今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(2-1)

2015-11-21 | 歴史
今から29年前の1986(昭和61)年11月15日、伊豆大島の中心にある三原山が、1974(昭和49)年以来12年ぶりに噴火した。山頂火口での噴火から割れ目噴火に移るなど、態様を変えながら3回の噴火を繰り返した。割れ目火口から流れ出た溶岩が人口密集地に向かい、1万300人の全島民は観光客と船で脱出し、1か月間の避難生活を余儀なくされた。
三原山は過去1500年の間に、約150年の周期で大規模噴火を起こし、その間に、中規模噴火を繰り返して来た。
11月15日の最初の噴火は山頂火口で起きた。オレンジ色のマグマのしぶきを激しく噴き上げる、珍しい「ファイアファウンテン」(英:fire fountain。火の噴水また溶岩噴泉とも。)と呼ばれる現象が見られた。このタイプの噴火はハワイ島キラウエア火山などにみられるものである。
19日火口にたまった溶岩はカルデラ内輪山(内輪山=中央火口丘のこと。外輪山の内側にあるのでいう。)の縁を超え溶岩流となって流れ出した。この時の溶岩流は外輪山を超えることはなく火山活動の脅威の景観に見物人が列をなしたという。
21日夕方小康状態にあった三原山は再び大噴火した。今度は1421(応永28)年以来の「割れ目噴火」であった。カルデラ内の内側と外輪山の北側で突然次々と地面に亀裂が走り、そこからマグマが火のカーテンのように噴出したのである。
●冒頭の画像は、11月21日の「割れ目噴火」とそれを見ている人たち。
割れ目の長さはカルデラの内外でいずれも1㎞にわたった。外輪山の新しい火口列から流れ出る溶岩流は、午後にはカルデラ外の噴火口から、人口が密集しているふもとの、元町市街地区に溶岩が向かったため、同日深夜になって、全島民1万3千人と観光客2000人に避難命令が出た。溶岩流は最終的に民家から300m付近にまで達したところがある。
●上掲の画像は、11月22日午前5時東京竹芝桟橋(ここ参照)に着いた避難民たち。大島を出た船は静岡県伊東港、東伊豆の稲取港へも向かい、家族が離散したケースもあったという。戸締りもせず、簡単な手荷物、あるいは着のみ着のままで非難した人たちもいた。島民が島に帰ったのは12月19日以降のことである。この時は、その後一カ月も避難生活が続くとは思いもよらなかっただろう。
この3回の噴火について、火山噴火予知連絡会は、正確な直前予知情報を出すことに失敗したようだ。
火山性微動(マグマや水蒸気が火山の地下を移動したり、沸騰して気泡が発生することなどによって起こる地表の微弱な振動。)は7月下旬からあった。しかし、予知連は10月30日、「将来の噴火の可能性が否定されたわけではない」「大規模噴火が切迫している兆候は認められない」とのあいまいなコメントを出して、まず1回目の空振り。
噴火直後には、下鶴大輔・予知連会長が「大規模な噴火はない。溶岩が外輪山の外へ流れることはないだろう」とコメントしたが、割れ目噴火でこれも覆された。12月12日には、「火山活動は短期的に見れば休止に向かいつつある」との統一見解をまとめ、こうした判断に基づいて同日、東京都の災害対策本部(ここ参照)が全員帰島を決定した。ところが帰島開始の前日の18日になってまたしても噴火が起きた。同日夜、下鶴会長は「いいわけはしません。」「この程度の噴火の余地は難しい」と、敗北を認めざるを得なかったという。
溶岩流が山を下るという危機感の中で、全島民の避難は整然と行われた。しかし、それをいつ、どういう状況で、解除するのかが当時問題となった。
避難した島民は東京都内の小中学校、スポーツセンター、福祉会館などに分散して収容された。急な脱出行だっただけに、着の身着のままの人も多く、日がたつにつれて体の不調を訴える人が増えていった。火山はその後小康状態を続けたが、科学には「もう大丈夫」と断言できるほどの予知能力はない。結局帰島は、中曽根康弘首相ら政治の強いリーダーシップで判断された。「解除」には政治が関与せざるを得ないことを印象付けたのだが・・・・(画像、文等『アサヒクロニクル週刊20世紀』1986年号参照)。

火山活動と地震活動の間には, 密接な関係があることが古くから知られているようだが、ここのところ日本列島で火山の噴火が相次いでいる。
最近では、2013年に小笠原諸島西之島が噴火以降、現在も活発な火山活動が続いている。西之島は海底火山の活動により生じた火山島(無人島)であるが、現在も活発な噴火活動が見られ、大量の溶岩流や噴出物が海面上まで堆積して西之島(旧島)付近に新しい陸地を形成しており、この陸地は「西之島新島」と命名され、「新島ブーム」とマスコミにも報道され、大きな話題となった。これなど、人的被害がなく島が大きくなるのだから日本にとっては結構な話ではあるが、昨2014年9月には御嶽山(長野、岐阜県)が噴火し、戦後最悪となる噴火による犠牲者63人(死者。内行方不明者5人)を出した。
今年2015(平成27)年に入ってから5月には、屋久島の西方約12kmに位置する口永良部島新岳で爆発的噴火を起こし、火砕流が海岸まで到達した。噴火による避難は日頃からの訓練のおかげで、1人の被害者も出さず見事にできたが、今も噴火警戒レベル5が続き、屋久島に避難している避難民の方は未だに帰島のめどが立たずに困っておられると聞く(*1参照)。この後何年避難生活をしなくてはならないのか・・・。三原山の噴火の時以上に避難生活が長引いており、帰島の時期についてはやはり政治家がしなくてはならないのだろう。
そのほか、頻繁に噴火を繰り返している鹿児島県の桜島諏訪之瀬島を除いて6月には長野県と群馬県堺にある浅間山、8月には、小笠原諸島南端近くの硫黄島、9月には、神奈川県と静岡県にまたがる箱根山、熊本の阿蘇山、10月には 北海道の雌阿寒岳霧島山えびの高原〔硫黄山〕周辺での火山性地震頻発)など火山活動が活発化したり、噴火に至るケースが相次いでおり、2011年3月11日の東日本大震災以降、火山噴火が多いと感じている人は少なくないだろう。
20世紀以降に世界で起きたマグニチュード(M)9級の巨大地震後には、周辺で例外なく噴火が発生しているようだが、東北地方太平洋沖地震だけが、これまで噴火が起きておらず、例外的だと思われていたのだが、昨年9月に、御嶽山が噴火して以降、日本の火山も今後、活動期に入る可能性があると指摘している専門家もいるようだ。
ただ詳しいデーターがないが、「長い目で見ると実は、この100年のあいだ、日本列島は異常なほど静かだっただけと言える。
火山の噴火はさまざまなタイプと規模があるが、火山学者は東京ドーム約250杯分以上の噴出物があったものを「大噴火」と定義している。この「大噴火」は日本の場合、100年間に4~6回ほどは必ず起きていた。それが20世紀に入って以降、1914年の桜島と、1929年の北海道駒ヶ岳で「大噴火」があっただけで、ずっと静かな状態が続いている。そう考えれば、3.11以降、むしろ普段に戻っただけとも言えるわけで、今世紀に4~6回の「大噴火」が起きても、何の不思議もない。」・・という(*2参照)。
日本が誇る富士山は、2013(平成25)年6月には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産にも登録され、近年アベノミクスの円安政策なども引き金となり、日本を訪れる外国人観光客も激増し、富士登山客もこれにより、激増している(ただ昨年は天候不順で少し減少 ここ参照)。これは結構なことなのだが、その富士山がいつ噴火してもおかしくないとも言われている。
もし実際に富士山で噴火が起こったら、・・・、首都東京はどうなる・・・? 日本は大変なことになってしまうだろう。心配はないのだろうか?
【最悪のシナリオ】富士山が噴火したら東京はどうなる?? - NAVER まとめ
こんなことには何の知識のない私などがいくら考えても仕方がないことなのでこれ以上詮索しないようにしよう。
ところで、三原山は、伊豆大島の大半を占める複式活火山(複式火山参照)であり、その最高点は三原新山(764m)である。富士火山帯に属し、玄武岩安山岩(火成岩の種)。ここ参照)からなり、40あまりの寄生火山(側火山参照)がある。
狭義の三原山は外輪山に囲まれた直径 3~4kmのカルデラ内にある円錐状の中央火口丘をいっている。1777年に始まった安永噴火で誕生(*3の伊豆大島 有史以降の火山活動参照)し、頂部に直径300 m、深さ200 m以上の切り立 った竪坑状の火口が口を開けている。
日本の活火山の中でも玄武岩質マグマの活発なこと で知られており、およそ35年以内に一度は比較的大きな噴火を行い、少しずつ姿を変えている。
その間に起こる小噴火も含めて、吹き上がる火柱や火映は古来御神火とあがめられてきた。


●1951年の噴火。


●1957年噴火。


三原山の噴火は、戦後では、1950(昭和25)年7月15日に突如活動を開始し、その後しばらくなりを潜めていたが、1951(昭和26)年2月4日再び噴火を始め溶岩流がラクダに乗って歩く砂漠地帯の大半をうめたという。いずれも中規模噴ではあったが、これに、続き1957(昭和32)年10月13日にも1950以来の大規模な噴火をし、この時の爆発で火口付近の観光客のうち1名が、火山弾によって死亡し、53人が重軽傷者を負ったという(*3の伊豆大島 有史以降の火山活動参照)。そして、この1986(昭和61)年11月15日の大噴火では全島民が避難する騒ぎになったのだがこの噴火以来静けさを保ち、まじかに火口周辺の絶景を見ることができ、振り向けばカルデラ内外に四季折々のすばらしい景観がひろがり、さらに海原を越えて伊豆の島々から伊豆半島・富士山までグルリと見渡すことも出来る。1998(平成10)年5月には三原山噴火口を一周する『おはち巡りコース』が開通し三原山の雄大さを間近に見る事が出来る様になった。特にここから見る噴火口は、まさに圧巻である。
この三原山が自殺の名所になったのは1933(昭和8)年のことである。三原山の自然に引かれて火口に身を投じた文学好きの女子学生、東京の実践高等女子学校専門部の学生らが投身、2月にも同行の国文科2年の学生が投身これらがマスコミで大々的に報じられて以降、三原山は自殺の名所になった。これらの事件のあと自殺志願者が相次ぎ、大島署では挙動不審なものを保護したり、自殺防止に努めたが一時は留置場の扉も閉まらないほどに満員状態になってしまったという。島民も自殺防止に必死で、郵便局員が「動く看板」を背負い、志願者に思いとどまるようにした。しかし、流行は衰えず、『明治・大正・昭和世相史』(社会思想社刊)によるとこの年は4月までに三原山での自殺者は60人、未遂者は160人にも上ったという(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1933-34年号、参照、)。島民の方にとっては迷惑な話でしたね~。

●自殺防止のため「動く看板」を背負って歩く郵便局員。


その三原山のある伊豆大島の。面積は91.06平方キロm。行政区域は、東京都の町大島町であり、都はるみの歌「アンコ椿は恋の花」で知られる。
東京都の区域内には気象庁が、火山災害軽減のため、監視し、噴火警報・予報を発表している全国110の活火山(*3参照)のうち、21の火山が存在している。これらの火山は全て島嶼(とうしょ)地域に存在し、住民が居住している火山島は8つある(大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島)。このうち特に活発に活動しているのが大島と三宅島で、この100年間で大島が3回(36~38年間隔)、三宅島が4回(17~22年間隔)噴火しており、噴石、火山灰、溶岩流及び火山ガスによる直接・間接の被害や住民の避難が発生しているいう(*4参照)。
大島と名のつく島は日本各地にあるが、国土地理院では伊豆大島と表記する。
伊豆大島は、本州で最も近い伊豆半島からは南東方約25kmに位置する。
現在の伊豆大島の下には、岡田火山、行者窟火山、筆島火山の三つの古い火山が隠れている。乳ヶ崎~岡田~筆島にかけての海岸に急な崖があるのは、古い火山が露出しているからだそうだ。三つの火山が活動していたのは遥か昔、数十万年も前のこと。
伊豆大島火山は今から数万年前、次第に活動を終え、海水に侵食されていったこれら三つの火山の近くに海底火山として誕生した。誕生まもない伊豆大島火山の火口は海面近くにあり、地下から上がってきたマグマは水と接触して、激しい噴火を繰り返した。噴出物が火口のまわりに積もり、火口が海面から顔を出し、現在の大島の形がほぼ出来上がったのは約2万年前の事であった。つまり、伊豆大島はその噴き出たマグマによって三つの古い島(火山体)を覆って、形成された島…ということになる(*3のここまた* 5 参照)。三つの古い火山体は、大島北端の乳が崎から大島南東部の筆島まで続く海食崖において露出している。
このような歴史もあり、大島の水中は噴火により流れ出たマグマが形成したダイナミックな地形で溢れ、他にはない“生きている火山”を海からも堪能できる。
伊豆大島は地質学的にみた日本の貴重な自然資源として2007年には、日本の地質百選に選定され、2010年には日本ジオパークにも認定されている(その見事な地層は*6のここ参照)。

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三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(参考)へ

三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(2-2完)

2015-11-21 | 歴史
こう書いていて、ふと、現在の伊豆大島の下になっているという、行者窟火山の名前が気になって調べてみた。
この行者というのは、飛鳥時代から奈良時代の呪術者であり山伏(修験道)の開祖とされている役小角(えんのおづぬ)のことのようである。
日本書紀』に続く六国史の第二にあたる『続日本紀』(794年成立)の巻第一文武天皇三年五月丁丑の条には、役小角について以下のように記されている(*7参照)。
《文武三年(六九九)五月丁丑(廿四)》○丁丑。役君小角流于伊豆嶋。初小角住於葛木山。以呪術称。外従五位下韓国連広足師焉。後害其能。讒以妖惑。故
大意:文武天皇3年5月24日、役君小角を伊豆大島に配流した。そもそも、小角は葛城山に住み、呪術で称賛されていた。のちに外従五位下の韓国連広足が師と仰いでいたほどであったが, 後にその才能をねたんである人が彼の能力を妬み、妖惑のかどで讒言した((讒言者はこれを広足だとする説等解釈はいろいろあり)。それゆえ、彼を遠方に配流したのである。世間は相伝えて、「小角は鬼神を使役することができ、水を汲ませたり、薪を採らせたりした。もし鬼神が彼の命令に従わなければ、彼らを呪縛した」という。

上掲は、葛飾北斎北斎漫画』より、前鬼・後鬼を従えた役小角。
正史からわかるのはこれだけであるが、言い伝えでは、役行者は流刑先の伊豆大島で昼は行者窟(ぎょうじゃのいわや)に住んで修行し、夜になると富士山へ飛んで修行し赦免を願ったという。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれているようだ。
平安時代初期の説話集『日本霊異記』(日本現報善悪霊異記)には、佐渡に流されてから、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行したとあるそうなのでそれに基づいているのだろう。「大島公園海岸遊歩道」の終点近くに、「役の行者」ゆかりの「行者窟」という聖なる場所がある(*8参照)。



日本の火山の分布(*3:気象庁HPの活火山分布図参照)は、千島、北海道、東北日本を経て伊豆諸島からマリアナ諸島に至る東日本火山帯と、山陰から九州を経て南西諸島に至る西日本火山帯に分けられる(火山帯参照)が東日本火山帯の火山フロント(火山前線。*3の火山噴火の仕組みも参照)は千島海溝日本海溝伊豆・小笠原海溝,に平行に走っており、西日本火山帯のうち九州から南西諸島に至る火山フロントは琉球海溝に平行に走っている。
そして、伊豆・小笠原島弧北部の火山フロントは、八ヶ岳から富士山・箱根火山を経て、日本列島の中央部の伊豆半島から伊豆大島、三宅島、御蔵島、八丈島とほぼ南北方向に連なっているが、伊豆・小笠原弧の北端部にある伊豆半島とその周辺陸域・海域は,プレート境界の近傍に位置する活発な地殻活動・火山活動の場として知られている。
1974(昭和49)年の伊豆半島沖地震以後、伊豆半島付近の地震活動が活発になり、1976(昭和51)年に河津地震(M5.4)、1978(昭和53)年に伊豆大島近海の地震(M7.0)などが発生し、1989(平成元)年7月13日には、静岡県伊東市の沖合3 kmで海底噴火が起こり、手石海丘という海底火山が誕生した(伊豆東部火山群)。
これは,伊豆東部火山群としては有史以来初の噴火と言われているが、伊豆半島の噴火の歴史を地質学的に調べると、1989((平成元)年の手石海丘の噴火と似た事件が伊豆半島の陸上で過去15万年間繰り返してきたことがわかるという。以下参照。
伊豆東部火山群の火山活動解説資料(平成 23 年9月)気象庁地震火山部火山監視・情報センター(Adobe PDF)
伊豆半島は、現在ある場所に最初からあったわけでも,本州につながる半島の形をしていたわけでもなく、約2千万年前は,本州から南に1500kmほどへだたった熱帯海域の海底火山であったと考えられているようだ。
その後フィリピン海プレートに載った伊豆の地殻は火山噴出部を積み増しながら北上を続けて約100万年前には本州沖に達し、海面上に火山島として出現し、本州に衝突して合体する時がきた。
本州と陸続きになったのは約60万年前で、伊豆火山島は本州から突き出た半島の形になり、現在見られる伊豆半島の原形ができあがった。陸地となった後の伊豆半島では、あちらこちらで噴火がはじまり、たくさんの大きな火山体ができたが、天城山(天城火山)や達磨山(達磨火山)は,この時さかんに噴火していた火山なのだという。(*9の伊豆半島の火山とテクトニクス、 伊豆半島の火山  参照)。
伊豆半島の南東部にある下田市爪木崎西側の海岸にある、「俵磯」と呼ばれる「柱状節理」(画像)は、伊豆地域が海底火山だった頃の火山活動で、地下のマグマが地層の隙間に入り込んで冷え固まったものであり、この柱状節理は静岡県の指定文化財ともなっている。
伊豆半島の東海岸沿いの陸地と海底では、現在も火山活動や地殻変動が続いているが、伊豆半島の東側付け根に位置する熱海市の熱海港から高速船で25分ほどの、相模灘に浮かぶ初島の平らな地形は、そこにあった浅瀬が隆起して島になったことを物語っている。
また、熱海市沖の海底には参道状の石畳や階段のような石積み、船着き場と思われる桟橋が眠っているという。2004(平成16)年にはマスコミ(朝日新聞)でも”謎の海底遺跡”と話題になっていた(*10参照)。そうだとすれば、ここがかつては陸地であったことを証明していることになる。
詳細の記録はないが、鎌倉時代後期の13世紀末頃に成立したとみられる『百錬抄』巻第十六 の後深草天皇の条には以下の通り記されている(*11の・第十六のコマ番号153参照)。
〔百練抄  十六 後深草〕
寶治元年正月十二日丙寅、此間風聞云、伊豆國長十二町、弘八町自十餘町行去、其跡如二湖水一云々
意訳:宝治元年(1247年) 1月12日 噂によれば、伊豆国で長さ1308m・巾872m (1町は60≒109m)程が沖に向かって1㎞程滑って沈んだのか失われて、その跡は湖水のようになった。・・・ということだが、『吾妻鏡』(*12参照)の寛元四年(1246年)11月27日に、「寅の刻、大地震」とあるので、これが百練抄の記事に該当するのだろう。
鎌倉時代中期に海底火山の噴火に伴って大規模な地殻変動が起こり伊豆山沖が陥没したのではないだろうか。
熱海は、古くからの湯治の地であり、平安、鎌倉時代には阿多美郷(あたみごう)といわれていたらしいが、海中から熱湯が噴き出し、「あつうみが崎」と呼ばれ、それが変じて「熱い海」であることから、熱海と名付けられたらしい。そのことは、熱海市のホームページ”あたみ昔ばなし”のページ(*13)の「熱海の由来」で、1枚の面白い画(「,万巻上人薬師の化現と逢図」)とともに書かれている。.
まずはそのページを見てください。→熱海の由来
スキューバダイビングのインストラクターで、熱海の海底遺跡第一発見者見者だといわれている國次秀紀氏は、熱海の海底遺跡保存会を設立し、独自・独創的な発想によって阿多美(熱海)の有様を調査し発表している(*14参照)。以下参照。YOUTUBE動画サイトへアップしている熱海の海底遺跡動画も見られる。
熱海の海底遺跡保存会
その中であつうみケ崎「万巻上人薬師の化現と逢図」の検証をしている(上記熱海の海底遺跡保存会参照)が、熱海の海底に眠る遺跡は熱海市の錦ヶ浦や熱海サンビーチ沖1キロの海底にあり、参道状の石畳や階段のような石積み、船着き場と思われる桟橋が眠っているという。そして、江戸時代以前、鎌倉中期、1247年頃に火山噴火と大地震で沈んだと見ている。つまり、『百練抄』『吾妻鏡』に出てくる時期ということのようだ。
鎌倉時代には『吾妻鏡』をはじめ鎌倉を中心とした地震の記録が多く現れる(*15のここ参照)が、政治の中心が鎌倉にあったためで、鎌倉だけに地震が多かったわけではない。この年代の11月26日にも鎌倉で大地震があるが、この地震の約50年後の、1293年5月20日(5月27日)(正応6年4月13日)に起こった鎌倉大地震(永仁の関東地震ともいう)では23,024人もの死者が発生したとされている。朝廷では、永仁への改元までしている。
しかし、熱海海底遺跡は、一体何の跡だったのだろうか?
『吾妻鏡』には壇ノ浦の戦いについて
寿永4年3月24日(1185年4 月24日)長 門の国赤間関の海上に於いて、八百四十余艘の兵船を浮かぶ。平氏また五百余艘を漕 ぎ向かい合戦す。午の刻逆党敗北す(**12参照)。
・・・とあるように、長門国彦島(山口県下関市)の平氏水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成している。
海底考古学会のすぺッシャリスト 茂在寅男東京海洋大学名誉教授は、
源頼朝は水軍族の頭領であり、当時の熱海は「鎌倉幕府の軍港」だった可能性があるという。それが鎌倉時代のある日突然、大地震か火山の噴火で沈んだという説を立てている。それが、この熱海の海底遺跡だろうとするのだが・・・。以下参照。
歴史ミステリー 熱海海底遺跡は鎌倉幕府の軍港だった?1
歴史ミステリー 熱海海底遺跡は鎌倉幕府の軍港だった?2

いずれにしても、伊豆半島の東海岸沿いの陸地と海底は、活発な火山活動を続けてきたし、「伊豆大島から一直線に伊豆大島にかけて火山列島は要監視地域でもあり、火山噴火後には必ず大地震が起きている」・・・という木村 政昭琉球大学名誉教授(*16参照)等の話は、気になるところではある。これを否定する学者もいるのだが、興味のある人は、一度以下のページを読んでみては・・・。

三原山噴火→富士山噴火へ着々 連続する小笠原深発地震の不気味
伊豆大島三原山の噴火の後には必ず大地震が起きている


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2015-11-21 | 歴史
参考:
*1:“全島避難”の後で~検証・口永良部島噴火
http://www.nhk.or.jp/fukuoka/frontier/back/back_150605.html
*2:次々噴火する火山-DIAMOND onlin
http://diamond.jp/articles/-/73271
*3:気象庁 |火山
http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/kaisetsu/vol_know.html
*4:東京都の火山|東京都防災ホームページ
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/taisaku/1000064/1001579/index.html
5:伊豆大島- 国土地理院(Adobe PDF)
http://www1.gsi.go.jp/geowww/Volcano/map/condition-map/report/pdf/houkoku_izuoshima.pdf#search='%E5%9B%BD%E5%9C%9F%E5%9C%B0%E7%90%86%E9%99%A2+%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%A4%A7%E5%B3%B6+%E5%B2%A1%E7%94%B0%E7%81%AB%E5%B1%B1%E3%80%81%E8%A1%8C%E8%80%85%E7%AA%9F%E7%81%AB%E5%B1%B1%E3%80%81%E7%AD%86%E5%B3%B6%E7%81%AB%E5%B1%B1'
*6:伊豆大島ジオパーク・データ ミュージアム..
. http://oshima-gdm.jp/Front_Page
*7:続日本紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoku.html
*8:役行者霊蹟札所会 * 開祖 役行者
http://www.ubasoku.jp/introduction/ennogyoja.htm
*9:静岡大学小山研究室ホームページ
http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Welcome.html
*10:海底に眠る石の階段 熱海市沖で発見、鎌倉時代に水没か [朝日新聞〕ー阿修羅 昼休み2
http://www.asyura2.com/0311/lunchbreak2/msg/713.html
*11:近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第14巻 百錬抄 愚管抄 元亨釈書
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991104/181?tocOpened=1
*12:吾妻鏡入門目次
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html
*13:熱海市:あたみ昔ばなし
http://www.city.atami.shizuoka.jp/category.php?c_id=137
*14:熱海の海底遺跡
http://protecs.waterblue.ws/kaitei-iseki1.html
*15:聚史苑:天変地異年表 目次
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen00.htm
*16:木村政昭ホームページ
http://kimuramasaaki.sakura.ne.jp/Site2/Home.html
熱海温泉図彙 - 西尾市
http://www.city.nishio.aichi.jp/nishio/kaforuda/40iwase/collection/2209atamionsen/atamionsenzui.html


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