しいダンス音楽を米国の音楽雑誌から見つけて演奏しており、噂を聞きつけた瀬戸口藤吉がその演奏法を教わりに来たほどであったという。のち三越を辞めて本場に渡ってダンス音楽の見聞を広めるために日本郵船の客船・鹿島丸に乗り組む。そして、日本初の公開ダンスホール・花月園のために米国で楽器を買い付けて1917(大正6)年帰国してからは同園のダンスバンドに所属し、バイオリンを担当していたことは先に書いたとおりであるが、このバンドは内紛のため3ケ月で解散したため、1918(大正7)年末から1921(大正10)年3月まで、東洋汽船の天洋丸に乗り込み船内バンドに加入し、到着地のサンフランシスコではホテルバンドのバンドマスターからダンス音楽のレッスンを受け、劇場やホテルのバンドを聞いて廻ったという。1922(大正11)年三越時代の恩師・東儀哲三郎の紹介で宝塚オーケストラに入団した。楽員20人ほどを集めてジャズ研究会を作る。そして、3サックス(3)、トランペット、トロンボーン、ヴァイオリン、ドラムス、ピアノの8人編成で少女歌劇の幕間に演奏をして好評だったが、古参楽員の横槍で自然消滅し、井田(vln)は、高見友祥(drums)、山田敬一(sax.)、岩波桃太郎(piano, Fl.)とともに退団。退団後は仲間にコルスキー(piano)を加えてバンドを組み、神戸などのダンスパーティーで演奏していた。
そして、1923(大正12)年春井田・高見・山田・岩波の4名で日本初のプロのジャズバンド「ラフィング・スターズを結成した。井田たちは白いジャケットに黒いズボン、腰にはスペイン風サッシュを巻いてステージに上った。実に粋な演出だったようだ。
マネージメントは神戸三ノ宮の北尾楽器が引き受けた。ディキシースタイルで、オリエンタルホテルや山の上の東亜ホテル(「トアロード」の最北端、現在の「神戸外国倶楽部」の場所に、英・独・米・仏の人々の共同出資で開業されたホテル[1908~1950年])のダンスバンドとして出演し人気を博した。このことから、神戸がジャズの発祥の地とされているわけである
しかし、ダンスパーティーだけの契約に無理がたたってしまい、わずか5ケ月で解散 その後、1923(大正1)2年8月に道頓堀に開場していた.松竹座オーケストラに井田は加入した。
大正時代の大阪には、日本を代表する大衆音楽の勃興、すなわち『ジャズの都』といった特別の音楽環境があった。例えば、道頓堀川には粋な屋形船の上で熱演するジャズバンドがあった。本場アメリカのミシシッピー河を上下するショーボート(大ヒットしたブロードウェイミュージカルのタイトルにもなった)とは行かないまでも、水の都大阪ならではの光景であったろう。今大阪市はかってあったジャズの街を模索している(その後の井田一郎の経歴などは※6を、ジャズの都-大阪のことなど詳しいことは※7を参照されるとよい)。
さて、ジャズと云うと、映画好きの私には昭和の時代に大活躍した「日本の喜劇王」とも呼ばれたエノケンこと榎本健一のことを思い出す。以下そのことを書いてみよう。
(冒頭の画像は、北野町広場にあるジャズマンの像)
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