日本記念日協会の今日の記念日を見ると5月18日の今日は「国際親善デー」とある。
1899(明治32)年の今日、オランダのハーグで、ロシア皇帝ニコライ2世の主唱により26カ国が参加した第1回平和会議が開催。国際紛争平和的処理条約が結ばれたのを記念して、この日を「国際親善デー」とした。日本では1931年から実施され、国際交流を通して平和を実現するという目的のもと、さまざまな催しが行われている。 ・・・とあった。
しかし、どのようなことが行われているのか蔵書の朝日クロニクル「週刊20世紀」や「毎日ムック・戦後50年などを見ても特に何も行事があったようなことは掲載されていない。一体誰が?どんな機関が記念日登録したのであろうか?先ず、ロシア皇帝ニコライ2世と第1回平和会議について、見てみよう。
ロシア帝国皇帝ニコライ2世は1894年11月1日、父アレクサンドル3世の突然の死去にともない、26歳でロシア皇帝に即位した。彼は、民主主義を否定するコンスタンチン・ポベドノスツェフの教育に多大な影響を受けていた。ロシア帝国はまだ産業革命の以前にあったが、絶対君主制に反対する勢力は根強く、この反体制運動に対し彼は常に弾圧策で臨んだ。彼は初め、父の政策を受け継いで蔵相セルゲイ・ヴィッテを重用した。ヴィッテは1892年に運輸大臣、翌年には蔵相に就任(1903年まで)し、国家が市場に積極的に介入する経済政策を採用。フランス資本を中心とする外資の積極導入を図るなどし、工業化を推進してロシア経済の近代化につとめた。なかでも鉄道網の拡大には熱心で、シベリア鉄道における彼の功績は大きかった。ニコライ2世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、1891年にフランスと結んだ協力関係を1894年露仏同盟として発展させるとともに、オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・ヨーゼフ1世や従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも友好関係を保ち、万国平和会議の開催をみずから提唱した。万国平和会議は、オランダのハーグで2度開かれ、第1回会議は1899年に、26ヵ国が参加して開催された。この会議ではハーグ陸戦条約が採択され、国際仲裁裁判を行う常設の機関である常設仲裁裁判所の設置などに関する条約(国際紛争平和的処理条約)も締結された。ダムダム弾使用禁止も決められた。
当時の日本は幕末の動乱をへて、江戸から明治(1868年=明治元年)の時代へと移る。薩長倒幕派を主力とする維新政府は天皇が国家の根軸であり、権力の主体であることを説き、万邦に対峙しうる独立国日本に基盤を固めて行く。そして、明治2年には東京へ実質的な遷都をし、ヨーロッパの諸制度に学び改革を進めてゆく。そんな中で征韓論で下野した西郷隆盛との西南戦争で反政府士族を一掃、西郷自刃によって1877(明治10年)年9月内戦が終了し、万国に対峙しうる政府の起立を目指す。1881(明治14)年の明治14年の政変で基盤を固めなおした政府は、内閣制度を発足させ、1889(明治22)年2月11日には大日本帝国憲法を発布して近代化を実現させた。当時、欧米列強にとっては、他国領土の切り取りは思うがままであった。そんな中で、重工業の発展、富国強兵への道は止むを得ない面もあった。そんな中、1884(明治17)年12月李氏朝鮮の京城でクーデター。日本と同じように国王を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立を狙う、親日派の改革派が挙兵するが事件は清の介入で失敗。金玉均が日本に亡命(甲申事変参照)。翌1885(明治18)年4月清国に特派の伊藤博文全権大使が中国の天津において天津条約を調印。日本、清国双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐留の禁止、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などが取り決められた。これから10年後、この事前通告に基づき清に続いて日本が朝鮮に派兵し、日清戦争(1894年7月~1895年4月)の火蓋が切られることとなる。この戦争で勝利した日本は日清戦争の講和条約である下関条約で清から割譲させた遼東半島をめぐって、ロシアはドイツ・フランスと手を組み日本に圧力をかけ、遼東半島獲得を日本に断念させた。
ロシアは極東進出のためにどうしても不凍港が必要であり、南下政策を取り満州における権益拡大をはかっていた。ロシアは遼東半島を日本に奪われることで南満州の海への出口を失うことを恐れ、日本の極東進出阻止を目論んだのである。当初、日本が朝鮮の独立を尊重するならば日本が中国を占領してもよいと考えたが、ヴィッテは極東に艦隊を派遣するなど干渉に乗り出した。そして、同じく中国の分割に関心をもつイギリス、フランス、ドイツの3国に提唱し、仏・独の賛成を得て3国による勧告を行い、日本に遼東半島の返還をさせたのである。(三国干渉)。
この三国干渉は、近代日本が外交的にうけた最大の屈辱であった。日本の世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無かった。この苦い経験が、早く一等国の仲間入りをし、この屈辱をなんとしてでもはらそうと考え、富国強兵に拍車をかけることとなった。「臥薪嘗胆」をスローガンに耐え忍び、やがて来るであろうロシアとの戦いに備え国力を蓄えたのである。
1902(明治35)年、日英同盟が締結され、日本は外交的孤立から脱出。しかし、1900(明治33)年に起きた義和団の乱(北清事変ともいう)以来、ロシアは東清鉄道(東支鉄道)と長春と旅順を結ぶ南満州支線(後の南満州鉄道)を完成させ、軍隊を満州東三省に永駐させる形勢を示していた。
そこで発生したのが龍岩浦事件である(以下参考に記載の「第一次大戦」の龍岩浦事件参照)。この事件に対応して、無隣庵会議(以下参考に記載の「第一次大戦」の無隣庵会議参照〕が開催され、ロシアが満韓交換論(以下参考に記載の「近代日本戦争史概説」の日露戦争 概説1参照)に応じることなく、朝鮮に軍事的地歩を占めるとすれば、日本は開戦を辞さないことが決められた。
そして、日露戦争(1904年〔明治37年〕2月6日 - 1905年〔明治38年〕9月5日〕)が勃発。ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大。1905(明治38)年1月9日には血の日曜日事件が起きる。これは、日本軍の明石元二郎による内部工作が発端となったといわれている。
工業化を推進し、ロシア経済の近代化につとめたヴィッテ自身は、専制政治を志向してはいたが、一方で現実的な保守主義者でもあり、故にあくまで王権神授説を奉ずるニコライ2世やその側近と齟齬(そご)をきたしていた。ニコライはそんなヴィッテを退け、ベゾブラーゾフという軍人を取り立てて極東政策を推進した。首相となっていたヴィッテは、ニコライ2世らが日本との戦争によって国内の不満をそらそうとしたことに対し、反対した。しかし、政敵であった内相プレーヴェや強硬派のベゾブラーゾフらの策動によってこの主張は退けられ日露戦争を招いた。
日本は、日本海海戦で勝利したとはいえ、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていた。日露戦争が実質的に日本の勝利に終わると、ヴィッテは、講和のためアメリカのポーツマスにロシア側全権として赴き、交渉に当たった。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905(明治38)年10月に締結されたポーツマス条約により正式に講和した(日露講和条約の締結)。この時、ヴィッテは外交官としても手腕を発揮して日本側を翻弄、賠償を最小限に留めることに成功している。
万国平和会議はオランダのハーグで2度開かれている。1度目は先に書いたが、第2回会議はジョン・ヘイアメリカ合衆国国務長官が提唱して1907(明治40)年に開かれた。ハーグ陸戦協定が改定され、中立法規なども決められた。
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1899(明治32)年の今日、オランダのハーグで、ロシア皇帝ニコライ2世の主唱により26カ国が参加した第1回平和会議が開催。国際紛争平和的処理条約が結ばれたのを記念して、この日を「国際親善デー」とした。日本では1931年から実施され、国際交流を通して平和を実現するという目的のもと、さまざまな催しが行われている。 ・・・とあった。
しかし、どのようなことが行われているのか蔵書の朝日クロニクル「週刊20世紀」や「毎日ムック・戦後50年などを見ても特に何も行事があったようなことは掲載されていない。一体誰が?どんな機関が記念日登録したのであろうか?先ず、ロシア皇帝ニコライ2世と第1回平和会議について、見てみよう。
ロシア帝国皇帝ニコライ2世は1894年11月1日、父アレクサンドル3世の突然の死去にともない、26歳でロシア皇帝に即位した。彼は、民主主義を否定するコンスタンチン・ポベドノスツェフの教育に多大な影響を受けていた。ロシア帝国はまだ産業革命の以前にあったが、絶対君主制に反対する勢力は根強く、この反体制運動に対し彼は常に弾圧策で臨んだ。彼は初め、父の政策を受け継いで蔵相セルゲイ・ヴィッテを重用した。ヴィッテは1892年に運輸大臣、翌年には蔵相に就任(1903年まで)し、国家が市場に積極的に介入する経済政策を採用。フランス資本を中心とする外資の積極導入を図るなどし、工業化を推進してロシア経済の近代化につとめた。なかでも鉄道網の拡大には熱心で、シベリア鉄道における彼の功績は大きかった。ニコライ2世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、1891年にフランスと結んだ協力関係を1894年露仏同盟として発展させるとともに、オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・ヨーゼフ1世や従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも友好関係を保ち、万国平和会議の開催をみずから提唱した。万国平和会議は、オランダのハーグで2度開かれ、第1回会議は1899年に、26ヵ国が参加して開催された。この会議ではハーグ陸戦条約が採択され、国際仲裁裁判を行う常設の機関である常設仲裁裁判所の設置などに関する条約(国際紛争平和的処理条約)も締結された。ダムダム弾使用禁止も決められた。
当時の日本は幕末の動乱をへて、江戸から明治(1868年=明治元年)の時代へと移る。薩長倒幕派を主力とする維新政府は天皇が国家の根軸であり、権力の主体であることを説き、万邦に対峙しうる独立国日本に基盤を固めて行く。そして、明治2年には東京へ実質的な遷都をし、ヨーロッパの諸制度に学び改革を進めてゆく。そんな中で征韓論で下野した西郷隆盛との西南戦争で反政府士族を一掃、西郷自刃によって1877(明治10年)年9月内戦が終了し、万国に対峙しうる政府の起立を目指す。1881(明治14)年の明治14年の政変で基盤を固めなおした政府は、内閣制度を発足させ、1889(明治22)年2月11日には大日本帝国憲法を発布して近代化を実現させた。当時、欧米列強にとっては、他国領土の切り取りは思うがままであった。そんな中で、重工業の発展、富国強兵への道は止むを得ない面もあった。そんな中、1884(明治17)年12月李氏朝鮮の京城でクーデター。日本と同じように国王を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立を狙う、親日派の改革派が挙兵するが事件は清の介入で失敗。金玉均が日本に亡命(甲申事変参照)。翌1885(明治18)年4月清国に特派の伊藤博文全権大使が中国の天津において天津条約を調印。日本、清国双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐留の禁止、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などが取り決められた。これから10年後、この事前通告に基づき清に続いて日本が朝鮮に派兵し、日清戦争(1894年7月~1895年4月)の火蓋が切られることとなる。この戦争で勝利した日本は日清戦争の講和条約である下関条約で清から割譲させた遼東半島をめぐって、ロシアはドイツ・フランスと手を組み日本に圧力をかけ、遼東半島獲得を日本に断念させた。
ロシアは極東進出のためにどうしても不凍港が必要であり、南下政策を取り満州における権益拡大をはかっていた。ロシアは遼東半島を日本に奪われることで南満州の海への出口を失うことを恐れ、日本の極東進出阻止を目論んだのである。当初、日本が朝鮮の独立を尊重するならば日本が中国を占領してもよいと考えたが、ヴィッテは極東に艦隊を派遣するなど干渉に乗り出した。そして、同じく中国の分割に関心をもつイギリス、フランス、ドイツの3国に提唱し、仏・独の賛成を得て3国による勧告を行い、日本に遼東半島の返還をさせたのである。(三国干渉)。
この三国干渉は、近代日本が外交的にうけた最大の屈辱であった。日本の世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無かった。この苦い経験が、早く一等国の仲間入りをし、この屈辱をなんとしてでもはらそうと考え、富国強兵に拍車をかけることとなった。「臥薪嘗胆」をスローガンに耐え忍び、やがて来るであろうロシアとの戦いに備え国力を蓄えたのである。
1902(明治35)年、日英同盟が締結され、日本は外交的孤立から脱出。しかし、1900(明治33)年に起きた義和団の乱(北清事変ともいう)以来、ロシアは東清鉄道(東支鉄道)と長春と旅順を結ぶ南満州支線(後の南満州鉄道)を完成させ、軍隊を満州東三省に永駐させる形勢を示していた。
そこで発生したのが龍岩浦事件である(以下参考に記載の「第一次大戦」の龍岩浦事件参照)。この事件に対応して、無隣庵会議(以下参考に記載の「第一次大戦」の無隣庵会議参照〕が開催され、ロシアが満韓交換論(以下参考に記載の「近代日本戦争史概説」の日露戦争 概説1参照)に応じることなく、朝鮮に軍事的地歩を占めるとすれば、日本は開戦を辞さないことが決められた。
そして、日露戦争(1904年〔明治37年〕2月6日 - 1905年〔明治38年〕9月5日〕)が勃発。ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大。1905(明治38)年1月9日には血の日曜日事件が起きる。これは、日本軍の明石元二郎による内部工作が発端となったといわれている。
工業化を推進し、ロシア経済の近代化につとめたヴィッテ自身は、専制政治を志向してはいたが、一方で現実的な保守主義者でもあり、故にあくまで王権神授説を奉ずるニコライ2世やその側近と齟齬(そご)をきたしていた。ニコライはそんなヴィッテを退け、ベゾブラーゾフという軍人を取り立てて極東政策を推進した。首相となっていたヴィッテは、ニコライ2世らが日本との戦争によって国内の不満をそらそうとしたことに対し、反対した。しかし、政敵であった内相プレーヴェや強硬派のベゾブラーゾフらの策動によってこの主張は退けられ日露戦争を招いた。
日本は、日本海海戦で勝利したとはいえ、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていた。日露戦争が実質的に日本の勝利に終わると、ヴィッテは、講和のためアメリカのポーツマスにロシア側全権として赴き、交渉に当たった。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905(明治38)年10月に締結されたポーツマス条約により正式に講和した(日露講和条約の締結)。この時、ヴィッテは外交官としても手腕を発揮して日本側を翻弄、賠償を最小限に留めることに成功している。
万国平和会議はオランダのハーグで2度開かれている。1度目は先に書いたが、第2回会議はジョン・ヘイアメリカ合衆国国務長官が提唱して1907(明治40)年に開かれた。ハーグ陸戦協定が改定され、中立法規なども決められた。
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