元禄9年の今日(3月29日=グレゴリオ暦1696年4月30日)、 江戸幕府が、江戸市中のごみを利用した埋立てを許可した日。(永代島=現在の江東区永代)。
現在東京都の、隅田川の西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区永代一丁目に架かっている橋を永代橋という。
永代橋が架橋されたのは、1698(元禄11 )年8月のことであり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を迎えた記念として架けられたものとされており、現在の位置よりもやや北側、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近→ maps.google 地図)で、当時、大川(隅田川)最下流に架かる橋で、隅田川に4番目に作られた橋(上流から、又架けられた順も千住大橋、両国橋、新大橋、その次が永代橋)であった。以下で現代の永大橋と昔の永大橋の位置が図でわかる。
神田川のページ>隅田川(下流域)>永代橋→ http://mediaport.on.coocan.jp/kandagawa/bridges/eitaibashi.htm
「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある。江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あり、当時としては最大規模の大橋であったらしい。また、当時は大渡し(深川の渡し)のあった場所である。(以下参考に記載の江戸湊 拡大参照)
さて、本題に入るが、1590(天正18)年、徳川家康が関八州(、武蔵国、相模国、上総国、下総国、安房国、上野国、下野国、常陸国の8 国)に移封されたとき、家臣の殆どは居城は、小田原か鎌倉あたりになるものと考えていたらしい。しかし、それが江戸に決定された。当時の江戸は、東方は潮入りの低湿地(現在の大手町あたりから芝にかけての部分は日比谷入江と呼ばれた入江状の海になっており、その先に江戸前島と呼ばれた半島状の土地がぶら下がるように突き出ていた。)であり、西方は水利の便の悪い武蔵野台地で、城も小さく関八州の居城の地としてはおよそ似つかわしいところではなかった。以下参考。東京の川と橋・隅田川右岸の小河川と掘割・太田道灌時代の江戸城周辺図
http://www.hix05.com/rivers/river03/river031.html
だから、家臣の多くがいぶかしく思っても仕方のないことであったが、江戸は船運路さえ確保すれば、関八州の中心であり、関東経済圏をさらには東北経済圏をも一手に掌握できる立地条件にあったといえる。家康は恐らくそうした国土経営的眼力を十分に持ち合わせていたのだろう。
家康は江戸に入府し、大田道潅の築いたとされている江戸城(以下参考に記載の私説江戸城物語も参照)根拠にして、領地の経営に乗り出した。詳しくは以下参考に記載の「東京都臨海域における埋立地造成の歴史」に詳しく書かれているが、先にも延べたように地形的には、要塞として格好であったものの、武家や町民を収容する平坦地は欠如していたことから、先ず住居を確保する「土地づくり」と食を確保する「交易地路の建設」が必須であった。そこで,入府早々、1592(文禄元)年、江戸城周囲の掘割ほりわり=地面を掘って水を通した所。堀)工事や江戸出島を開削した道三堀の堀削土を用いて江戸城東部に広がる日比谷入江北部(現、千代田区丸の内・八重洲付近)を埋立て、続いて1603(慶長8)年から江戸城北部の台地(神田山)を切り崩し、日比谷入江南部一帯(現、中央区日本橋・京橋・新橋・築地付近)を埋め立てている。この土地造成により城下の街並みは次第に整備され、幕府の礎が堅固になった。さらに、慶長年間(1596~1615)、道三堀の東部延長に、関東最大の塩田地帯である行徳(現、千葉県浦安市行徳付近)へとつながる水路を確保するため隅田川と中川を東西方向に直線で結ぶ新川を開削し、生活必需物資の交易路を確保した。この小名木川開削の浚渫(しゅんせつ=港湾・河川などの水深を深くするため、水底をさらって土砂などを取り除くこと。)発生土は、川筋北部の埋立に使用された。この埋立てが、利根川河口域において、江戸幕府が行った最初本格的埋立て事業である。
そして、その後も幕府は大江戸を維持するための食料供給地や食料・建設資材等の貯蔵要地、及び密集した市街地からの人口分散を満たすため、新たな土地確保に迫られるようになる、江戸市中に近い隅田川河口付近を手始めに新たな村が展開されてゆき、先ず1596(慶長元)年頃から隅田川沿いの小名木川北隅に深川村(現江東区常盤・新大橋・高橋付近)、また、1629(寛永6)年には海辺新田(現江東区清澄・白川・扇橋付近)、またその南に深川猟師町(現、江東区佐賀・永代・福住み・深川付近)等の村落が相次いで形成された。引き続き寛永~正保年間(1624~1647)には、小名木川南部の中川右岸意気一帯(現江東区南・北・東砂および扇橋付近)の新田開発が行われている。
このようにして、次第に、新田を開発をし江戸の人口が膨張し始めたことにより、三代将軍家光の時から、ごみの問題が大きな社会問題として取り上げられるようになった。
そこで、1648(慶安元)年に、家光は「ゴミでの街路補修禁止、下水溝へのゴミ投棄禁止、川辺の便所を撤去」。1649(慶安2)年、「ゴミを会所地へ捨てる事を厳禁」しているが、1655(明暦元)年家綱の時世になると、江戸市中のごミ処理令を出した。つまり、江戸市中のごみを江戸城下から離れた隅田川左岸河口の永代島まで船で運び、投棄することを義務付けたのである。それは、それまで、市中のごみは、屋敷内、空き地、川等へ廃棄していたので、人口の急激な増加に伴い、このようなごミ投棄が市中の衛生状態を極度に悪化させるに至ったためである。さらに、1681(延宝9)年綱吉の時世には、江戸市中のごみ捨て場として、永代島新田と砂村新田(現、江東区北砂南部西部付近)を定め、そして、1696年(元禄9)年の今日(3月29日=グレゴリオ暦4月30日)には、ゴミ船で江戸市中の塵芥(じんかい)収集にあたる町人2人に、永代島上総(かずさ)間の海路浚渫(しゅんせつ)を許可、その土砂と塵芥による永代島附近の埋め立てを命じ、土地造成を更に進めたという。
このような、江戸期のごミ処理のあり方については、以下参考に記載の「町美化・リサイクルの話」の江戸のゴミ事情が詳しいので参考にされるとよい。
その方法は、町ごとに芥溜(ごみ集積場)を設置し、ごみ運搬の請負人が、永代島の埋立地へ運ぶというもの。しかも、集めたごみを業者が、燃料芥・肥料芥・金物芥に分けて建築廃材などの燃料芥は銭湯へ、食物廃棄物などの肥料芥は農家へ、金属廃棄物は加治屋へそれぞれ売ることも許されていたそうだ。このように江戸時代の江戸のごミ処理の仕組みは、徹底したリサイクル思考によるものだったようだ。
江戸開府当初のまちづくりとして行われた日比谷入江の埋立ては、北部の掘割の浚渫土、南部の台地を切り崩して行われた。やがて、江戸の人口の増加によって報知できなくなったごミ処理対策として江戸市民が排出する”ごみ”によって造成された新田が江東臨海部に次々と誕生する。埋立て地盤の材料については”ごみ”の他に、江戸期以降一貫して行われてきた水路堀削時の浚渫土砂、火災・震災時の瓦礫等が使用されている。時代が経過し、近年では、経済成長に伴い建設残土や産業廃棄物が用いられている。
そのようなことから、現代では、海洋汚染の問題が発生しているのであるが、それにしても、現代行われているリサイクルの仕組みが、江戸時代に徹底して行われていたとは、驚きだ。当時は、権力者には、絶対に逆らえない時代だから、庶民の側も徹底していただろう。
江戸時代、日本を訪れた外国人は、江戸の町が他の大都市と比べ、 ゴミ一つない町を見て、感心したそうだ。それに、比べ、今の日本はどうなっているのだろうね~。 どこも。ごミだらけの感じがするね~。
この永代島のところにあった永代橋は、幕府財政が窮地に立った1719(享保4)年に、幕府は永代橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めたが、1807(文化4)年8月19日、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こす。橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し、死傷者は実に1500人を超え、史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について、大田南畝が以下の狂歌を書き残している。
永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼
また、古典落語の「永代橋」という噺も、この落橋事故を元にしている。以下参考に記載の「落語「永代橋」の舞台を歩く」を見られるとよい。
事故後、橋の維持の重要性に気づいた幕府により再架橋されるが、維新を迎えるころには相当痛んでいたようで1897(明治30)年、道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄が主としたトラス橋が現在の場所に架橋された。しかし、関東大震災に被災し、木製の橋床を損傷し大正15年に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された。以下で震災復興橋梁工事写真多数が見れます。
永代橋全架橋写真(土木学会付属土木図書館デジタルアーカイブス)
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/shinsai/kanto/kyouryou/si001_01.html
(画像は、「豊かな生活の象徴?ゴミ」都市に人口が集中すると多くの問題が出る。中でも生活に一番密着しているのがゴミである。東京都のゴミは可燃物はごみ焼却され不燃物は埋立て処分去るようだが・・・。画像は週間朝日百貨「日本の歴史」128より)
参考:
永代橋 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BB%A3%E6%A9%8B
[PDF] 江戸湊 拡大
http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/tokyo/history/pdf/e-do02.pdf
江戸城 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E
私説江戸城物語
http://www.asahi-net.or.jp/~cn3h-kkc/shiro/shiro54.htm
東京の川と橋・隅田川右岸の小河川と掘割・太田道灌時代の江戸城周辺図
http://www.hix05.com/rivers/river03/river031.html
[PDF] 東京都臨海域における埋立地造成の歴史
http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf113-6/p785-801.pdf
江東区の地名の由来
http://www.geocities.jp/pccwm336/sub9.html
防災情報新聞社・周年災害・06年4月
http://www.bousaijoho.or.jp/syunen-saigai/06.syuunen-saigai/06.04.syunen-saigai.htm
町美化・リサイクルの話TOP
http://www.kankyobika.or.jp/kids/hana/index.html
富岡八幡宮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
六地蔵第六番・高野山真言宗 大栄山 永代寺(えいたいじ)
http://bird.zero.ad.jp/~zam77093/rokujizo6ban.htm
落語「永代橋」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/21eitaibasi/eitaibasi.htm
現在東京都の、隅田川の西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区永代一丁目に架かっている橋を永代橋という。
永代橋が架橋されたのは、1698(元禄11 )年8月のことであり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を迎えた記念として架けられたものとされており、現在の位置よりもやや北側、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近→ maps.google 地図)で、当時、大川(隅田川)最下流に架かる橋で、隅田川に4番目に作られた橋(上流から、又架けられた順も千住大橋、両国橋、新大橋、その次が永代橋)であった。以下で現代の永大橋と昔の永大橋の位置が図でわかる。
神田川のページ>隅田川(下流域)>永代橋→ http://mediaport.on.coocan.jp/kandagawa/bridges/eitaibashi.htm
「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある。江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あり、当時としては最大規模の大橋であったらしい。また、当時は大渡し(深川の渡し)のあった場所である。(以下参考に記載の江戸湊 拡大参照)
さて、本題に入るが、1590(天正18)年、徳川家康が関八州(、武蔵国、相模国、上総国、下総国、安房国、上野国、下野国、常陸国の8 国)に移封されたとき、家臣の殆どは居城は、小田原か鎌倉あたりになるものと考えていたらしい。しかし、それが江戸に決定された。当時の江戸は、東方は潮入りの低湿地(現在の大手町あたりから芝にかけての部分は日比谷入江と呼ばれた入江状の海になっており、その先に江戸前島と呼ばれた半島状の土地がぶら下がるように突き出ていた。)であり、西方は水利の便の悪い武蔵野台地で、城も小さく関八州の居城の地としてはおよそ似つかわしいところではなかった。以下参考。東京の川と橋・隅田川右岸の小河川と掘割・太田道灌時代の江戸城周辺図
http://www.hix05.com/rivers/river03/river031.html
だから、家臣の多くがいぶかしく思っても仕方のないことであったが、江戸は船運路さえ確保すれば、関八州の中心であり、関東経済圏をさらには東北経済圏をも一手に掌握できる立地条件にあったといえる。家康は恐らくそうした国土経営的眼力を十分に持ち合わせていたのだろう。
家康は江戸に入府し、大田道潅の築いたとされている江戸城(以下参考に記載の私説江戸城物語も参照)根拠にして、領地の経営に乗り出した。詳しくは以下参考に記載の「東京都臨海域における埋立地造成の歴史」に詳しく書かれているが、先にも延べたように地形的には、要塞として格好であったものの、武家や町民を収容する平坦地は欠如していたことから、先ず住居を確保する「土地づくり」と食を確保する「交易地路の建設」が必須であった。そこで,入府早々、1592(文禄元)年、江戸城周囲の掘割ほりわり=地面を掘って水を通した所。堀)工事や江戸出島を開削した道三堀の堀削土を用いて江戸城東部に広がる日比谷入江北部(現、千代田区丸の内・八重洲付近)を埋立て、続いて1603(慶長8)年から江戸城北部の台地(神田山)を切り崩し、日比谷入江南部一帯(現、中央区日本橋・京橋・新橋・築地付近)を埋め立てている。この土地造成により城下の街並みは次第に整備され、幕府の礎が堅固になった。さらに、慶長年間(1596~1615)、道三堀の東部延長に、関東最大の塩田地帯である行徳(現、千葉県浦安市行徳付近)へとつながる水路を確保するため隅田川と中川を東西方向に直線で結ぶ新川を開削し、生活必需物資の交易路を確保した。この小名木川開削の浚渫(しゅんせつ=港湾・河川などの水深を深くするため、水底をさらって土砂などを取り除くこと。)発生土は、川筋北部の埋立に使用された。この埋立てが、利根川河口域において、江戸幕府が行った最初本格的埋立て事業である。
そして、その後も幕府は大江戸を維持するための食料供給地や食料・建設資材等の貯蔵要地、及び密集した市街地からの人口分散を満たすため、新たな土地確保に迫られるようになる、江戸市中に近い隅田川河口付近を手始めに新たな村が展開されてゆき、先ず1596(慶長元)年頃から隅田川沿いの小名木川北隅に深川村(現江東区常盤・新大橋・高橋付近)、また、1629(寛永6)年には海辺新田(現江東区清澄・白川・扇橋付近)、またその南に深川猟師町(現、江東区佐賀・永代・福住み・深川付近)等の村落が相次いで形成された。引き続き寛永~正保年間(1624~1647)には、小名木川南部の中川右岸意気一帯(現江東区南・北・東砂および扇橋付近)の新田開発が行われている。
このようにして、次第に、新田を開発をし江戸の人口が膨張し始めたことにより、三代将軍家光の時から、ごみの問題が大きな社会問題として取り上げられるようになった。
そこで、1648(慶安元)年に、家光は「ゴミでの街路補修禁止、下水溝へのゴミ投棄禁止、川辺の便所を撤去」。1649(慶安2)年、「ゴミを会所地へ捨てる事を厳禁」しているが、1655(明暦元)年家綱の時世になると、江戸市中のごミ処理令を出した。つまり、江戸市中のごみを江戸城下から離れた隅田川左岸河口の永代島まで船で運び、投棄することを義務付けたのである。それは、それまで、市中のごみは、屋敷内、空き地、川等へ廃棄していたので、人口の急激な増加に伴い、このようなごミ投棄が市中の衛生状態を極度に悪化させるに至ったためである。さらに、1681(延宝9)年綱吉の時世には、江戸市中のごみ捨て場として、永代島新田と砂村新田(現、江東区北砂南部西部付近)を定め、そして、1696年(元禄9)年の今日(3月29日=グレゴリオ暦4月30日)には、ゴミ船で江戸市中の塵芥(じんかい)収集にあたる町人2人に、永代島上総(かずさ)間の海路浚渫(しゅんせつ)を許可、その土砂と塵芥による永代島附近の埋め立てを命じ、土地造成を更に進めたという。
このような、江戸期のごミ処理のあり方については、以下参考に記載の「町美化・リサイクルの話」の江戸のゴミ事情が詳しいので参考にされるとよい。
その方法は、町ごとに芥溜(ごみ集積場)を設置し、ごみ運搬の請負人が、永代島の埋立地へ運ぶというもの。しかも、集めたごみを業者が、燃料芥・肥料芥・金物芥に分けて建築廃材などの燃料芥は銭湯へ、食物廃棄物などの肥料芥は農家へ、金属廃棄物は加治屋へそれぞれ売ることも許されていたそうだ。このように江戸時代の江戸のごミ処理の仕組みは、徹底したリサイクル思考によるものだったようだ。
江戸開府当初のまちづくりとして行われた日比谷入江の埋立ては、北部の掘割の浚渫土、南部の台地を切り崩して行われた。やがて、江戸の人口の増加によって報知できなくなったごミ処理対策として江戸市民が排出する”ごみ”によって造成された新田が江東臨海部に次々と誕生する。埋立て地盤の材料については”ごみ”の他に、江戸期以降一貫して行われてきた水路堀削時の浚渫土砂、火災・震災時の瓦礫等が使用されている。時代が経過し、近年では、経済成長に伴い建設残土や産業廃棄物が用いられている。
そのようなことから、現代では、海洋汚染の問題が発生しているのであるが、それにしても、現代行われているリサイクルの仕組みが、江戸時代に徹底して行われていたとは、驚きだ。当時は、権力者には、絶対に逆らえない時代だから、庶民の側も徹底していただろう。
江戸時代、日本を訪れた外国人は、江戸の町が他の大都市と比べ、 ゴミ一つない町を見て、感心したそうだ。それに、比べ、今の日本はどうなっているのだろうね~。 どこも。ごミだらけの感じがするね~。
この永代島のところにあった永代橋は、幕府財政が窮地に立った1719(享保4)年に、幕府は永代橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めたが、1807(文化4)年8月19日、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こす。橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し、死傷者は実に1500人を超え、史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について、大田南畝が以下の狂歌を書き残している。
永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼
また、古典落語の「永代橋」という噺も、この落橋事故を元にしている。以下参考に記載の「落語「永代橋」の舞台を歩く」を見られるとよい。
事故後、橋の維持の重要性に気づいた幕府により再架橋されるが、維新を迎えるころには相当痛んでいたようで1897(明治30)年、道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄が主としたトラス橋が現在の場所に架橋された。しかし、関東大震災に被災し、木製の橋床を損傷し大正15年に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された。以下で震災復興橋梁工事写真多数が見れます。
永代橋全架橋写真(土木学会付属土木図書館デジタルアーカイブス)
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/shinsai/kanto/kyouryou/si001_01.html
(画像は、「豊かな生活の象徴?ゴミ」都市に人口が集中すると多くの問題が出る。中でも生活に一番密着しているのがゴミである。東京都のゴミは可燃物はごみ焼却され不燃物は埋立て処分去るようだが・・・。画像は週間朝日百貨「日本の歴史」128より)
参考:
永代橋 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BB%A3%E6%A9%8B
[PDF] 江戸湊 拡大
http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/tokyo/history/pdf/e-do02.pdf
江戸城 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E
私説江戸城物語
http://www.asahi-net.or.jp/~cn3h-kkc/shiro/shiro54.htm
東京の川と橋・隅田川右岸の小河川と掘割・太田道灌時代の江戸城周辺図
http://www.hix05.com/rivers/river03/river031.html
[PDF] 東京都臨海域における埋立地造成の歴史
http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf113-6/p785-801.pdf
江東区の地名の由来
http://www.geocities.jp/pccwm336/sub9.html
防災情報新聞社・周年災害・06年4月
http://www.bousaijoho.or.jp/syunen-saigai/06.syuunen-saigai/06.04.syunen-saigai.htm
町美化・リサイクルの話TOP
http://www.kankyobika.or.jp/kids/hana/index.html
富岡八幡宮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
六地蔵第六番・高野山真言宗 大栄山 永代寺(えいたいじ)
http://bird.zero.ad.jp/~zam77093/rokujizo6ban.htm
落語「永代橋」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/21eitaibasi/eitaibasi.htm
大阪市は大阪湾を埋め立てて島を作り、島を結ぶ橋は大きな船が通る時のために可動橋にしました。ところが島は醜悪なデザインのごみ焼却場がやけに目立つ空き地同然の状態です。沢山の税金を使って馬鹿馬鹿しい話です。江戸時代を見習わないとアキマセンね。
やはり、何事をするにも純粋なのでしょうね。
今の人は効率や損得を優先しすぎ、本当にしなければならないことが見えなくなっているのでしょうね。