2004年(平成16年)11月26日は、俳優・島田正吾(『一本刀土俵入』) の忌日
新派の基礎を築いた川上音二郎が神田三崎町に新派劇専門の「川上座」を開場したのは、1896(明治29)年7月2日のことだった。その後、音二郎は、貞奴らと欧米を巡業し1900(明治33)年には、パリ万博でオッペケペ節を披露し、大好評を博したという。帰国後、『オセロ』『ハムレット』などを上演するなどして興行師として成功するが、病気のため大阪で没した。この川上一座はその後、1917(大正6)年、澤田正二郎により、国民演劇の創造を目標として作った劇団「新国劇」として生まれ変わった。その後、島田正吾辰巳柳太郎に引き継がれた。
このブログでは 、前に、“俳優・川上音二郎が神田三崎町に新派劇専門の「川上座」を開場した日”や、島田と共に新国劇を背負ってきたもう1一人の辰巳柳太郎については、”「辰巳柳太郎 」の誕生日”で書いたので、そこを見て欲しい。ここでは、島田正吾について書く。
島田正吾(本名:服部 喜久太郎)は、1905(明治38)年12月13日、横浜市に生まれ、1923(大正12)年に明星商業学校を中退後、通称「澤正」と評判をとった澤田正二郎率いる新国劇に入団。澤田が新国劇を結成して、6年目のことであった。その5年後の1929(昭和4)年3月、澤田が36歳の若さで急死し、新国劇は解散の危機に見舞われたが、この時24歳の若手俳優の島田が、島田より4年後に入団の辰巳柳太郎(但し、島田と同じ1905年生まれ)と共に立て直し、昭和期の代表的大衆劇団に育て上げたが、1970年代に入って島田、辰巳らも高齢となり、若手俳優緒形拳(故人)や若林豪の退団等で劇団は衰退、1979(昭和54)年株式会社新国劇は負債のため倒産。1987(昭和62)年に東京・新橋演舞場で劇団創立70周年記念公演終了後解散(新国劇」の名称は澤田正二郎の遺族に返還。残った中堅メンバーは劇団若獅子を創設している)するまで新国劇の大黒柱として活躍した。
盟友の辰巳とは「動の辰巳、静の島田」と好対照のライバルとして知られ、渋く独特なせりふ回しで観客を魅了したが、その盟友辰巳の死など経て、なおも舞台に情熱を傾け2004(平成16)年に亡くなるまで生涯現役で活躍した。「しがねえ姿の横綱の土俵入りでござんす」(「一本刀土俵入りの駒方茂兵衛)、「考えて見りゃあ俺も馬鹿よ」(「瞼の母」の番場の忠太郎)・・・、1930年代から戦後にかけて「沓掛時次郎」など長谷川伸が書いた股旅物の多くは島田の舞台後浪曲や映画、歌になり、名ぜりふとともに親しまれた。1951(昭和26)年山田五十鈴を相手役に「夏祭三度笠」で映画に初出演。以後、舞台でのヒット作を映画化した(以下参考の※:島田正吾 - goo 映画参照)。
股旅物以外に、北条秀司が新国劇の為に書下した戯曲「霧の音」(以下参考の※:霧の音 | Movie Walker参照。)や、文芸作品「ビルマの竪琴」など現代劇でも話題作を演じた。
また、NHK大河ドラマ「勝海舟」((1974年)、同連続ドラマ「ひらり」、高倉健と競演したTBS系「あにき」など多くのテレビドラマにも出演している。
晩年には、新国劇のかってのヒット作を一人芝居に・・・、特に「白野弁十郎」や「王将」(北条秀司の戯曲)といったひとり芝居に力を注ぎ、多くの舞台ファンに親しまれた。
ひとり芝居「白野弁十郎」は、エドモンド・オスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」が原作の芝居「白野弁十郎」を、もともと新国劇の創始者澤田正二郎が演じて大好評を博し、島田も演じていたものを島田自身が潤色したものである。1992(平成12)年、早大大隈講堂(以下参考の※:「大隈講堂 — 早稲田文化」参照)・新橋演舞場で演じた後、本場パリでも公演。高い評価を受け、フランス政府からフランス芸術文化勲章シュバリエ章を授与されている。その時年齢は86歳になっていた。ひとり芝居「白野弁十郎」は翌1991(平成3)年から2002(平成14)年まで、新橋演舞場で毎年1回上演されており、評判も高く、NHKスペシャルなど多数のメディアで取り上げられている。
1991(平成3)年に新橋演舞場公演後、6月18日より20日まで大阪の中座でも島田のひとり芝居「白野弁十郎」は公演されているが、冒頭掲載の画像は、その時の中座公演時のチラシである。このひとり芝居は自他共に認めるライフワークであり、「99歳のひとり芝居が夢」と情熱を燃やしていたという。
2002年(平成14年)10月に予定されていたひとり芝居「夜もすがら検校」を前に、同年8月脳梗塞で倒れた後リハビリに励んでいたが、2004年(平成16年)の今日(11月26日)98歳で没した。島田の書斎の机の上には真山青果作の『富岡先生』の台本が置かれていて、台本の側には99歳になったら演じると決めていた『ひとり芝居』のために推敲中の原稿もあったという。
(画像は、1991(平成3)年の大阪・中座でのひとり芝居「白野弁十郎」のチラシ)
参考:
島田正吾 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E6%AD%A3%E5%90%BE
川上音二郎 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E9%9F%B3%E4%BA%8C%E9%83%8E
中座 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BA%A7
北条秀司-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%A7%80%E5%8F%B8/
シラノ・ド・ベルジュラック (戯曲) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF_(%E6%88%AF%E6%9B%B2)
長谷川伸 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E4%BC%B8
※:霧の音 | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv24887/
※:大隈講堂 — 早稲田文化
http://www.waseda.jp/cac/ookuma.html
※:島田正吾 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/87339/
新派の基礎を築いた川上音二郎が神田三崎町に新派劇専門の「川上座」を開場したのは、1896(明治29)年7月2日のことだった。その後、音二郎は、貞奴らと欧米を巡業し1900(明治33)年には、パリ万博でオッペケペ節を披露し、大好評を博したという。帰国後、『オセロ』『ハムレット』などを上演するなどして興行師として成功するが、病気のため大阪で没した。この川上一座はその後、1917(大正6)年、澤田正二郎により、国民演劇の創造を目標として作った劇団「新国劇」として生まれ変わった。その後、島田正吾辰巳柳太郎に引き継がれた。
このブログでは 、前に、“俳優・川上音二郎が神田三崎町に新派劇専門の「川上座」を開場した日”や、島田と共に新国劇を背負ってきたもう1一人の辰巳柳太郎については、”「辰巳柳太郎 」の誕生日”で書いたので、そこを見て欲しい。ここでは、島田正吾について書く。
島田正吾(本名:服部 喜久太郎)は、1905(明治38)年12月13日、横浜市に生まれ、1923(大正12)年に明星商業学校を中退後、通称「澤正」と評判をとった澤田正二郎率いる新国劇に入団。澤田が新国劇を結成して、6年目のことであった。その5年後の1929(昭和4)年3月、澤田が36歳の若さで急死し、新国劇は解散の危機に見舞われたが、この時24歳の若手俳優の島田が、島田より4年後に入団の辰巳柳太郎(但し、島田と同じ1905年生まれ)と共に立て直し、昭和期の代表的大衆劇団に育て上げたが、1970年代に入って島田、辰巳らも高齢となり、若手俳優緒形拳(故人)や若林豪の退団等で劇団は衰退、1979(昭和54)年株式会社新国劇は負債のため倒産。1987(昭和62)年に東京・新橋演舞場で劇団創立70周年記念公演終了後解散(新国劇」の名称は澤田正二郎の遺族に返還。残った中堅メンバーは劇団若獅子を創設している)するまで新国劇の大黒柱として活躍した。
盟友の辰巳とは「動の辰巳、静の島田」と好対照のライバルとして知られ、渋く独特なせりふ回しで観客を魅了したが、その盟友辰巳の死など経て、なおも舞台に情熱を傾け2004(平成16)年に亡くなるまで生涯現役で活躍した。「しがねえ姿の横綱の土俵入りでござんす」(「一本刀土俵入りの駒方茂兵衛)、「考えて見りゃあ俺も馬鹿よ」(「瞼の母」の番場の忠太郎)・・・、1930年代から戦後にかけて「沓掛時次郎」など長谷川伸が書いた股旅物の多くは島田の舞台後浪曲や映画、歌になり、名ぜりふとともに親しまれた。1951(昭和26)年山田五十鈴を相手役に「夏祭三度笠」で映画に初出演。以後、舞台でのヒット作を映画化した(以下参考の※:島田正吾 - goo 映画参照)。
股旅物以外に、北条秀司が新国劇の為に書下した戯曲「霧の音」(以下参考の※:霧の音 | Movie Walker参照。)や、文芸作品「ビルマの竪琴」など現代劇でも話題作を演じた。
また、NHK大河ドラマ「勝海舟」((1974年)、同連続ドラマ「ひらり」、高倉健と競演したTBS系「あにき」など多くのテレビドラマにも出演している。
晩年には、新国劇のかってのヒット作を一人芝居に・・・、特に「白野弁十郎」や「王将」(北条秀司の戯曲)といったひとり芝居に力を注ぎ、多くの舞台ファンに親しまれた。
ひとり芝居「白野弁十郎」は、エドモンド・オスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」が原作の芝居「白野弁十郎」を、もともと新国劇の創始者澤田正二郎が演じて大好評を博し、島田も演じていたものを島田自身が潤色したものである。1992(平成12)年、早大大隈講堂(以下参考の※:「大隈講堂 — 早稲田文化」参照)・新橋演舞場で演じた後、本場パリでも公演。高い評価を受け、フランス政府からフランス芸術文化勲章シュバリエ章を授与されている。その時年齢は86歳になっていた。ひとり芝居「白野弁十郎」は翌1991(平成3)年から2002(平成14)年まで、新橋演舞場で毎年1回上演されており、評判も高く、NHKスペシャルなど多数のメディアで取り上げられている。
1991(平成3)年に新橋演舞場公演後、6月18日より20日まで大阪の中座でも島田のひとり芝居「白野弁十郎」は公演されているが、冒頭掲載の画像は、その時の中座公演時のチラシである。このひとり芝居は自他共に認めるライフワークであり、「99歳のひとり芝居が夢」と情熱を燃やしていたという。
2002年(平成14年)10月に予定されていたひとり芝居「夜もすがら検校」を前に、同年8月脳梗塞で倒れた後リハビリに励んでいたが、2004年(平成16年)の今日(11月26日)98歳で没した。島田の書斎の机の上には真山青果作の『富岡先生』の台本が置かれていて、台本の側には99歳になったら演じると決めていた『ひとり芝居』のために推敲中の原稿もあったという。
(画像は、1991(平成3)年の大阪・中座でのひとり芝居「白野弁十郎」のチラシ)
参考:
島田正吾 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E6%AD%A3%E5%90%BE
川上音二郎 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E9%9F%B3%E4%BA%8C%E9%83%8E
中座 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BA%A7
北条秀司-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%A7%80%E5%8F%B8/
シラノ・ド・ベルジュラック (戯曲) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF_(%E6%88%AF%E6%9B%B2)
長谷川伸 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E4%BC%B8
※:霧の音 | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv24887/
※:大隈講堂 — 早稲田文化
http://www.waseda.jp/cac/ookuma.html
※:島田正吾 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/87339/