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犬だけだった「生類憐愍令」を牛馬・猫・魚介類にまで拡大 した日

2006-01-28 | 歴史
1687(貞享2)年の今日(1月28日)、 将軍徳川綱吉の命により、犬だけだった「生類憐愍令(しょうるいあわれみのれい)」を牛馬・猫・魚介類にまで拡大 した日とされている。
17世紀末、徳川綱吉政権下の数次の犬愛護令などを念頭において、「生類憐れみの令」という用語が一般に普及しているが、そうした名のまとまった法令があったわけではない。
この「生類憐みの令」について、徳川綱吉が跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで殺生を禁止する法令として制定したとする説については、この最初の法令が出たとされる時期には隆光はまだ、江戸に入っておらず、現代ではほぼ否定されている。生類憐みの令の最初とされているのは、1685(貞享2)年 7月14日の 「上様御成りの道筋においても、犬猫を繋いでおくことはない」 つまり、将軍の御成の道筋に犬・猫が出ていても構わないというもので、当時、江戸では、猫はもちろん犬も放し飼いにしていたようであるが、公方さまが御成りとなれば、その道筋にノコノコと犬猫が出てこられては、町年寄や、町名主など管理不行き届きとして責任を問われるかもしれないので犬猫が繋ごうとするが、そのようなことしなくても良いといったものである。当時、江戸では、凶作の影響で大都会の江戸でも餓死者がでることがあった。老人や年老いたり病気になった牛馬を山に捨てる、あるいは生まれたばかりの赤子を他人の軒先に置く捨て子などは、日常茶飯のことであったことから、捨馬、放れ馬の禁令や,捨子、捨病人の禁令も一連の政策の重要な部分であり動物だけではなく、ヒトおも憐れみの対象としたものであった。
動物は、昔からヒと深く係わってきたが、ヒトと動物の関係の歴史を考えるとき、野鳥獣の生活環境の変化は17世紀に大きく進んでいた。ヒトによる山野沼沢の耕地が進み、動物がその耕地に実る食料を食べようとする時、ヒトが鉄砲という新しい武器で妨げることもおこってきた。同時にヒト社会の支配層、武装した多くのヒト集団による大規模な組織的な狩猟が特に野獣を大量に捕獲した。同様な狩猟の中で鷹狩りは最も頻繁に行われ、このため深山にいたるまで鷹類の巣がヒトに探索され、一面では鷹狩りの獲物を確保するため、広大な禁猟区が厳格に設定された。住民には、この日常の管理や鷹狩りの時の接待など経済的なもののほか人足駆り出しなどの負担もあり、何よりも、苦しめられたのは鳥獣の繁殖のため、区域内での狩りの厳禁から、イノシシなどが繁殖して、畑を荒らされるなど被害も多かった。この状況を綱吉政権は大きく転換させようとした。村の鉄砲の多くが没収され、大規模な狩猟と鷹狩りは中絶したが、このことは全国的にかなり大きな衝撃を及ぼしたようだ。兎に角、広大な禁猟区の規制は緩んだ。だが、野獣に対する武力を一方的に大きく削減された村住民にかわって、現在の首都公害の住宅地にあたる土地などで、幕府鉄砲隊がオオカミ討ちを展開したのも生類憐れみの時代であった。
身近なイヌ、ウマ、もヒトとの関係でその生き方に大きな変動を経験した。江戸へのヒトの密集とその生活残滓(ざんし)の大量排出とが、イヌの群生をもたらした。大規模狩猟の戦力として大名家の示威のためにも有効な動物として、西洋種大型犬が導入され、この種のイヌが珍重され、飼育犬としての性格を強めた。又、兵馬の者といわれた武士が都市居住者となっていって、ウマの飼育に自らあたることが困難になり、また、村社会でも、小規模な農業経営者が解体にむかっていった。ウマ経営を中途で放棄するものが表れるのも無理がなかった。綱吉政権の政策は、そうした状況の中で、イヌトウマの家畜動物化を推進する性格のものだったらしい。江戸の増えた野犬を収容するための、江戸近郊の喜多見・四谷・中野などの野犬収容施設は著名であり、その建設は大名御手伝をもって行われ、また諸方より資材が調達された。施設には、野犬およそ10万頭が収容され、その費用は江戸の町の負担となった。このような背景から、綱吉 が生類憐れみの志をうたった一連の政策が、綱吉政権期を特徴付けたものであり、政策の中で犬愛護策が特に喧伝(けんでん)されるのは、様々な綱吉批判派によってその奇態性が強調されたことによると言われている。違反者には極刑が科され、動物をしいたげることを極端に禁じた悪法と評されることが多いが、当時の処罰記録の調査によると、ごく少数の武家階級の生類憐みの令違反に対しては厳罰が下された事例も発見できるものの、それらの多くは生類憐みの令に違反したためというよりは、お触れに違反したためという、いわば「反逆罪」的な要素をもっての厳罰であるという分析があるそうだ。
それと、17世紀、綱吉よりも前の徳川家光の時代に描いた「江戸図屏風」には、大規模な鷹狩りと、解体した猪肉をぶら下げた武士が描かれており、又、以下参考の「日本における肉食の歴史」を見ると分るように、1643(寛永20)年、家光の時代に書かれた代表的な料理書「料理物語」のなかに「鹿:汁、かいやき、いりやき、ほしてよし。狸:汁、でんがく山椒みそ、猪:汁、でんがく、いりやき、川うそ:かいやき、すい物、でんがく、いぬ:すい物、かいやき」と肉料理の仕方を伝えており、跋文の後に食物の格付けが記されており、獣類の中に「中食の分」として「狗(いぬ)肉」との記述が見られる。さらに、犬の味は一白、二赤、三黒、四ぶち、五虎、六灰の順でよいといっているという。この様に江戸時代には、他の東アジア諸国と同様に、我が国も少なくとも江戸など関東においては、食犬文化もしっかりと存在していたようである。この時代には、支配者層に広く儒教が広まり、仏教から開放されたことも肉食の文化を支えたに違いない。
しかし、肉食を穢れとする観念は、遠くは「延喜式」(927年)の文章をもうけながら、特に室町期に、有力神社の物忌みの規定が整えられる中で強化されていった。綱吉の生母桂昌院は京都の生まれで、お付きの侍女も肉食を穢れとする関西の人間が多く、そういう環境の中で育てられた綱吉は関東の肉食文化を忌み嫌っていたと思われ、17世紀の綱吉の施策を支えたのであろう。徳川綱吉の政権が上野寛永寺や芝増上寺などの参詣奉者などに鹿、猪を食してはならないとしたのは1688(元禄元)年のことである。全国支配者の立場で、肉の食穢を告げた例であるが、生類憐れみの令の中でも在村鉄砲の強い統制策は、肉食穢れ感に立脚していたといわれる。農作物を荒らす猪・鹿を打ち殺してもその肉の食用を禁じ、猟師身分のものだけにこれを認めた。つまり、つまり猟師身分への賤視観念の強化がこれに伴っていたといえる。そのような綱吉の当時の食文化を切り捨てるような政策に反抗する者は当然多かっただろう。
綱吉は死の間際に「生類憐みの令だけは世に残してくれ」と告げたというが、綱吉の死後、1709(宝暦6)年、新井白石が将軍家宣(綱吉の甥で、養子となる)の補佐役となると真っ先にこの法令を廃止した。
そして、文化・文政頃(1804年~1830年)になると、オランダ医学の輸入で、肉食が体によいことが知られたことなどから、「ももんじい屋」が現れる。そこでは、イノシシ、シカ、クマ、オオカミ、キツネ、タヌキ、サル、カワウソ等が売られていたという。おおっぴらには肉食が認められていないのにもかかわらず、現在のようにウシ、ブタ、トリばかりを食べているよりも、ずっと多種の肉を食べていたことになる。
正式に、肉食が解禁されたのは、1871(明治4)年のことである。西欧列強との外交のため、明治政府はフランス料理を宮中の正式料理に採用した。1872(明治5)年1月24日、明治天皇が宮中で自ら牛肉を食べて国民に示したそうだ。このことは、私のブログ、今日(1872年1月24日)は、「明治天皇が初めて牛肉を試食 された日」で書いた。
(画像は「ものんじ屋」。「山鯨(やまくじら)」は、猪の肉、また、獣肉一般の異称。広重の「名所江戸百景」から「びくにばし雪中」太田記念美術館蔵。朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
生類憐れみの令 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4
生類憐みと村の悲劇(おたまじゃくしさんのHP)
http://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/images/kyuuryou/syouruiawaremi/syourui.htm
東京都公文書館HP/産業篇
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/sisiko_sangyo_top.htm
犬を食っていた日本人
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-35.html


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2 コメント

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随分違いました (Unknown)
2006-01-29 10:59:58
よーさん、お早うさんです。

生類憐みの令は僕が思っていたのとは随分違ったようです。おおきに。
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綱吉も馬鹿殿様ではなかった (よーさん)
2006-01-29 18:08:04
書き込みありがとう!

綱吉もマザコンのようではあったが、ただの馬鹿殿様ではなかったのだよね!

帝銀事件への書き込みもありがとう!あの事件のあった当時は?の突く事件が多発したのですね。なんか、今も?のつく事件が多くなったように思うが・・・
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