今日(1月30日)は、「3分間電話の日」
1970(昭和45)年の今日(1月30日)、電話の通話料金が3分で10円になった。
1876(明治9)年に、 アメリカ人のベルが電話を発明 (以下参考の電話の歴史~電話の発明にまつわるお話~参照)。
1877(明治10)年 、アメリカから輸入されたベルの電話機は、さっそく工部省で通話実験された。一方、電信局製機所では、この電話機をもとに模造品を作り、1878(明治11)年 6月、2台の電話機を完成させた。これが、わが国最初の国産電話機である。
1888(明治21)年、東京~熱海間に電話線を架設して通話試験を実施。結果が良かったため、1889(明治22)年1月1日から、東京~熱海間で1年間の一般公衆通話の取り扱い試行を経て、翌1890(明治23)年4月、わが国電話事業に関する最初の法令「電話交換規則」が公布され、東京は4月、横浜は6月に電話交換事務所が設置され、12月16日から交換業務が開始された。これが、日本の電話創業の始りである。この頃、浅草には1階と12階を電話でつないで通話体験ができる「陵雲閣」が建てられた。 (「陵雲閣」のことは、以下参考の「浅草十二階計画」を、参照)
そして、1900(明治33)年に、それまで電信支局や郵便局内の電話所だけにしかなかった公衆電話が、初めて街頭に進出した。まず、東京の上野・新橋の両駅構内の2か所に設けられ、翌10月には、最初の屋外用公衆電話ボックスが京橋のたもとに建てられた。当時公衆電話は「自働電話」と呼ばれていたが、これはアメリカの街頭電話に表示されていた「オートマティックテレホン」をそのまま直訳したものといわれている。先ず、交換を呼び出して、相手の電話番号を告げ、料金を入れるように指示されたら、15銭分の料金を入れる。交換手は、5銭が入ったときの「チーン」や10銭の時の「ボーン」という音を確認してから相手につないだそうだ。翌1901(明治34)年、には、荒っぽい応対ぶりで評判の悪かった男子交換手が廃止され、以来、電話交換手は女性の代表的な職業になったという。
明治末の登場した赤塗り六角形ボックスは、1911(明治44)年には全国で200か所に建てられ、自働電話は庶民の電話として活躍した。
ところが、1923(大正12)年の関東大震災で、自働電話、また、一般電話ともに壊滅的な被害を受けた。この通信状況を復興させるにあたり、交換手のいらない自動交換方式の採用が検討され、ダイヤル式電話が、1925(大正14)年10月1日に登場した。同時に、これと紛らわしいため、「自働電話」は、このとき「公衆電話」と改称された。
第二次世界大戦によって、戦災都市の街角からは、公衆電話のボックスがすっかり姿を消した。たまにあっても見る影もないアバラ屋になりはて、通信不能が大部分となった。逓信省が公衆電話の復旧に手がつかないのは、回線の普通、料金用貨幣の不足など色々な理由があったが、これらよりも、第1の原因は以外にも大衆の「道徳心の低下」だったという。まず、戦災地では、ボックスがマキにされる。ガラスや電球ははずされる、電話機は盗まれる、料金箱は持ってゆかれるという始末であった。戦災地のボックスは9割近くなんらかの被害を受け、生き残っているものも破壊、盗難が相次いだ。そこで、逓信省が考えている復旧対策は、①ボックスはさしあたり、駅付近、デパート、病院、劇場、など利用率が高くて監視の目の届くところから儲ける。破壊に備えて、ジュラルミンせいのものを試作中。②タバコや薬局、書店に「簡易電話所」を置き、そこを優先的に復旧工事をするなどがあげられている。(1947=昭和22年1月1日朝日新聞※週刊朝日クロニクル「週刊20世紀」より)。
そして、1953年1月、深刻な電話不足解消のために登場したのが公衆電話機の店頭設置であった。ひとつは「簡易委託公衆電話」であり、もう一つは「委託公衆電話」であった。これらの電話機は普通の4号自動式卓上電話機が使われたが、1953(昭和28)年10月から委託公衆電話は、よく目立つ赤色にかえられ、これが「赤電話」の始まりとなった。(以下参考の「電話機博物館」の赤色公衆電話参照。)
又、1952(昭和27)年から10円硬貨が流通しはじめたため、翌年1月、ボタン付き硬貨後納式の公衆電話機として4号自動式ボックス公衆電話機が採用された。相手が電話に出てからボタンを押し10秒以内に10円硬貨を投入していた。これが青電話機の第1号となった。
しかし、「赤電話」は一般の黒電話を赤くしただけで、料金投入式でないため、店の人にいちいち頼まなければならないし、通話料金をめぐってトラブルも絶えなかった。しかし、公衆電話のボックスの前は、何時も行列でイライラさせられた。又、後納式の場合、硬貨投入が遅れると片通話のまま相手が切ってしまい、さらに相手が出たことによって通話したとみなし、局の度数計が動作し登算されるなどの欠点があった。
そこで、これまでの料金後納式にかえ、1955(昭和30)年12月、料金前納式による5号自動式卓上公衆電話機、5号自動式ボックス公衆電話機が登場した。この方式は、話し中などの場合でも、料金は収納されず、送受話機を戻せば、フックレバーとの連動により料金は返却される仕組みになっている。それまでとは格段に使用しやすくなり、急速に普及。1960年 には 全国の公衆電話は10万台を突破。そして、この新しい電話の設置以後、公衆電話機はすべてこの料金前納式となった。
そして、1970(昭和45)年の今日(1月30日)、電話の通話料金が3分で10円になった。この日から、東京都心部を皮きりに順次公衆電話から市内通話は「3分打ち切り」が開始されたが、これは、公衆電話の長話を防止するために行なわれたものであったという。
思い起こせば、この頃、よく、電話をしていて、話の途中で、電話が途切れてしまい困った事を思いだす。個人的な話ならよいが、会社などへの仕事で使用した場合など、3分間では、終わらない事が多いものね~。これは、1972(昭和47)年から実施された「広域時分制」によって従来の市内通話も3分ごとに10円の料金が課金されることになり、通話した時間に応じて硬貨を収納する機能を付加した大形電話機が登場することになり解決した。その後、1982(昭和57)年には、キャッシュレス時代に対応して、硬貨が全くいらない、プリペイドカード(テレホンカード)が誕生して以降、これらを利用できる公衆電話が設置され、公衆電話の利用が非常に、便利になったのであるが、1990年代後半から携帯電話やPHSの普及により公衆電話の利用者が減少し、街から、公衆電話が次々と消えていった。
今では、携帯電話を持たないものにとっては、非常に不便な時代となった。(公衆電話の歴史的なことは、主として、以下参考の「NTT・DIGITAL・MUSEUM」の電信・電話の歴史年表を参照した)
又、テレホンカード全盛の頃は、蒐集家が「カードコレクター」と呼ばれ、稀少価値の高いカードの蒐集に力を入れていた。私なども、結構な枚数を持っているが、公衆電話の減少により、使用もできず困っている。家の電話の通話料の支払いなどにテレホンカードを充当できるようだが、私などの家では、普通電話も相手からかかってくることはあってもかける事は少なく、基本料以外はしれており、使い切れない。(基本料には使用できないため。)
普通は、公衆電話を使用するために発行したものを、公衆電話を極端に少なくして、使用できなくするのであれば、発行したテレホンカードを、手数料は差し引いたとしても、買い戻すべきではないか。又、NTTの携帯電話部門は、DOCOMOなどという別会社にしているが、通話料の支払いと言うなら、DOCOMOの支払いにも使えるようにすべきだろう。
大体、普通の者にとって、通常電話と携帯電話の2通りの電話など必要ないのである。日本電信電話公社からNTTなどと、名前だけ変えて民間会社になったと言っても、考え方は、全く、親方日の丸的だと思うのだが、皆さんは、どう思われますか。
(画像は、1926年、東京と横浜で自動式電話交換機を導入。その電話のかけ方を知らせるポスター。「ジージーの音はお話中、ツーツーの音は呼出中」と説明している。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
電信・電話の歴史年表/NTT・DIGITAL・MUSEUM
http://park.org/Japan/NTT/DM/html_ht/HT_idx_j.html
公衆電話 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%A1%86%E9%9B%BB%E8%A9%B1
電話 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E8%A9%B1
電話の歴史~電話の発明にまつわるお話~
http://asaseno.cool.ne.jp/history.htm
浅草十二階計画
http://www.12kai.com/
電話機博物館
http://www.naonao.jp/html/museum/index.htm
NTTグループホームページ
http://www.ntt.co.jp/index_f.html
1970(昭和45)年の今日(1月30日)、電話の通話料金が3分で10円になった。
1876(明治9)年に、 アメリカ人のベルが電話を発明 (以下参考の電話の歴史~電話の発明にまつわるお話~参照)。
1877(明治10)年 、アメリカから輸入されたベルの電話機は、さっそく工部省で通話実験された。一方、電信局製機所では、この電話機をもとに模造品を作り、1878(明治11)年 6月、2台の電話機を完成させた。これが、わが国最初の国産電話機である。
1888(明治21)年、東京~熱海間に電話線を架設して通話試験を実施。結果が良かったため、1889(明治22)年1月1日から、東京~熱海間で1年間の一般公衆通話の取り扱い試行を経て、翌1890(明治23)年4月、わが国電話事業に関する最初の法令「電話交換規則」が公布され、東京は4月、横浜は6月に電話交換事務所が設置され、12月16日から交換業務が開始された。これが、日本の電話創業の始りである。この頃、浅草には1階と12階を電話でつないで通話体験ができる「陵雲閣」が建てられた。 (「陵雲閣」のことは、以下参考の「浅草十二階計画」を、参照)
そして、1900(明治33)年に、それまで電信支局や郵便局内の電話所だけにしかなかった公衆電話が、初めて街頭に進出した。まず、東京の上野・新橋の両駅構内の2か所に設けられ、翌10月には、最初の屋外用公衆電話ボックスが京橋のたもとに建てられた。当時公衆電話は「自働電話」と呼ばれていたが、これはアメリカの街頭電話に表示されていた「オートマティックテレホン」をそのまま直訳したものといわれている。先ず、交換を呼び出して、相手の電話番号を告げ、料金を入れるように指示されたら、15銭分の料金を入れる。交換手は、5銭が入ったときの「チーン」や10銭の時の「ボーン」という音を確認してから相手につないだそうだ。翌1901(明治34)年、には、荒っぽい応対ぶりで評判の悪かった男子交換手が廃止され、以来、電話交換手は女性の代表的な職業になったという。
明治末の登場した赤塗り六角形ボックスは、1911(明治44)年には全国で200か所に建てられ、自働電話は庶民の電話として活躍した。
ところが、1923(大正12)年の関東大震災で、自働電話、また、一般電話ともに壊滅的な被害を受けた。この通信状況を復興させるにあたり、交換手のいらない自動交換方式の採用が検討され、ダイヤル式電話が、1925(大正14)年10月1日に登場した。同時に、これと紛らわしいため、「自働電話」は、このとき「公衆電話」と改称された。
第二次世界大戦によって、戦災都市の街角からは、公衆電話のボックスがすっかり姿を消した。たまにあっても見る影もないアバラ屋になりはて、通信不能が大部分となった。逓信省が公衆電話の復旧に手がつかないのは、回線の普通、料金用貨幣の不足など色々な理由があったが、これらよりも、第1の原因は以外にも大衆の「道徳心の低下」だったという。まず、戦災地では、ボックスがマキにされる。ガラスや電球ははずされる、電話機は盗まれる、料金箱は持ってゆかれるという始末であった。戦災地のボックスは9割近くなんらかの被害を受け、生き残っているものも破壊、盗難が相次いだ。そこで、逓信省が考えている復旧対策は、①ボックスはさしあたり、駅付近、デパート、病院、劇場、など利用率が高くて監視の目の届くところから儲ける。破壊に備えて、ジュラルミンせいのものを試作中。②タバコや薬局、書店に「簡易電話所」を置き、そこを優先的に復旧工事をするなどがあげられている。(1947=昭和22年1月1日朝日新聞※週刊朝日クロニクル「週刊20世紀」より)。
そして、1953年1月、深刻な電話不足解消のために登場したのが公衆電話機の店頭設置であった。ひとつは「簡易委託公衆電話」であり、もう一つは「委託公衆電話」であった。これらの電話機は普通の4号自動式卓上電話機が使われたが、1953(昭和28)年10月から委託公衆電話は、よく目立つ赤色にかえられ、これが「赤電話」の始まりとなった。(以下参考の「電話機博物館」の赤色公衆電話参照。)
又、1952(昭和27)年から10円硬貨が流通しはじめたため、翌年1月、ボタン付き硬貨後納式の公衆電話機として4号自動式ボックス公衆電話機が採用された。相手が電話に出てからボタンを押し10秒以内に10円硬貨を投入していた。これが青電話機の第1号となった。
しかし、「赤電話」は一般の黒電話を赤くしただけで、料金投入式でないため、店の人にいちいち頼まなければならないし、通話料金をめぐってトラブルも絶えなかった。しかし、公衆電話のボックスの前は、何時も行列でイライラさせられた。又、後納式の場合、硬貨投入が遅れると片通話のまま相手が切ってしまい、さらに相手が出たことによって通話したとみなし、局の度数計が動作し登算されるなどの欠点があった。
そこで、これまでの料金後納式にかえ、1955(昭和30)年12月、料金前納式による5号自動式卓上公衆電話機、5号自動式ボックス公衆電話機が登場した。この方式は、話し中などの場合でも、料金は収納されず、送受話機を戻せば、フックレバーとの連動により料金は返却される仕組みになっている。それまでとは格段に使用しやすくなり、急速に普及。1960年 には 全国の公衆電話は10万台を突破。そして、この新しい電話の設置以後、公衆電話機はすべてこの料金前納式となった。
そして、1970(昭和45)年の今日(1月30日)、電話の通話料金が3分で10円になった。この日から、東京都心部を皮きりに順次公衆電話から市内通話は「3分打ち切り」が開始されたが、これは、公衆電話の長話を防止するために行なわれたものであったという。
思い起こせば、この頃、よく、電話をしていて、話の途中で、電話が途切れてしまい困った事を思いだす。個人的な話ならよいが、会社などへの仕事で使用した場合など、3分間では、終わらない事が多いものね~。これは、1972(昭和47)年から実施された「広域時分制」によって従来の市内通話も3分ごとに10円の料金が課金されることになり、通話した時間に応じて硬貨を収納する機能を付加した大形電話機が登場することになり解決した。その後、1982(昭和57)年には、キャッシュレス時代に対応して、硬貨が全くいらない、プリペイドカード(テレホンカード)が誕生して以降、これらを利用できる公衆電話が設置され、公衆電話の利用が非常に、便利になったのであるが、1990年代後半から携帯電話やPHSの普及により公衆電話の利用者が減少し、街から、公衆電話が次々と消えていった。
今では、携帯電話を持たないものにとっては、非常に不便な時代となった。(公衆電話の歴史的なことは、主として、以下参考の「NTT・DIGITAL・MUSEUM」の電信・電話の歴史年表を参照した)
又、テレホンカード全盛の頃は、蒐集家が「カードコレクター」と呼ばれ、稀少価値の高いカードの蒐集に力を入れていた。私なども、結構な枚数を持っているが、公衆電話の減少により、使用もできず困っている。家の電話の通話料の支払いなどにテレホンカードを充当できるようだが、私などの家では、普通電話も相手からかかってくることはあってもかける事は少なく、基本料以外はしれており、使い切れない。(基本料には使用できないため。)
普通は、公衆電話を使用するために発行したものを、公衆電話を極端に少なくして、使用できなくするのであれば、発行したテレホンカードを、手数料は差し引いたとしても、買い戻すべきではないか。又、NTTの携帯電話部門は、DOCOMOなどという別会社にしているが、通話料の支払いと言うなら、DOCOMOの支払いにも使えるようにすべきだろう。
大体、普通の者にとって、通常電話と携帯電話の2通りの電話など必要ないのである。日本電信電話公社からNTTなどと、名前だけ変えて民間会社になったと言っても、考え方は、全く、親方日の丸的だと思うのだが、皆さんは、どう思われますか。
(画像は、1926年、東京と横浜で自動式電話交換機を導入。その電話のかけ方を知らせるポスター。「ジージーの音はお話中、ツーツーの音は呼出中」と説明している。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
電信・電話の歴史年表/NTT・DIGITAL・MUSEUM
http://park.org/Japan/NTT/DM/html_ht/HT_idx_j.html
公衆電話 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%A1%86%E9%9B%BB%E8%A9%B1
電話 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E8%A9%B1
電話の歴史~電話の発明にまつわるお話~
http://asaseno.cool.ne.jp/history.htm
浅草十二階計画
http://www.12kai.com/
電話機博物館
http://www.naonao.jp/html/museum/index.htm
NTTグループホームページ
http://www.ntt.co.jp/index_f.html
NTT西日本の副社長(だったと思います)が我々の協会の副会長でした。東大でのエリートでしたが完全に官僚でしたね。当時、近鉄の専務も副会長でしたがこちらは京大出でしたが実に人間的な人で同じ副会長やのにエライ違いでした。