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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「北国の宿」「星影のワルツ」などの作曲家・遠藤実の忌日

2009-12-06 | 人物
「北国の宿」「星影のワルツ」など多くのヒット曲で知られる作曲家・遠藤実が亡くなったのが昨:2008(平成20)年12月6日のことであった。
遠藤実は、東京府東京市向島区(現在の東京都墨田区向島)にて1932(昭和7)年7月6日に生まれた。この年は上海事変(第1次上海事変)の起った年だ。この後、1937(昭和12)年7月7日盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件(盧溝橋事件)が日中戦争(支那事変)の直接の導火線となり、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)へと繋がってゆく。遠藤はこんな第二次世界大戦時の最中に、新潟県西蒲原郡内野町(現在の新潟市西区内野)に疎開して、生活を送り、戦後間なしの1947(昭和22)年 同町にある小学校高等科を卒業したという。
新聞の報道によれば、この第二次世界大戦時の新潟での疎開生活が人生を決めたという。極貧の生活を味わい、家の床は砂地に板を並べて筵(むしろ)を敷いただけ。天上のない屋根からは雪が舞い込み、東京言葉をからかわれ、いじめにもあったという。だが、新潟には、民家の門前で越後獅子瞽女(ごぜ)など、芸を披露して金品をもらう「門付(かど)け」( Yahoo!百科事典参照)の伝統があり、歌で門付けを始めた16歳の遠藤少年に、人々は優しかった。「小さな家の人々ほど優しく、招き入れて、ご飯を食べさせてくれた。あの温かさに教えられました」。仏教に関心を持つきっかけになり、「門付けは托鉢と同じ」「歌謡曲は一番身近なお経」と語っていたという(2008・121・12付け朝日新聞)。
中学校にも行けず、1949(昭和24)年、歌手を志して17歳の時に上京し、8年間は行商や日雇い、流しの歌手をしながら作曲を独学で学んだ。1952(昭和27)年頃から、日本マーキュリーレコード(当時:タイヘイ音響、現在:廃業)の専属作曲家となり、本格的な創作活動をはじめ、1957(昭和32)年 「お月さん今晩わ」のヒットで、歌手としてより作曲家として認められ、これを機に作曲家(当時の芸名は星幸男)として活躍を始めるようになる。
日経新聞朝刊の最終面(文化面)に連載されている「私の履歴書」は、1956(昭和31)年3月からにスタートして今も続いている連載読み物であるが、連載開始当初より、その時まだ、活躍中の人物の連載を基本としており、私も現役時代はずっと愛読していたものであるが、現役を引退して、以降は、購読している一般紙だけでは経済状況など詳しく分らないので、時々購入して読む程度であるが、そんな「私の履歴書」に遠藤氏が亡くなられる2年ほど前に遠藤氏の記事が掲載されていたことがあり、その中に、初めてヒットしたこの曲を作ったときの状況が書かれていたのを思い出した。調べてみると、それは、2006(平成18)年6月掲載だったようだ。以下参考の※:「あおみ労務事務所_経営情報」の□2006.06.17(Sat)のところに、その時の概略が記されている。
“田舎から歌手を目指して上京するも果たせず、歌手を諦め、流しをしながら作曲家を目指して勉強していたが、「お月さん今晩わ」を作曲し、自作の曲を流しで歌っていると店での手ごたえが今までとは違った。しかし、所属していたレコード会社からは何の音沙汰もないまま時が過ぎ、翌:春の桜も過ぎた頃、「もう、この曲がヒットしなければ新潟に帰ろう。才能も運もなかったのだと思おう」・・・と、そんなことを考えながら部屋にいたとき、チンドン屋のクラリネットの音で自分の曲を聞き、はじめて自分の曲のヒットを知った。”・・・という。

こんな寂しい田舎の村で 
若い心を燃やしてきたに
・ ・・中略・・・
リンゴ畑のお月さん今晩わ 
噂を聞いたら教えておくれよなあ

「お月さん今晩わ」(作詞:松村又一、作曲:遠藤実、唄:藤島桓夫)・・MIDIは以下参考の※:「二木紘三のうた物語」のここで聞ける。
以下参考の※:「遠藤実再発見 ! - Haiの日記」」には、“「我が夢追い人生」遠藤実 作曲家・ 対談 上野繁樹 ディレクター ”として2人の対談(何時どこでのものかはわからないが・・)が詳しく記されているが、この曲に関するところには、以下のようなことが記されていた。
“農家に住み込みに行った時、砂山の畑の中に立ってお月さんを見て明日は東京に行こうと思うんだ。お月さん、いままで自分には幸せがありませんでした。東京に行ったらね歌い手に成れるのかね?いいことがあるのかね?今夜の夢でいいから教えてください。と懇願した事がある“そして、”昭和24年7月の20日に新潟から母親にも黙って、鈍行列車にのって上野まで十何日間かけて行った。そして、「歌い手になって必ず錦を飾って故郷に帰ってくる」というはがきを母親に投函した“ことを思い出される”・・・と。又、そこから最初歌詩は「砂浜のお月さん今晩は」にしようと思ったらしいが、砂は色も香りもロマンも無く悲しすぎると思い、三橋美智也の「りんご村から」という歌が流れてきたのを聞き、「林檎畑のお月さん今晩わ」にしようということになったらしい。「りんご村から」の歌は以下で聞ける。
YouTube -三橋美智也 リンゴ村から 
http://www.youtube.com/watch?v=OxUI5InCCvE&feature=related
この曲が流行した頃、この他にも「早く帰ってコ」「ぼくは泣いちっち」など、東京へ行ってしまった家族や恋人を思う歌や、「別れの一本杉」「お下げと花と地蔵さんと」「柿の木坂の家」など、故郷に残してきた家族や恋人を東京で偲ぶ歌が続けざまに出ているよね~。本当に歌謡曲と言うのはその時代背景をよく映している。
対談を読むと、新潟での体験が以下に遠藤少年の歌に影響を与えたかが知れる。
流しを経験した歌手は多くても門付けまで経験した遠藤の苦労はゼロからの出発などと言う生易しいものではなかったようだ。そんな、少年時代からの悔し涙や笑顔、ささやかな夢と家庭のぬくもり・・このように少年時代に人の何倍もの苦労をしてきた経験や新潟の自然豊かな田園地帯での、そして酷寒の厳しい環境の中で生活をしてきた経験が、人の心に訴える「歌って泣く」というスタイルの歌に結実したようだ。
新潟の紡績工場の工員をしていたとき工場に来ていた楽団の専属となり、最後のステージとなる豪雪地帯の長岡のとある駅から、1メートル先も見えない風が下から煽りあげてくる地吹雪のなか小太鼓と楽譜の入ったトランクを持って歩いた時、手の感覚がなくなり、荷物を投げ出し、自分の小便を手にかけて暖をとったという。その時、風に温かいものを感じは自分にはまだこんな温かいものが残っている。そして、俺は負けないぞ、やるんだという執念の様なものがその時わいてきたと。そして、あっという間に嘘のように今までの吹雪が収まった。そして空を見上げた時もう冬空満天の星だった。それがフイルムのように自分の脳裏に残っていて、それが、後の名曲「星影のワルツ」(唄:千 昌夫)を書かせることになったという。
遠藤実の作品には、この歌のほかやはり千昌夫の唄った「北国の春」(1977=昭和52年発売)があるが、千の岩手弁なまりの素朴な歌唱が遠藤のおおらかで暖かみのある曲の特徴を増幅している。
1958(昭和33)年発売の「からたち日記」(歌:島倉千代子)は、マーキュリー専属の遠藤が米田信一の匿名で初めてコロンビアの仕事をした作品。遠藤は作詞をし西沢 爽の詩に徹底的な一音符一音主義で、詩の抑揚に忠実に、しかも感情を込めて話しかけるような流れのメロディーをつけた。全体を詩の感じに合わせて作詞しているため、三拍子と二拍子が入り混じっているが、聞くたびに美しさと安らぎを感じさせる。島倉千代子にとって、初めての台詞入りの歌謡で、ドラマ仕立ての構成になっている。1958年当時、台詞入りの歌はヒットしないというジンクスがあったが、一番の歌詞につづく「幸せになろうね、あの人はいいました。・・」の台詞は一種の流行語になるほどのヒットをした。この歌は失恋の歌であるが、ただ寂しいだけでく、温かみのあるのが遠藤メロディーの良いところである。ただ歌の上手い島倉ではあるが、年をとってからの歌い方はやはり若いときの歌から見れば大分声量が落ち、歌い方が苦しそうである。コロンビアで発売当時の若い頃の歌は以下で聞ける。
YouTube -からたち日記 島倉千代子
http://www.youtube.com/watch?v=Q4Wk7Vy_f0A&feature=related
「一音符一語主義」は日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた山田耕筰が称えた作曲の方法で、これは、文字通り一つの語に一つの音符をあてはめる方法で、例えば「からたち日記」の一番の一節「 こころで好きと叫んでも」は「ココロデスキト サケンデモ」と12の音符をつけて表現する方法であり、作曲の視点を「日本語のもつ抑揚(イントネーション)」にあて、これを活かしたメロディーで多くの作品を残している(「一音符一語主義」のことについては、以下参考の※:「音楽と言葉」の○音楽と言葉・その12:豊かな抑揚への憧れ。また、※:「鶴の隠れ家」の◆音楽と言葉などを参照)。
遠藤の曲には、これらのほか、「高校三年生」(1963=昭和38年、唄:舟木一夫)など、大ヒットと同時に長く歌い継がれている歌が多くある。以下で、「高校三年生」の歌が聞ける。
YouTube- 舟木一夫 高校三年生
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=DA_W24hIRb0&feature=related

ついてくるかい 何も聞かないで
ついてくるかい 過去ある僕に
君を愛して いればこそ
生まれ変われた 僕なのさ
ついてくるかい 涙をわけあい
ついてくるかい 僕を信じて

「ついてくるかい」(歌:小林旭)
いま、ブライダルソングとして定着している思いやりの心、男の胸の温かさを感じるこの歌は、1971(昭和46)年4月マイトガイ小林旭が唄ってヒットした。日本マーキュリーレコードの専属から形式上の社長にも就任にしていたが、このレコード会社を辞して、再びフリーの一作曲家に戻った身辺の激変で、去る人、励ましてくれる人、今まで以上に声をかけれくれる人などいろいろな人が見えたが、外出の朝振り返るとそこには妻と自分の影しかないのを見て、遠藤はいつまでも側についてきてくれた妻の存在に改めてハッと気づき、妻に対する感謝の気持ちを込めてこの歌を作ったという(アサヒクロニクル「週刊20世紀」。
先にも紹介した以下参考の※:「遠藤実再発見 ! - Haiの日記」の遠藤と上野繁樹との対談の中にあるところによると、新潟から東京に来てまだ流しをしていて「お月さん今晩は」が売れる前、食べるものにも不自由をしていたとき、三鷹のライス食券食堂でいつも食べたくても食べられない夢にまで見ていたでかくて厚いカツ丼の蝋で作った見本を恨めしげに見ながら定食の秋刀魚の開きをパクついていた時、それを同情したのか、頼みもしないカツ丼をドンと前に出され、こんなもの頼まないと言おうとしたら、女の子が側に来て「私のオゴリ」って言ってくれたという。それが嬉しくて涙して食べた。その女の子が後に結婚し妻となった人だそうだ。歌の詩通り、極貧の中苦労を共にしながら遠藤を支えてくれたのだろう。
テレビなどに出てくる遠藤の顔や話方などを聞いていても、遠藤と言う人は心底優しい人だということが感じられたよね~。
他にも「せんせい」(森 昌子)、「くちなしの花」(渡 哲也)、「すきま風」(杉 良太郎)「夢追い酒」(渥美 二郎)など、ヒットを曲を放ち生涯に手掛けた作品は5000曲以上に及ぶという。2003(平成15)年、歌謡界から初めて文化功労者にも選出された。
次々と昭和を代表する人達が亡くなり、本当に寂しい。今までの歌謡界の作詞家・作曲家は、西洋などの新しいものを次々取り入れながらも、日本の言葉や文化を大切にし、それを生かすようにして曲をつくってきた。最近は、そんな歌が少なくなり、若い人の日本語では歌っているがどこの国の人が歌っているのか分らないような歌詞や歌い方の曲を聴いていると、本当に歌謡曲華やかなりし頃が懐かしくて仕方がない。
好きな曲が多いが、その中で、私の最も仲の良かった飲兵衛仲間(数年前亡くなった)が、いつもカラオケで歌っていた渡 哲也の「くちなしの花」を聞いて、遠藤実をそして、亡くなった友人を偲ぶことにしよう。以下で「くちなしの花」が聞ける。
YouTube - 渡哲也 - くちなしの花
http://www.youtube.com/watch?v=26bsZe86X-I
(画像は、2007年、遠藤作品を歌う歌手が大勢参加した音楽祭。写真は記者会見に参加した左から小林旭、島倉千代子、遠藤実、千昌夫。2008・121・12朝日新聞より)
参考:
※:あおみ労務事務所_経営情報
http://www.aomi.jp/page40.html
※:遠藤実再発見 ! - Haiの日記
http://d.hatena.ne.jp/Hai/20060219
※:二木紘三のうた物語
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/10/post_0e00.html
※:音楽と言葉
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/dentoh37.htm
※:鶴の隠れ家
http://gunmaopera.mizubasyou.com/turu-kakurega.html
遠藤実 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%AE%9F
財団法人 遠藤実歌謡音楽振興財団
http://www.minoru-endo.com/index1.html
1932年 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/1932%E5%B9%B4
越後獅子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E7%8D%85%E5%AD%90
瞽女 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9E%BD%E5%A5%B3
作曲家の遠藤実さん死去、「北国の春」など5000曲以上 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/music/081206/msc0812061240002-n1.htm
私の履歴書 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%B1%A5%E6%AD%B4%E6%9B%B8
藤島桓夫 追悼盤〜藤島桓夫(オブさん)のすべて〜
http://listen.jp/store/cddetail_4988006112667.htm
山田耕筰 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E8%80%95%E7%AD%B0

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