
1896年(明治29)年3月11日 官設鉄道・大阪~神戸間の複線化が完成 した。
明治政府は1869(明治2)年11月10日(太陽暦では12月12日。明治5年まで太陰暦使用)、東西両京を(東京~京都〔中山道経由〕、〔京都~神戸〕)を結ぶ鉄道を幹線と定め,東京-横浜 間と琵琶湖から敦賀港に至る線を支線として建 設すること(4路線)に廟議決定した。そして、1870(明治3)年3月25日(4月25日)、東京~神奈川間の線路測量に汐留附近から着手 。同年7月30日(8月23日)には、大阪~神戸間線路測量にも着手。これを見ても判るように、両京と港が重視されていることがわかる。
最初は新橋駅(後の汐留駅)~横浜駅(初代、現在の桜木町駅)間と、神戸駅~京都駅間という都市文化の象徴であったが、その後、関東と関西を結ぶ幹線として計画されるようになった。当初予定されていた中山道ルートから東海道線ルートに変更されると、一大プロジェクトとなり、一気に建設が進んでいった。明治新政府は敦賀を地政学上の中央点にあたる要地と認識し、琵琶湖の水運を介在させ、敦賀港と神戸港とを鉄道で結ぶ計画が樹てられたもの。(敦 賀 港の重要性は以下参考に記載の鉄 道 と 敦 賀 港参照)
東海道本線の延伸の歴史は、日本の初期の鉄道の歴史を象徴している。1872(明治5)年の新橋~横浜間の鉄道開通の後、政府は、1874(明治7)年5月に大阪~神戸間にも鉄道を開設し、東西ともに中心都市と隣接の港を結でいる。それだけ、横浜港・神戸港が重要な位置を占めていたのである。官設鉄道で1874(明治7)年5月の三ノ宮~神戸間の複線化は日本初の複線である。1876(明治9)年12月新橋~品川間が複線化し、1881年(明治14年)5月に新橋~横浜間複線化が完成しているので、1896(明治29)年3月の大阪~神戸の複線化の完成は少々遅れをとったものの、中心都市と隣接港との鉄道の繁盛振りが良くわかる(東海道本線進捗状況は「年表」を参照)。
日本の鉄道は1987(昭和62)年3月までは日本国有鉄道という公共企業体であったが、その基礎となったのが明治に制定された鉄道国有法(明治39年3月31日法律第17号)である。当時の鉄道は官設と私設が交錯し、そのために不確実な時間、高い運送費、延着停滞する貨物等、各種の不便が生じていた。新橋~横浜間・京都~神戸間が官設で開業したことに端を発し、1892(明治25)年の鉄道敷設法、日清戦争後の官設鉄道の拡張もそれに基づくものであり、一部を民営鉄道に認可していたのも、政府は、当時西南戦争による過大な戦費の支出などにより、国家財政が許さず、軍事・経済上の猶予がないための止むをえない措置であり、これらの鉄道はいずれ全て国営で営業されるべきであるとの条件を留保したものであった。しかし、この頃には、利害関係上鉄道国有化に反対していた軍部も日清戦争後の三国干渉によって対ロシア戦を意識しだし、鉄道国有問題を第一義とするようになっていった。同法制定により、それまでの私鉄を国有化することを定め、全国的な鉄道網を官設鉄道(鉄道省参照)に一元化することが出来た。理由は、どうであれ、その後の拡張により世界に類のない鉄道網を築いた日本。この鉄道が明治期の日本の近代化を牽引したといっていいのだろう。
「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり……」の有名な鉄道唱歌は、1900(明治33)年5月10日の第1集東海道篇を始めとし、この年の年末までに全5集が発表された。作詞はいずれも大和田建樹によるもので、今日のテーマーである「大阪から神戸間」が出てくる第1集東海道篇のものは多梅稚と上眞行(うえのさねつら)の2つの曲が付けられていた。これは「鉄道唱歌」が書籍の形式で販売されたので、「読者に好きな方を歌ってもらおう」という大和田の配慮だったといわれている。そのうち多梅稚の曲が、抒情的な上眞行の曲よりも、ヨナ抜き音階のピョンコ節でメロディーが覚えやすく、余りにもテンポがよく旅情がそそられるといった事情のためか広く歌われるようになって、他の方の曲はほとんど歌われなくなってしまったのだそうだ。以下で、多梅稚の曲と上眞行の曲の違いがMIDIで聞けるよ。
天翔艦隊/鉄道唱歌 第一集 東海道編
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/tetsudo/tokaido.html
歌詞の方は基本的に沿線に沿って七五調で順々に詠っているが、沿線に作者(大和田建樹)の好んだ場所や歴史的な場所のようなところがある場合、またその路線の終点の場合などは、そこに多く歌詞を割り当てたりしているなど単に駅を繋いだというよりも観光案内的な風情がある。第1集東海道篇の中の「大阪~神戸間」の歌・五五番から六六番を抜き出すと以下のようになっている。
第1集東海道篇五五番から。
五五 淀の川舟さをさして くだりし旅はむかしにて
またゝくひまに今はゆく 煙たえせぬ陸の道
五六 おくり迎ふる程もなく 茨木吹田うちすぎて 茨木・吹田
はや大阪につきにけり 梅田は我をむかへたり 大阪
五七 三府の一に位して 商業繁華の大阪市
豐太閤のきづきたる 城に師團はおかれたり
五八 こゝぞ昔の難波の津 こゝぞ高津の宮のあと
安治川口に入る舟の 煙は日夜たえまなし
五九 鳥も翔らぬ大空に かすむ五重の塔の影
佛法最初の寺と聞き 四天王寺はあれかとよ
六〇 大阪いでゝ右左 菜種ならざる畑もなし
神崎川のながれのみ 淺黄にゆくぞ美しき 神崎
六一 神崎よりはのりかへて ゆあみにのぼる有馬山
池田伊丹と名にきゝし 酒の産地もとほるなり 西ノ宮 ・住吉
六二 神戸は五港の一つにて あつまる汽船のかずかずは 三ノ宮
海の西より東より 瀬戸内がよひも交じりたり
六三 磯にはながめ晴れわたる 和田のみさきを控へつゝ 神戸
山には絶えず布引の 瀧見に人ものぼりゆく
六四 七度うまれて君が代を まもるといひし楠公の
いしぶみ高き湊川 ながれて世々の人ぞ知る
六五 おもへば夢か時のまに 五十三次はしりきて
神戸のやどに身をおくも 人に翼の汽車の恩
六六 明けなば更に乗りかへて 山陽道を進まゝし
天氣は明日も望あり 柳にかすむ月の影
神戸で一泊するなどして、山陽本線に乗り換えるか、神戸港から船で、旅をしたのだろうな~。今は、飛行機や新幹線で短時間で目的地へ行ける。それはそれで便利なことではあるが、昔のように、ゆっくりと、車窓から過ぎ行く町の景色を眺めながらの旅もいいものだ。大阪~神戸の複線化がテーマーなのに変な方向に脱線してしまったが、私は、新幹線が出来る前の、急行や特急列車又普通電車などに乗り継いでの出張や旅行の経験もあるが、そのようなゆったりとした旅が懐かしく思い出される。神戸大阪方面へこられた方は明治時代の歌に詠われた名所を見物してみてください。
(画像は、223系電車。大垣~神戸 間運転。フリー百科事典Wikipediaより)
鉄道省-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E9%89%84%E9%81%93%E9%99%A2
鉄道博物館
http://www.railway-museum.jp/exhibition/167.html
国鉄があった時代
http://page.freett.com/blackcat_kat/index.htm
鉄道唱歌 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E5%94%B1%E6%AD%8C
天翔艦隊
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/tensyofleet.htm
日本国の歴史〔行政歴史研究会)
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/rekishi.htm
陰暦(旧暦)変換プログラム
http://home10.highway.ne.jp/endakane/inreki2004.htm
[PDF] vol.2 鉄 道 と 敦 賀 港
http://www.ton21.ne.jp/file_l/1000104048_%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%A8%E6%95%A6%E8%B3%80%E6%B8%AF.pdf
明治政府は1869(明治2)年11月10日(太陽暦では12月12日。明治5年まで太陰暦使用)、東西両京を(東京~京都〔中山道経由〕、〔京都~神戸〕)を結ぶ鉄道を幹線と定め,東京-横浜 間と琵琶湖から敦賀港に至る線を支線として建 設すること(4路線)に廟議決定した。そして、1870(明治3)年3月25日(4月25日)、東京~神奈川間の線路測量に汐留附近から着手 。同年7月30日(8月23日)には、大阪~神戸間線路測量にも着手。これを見ても判るように、両京と港が重視されていることがわかる。
最初は新橋駅(後の汐留駅)~横浜駅(初代、現在の桜木町駅)間と、神戸駅~京都駅間という都市文化の象徴であったが、その後、関東と関西を結ぶ幹線として計画されるようになった。当初予定されていた中山道ルートから東海道線ルートに変更されると、一大プロジェクトとなり、一気に建設が進んでいった。明治新政府は敦賀を地政学上の中央点にあたる要地と認識し、琵琶湖の水運を介在させ、敦賀港と神戸港とを鉄道で結ぶ計画が樹てられたもの。(敦 賀 港の重要性は以下参考に記載の鉄 道 と 敦 賀 港参照)
東海道本線の延伸の歴史は、日本の初期の鉄道の歴史を象徴している。1872(明治5)年の新橋~横浜間の鉄道開通の後、政府は、1874(明治7)年5月に大阪~神戸間にも鉄道を開設し、東西ともに中心都市と隣接の港を結でいる。それだけ、横浜港・神戸港が重要な位置を占めていたのである。官設鉄道で1874(明治7)年5月の三ノ宮~神戸間の複線化は日本初の複線である。1876(明治9)年12月新橋~品川間が複線化し、1881年(明治14年)5月に新橋~横浜間複線化が完成しているので、1896(明治29)年3月の大阪~神戸の複線化の完成は少々遅れをとったものの、中心都市と隣接港との鉄道の繁盛振りが良くわかる(東海道本線進捗状況は「年表」を参照)。
日本の鉄道は1987(昭和62)年3月までは日本国有鉄道という公共企業体であったが、その基礎となったのが明治に制定された鉄道国有法(明治39年3月31日法律第17号)である。当時の鉄道は官設と私設が交錯し、そのために不確実な時間、高い運送費、延着停滞する貨物等、各種の不便が生じていた。新橋~横浜間・京都~神戸間が官設で開業したことに端を発し、1892(明治25)年の鉄道敷設法、日清戦争後の官設鉄道の拡張もそれに基づくものであり、一部を民営鉄道に認可していたのも、政府は、当時西南戦争による過大な戦費の支出などにより、国家財政が許さず、軍事・経済上の猶予がないための止むをえない措置であり、これらの鉄道はいずれ全て国営で営業されるべきであるとの条件を留保したものであった。しかし、この頃には、利害関係上鉄道国有化に反対していた軍部も日清戦争後の三国干渉によって対ロシア戦を意識しだし、鉄道国有問題を第一義とするようになっていった。同法制定により、それまでの私鉄を国有化することを定め、全国的な鉄道網を官設鉄道(鉄道省参照)に一元化することが出来た。理由は、どうであれ、その後の拡張により世界に類のない鉄道網を築いた日本。この鉄道が明治期の日本の近代化を牽引したといっていいのだろう。
「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり……」の有名な鉄道唱歌は、1900(明治33)年5月10日の第1集東海道篇を始めとし、この年の年末までに全5集が発表された。作詞はいずれも大和田建樹によるもので、今日のテーマーである「大阪から神戸間」が出てくる第1集東海道篇のものは多梅稚と上眞行(うえのさねつら)の2つの曲が付けられていた。これは「鉄道唱歌」が書籍の形式で販売されたので、「読者に好きな方を歌ってもらおう」という大和田の配慮だったといわれている。そのうち多梅稚の曲が、抒情的な上眞行の曲よりも、ヨナ抜き音階のピョンコ節でメロディーが覚えやすく、余りにもテンポがよく旅情がそそられるといった事情のためか広く歌われるようになって、他の方の曲はほとんど歌われなくなってしまったのだそうだ。以下で、多梅稚の曲と上眞行の曲の違いがMIDIで聞けるよ。
天翔艦隊/鉄道唱歌 第一集 東海道編
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/tetsudo/tokaido.html
歌詞の方は基本的に沿線に沿って七五調で順々に詠っているが、沿線に作者(大和田建樹)の好んだ場所や歴史的な場所のようなところがある場合、またその路線の終点の場合などは、そこに多く歌詞を割り当てたりしているなど単に駅を繋いだというよりも観光案内的な風情がある。第1集東海道篇の中の「大阪~神戸間」の歌・五五番から六六番を抜き出すと以下のようになっている。
第1集東海道篇五五番から。
五五 淀の川舟さをさして くだりし旅はむかしにて
またゝくひまに今はゆく 煙たえせぬ陸の道
五六 おくり迎ふる程もなく 茨木吹田うちすぎて 茨木・吹田
はや大阪につきにけり 梅田は我をむかへたり 大阪
五七 三府の一に位して 商業繁華の大阪市
豐太閤のきづきたる 城に師團はおかれたり
五八 こゝぞ昔の難波の津 こゝぞ高津の宮のあと
安治川口に入る舟の 煙は日夜たえまなし
五九 鳥も翔らぬ大空に かすむ五重の塔の影
佛法最初の寺と聞き 四天王寺はあれかとよ
六〇 大阪いでゝ右左 菜種ならざる畑もなし
神崎川のながれのみ 淺黄にゆくぞ美しき 神崎
六一 神崎よりはのりかへて ゆあみにのぼる有馬山
池田伊丹と名にきゝし 酒の産地もとほるなり 西ノ宮 ・住吉
六二 神戸は五港の一つにて あつまる汽船のかずかずは 三ノ宮
海の西より東より 瀬戸内がよひも交じりたり
六三 磯にはながめ晴れわたる 和田のみさきを控へつゝ 神戸
山には絶えず布引の 瀧見に人ものぼりゆく
六四 七度うまれて君が代を まもるといひし楠公の
いしぶみ高き湊川 ながれて世々の人ぞ知る
六五 おもへば夢か時のまに 五十三次はしりきて
神戸のやどに身をおくも 人に翼の汽車の恩
六六 明けなば更に乗りかへて 山陽道を進まゝし
天氣は明日も望あり 柳にかすむ月の影
神戸で一泊するなどして、山陽本線に乗り換えるか、神戸港から船で、旅をしたのだろうな~。今は、飛行機や新幹線で短時間で目的地へ行ける。それはそれで便利なことではあるが、昔のように、ゆっくりと、車窓から過ぎ行く町の景色を眺めながらの旅もいいものだ。大阪~神戸の複線化がテーマーなのに変な方向に脱線してしまったが、私は、新幹線が出来る前の、急行や特急列車又普通電車などに乗り継いでの出張や旅行の経験もあるが、そのようなゆったりとした旅が懐かしく思い出される。神戸大阪方面へこられた方は明治時代の歌に詠われた名所を見物してみてください。
(画像は、223系電車。大垣~神戸 間運転。フリー百科事典Wikipediaより)
鉄道省-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E9%89%84%E9%81%93%E9%99%A2
鉄道博物館
http://www.railway-museum.jp/exhibition/167.html
国鉄があった時代
http://page.freett.com/blackcat_kat/index.htm
鉄道唱歌 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E5%94%B1%E6%AD%8C
天翔艦隊
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/tensyofleet.htm
日本国の歴史〔行政歴史研究会)
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/rekishi.htm
陰暦(旧暦)変換プログラム
http://home10.highway.ne.jp/endakane/inreki2004.htm
[PDF] vol.2 鉄 道 と 敦 賀 港
http://www.ton21.ne.jp/file_l/1000104048_%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%A8%E6%95%A6%E8%B3%80%E6%B8%AF.pdf