今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

邂逅忌(小説家・椎名麟三の忌日)【Ⅰ】

2010-03-28 | 人物
今日は、「邂逅忌」。小説家・椎名麟三(しいな りんぞう)の1973(昭和48)年の忌日である。
長編作品『邂逅(かいこう)』から邂逅忌と呼ばれているようであり、この日、椎名麟三を偲ぶ会主催の追悼会が行われているようだ。
椎名 麟三、本名は、大坪 昇(おおつぼ のぼる)は、1911(明治44)年10月1日、兵庫県の現姫路市書写東坂に出生し、家庭の事情から姫路中学(現・兵庫県立姫路西高等学校)を中退後、1926(昭和元)年15歳のときに、大阪の父のもとに行くが直ぐに家出をし、果物屋、出前持ち、コック見習いなどの職を転々とした後、宇治川電気電鉄部(現・山陽電鉄)に入社、車掌時代に労働運動に参加。日本共産党員として活動。1931(昭和6)年、共産党員が一斉摘発され、政治思想犯として逮捕されるが、独房で、差し入れられた1冊の本ニーチェの『この人を見よ』を読み、これに影響を受け、転向上申書を書き、文学を志すようになったという。1934(昭和9)年23歳で、結婚した後、1938(昭和13)年 、 新潟鉄工所社員となるが、1941(昭和16)年12月には日本も第二次大戦へ参戦するようになり、戦車が国産されるようになると、1941(昭和16)年には、同鉄工所でも戦車製造をはじめたことかから、これに嫌悪し退職。以後、文学に専念することになる。戦後、(1945年)に出版社「創美社」を経営(以下参考の※:「中野書店 古本倶楽部」参照)、翌年、新日本文学会へ参加。1947(昭和22)年に『深夜の酒宴』を発表し、作家としてデビューした。その翌・1948(昭和23)年、 安部公房らと芸術を改革しようと「夜の会」にも参加している。
ドストエフスキーとの出会いからイエス・キリストの存在を知り、1950(昭和25)年、キリスト教へ入信。洗礼を受け、以後キリスト教作家として活動。自由や愛などのテーマを新しい感覚で描いた戦後文学の代表者であり、第一次戦後派作家と呼ばれている。主な作品には、『永遠なる序章』『避逅』『自由の彼方で』『美しい女』などがあり、1956(昭和31)年には「美しい女」その他の作品活動により、第6回芸術選奨文部大臣賞を受賞している。演劇、映画、ラジオドラマのシナリオなども手がけており、椎名がシナリオを書いた1953(昭和28)年公開映画「煙突の見える場所」は、ベルリン映画祭で国際平和賞を受賞している。
この映画は、私も見たので、以前このブログ11月11日「煙突の日」の中でも採り上げたが、東京の下町・北千住の“お化け煙突”と呼ばれる煙突が見える界隈の安い貸家に住む夫婦は2階を2人の独り者に貸している。映画は、これらの人々の日常を描いたヒューマン・ドラマで、非常にコミカルで面白い映画だったが、この映画の始まりから最後まで、見る場所によって1本にも2本にも、又3本4本にもみえる”おばけ煙突”が映画のバックに出てくる。まるで、”おばけ煙突”がいつも、この人達をおかしげに見下している感じである。タイトルに「煙突の見える場所」とあるように、この映画の主役は、出演者よりも、むしろ、この“お化け煙突”であるともいえるかもしれないが、これは、かつて隅田川沿いに存在した東京電力の火力発電所「千住火力発電所」をモデルにしたものだ。
私は、映画「煙突の見える場所」意外、正直なところ、彼の他の作品は読んでいないのでよく知らない。彼の作品については、以下参考の※:「椎名麟三 - ウラ・アオゾラブンコ」で簡単に紹介されているので興味のある人は覗いてみると良い。
椎名の作品のことをよく知らないのに、今日、「邂逅忌」を取り上げたのは、今日の忌日の名の元となった本の名『邂逅』に興味を持ったことと、椎名が勤めていた山陽電鉄は、私が今の家に引っ越してくる前に住んでいた家の時代、通勤や通学などでよく利用していたことがあること。又、椎名が私の地元である神戸に本社にある山陽電鉄に勤めていたことや、同本社前には、椎名の碑文(石碑)があるのを知っていたからである。
冒頭掲載の画像:左が、山陽電鉄本社前にある碑文を撮ってきたものである。そこには、
「考えて見れば人間の自由が僕の一生の課題であるらしい」(「自由の彼方で」の後書きより)と刻まれている。
同碑文の横面(画像:右)には、“宇治川電気電鉄部(現山陽電鉄)に入社後、2年余り、車掌として勤務していたこと。後に上京して、『深夜酒宴』や自伝小説『自由の彼方』又『美しい女』などを発表したが、代表作であるこれらの作品は、山陽電鉄に勤務していたころの生活を背景に書かれたもので、このころより、西代(神戸市長田区)、須磨、姫路に想いをよせた多くの秀作を世に問う”た旨。と、この石碑が1985(昭和60)年3月に造られたことなどが記されていた。
1968(昭和43)年、神戸高速鉄道が開業。阪急電鉄阪神電鉄・山陽電鉄が東西線への乗り入れを通じて相互直通運転を開始した。この当時、旧山陽電鉄は、地下の長田-西代間で地上に出た。この当時、西代駅は地上にあった。今思い起こせば、懐かしい光景である。
1995(平成7)年6月の阪神・淡路大震災復旧時に、震災前から工事を進めていた西代から東須磨間の山陽電鉄としての地下新線に切替えられ、西代駅も、今は地下駅となっており、山陽電鉄本線の起点駅、神戸高速鉄道東西線の終点駅となっている。現在、山陽電鉄本社ビルがある位置には、以前、兵庫電気軌道開業(1907年=明治40年)時からの車庫である、西代車庫が存在していた。車庫機能は、1970年代後半現山陽電車の地下から初の地上駅となる東須磨駅に移転している。現在本社ビル前にある椎名の文学碑も確か地上にあった西代駅の近く、車が多く往来する交差点あたりにあったように記憶している。
椎名の生い立ちや彼が山陽電鉄に勤務していたことなどと深くかかわりのあった事などは、以下参考の※:「神戸新聞読者クラブ「自由を求めて 兵庫と椎名麟三」」を見ればよくわかる。
椎名は長い間、出身地を尋ねられると、「私に故郷はない」 ・・と答えていたという。彼の母親は結婚前に実家の納屋で彼を生んだ3日後に、彼を抱き、鉄道自殺を図るが、未遂に終ったといい、椎名文学の暗さや自由へのあこがれは、そんな、不幸な出生が根底にあるという。両親は不仲だったようで、幼少のときから父方、又母方のどちらかで、余り愛情を持って育てられることなく15歳のときに家出をし、喰うために色んな職業を転々とするが、中華料理店など封建的な職場で暴力も受け、自伝小説「自由の彼方で」の描写にもあるように殴られたときよろめき、わざと窓ガラスに飛び込み、相手が流血におののいて逃げた。・・・といったような経験もしていることから、なんとしても“今の生活から自由になりたい一心”で、ロシア革命から10年が経過して、日本にも社会主義の波が押し寄せ、思想的な著作が多く売られていたときでもあり、・・・そんな本を乱読、次第に左翼的思考へ傾倒していったようだ。
ある日、神戸の須磨の浦で女が入水自殺未遂したとの新聞記事が目にとまり、それが、母親ではないかと直感し須磨署に駆け付けると、そこにはやつれた母がいたという。 その縁で、須磨署長と方面委員の口利きを得て、宇治川電気電鉄部(現・山陽電鉄)に就職したのが、1929(昭和4)年のことで、西代駅に詰め、2年余車掌として過ごしているが、この間に、労働運動に従事、一斉検挙で捕らえられる。1審で非転向のため4年の判決を受けていた椎名が、2年後の1933(昭和8)年に転向上申書を書き執行猶予で出所しているが、これは、「非合法的政治活動には今後一切関与しない」ことを誓わされたわけであり、これは、時節の重圧に屈し、それまでの同士への、またプロレタリア全体・組織への裏切りを経験したことにもなる。
出所後、筆耕を職業として生活をしている中で、ドストエフスキーの『悪霊』に出会たことから、文学に開眼したというが、椎名がドストエフスキーと出会い影響受けたこと、や、何故、ニーチェからドストエフスキーへと変わったのか、又、その後の彼の作品にどのように影響を与えているかといったことについては、以下参考の※:「椎名麟三 とドストエフスキー」に詳しく書かれている。
椎名は“ドストエフスキーの『悪霊』との出会いによってマルクス主義に対する「空虚でむなしい脱落感」をもたらしたとのべている(『戦後派作家は語る』古林尚との対談、筑摩書房4)。そして、彼が刑務所の体験についてのべているところによると、「牢獄の経験はわずか二年たらずにすぎない。だが、この二年たらずの間に、私は精神的な危機というものを体験したのである。その危機は、その後の私の生き方を決定したといっていいであろう」 その体験の詳細は『自由の彼方で』という小説に書いてしまった。「一言で言えば、私の精神的土台の崩壊を見たといっていいだろう。一つは拷問のときの自己の無意味感である。何度か引き出されて拷問されたとき、今度は死ぬだろうと感じたとき、ふいに自分の一切が無意味に感じられたのである」”・・・と。
その後、彼は「現代を支える労働者が書けない」と悩み、1954(昭和29)年古巣の職場を訪れたという。そこで、何十年も黙々と働く仲間を見て、労働者の感情を取り戻し、 そして書いたのが小説「美しい女」だいう。美しい女とは、時代や組織、人々に翻弄される主人公の心に現れる、まぶしい光のような存在で、「フランスの作家ジャン・ジュネの代表作『泥棒日記』の中の言葉『美しい自由(おんな)(=脱獄)』にヒントを得た」もので「 美しい女は、椎名の求めた『本当の自由』の象徴。立ちはだかる絶望を相対化して救ってくれる存在だった」 ようだという(斉藤末弘西南学院理事長)。
冒頭の山陽電鉄本社前の句碑には「考えて見れば人間の自由が僕の一生の課題であるらしい」(「自由の彼方で」の後書きより)と刻まれていた。
以下参考の※:「椎名麟三 『美しい女』論[ PDF] 」では、椎名のこの小説を深く掘り下げて検証している。そのなかに、“椎名の小説『美しい女』(1955年発表)は、山陽電鉄に勤務して以来のできごとを主人公の「私」が回想する形式で書かれたものであるが、その中で、「過去をふりかえって考えてみると、私は、いろんな人々から、いろんな風に言われながら生涯を送って来た。ある時期は、左翼的な人々から、無自覚な労働者だとか、奴隷根性をしているとか、臆病だとか、卑怯だとか、言われた。又ある時期は、右翼的な人々から、無関心だとか無責任だとか言われた。現代では、組合の意識的な保守的だといわれている。これらのレッテルへ、人なみの熱い血を通わせ、生命の光を与えてやりたいと思うのである」・・と。そうして、それをイエスの十字架上の復活の場面に感銘を受けて自己の信仰を確かなものとし、クリスチャン作家となった椎名は「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きる」ことに信仰の本質があると考えている。作品の中での「私」はクリスチャンとして設定されていないが、作品執筆時に於ける椎名の信仰が「私」の思考に投影されている”・・・という。
椎名が地元の作家であることから、名前ぐらいは知っていたものの作品も読んでおらず、詳しくは知らなかったが、時代に翻弄され続けた椎名のことが、今日、このブログを書くことでいろいろ調べてみて良く分った。

「邂逅忌」(小説家・椎名麟三の忌日)【Ⅱ】へ続く

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