1929年(昭和4年)5月19日、 広島県竹原市忠海町から沖合いおよそ3キロメートルの瀬戸内海に浮かぶ大久野島で「陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所」の開所式が行われた。極秘の毒ガス製造基地のスタートである。そして、大久野島での毒ガスの製造は、様々な悲劇を生んだ。それは兵器として使われたための悲劇に止まらなかった。
毒ガスを作るための原料産出鉱山労働者などを「砒素中毒」にした。また原料の「亜砒酸」の輸送にあたった海運業者も、砒素中毒の症状に苦しんでいる。もちろん、大久野島で直接毒ガスの製造に当たった工員はもとより、大久野島で働いた人のほとんどが何らかのかたちで被毒し、生涯苦しむこととなったことはいうまでもない。また、大久野島で製造された毒ガスや化学兵器を荷造りしたり、発送したり、保管したりした旧広島陸軍兵器補給廠忠海分廠の関係者も被毒している。さらに、大久野島で製造された毒ガスを砲弾や爆弾に装填する作業をしていた北九州市の「東京第2陸軍造兵廠曽根製造所」の関係者も毒ガスに汚染され、同じように毒ガスのために慢性気管支炎などで生涯苦しむことになった。戦後毒ガスの廃棄にあたった帝人三原工場の従業員までもが被毒したという。作業中の様々な事故による死者も、関係各所で発生した。広島大学医学部第二内科研究室には被毒者の医療データが集められているという。「毒ガス島からの告発 隠されてきたヒロシマ」辰巳知司(日本評論社)によると、1991年度時点でその数は6589人である。また、慢性気管支炎とともに、被毒者を苦しめるもう一つの病に「がん」がある。被毒者の発がん率は異常に高いのである。
中国では、毒ガスの遺棄弾による被害が跡を絶たず、今なお、多くの問題を抱えて、遺棄弾に悩まされ続けているのである。
したがって毒ガス兵器の製造は、関係者の多くを生涯苦しめる悲劇を生んだだけではなく、現在なお新しい悲劇を生み出し続けていることを忘れてはならないと思う。日本が毒ガスの製造を開始した当時、すでにジュネーブ議定書が調印され毒ガス兵器や生物兵器の使用は禁止されていた。国際法違反を承知で製造が始まったといえる。製造は当然極秘裏に進められた。大久野島の工員は、毒ガス工場について、家族を含めて一切口外しないことを誓約させられていたし、憲兵の監視も厳しく、大久野島をのぞむ忠海の海岸線を走る呉線の列車内では、海側のよろい戸を閉め、見ることさえ許されなかったという。そうした極秘の製造と敗戦前後の証拠の隠滅は、戦後の毒ガス被害者の救済にも様々な困難を残すことになった。
下記は「毒ガスの島 大久野島悪夢の痕跡」中国新聞社(阿座上俊英・岩崎誠・北村浩司)から、毒ガス製造の概要を記述した部分のみを抜粋したものである。
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第1章 悪夢の痕跡
旧日本軍と毒ガス 日中戦争から生産量が急増
大久野島で製造したのは5種類の毒ガス。びらん性のイペリット(きい1号)とルイサイト(きい2号)、くしゃみ性のジフェニール・シアンアルシン(あか1号)、青酸ガス(ちゃ1号)、催涙性の塩化アセトフェノン(みどり1号)で、1931-37年までに陸軍が相次いで制式化(兵器として認定)した。
中でも「毒ガスの王様」と呼ばれたイペリットについては、ドイツ式製法の「甲」、フランス式の「乙」に加え、ソ連や中国東北部など寒冷地での毒ガス戦に備えた不凍性の「丙」も、独自に開発された。
中央大学商学部吉見義明教授(日本現代史)は、旧日本軍の毒ガスについて海外資料などから研究を続けている。米国で入手した終戦直後の米太平洋陸軍参謀第2部の報告書などを分析し、大久野島での毒ガス生産量をの全容を初めて突き止め、94年夏、専門誌「戦争責任研究」で発表した。
それによると、敗戦時までの毒ガスの総生産量は6616トン。日中戦争が始まる37年から急増し、41年には総生産量の4分の1に当たる1579トンに達した。日中戦争で最も多く実戦使用されたジフェニール・シアンアルシンは、日中戦争開戦翌年の38年、実に前年の10倍に当たる310トンを製造を製造。大久野島ではこうした毒ガスを使った13種類の化学兵器も製造しており、中国に大量に持ち込まれた「あか筒」の生産は265万発になることも分かった。これを含め、陸軍の毒ガス弾の総量は739万発にのぼっていた。
毒ガスを日本が最初に使ったのは、30年、台湾の先住民たちが起こした暴動「霧社事件」の鎮圧の際と言われる。やがて大久野島での毒ガス製造の本格化に伴い、陸軍の毒ガス戦に向けた組織づくりも進んだ。33年には化学戦教育にあたる「習志野学校」が発足、死者も出た危険な演習で養成された約1万人の化学将校、下士官たちは、日中戦争での毒ガス実戦の中心になった。
39年には中国東北部を支配した関東軍に516部隊と呼ばれる化学部隊が設けられ、細菌戦を展開する731部隊などとともに、大久野島から送られた毒ガスの人体実験を中国人に対し行った、とされている。
国内でも毒ガス戦の準備は進められ、各地の陸軍部隊にも配備された。市民の防毒訓練も広島市、呉市などでひんぱんに実施された。戦争末期には陸軍は各地の師団司令部に「制毒隊」を組織、米軍が上陸した際の「本土決戦」の毒ガス戦に備えた。第5師団司令部のあった広島市中区の広島城にも極秘に制毒隊が設置されていた。当時の制毒隊長だった広島市中区の元会社役員、富田実さん(75)は「被爆直前まで、長門市の仙崎港米軍を迎え撃つ作戦を練った」と証言する。
大久野島で、終戦までこうした毒ガスの製造を支えたのは、一般工員や徴用工、忠海中、忠海高等女学校などの動員学徒、女子挺身隊員たちだった。
その総数は判明しただけで約6600人。工場の稼働率の高まりとともに、島に林立する毒ガス工場群は屋外の窓ガラスまで原料の亜砒酸などで白く曇り、島の松も茶色く枯れた。風の弱い雨天には、島全体が有毒な排煙に包まれ、劣悪な労働条件は多くの毒ガス障害者を生み出していった。
終戦後、大久野島で毒ガスの処理に当たった英連邦軍が、島とその周辺で確認した毒ガスの原液は3600トン余り。総生産量から差し引いた約3000トンが、戦地に送られたとみられる。中国政府が92年に国連へ提出した報告書では、中国に残る毒ガス遺棄弾は約200万発、毒性化学物質は約100トンにのぼり、ほとんど手つかずのまま遺棄されて、現在に至っている。
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毒ガスを作るための原料産出鉱山労働者などを「砒素中毒」にした。また原料の「亜砒酸」の輸送にあたった海運業者も、砒素中毒の症状に苦しんでいる。もちろん、大久野島で直接毒ガスの製造に当たった工員はもとより、大久野島で働いた人のほとんどが何らかのかたちで被毒し、生涯苦しむこととなったことはいうまでもない。また、大久野島で製造された毒ガスや化学兵器を荷造りしたり、発送したり、保管したりした旧広島陸軍兵器補給廠忠海分廠の関係者も被毒している。さらに、大久野島で製造された毒ガスを砲弾や爆弾に装填する作業をしていた北九州市の「東京第2陸軍造兵廠曽根製造所」の関係者も毒ガスに汚染され、同じように毒ガスのために慢性気管支炎などで生涯苦しむことになった。戦後毒ガスの廃棄にあたった帝人三原工場の従業員までもが被毒したという。作業中の様々な事故による死者も、関係各所で発生した。広島大学医学部第二内科研究室には被毒者の医療データが集められているという。「毒ガス島からの告発 隠されてきたヒロシマ」辰巳知司(日本評論社)によると、1991年度時点でその数は6589人である。また、慢性気管支炎とともに、被毒者を苦しめるもう一つの病に「がん」がある。被毒者の発がん率は異常に高いのである。
中国では、毒ガスの遺棄弾による被害が跡を絶たず、今なお、多くの問題を抱えて、遺棄弾に悩まされ続けているのである。
したがって毒ガス兵器の製造は、関係者の多くを生涯苦しめる悲劇を生んだだけではなく、現在なお新しい悲劇を生み出し続けていることを忘れてはならないと思う。日本が毒ガスの製造を開始した当時、すでにジュネーブ議定書が調印され毒ガス兵器や生物兵器の使用は禁止されていた。国際法違反を承知で製造が始まったといえる。製造は当然極秘裏に進められた。大久野島の工員は、毒ガス工場について、家族を含めて一切口外しないことを誓約させられていたし、憲兵の監視も厳しく、大久野島をのぞむ忠海の海岸線を走る呉線の列車内では、海側のよろい戸を閉め、見ることさえ許されなかったという。そうした極秘の製造と敗戦前後の証拠の隠滅は、戦後の毒ガス被害者の救済にも様々な困難を残すことになった。
下記は「毒ガスの島 大久野島悪夢の痕跡」中国新聞社(阿座上俊英・岩崎誠・北村浩司)から、毒ガス製造の概要を記述した部分のみを抜粋したものである。
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第1章 悪夢の痕跡
旧日本軍と毒ガス 日中戦争から生産量が急増
大久野島で製造したのは5種類の毒ガス。びらん性のイペリット(きい1号)とルイサイト(きい2号)、くしゃみ性のジフェニール・シアンアルシン(あか1号)、青酸ガス(ちゃ1号)、催涙性の塩化アセトフェノン(みどり1号)で、1931-37年までに陸軍が相次いで制式化(兵器として認定)した。
中でも「毒ガスの王様」と呼ばれたイペリットについては、ドイツ式製法の「甲」、フランス式の「乙」に加え、ソ連や中国東北部など寒冷地での毒ガス戦に備えた不凍性の「丙」も、独自に開発された。
中央大学商学部吉見義明教授(日本現代史)は、旧日本軍の毒ガスについて海外資料などから研究を続けている。米国で入手した終戦直後の米太平洋陸軍参謀第2部の報告書などを分析し、大久野島での毒ガス生産量をの全容を初めて突き止め、94年夏、専門誌「戦争責任研究」で発表した。
それによると、敗戦時までの毒ガスの総生産量は6616トン。日中戦争が始まる37年から急増し、41年には総生産量の4分の1に当たる1579トンに達した。日中戦争で最も多く実戦使用されたジフェニール・シアンアルシンは、日中戦争開戦翌年の38年、実に前年の10倍に当たる310トンを製造を製造。大久野島ではこうした毒ガスを使った13種類の化学兵器も製造しており、中国に大量に持ち込まれた「あか筒」の生産は265万発になることも分かった。これを含め、陸軍の毒ガス弾の総量は739万発にのぼっていた。
毒ガスを日本が最初に使ったのは、30年、台湾の先住民たちが起こした暴動「霧社事件」の鎮圧の際と言われる。やがて大久野島での毒ガス製造の本格化に伴い、陸軍の毒ガス戦に向けた組織づくりも進んだ。33年には化学戦教育にあたる「習志野学校」が発足、死者も出た危険な演習で養成された約1万人の化学将校、下士官たちは、日中戦争での毒ガス実戦の中心になった。
39年には中国東北部を支配した関東軍に516部隊と呼ばれる化学部隊が設けられ、細菌戦を展開する731部隊などとともに、大久野島から送られた毒ガスの人体実験を中国人に対し行った、とされている。
国内でも毒ガス戦の準備は進められ、各地の陸軍部隊にも配備された。市民の防毒訓練も広島市、呉市などでひんぱんに実施された。戦争末期には陸軍は各地の師団司令部に「制毒隊」を組織、米軍が上陸した際の「本土決戦」の毒ガス戦に備えた。第5師団司令部のあった広島市中区の広島城にも極秘に制毒隊が設置されていた。当時の制毒隊長だった広島市中区の元会社役員、富田実さん(75)は「被爆直前まで、長門市の仙崎港米軍を迎え撃つ作戦を練った」と証言する。
大久野島で、終戦までこうした毒ガスの製造を支えたのは、一般工員や徴用工、忠海中、忠海高等女学校などの動員学徒、女子挺身隊員たちだった。
その総数は判明しただけで約6600人。工場の稼働率の高まりとともに、島に林立する毒ガス工場群は屋外の窓ガラスまで原料の亜砒酸などで白く曇り、島の松も茶色く枯れた。風の弱い雨天には、島全体が有毒な排煙に包まれ、劣悪な労働条件は多くの毒ガス障害者を生み出していった。
終戦後、大久野島で毒ガスの処理に当たった英連邦軍が、島とその周辺で確認した毒ガスの原液は3600トン余り。総生産量から差し引いた約3000トンが、戦地に送られたとみられる。中国政府が92年に国連へ提出した報告書では、中国に残る毒ガス遺棄弾は約200万発、毒性化学物質は約100トンにのぼり、ほとんど手つかずのまま遺棄されて、現在に至っている。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。