真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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非核三原則と日米「密約」 NO1 

2012年10月23日 | 国際・政治
 日本の「非核三原則」、すなわち、「核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず」の中の「持ち込ませず」に関する日本政府による嘘が、アメリカの公文書・「ライシャワー駐日大使の国務長官宛電文」「議会用説明資料集」(コングレショナル・ブリーフィング・ブック)によって明らかになった。当初から疑問視されていたようであるが、悲しむべきことである。そしてそれが、アメリカの情報公開による資料の発見によって明らかにされたことに加えて、一部資料の非公開扱いは、日本政府の働きかけの結果であるというから驚かざるを得ない。戦時中の日本人は大本営発表を信じるしかなかった。でも、根本的には戦後も変わらないのではないか、とさえ思う。

 そうしたアメリカとの密約外交は、なぜ戦後も続いたのか。
 サンフランシスコ講和条約締結後も、米軍が沖縄を中心に日本に駐留し続ける理由は何なのか。ポツダム宣言には"The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japanas soon as these objectives have been accomplished and there has been established,in accordance with the freely expressed will of the Japanese people, apeacefully inclined and responsible government." とあり日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府を樹立したら、占領は解かれ、占領軍は撤退する約束だったはずである。

 また日本に駐留する米軍が、基地だけではなく、演習場や射撃場、中継飛行場を提供され、外国軍隊であるにもかかわらず、日本の陸路、空路、海路を自由に移動することができるのはなぜなのか。米軍が負担すべき費用の肩代わりや思いやり予算が続くのは何故なのか。加えて、問題のオスプレーの導入やその飛行ルートに関して日本側が決定できないような状況は、事実上軍事的占領状態の継続ではないのか。さらに、米兵犯罪裁判権をめぐる問題や下記のような密約が存在する理由は何なのか。戦後日本の安全保障の問題や日米関係については考えさせられることが多い。下記は、「ゼロからわかる 核密約」石井修(柏書房)からの抜粋である。
----------------------------------             第1の密約 ─── 核兵器の寄港・通過
密約とは何を指すのか

 岡田外相の命令を遂行する外務省の調査チームが取り組むことになった「密約」は、次の4件です。これ以外の密約については追って触れたいと思います。
(1) 60年安保のときの「核持ち込み」に関するもの
(2) 朝鮮半島有事(戦争などの緊急事態)の際、在日アメリカ軍は「国連軍」とし
   て日本の基地から出動するので、「事前協議」の対象としない。
(3) 1972年(昭和47)に、沖縄が日本に「核抜き、本土並み」で返還されたあと    の、沖縄への核兵器の再持ち込み。
(4) 沖縄返還には莫大な費用がかかったが、アメリカ側の支払うべきコストを一
    部、日本が肩代わりした

 ・・・
アメリカの懸念

 …池田勇人首相は国会答弁で、「核弾頭を持った船は、日本に寄港はしてもらわないということを常に言っております」と発言。この発言がアメリカ側の理解と違うと感じたのが、ワシントンのアレクシス・ジョンソン国務副次官でした。
 彼は問題を、政府上層部に提起します。ジョン・F・ケネディ大統領は、さっそく国務省、国防省、軍部などの担当者を集めて対策会議を開きました。その結果、ライシャワー駐日大使は日本の外務大臣と話し合うよう命令を受け、大平外相との極秘会談となったのです



ライシャワー駐日大使の国務長官宛電文(英文略)
 左にワシントンの国立公文書館で入手した文書を掲げます。長く機密扱いにされていたものです。東京のライシャワー大使からワシントンの国務長官に充てた電文で、発信は(1963年)4月4日(2335号)。時差のため国務省はこれを同じ日の4月4日午前8時7分に受信しています。全文は5ページありますが、重要な個所をいくつか掲げておきましょう。 


 本使は4月4日、人目を避けるべく大使館公邸で朝食を共にしながら、大平外相と会談しました。そして、関連電文にある要点を彼に提示しました。具体的な米国艦船搭載の核兵器の立ち寄りの問題には触れませんでした(し、説明も求めませんでした)。極秘の討論記録(1960年1月6日付)の米国側の現在の線に完全に沿った形での解釈で、彼とは完全な相互理解に達しました。(米国側の解釈や実際の記録が存在していたこと自体、大平にとっては明らかに初耳でした)。

 大平は私の説明を泰然と受け止めました。そして現在の米軍の軍事行動や、公的発言でのこれまでの米国側の慣行を変更するよう説得しようとする意志を、いささかも示しませんでした。また、この問題に関して日本政府高官の言葉遣いはより慎重なものになることについても、自信ありげでした。ようするに、日本政府内で情報漏れや抵抗の危険は無論ありますが、本日の会談は望みうる限りの成功に終わりました。これは1960年以来、日米両国の相互信頼がいかに深まったかを示す、際立った証拠となりました。

 大平の反応は素晴らしいものでした。彼(およびおそらく池田〔首相〕も)は米国側が使用する「イントロデュース」の意味を理解していなかったと認めました。しかしこの問題が明らかになったことで、彼は少しも狼狽した様子はみせませんでした。艦船に核兵器が搭載されているかどうかについて、われわれは肯定も否定もしない、と同時に条約を守っていると主張するというわれわれの方針に、彼は十分に納得しているようでした。突然日本語で「訂正」されたり、〔米国側の〕方針に大幅な変更を加えるよう発言されることは、ただ問題に不必要な注目を集めさせることになるだけだという点で、彼は私に同意しました。しかしながら、これからは、彼や他の日本政府高官は、われわれ〔米国〕が条約を遵守するとの保証に全幅の信頼を寄せるよう主張する立場をとり続けるであろうと同意しました。彼ら〔日本政府〕は引き続き「持ち込む」という言葉を「イントロデュース」の意味で使うでしょうが、今後は「イントロデュース」と言うときに、それがわれわれ〔米国側の〕意味していることとして捉えるでしょう。

 この問題の今後に関して、大平は1月6日の極秘討議記録の本分を読み、池田とこの問題について話し合うつもりだ、と述べました。しかし〔そのことで〕問題が生じるとは思わないと言いました。そしてこの件でさらに話し合いの必要が生じれば、本使に連絡をとると約束してくれました。より長期的なこととして、最近の国会でのいくつかの答弁と〔秘密合意と〕の間の明らかな齟齬について、いくつか説明を迫られる可能性はあるものの、日本人が徐々に核防衛が必要であるとの認識を持ちつつあり、おそらくこの問題全体が、3年かそこらで無意味なものになるのではないか、と大平は述べました。

 すでにお気づきのことと思いますが、この文書のなかに重要なキーワードが出てきます。それは「CLASSIFIED RECORD OF DISCUSSION」(極秘の討議記録)です。先に触れた1981年(昭和56)の「ライシャワー発言」の根拠は、この「討議記録」1960年1月6日付)だったというわけです。
 ・・・

 極秘合意の内容

 ・・・
 ここで「”この文書”とは一体何なんだ」と疑問が湧くことでしょう。
 新安保の調印は1960年1月ですが、それより半年前、条約内容について日米の担当者が詰めの交渉を行っていたころの1959年6月20日、東京で藤山外相とダグラス・マッカーサー(二世)大使(この大使は連合国最高司令官だったダグラス・マッカーサー将軍の甥にあたります)との間で秘密の合意がなされていたのです。
 

 この本体は発見されていませんが、その存在を示すものがアメリカで公開されたため、明るみに出たわけです。くどいようですが、具体的には「アメリカの核搭載の艦船や航空機が日本国内の港や基地に立ち寄る(寄港や通過)には、事前協議の必要がない」というものでした。つまり旧安保の50年代と変わらず、新安保のもとでも自由に寄港・通過を認めると約束したわけです。これがあったからこそ、アメリカは新安保に付属する「事前協議制に関する公文」にも承諾したのではないでしょうか。
 ことわるまでもなく、日本本土(当時の沖縄を除きます)への核兵器の「寄港」や「立ち寄り」ではなく、「持ち込み」は、アメリカとしても事前協議の対象という解釈です。


 ここでもうひとつ、新たな疑問が生まれます。「なぜ”討議記録”の形をとったのか」という疑問です。「なぜ、”協定”とか”覚書”といった公式の外交文書の形をたらなかったのか」と言い換えてもいいでしょう。
 あくまでも推測になりますが、これは新安保の交渉責任者である藤山外相が岸首相の意向を受けて、密約が露見した場合に備え、出来る限り非公式文書の体裁をとるように工夫した結果だったのではないでしょうか。後世に少しでも言い逃れの余地を残すために、公式な扱いはしたくなかったのです。
 しかしこの討議記録には、イニシャル(頭文字)だけであるものの、藤山とマッカーサーが署名しています。そうであれば、やはり”公式な約束”と考えざるをえません。


 ・・・

ブリーフィング・ブックの存在

 さて次に、「本体が未公開なのに、なぜその内容が判明したのか」という疑問が湧くと思います。
 それは、アメリカで情報公開の請求により「議会用説明資料集」(コングレショナル・ブリーフィング・ブック)というものが公開され、その中に「討議記録」が記載されていたからです。


 ・・・
 
 いま私の手許にも「ブリーフィング・ブック」の部厚いコピーがあります。しかし、肝心の個所(2ヶ所)が非公開扱い(1999年12月13日付)となっており、内容を確認することは出来ません。
 実はこの文書は、1999年(平成11)秋にいったん公開されているのです。先に言及したアメリカのNGO、「ナショナル・セキュリティー・アーカイブ」の研究員が、11月に国立公文書館で発見しています。またこのころ、日本共産党も同一文書を入手しています。これを朝日新聞社の安保取材班が入手し、2000年8月30日付の紙面で大々的に報じました。見出しには「日米安保条約の全容解明」「核寄港は事前協議せず」となっています。
 それではなぜ、私の手元の文書(ブリーフィング・ブック)では非公開になっているのでしょうか。その理由は、同じ1999年12月13日付)で、密約部分が「安全保障上の理由」により機密扱いに指定されたからです。
 しかもこれは、日本政府からアメリカ政府へなされた要請の結果であることも判明しています。アメリカ側への申し入れは、外交ルートを通じて行われたと言われています


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              第2の密約 ── 朝鮮半島有事

 先ほど述べた「ブリーフィング・ブック」には「朝鮮覚書」という別の極秘文書も収録されています。新安保が発効したあと最初に開かれる日米安保協議委員会で、朝鮮半島有事の際には日本のアメリカ軍基地から「事前協議」なしで出動できる、と藤山外相がアメリカ側委員に約束することが決められていました。これが「朝鮮覚書」という、”密約”です。


 第1回会合は1960年(昭和35)9月に東京で開かれました。すでに岸内閣から池田内閣に移り、外相も小坂善太郎に替わっていましたが、藤山前外相の文言はそのまま議事録にのこされることとなったのです。なお、先ほど挙げた2009年(平成21)12月11日の「読売新聞」のスクープ記事は、この「議事録」が発見されたとも伝えています。
 ここで説明すを要することがあります。いわゆる「在日米軍」と呼ばれる軍隊は、「国連軍」との二重の役割を果たしている場合があるということです。
 アメリカ軍は二足の草鞋を履いているといえるでしょう。

 ・・・
 その場合、アメリカ軍は在日米軍ではなく「国連軍」に変わるのですから、「日米安保条約には拘束されない」という論法になるのでしょう。

 
 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が、書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

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沖縄返還と日米密約-外務省機密漏洩事件 NO3

2012年10月23日 | 国際・政治
 「ゼロからわかる 核密約」石井修(柏書房)で、第4の密約として取り上げられているは、1972年に毎日新聞の西山太吉記者が、外務省女性事務官とともに国家公務員法違反で逮捕された「外務省機密文書漏洩事件」に関わるものである。この時は2人の男女関係に基づく機密漏洩の問題に焦点が当てられ、密約の問題が追及されることは、ほとんどなかったようである。本来きちんと取り上げられるべき国家の密約の問題にフタがされ、伏せられるべき個人的な男女関係と機密漏洩の問題ばかりが追及されたのである。そして、西山記者は記者生命を断れた。このことも問題であると思うが、その後の展開には、常識では理解できないものがある。

 2000年に、この密約を裏づける米公文書が発見された。にもかかわらず、時の河野外相が「歴代外相が『密約は存在しない』と繰り返し、国会などで明言してきた。政府の立場は歴代外相の述べてきたことにつ尽きる」と記者会見で述べたのである。だとすれば、米公文書は偽造されたということなる。あり得ないことである。

 また、当時この密約交渉の責任者であった吉野文六・元外務省アメリカ局長は、後に、この件に関わる裁判(2009年東京地方裁判所)で「歴史を歪曲しようとすると、国民のためにマイナスになることが大きい」という心境になり、この密約にサインしたことを認める証言をしたという。そして、当初嘘をついたことを認め、「河野さんから口裏を合わせるように頼まれたのです」とも明かしているのである(「ふた
つの嘘 沖縄密約」諸永祐司・講談社
より)。密約を示す外務省機密文書、その密約を裏付ける米公文書、当時の密約交渉責任者の証言などを突き付けられてもなお、参院予算委員会で麻生太郎外相は「歴代大臣が説明しているとおりでありまして、沖縄返還協定がすべてであって、それ以外のいわゆる密約はございません」と答弁する。吉野文六・元外務省アメリカ局長の証言は偽証であるということになる。なぜこのようなことがまかり通るのか、と思う。密約と偽証が、政府の場合は許される、とでもいうのであろうか。 
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           第4の密約 ── コストの肩代わり

 外務省機密文書漏洩事件
 外務省調査チームの調査対象となる第4番目の「密約」は、沖縄返還に伴って生じる厖大な経費のうち、本来アメリカ側が支払うべき分まで日本政府が日本人の税金で支払ったという”肩代わり”に関するものです。
 沖縄返還協定は、1971年(昭和46)6月に東京とワシントンで同時調印されました。翌年5月に発効し、沖縄は日本へ復帰を果たしたのです。これは四半世紀に及んだ異民族支配の終わりを意味します。
 しかし復帰に先立つ1972年4月、野党議員が「肩代わり疑惑」を国会で追及していた矢先、この疑惑は意外な形で表面化することとなりました。国家公務員法違反のかどで、毎日新聞の西山太吉記者(外務省担当)と外務省の女性事務官とが逮捕されたのです。いわゆる「外務省機密文書漏洩事件」です。
 記者は漏洩をそそのかした罪、事務官は機密文書を漏洩した罪でした。法廷で弁護側は”知る権利”を全面に押し出しましたが、国側は問題を”男女関係”に矮小化して対抗し、けっきょく2人とも有罪判決を受けました。
 この時点で問題は、アメリカ側が本来負担すべき400万ドルの補償金を、日本側が国民に隠して負担したというものでした。しかし、2000年(平成12)ごろにアメリカ側で関連文書が公開され、それにもとづく新聞報道、さらに琉球大学の我部政明教授による広汎かつ詳細な史料の調査・分析などにより、全容がよりくっきりと姿を現したのです。

 肩代わり疑惑の内容
 交渉はまず、1969年アメリカで、福田赳夫蔵相(のちの首相で福田康夫元首相の父)とデヴィド・ケネディ財務長官(この人物はあのケネディ大統領とは無関係です)がマスコミを避ける形で会談を始めました。
 次に柏木雄介大蔵財務官とアンソニー・ジューリック財務長官特別補佐官との間の実務レベルに移りました。ここで日本側が支払う金額は、内訳をはっきりさせない”一括払い”と決まりました。これは「沖縄を金で買った」という日本国内での批判を予想して、イニシャルの署名をした”秘密覚書”の形をとっています。
 交渉のすえ、日本は返還協定の発効から向こう5年間で、総額3億2千万ドルを支払うことになりました。日本政府はそのうちの7千万ドルを、核兵器撤去費として発表しています。アメリカ側が負担するはずだった400万ドルも、この撤去費の項目にすべり込ませてしまったのです。
 この「400万ドル」と言う数字は、西山記者がスクープしたものです。交渉の最初の段階では、アメリカ側から6億5千万ドルも吹っかけられていました。そこから考えれば、3億2千万ドルはおよそ半額です。善し悪しは別として、日本側もずいぶん粘ったのだろうと思います。


吉野文六氏の証言
 2009年(平成21)3月に、東京地方裁判所で裁判が起こされました。いわば前の裁判の復活戦です。25名の原告のなかには西山氏や、外務省機密問題を本にした作家澤地久枝氏らがいます。この裁判では、当時外務省アメリカ局長(アメリカ局はこのあと北米局になります)として交渉にかかわった吉野文六氏が証言することになりました。91歳の高齢を押して、証言台に立つ決意をしたのです。
 吉野氏は、アメリカ軍が使用した用地を元の田畑に戻す「現状回復補償費」(アメリカ側が負担すべき分)を日本が肩代わりする沖縄返還密約を担当し、西山記者の裁判のときはその立場上やむをえずウソの証言をした人物です。
 彼は1940年外務省に入り、ナチス支配下のドイツに勤務した経験などから、いまでは「歴史を歪曲しようとすると、国民のためにマイナスなることが大きい」との心境になり、アメリカの公文書管理制度を見習って、25年か30年の公開ルールを採用することもあわせて訴えました。
 当時、アメリカはベトナム戦争などのため財政的に疲弊していたのに対し、日本は、アメリカに大量の輸出をしてドルを稼いでいるというイメージが広がっていました。アメリカ議会は沖縄返還協定を批准する権限を持っていたので、”オカネ”の問題で日本が渋い態度をとれば、議会は批准を控えるという脅しをかけることが出来たのです。アメリカ議会の対日感情は、決して良くありませんでした。日本側にはこうした弱みもあり、気前よくカネを使ったというわけです。


 吉野氏によれば「核抜き本土並み」の実現が大きな課題だったのをいいことに、核兵器の撤去予算を「うんと大きくしてやろう」と、大蔵省の柏木財務官との間で相談し、7千万ドルの数字にふくれあがったといいます。つまり、「どんぶり勘定」だったわけです。実際には「核兵器はアメリカ軍が港に行って船を乗せるだけ。7千万ドルもかかるわけはない」ということです。

VOAの移動費も負担
 ところで、アメリカのVOA(Voice of America)をご存じでしょうか。短波放送で、アメリカや世界のニュースのほか、ジャズ、ロックなどの音楽を世界中に流している放送網です。1948年(昭和23)に始められ、冷戦時代のアメリカの”文化攻勢”を象徴する存在として、とくに社会主義圏に向けてアメリカや資本主義社会の魅力をアピールしようとした国策の道具です。
 アメリカ軍統治下の沖縄にも中継局があり、中国、北朝鮮、ソ連極東に向けて電波を発信していました。お気づきのように、これは沖縄駐留のアメリカ軍とは別組織です。しかし不必要に中国を刺激したくないと考えていた日本政府は、沖縄返還のついでにVOAの中継局の撤去も求めたのです。
 アメリカ側は同意しましたが、日本はその国外移転費用の半分近く、1600万ドルも秘密裡に負担することになりました。そしてこの費用もまた、先に挙げた3億2千万ドルのなかにすべり込ませたのです。


 この密約には吉野氏がサインしたことを認めています。ここからもおわかりのように、この3億2千万ドルは項目をひとつひとつ積算してはじき出した数字ではありません。吉野氏は証言の場で、これを「つかみ金」と言い表しています。
 このVOAの移転費については韓国からもそれを証明する史料が出てきました。なぜなら、アメリカはVOA中継局を、沖縄から韓国に移転しようとしたからです。しかしこれはうまくいかず、結局フィリピンに落ち着きました。


沖縄返還に絡む多くの密約
 占領下の沖縄ではアメリカのドルが使用されていましたが、日本復帰とともに新たに日本円が通貨となりました。日本政府は沖縄県民から、ドルを買い取る(=交換する)ことになったのです。その総額は6000万ドルでした。
 このドルは、ニューヨークの連邦準備銀行に25年間、無利子で預金することになりました。これもまた国民には秘密裡であり、「密約」のひとつです。この利息分と運用益は体の良いアメリカへの”贈与”でしかありませんでした。


 このように沖縄返還には多くの密約が絡んでいるのです。しかしなぜ密約にしなければならなかったのか、また密約を回避した場合はどうなっていたのか、私たちはこれからもきちんと検証する必要があります。現在進行中の外務省機密漏洩をめぐる裁判の判決がどう下るのかにも関心が持たれます。「国民の知る権利」がどこまで重視されるかにかかってくるからです。
 
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

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