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『東京ブギウギ』『青い山脈』など作曲した服部良一 の忌日

2008-01-30 | 記念日
今日(1月30日)は、『東京ブギウギ』『青い山脈』など作曲した服部良一の1993(平成 5)年の忌日 <85歳>
服部良一(はっとり りょういち)は大阪出身の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している。)で、ジャズの都・大阪で音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人である。
服部良一といえば私達の年代には先ず「東京ブギウギ」、「買物ブギ」や「銀座カンカン娘」などが思い起こされる。これらの曲は第二次世界大戦後の混乱と復興の真っ只中にあった1947(昭和22)年~1950(昭和25)年に発表されたもの。中でも1947(昭和22)年、有楽町の日劇で笠置シズ子が歌った「東京ブギウギ」は大爆発した。普通は立ち姿で歌う流行歌手の型を破って、笠置は激しく動き回り、歌って踊った。
「東京 ぶぎうぎ リズム ううきうき 心 ずきずき わくわく」(作詞:鈴木勝)
笠置の「東京ブギウギ」は、以後『大阪ブギウギ』や『買物ブギ』など一連のブギものをヒットさせ、「ブギの女王」と呼ばれるようになる。
「あの娘可愛や カンカン娘 
赤いブラウス サンダルはいて 
誰を待つやら 銀座の街角 
時計ながめて そわそわにやにや 
これが銀座の カンカン娘」 
大ヒットした「銀座カンカン娘」は新東宝が1949(昭和24)年に製作した映画の主題歌(作詞:佐伯孝夫、歌:高峰秀子)である。これも明るい曲で、戦後の荒廃した庶民の心に開放感をもたらしてくれた。
日本に初めてジャズが伝わったのは1900年頃とされている。上陸地はさだかではなく神戸港、横浜港、大阪港など諸説存在する。日本で初めてのプロのジャズバンドは1923(大正12)年4月に神戸で旗揚げした。宝塚少女歌劇団オーケストラ出身の井田一郎(以下参考に記載の「※井田一郎」参照)をリーダーとするラッフィング・スター・ジャズバンド(ラッフィング・スターズ)である。その後宝塚を止めた井田は、1923(大正12)年8月に道頓堀に松竹座が開場していた松竹座オーケストラ(管弦楽団)にヴァイオリン奏者として入団。1925(大正14)年には、大阪最大のユニオン・ダンスホールに入って、本格的ジャズバンド「チェリーランド・ダンス・オーケストラ」を結成し活動するが、大正天皇崩御を理由に大阪市がダンスホールの営業を1年間停止したため、大阪を拠点としていた井田や南里文雄ら多くのプロのジャズマンは東京に拠点を移していった。ちょっと、横道にそれかかったが、服部のことに戻る。
以下参考に記載の「日本ジャズ史-その黎明の時代」によると、大正時代(1912年7月30日から1926年12月25日)の大阪には、”日本を代表する大衆音楽の勃興(ぼっこう)、すなわち『ジャズの都』といった特別の音楽環境があったそうで、例えば、道頓掘川には粋な屋形船の上で熱演するジャズバンドがあり、本場アメカのミシシッピー河を上下するショーボート(※2)とは行かないまでも、水の都大阪ならではの光景があった”という。そして、”大阪・三越少年音楽隊、大阪・高島屋少年音楽隊、うなぎの出雲屋少年音楽隊のバンドが、毎週土曜日の夜になると道頓堀戎橋の下に浮かぶ屋台舟でジャズ音楽が聞こえてきた。又、道頓堀一帯は高級花街なので芸者たちもその音楽に刺激を受け、そんな彼女らが少女音楽団を組織した河合サキソフォンバンドと呼ばれるものがあったほど大阪のジャズ熱は相当なものだった”のだという。
服部良一は、1907(明治40)年10月1日、大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれたという。彼もジャズの都大阪でその感性を磨いたのだろう、小学生のころから音楽の才能を発揮していたそうだが、1922(大正11)年、大阪実践商業学校入学後、翌1923(大正12)年、16歳のときには、好きな音楽をやりながら給金がもらえると道頓堀のうなぎ料亭「出雲屋」に少年音楽隊が結成されると入隊。1923(大正13)年大阪実践商業学校卒業。しかし、その2年後に、第一次大戦後の不景気もあって音楽隊が解散すると、松竹座オーケストラに参加(※1)。同年に大阪放送局がラジオ放送を開始すると、すぐに局内に大阪フィルハーモニーオーケストラが結成されるが、1926(大正15)年、ここに入団する(この時19才)。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテル(メッテル先生のこと参照)に服部は見いだされ、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けたそうで、このころ、後年日本を代表する指揮者の一人となった朝比奈隆も彼から指導を受けていたそうだ。オーケストラの傍らジャズ喫茶でピアノを弾いていたという。昭和に入ると服部は、レコード会社の仕事をするようになり、1929(昭和4)年頃、コッカレコード(国歌レコード製作所)でサクソフォーンと編曲を担当し、タイヘイレコードの専属となった。1931(昭和6)年頃には大阪コロムビアで街頭演歌師出身の作曲家鳥取春陽のジャズ演歌の編曲の仕事をした。この鳥取春陽も 1923(大正12)年、関東大震災後、活動拠点を東京より大阪に移したとき、まず影響を受けたのが道頓堀から流れるジャズだったと言う。服部は、1933(昭和8)年上京し、その翌1934(昭和9)年2月、東京進出をはかったニットーレコードの音楽監督に就任した。
昭和になると良一はレコード会社の仕事もするようになり、1933年上京。翌年にはニットーレコードの音楽監督に就任。1936(昭和11)年コロムビアの専属作曲家となって第1作目が淡谷のり子の歌う「おしゃれ娘」(作詞:久保田宵二)。そして「別れのブルース」(1937年、作詞:藤浦洸)で一流の作曲家の仲間入りをはたす。その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷は「雨のブルース」」(1938年、作詞:野川香文)も大ヒットさせ、「ブルースの女王」と呼ばれるようになる。その後、中国の抒情を見事に表現した『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、感傷的なブルース調の『湖畔の宿』など服部メロディーの黄金時代を迎えた。大東亜戦争が始まると服部の音楽個性であるジャズ音楽は敵性音楽として排除された。
戦後すぐには、映画「青い山脈」の音楽監督,もつとめるが、主題歌の同名「青い山脈」は東京芸大出身のクラシックの正統派藤山一郎が格調高く歌唱し、日本の国民的な流行歌にもなった。日本映画界に於ける映画音楽の名曲中の名曲といえる。そのほか、先ほど紹介した「東京ブギウギ」、「銀座カンカン娘」、「青い山脈」ほか、当時最先端のジャズなど洋楽のリズムやビートを歌謡曲に大胆に持ち込み、古賀政男マンドリンギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、服部は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムをいかし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立。まさに”日本ポップスの父”的存在となった。1993(平成5)年の今日・1月30日、呼吸不全のため死去後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。
香川県に生まれ、生後間もなく大阪市福島区の米屋の養女となったが笠置シズコ子は、小学校卒業後の1927(昭和 2)年、「大阪松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団の前身)に入り初舞台を踏む。1938(昭和13)年に、1923(大正12)年に発足の帝国劇場」で旗揚げした「松竹歌劇団(SKD)」に参加。服部良と組んでジャズ歌手として売り出した。その後も、ブギがヒットし、「ブギの女王」と呼ばれるようになるが、笠置の歌曲のほとんどを服部が手がけた。
関西人の私達としては、「東京ブギウギ」も良いがその後、昭和25年にヒットした「買物ブギ」の方が好きである。
「今日は朝から 私のお家は
てんやわんやの 大騒ぎ
盆と正月 一緒に来たよな
てんてこまいの 忙しさ
何がなんだか さっぱりわからず
どれがどれやら さっぱりわからず
何も聞かずに 飛んでは来たけど
何を買うやら どこで買うやら
それがごっちゃに なりまして
わてほんまに よういわんわ
わてほんまに よういわんわ」
この曲は、大阪人である服部が作詞(村雨まさを名)、作曲したもので、それを、大阪育ちの笠置が歌った。大阪弁の面白さと笠置のキャラクターがマッチした傑作。恐らく、彼女以外にこの歌の味を出せる歌手はいないだろう。人気歌手の笠置シズ子は1950(昭和25)年、ブギ・コンビ服部良一とアメリカへ渡った。このころ「買物ブギ」が大ヒットしたが、この曲のあとブギ・ブームは次第に冷えていった。
以下では、松竹大船映画「懐かしの歌合戦」昭和25年(1950)より笠置シズ子 「買物ブギ」の1コマが見れるよ。
YouTube買物ヴギ 笠置シヅ子
http://www.youtube.com/watch?v=N_043fnhTdk
又、以下には、「買物ブギ」の歌詞つきのMIDIがある。長い歌だけど面白いよ。
買物ブギ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ada-kazu/new_page_387.htm
※1、当時、多くの映画館が、専属オーケストラをおいて、アトラクションに、歌手を加えたジャズ演奏を行っていたようだ。
※2、ミシシッピー河を上下するショーボートを舞台に1936年に映画化されたアメリカ映画「ショウボート(Show Boat)」 が有名。以下参考に記載の「ショウボート(Show Boat)」 参照。
(画像は、1950(昭和25)年ブギ・コンビ人気歌手の笠置シズ子と渡米時の写真。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)
服部良一 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E8%89%AF%E4%B8%80
服部良一 公式サイト「胸の振り子」
http://www.r-hatto.com/index.html
日本ジャズ史-その黎明の時代
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub10.html
鳥取春陽 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%8F%96%E6%98%A5%E9%99%BD
大阪 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA
あだかずホームページ/音楽の部屋
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ada-kazu/100.htm
銀 座 カ ン カ ン 娘
http://8.health-life.net/~susa26/ikoi/kankan.html
※井田一郎
http://www.geocities.jp/nipp17734/ida.htm
NHK大阪放送局 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/NHK%E5%A4%A7%E9%98%AA%E6%94%BE%E9%80%81%E5%B1%80
大阪フィルハーモニー交響楽団 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%A5%BD%E5%9B%A3日東蓄音器
http://zarigani.web.infoseek.co.jp/spp/spp4.htm
※ショウボート (1936) Show Boat
http://www.geocities.co.jp/hollywood/5710/show-boat.html

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2 コメント

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買い物ブギ (Linda)
2008-02-01 10:56:56
よーさん、お早うさんです。
僕の高校時代のラグビー部の顧問の先生が酔っ払うと「買い物ブギ」をよく歌ってらっしゃいました。先生の長男(僕の大学の後輩でもあります)も酔っ払ったら「買い物ブギ」を謳いました。彼の年から笠置シズ子さんの歌を聴いているはずはないので、きっとお父さんから習ったか、知らず知らずのうちの覚えたのでしょう。
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かっての大阪は (よーさん)
2008-02-02 10:18:16
Lindaさん、買い物ブギ は楽しい音楽でしたね。
しかし、かっての大阪は、音楽の面でも日本をリードするところであったのですよね~。それが、今は・・・。吉本の下らぬタレント達の毒されてしまっている。
しかし、私達には、とっても笑えないような、素人のおちょけがそのまま舞台でやっているような下種なしゃべりや行動が受ける。・・・質の低下が情けないですね。お高くとまる芸などは必要ないが、面白半分の芸がなくなったこと。もう、関西人には落ちる所まで落ちないと笑えない人達が多くなったということでししょうか?。
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