真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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北方領土問題 外務省見解に対する疑問と関係文書

2013年02月13日 | 国際・政治
  外務省のホームページで論じられている北方領土問題に関する記述(下記、資料1)には、いくつかの疑問がある。
 まず、大戦末期にソ連の対日参戦を求めたルーズベルトが、『千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし』とする「ヤルタ協定」 に合意したことが、北方領土問題のはじまりであったにもかかわらず、そのヤルタ協定に全く触れていないのはなぜか。

 また、「歴史的経緯」の項目を設けながら、サンフランシスコ講和条約締結後、日ソ平和条約に向けた日本の動きに介入して、『もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカ領土にする』として、ソ連の2島返還を受け入れさせなかったいわゆる「ダレスの脅し」などにも触れていないが、触れるべきではないか。

 さらに、日ソ中立条約を破棄して対日参戦を求めたのはアメリカであるにもかかわらず、そのことについても全く論じることなく、ソ連のみを非難し、米ソの駆け引きの中で発生した北方領土問題を、あたかもソ連の単独行為のように主張するのは、なぜか。

 ポツダム宣言の第8項には、『「カイロ」宣言ノ条項ハ施行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ』とある。また、サンフランシスコ講和条約第2章第2条(領土権の放棄)(c)には、「日本国は、千島列島並びに日本国が1095年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対する権利、権原及び請求権を放棄する」とある。サンフランシスコ講和条約を主導したアメリカは、ソ連が不法占領したという北方四島を含む千島列島を、なぜ日本に放棄させるようにしたのか。

 また、下記1945年9月2日の一般命令第一号(資料2)の(ロ)で、『満州、北緯38度以北ノ朝鮮、樺太及千島諸島ニ在ル日本国ノ先任指揮官並ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ「ソヴィエト」極東最高司令官ニ降伏スベシ』したのは、なぜか。なぜ、択捉や国後は別であることを明記しなかったのか。ヤルタ協定で千島全島をソ連に引き渡したからではなかったのか。

 ソ連が対日参戦する前に、日本がドイツの対ソ戦を援助し、さらにソ連の同盟国である米英と交戦中なので、日ソ中立条約の意義が失われているとする「日ソ中立条約破棄に関する覚書(1945年4月5日)」(資料3)を日本側に手渡していた。にもかかわらず、それを無視して、「当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して1945年8月9日に対日参戦したソ連は…」というような言い方で、一方的に非難することができるのか。条約が有効であたとしても、日本側の対応にも問題があったのではないか。

 千島列島の範囲についての記述にも疑問がある。「そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。」とあるが、サンフランシスコ講和条約締結の2ヶ月後、条約批准のための平和条約及び日米安全保障条約特別委員会で、西村熊雄条約局長は「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むものと考えております。しかし、北千島と南千島は、歴史的に見てまったくその立場が違うことは、すでに全権がサンフランシスコ会議の演説で明らかにされたとおりでございます。あの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であるということは、たびたびこの国会で総理からご答弁があったとおりであります。
 なお歯舞と色丹が、千島に含まれないことは、アメリカ外務当局も明言されました。
…」と発言しているのである。
 まちがいなく、講和条約締結前後の時期には、日米ともに、国後・択捉を南千島として、千島列島に含めてとらえていた。

 アメリカ国務相の「千島に関するブレークスリーメモ(極秘文書)」(資料4)にも、「千島列島は南部、中部、北部の3群に分けることができる。南部群は北海道から北上して約235マイルにわたって展開し、択捉島を含み千島列島総人口の90%を擁し、1800年頃以来明白に日本領だった。…」とある。この文書は、米国が、対日戦終結前から戦勝後の日本の処理を検討するために、「戦後外交政策諮問委員会」を結成し、その委員会で検討するために、1942年8月の時点で、国務省内に東アジア班をつくり、研究させていたものであり、同班主任で日本通のブレークスリー教授がまとめたものであるという。このメモが、どの程度関係者に共有されていたか分からないが、当時のアメリカの認識では、千島列島は(歯舞・色丹を除き)、明らかに北海道から国後・択捉を含むカムチャッカ半島に連なる島々であった。それを、日本も受け入れていたのである。にもかかわらず、米ソ冷戦の激化による政策の転換によって言説を変えたアメリカに追随し、「そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。」と、かつての政府見解(西村熊雄条約局長発言)を変えた。その事実は、どのように考えればよいのか。

 以上のような点で、私は、北方領土問題に関する外務省見解は、問題があると思う。
 アメリカの世界戦略にしたがい、ソ連を屈伏させる方向で北方領土の返還を求めるのではなく、軍事的緊張を緩和・解消する形で、すなわち、大西洋憲章やカイロ宣言の領土不拡大の精神や日本国憲法の精神に基づいて、米ソに東アジアの非軍事化を求める方向で、返還運動を進めるべきでははないか、と思う。日本のあちこちに米軍基地があり、北海道で自衛隊と米軍の共同訓練が繰り返し行われている状況では、北方領土は返ってこないのではないかと思うのである。軍事的緊張を緩和・解消しつつ、経済的交流を深めれば、本来の国境線に戻すことは、そう難しいことではないと思う。

資料1(外務省のページより)---------------------

北方領土問題の経緯(領土問題の発生まで)

 北方領土問題が発生するまでの歴史的経緯、概要は次のとおりです。

1.第2次世界大戦までの時期
(1)日魯通好条約(1855年)
 日本は、ロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立しました。19世紀前半には、ロ
シア側も自国領土の南限をウルップ島(択捉島のすぐ北にある島)と認識していました。日露両国は、1855年、日魯通好条約において、
当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境をそのまま確認しました。

(2)樺太千島交換条約(1875年)
 日本は、樺太千島交換条約により、千島列島(=この条約で列挙されたシュムシ
 ュ島(千島列島最北の島)からウルップ島までの18島)をロシアから譲り受けるか
 わりに、ロシアに対して樺太全島を放棄しました。

(3)ポーツマス条約(1905年)
 日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから樺太(サハリン)の北
 緯50度以南の部分を譲り受けました。

2.第二次世界大戦と領土問題の発生
(1)大西洋憲章(1941年8月)及びカイロ宣言(1943年11月)における領土不拡大の原則
 1941年8月、米英両首脳は、第二次世界大戦における連合国側の指導原則ともいうべき大西洋憲章に署名し、戦争によって領土の拡張は求めない方針を明らかにしました(ソ連は同年9月にこの憲章へ参加を表明)。
 また、1943年のカイロ宣言は、この憲章の方針を確認しつつ、「暴力及び貪欲により日本国が略取した」地域等から、日本は追い出されなければならないと宣言しました。ただし、北方四島がここで言う「日本国が略取した」地域に当たらないことは、歴史的経緯にかんがみても明白です。

(2)ポツダム宣言(1945年8月受諾)
 ポツダム宣言は、「暴力及び貪欲により日本国が略取した地域」から日本は追い出されなければならないとした1943年のカイロ宣言の条項は履行されなければならない旨、また、日本の主権が本州、北海道、九州及び四国並びに連合国の決定する諸島に限定される旨規定しています。しかし、当時まだ有効であった日ソ中立条約(注)を無視して1945年8月9日に対日参戦したソ連は、日本のポツダム宣言受諾後も攻撃を続け、同8月28日から9月5日までの間に、北方四島を不法占領しました(なお、これら四島の占領の際、日本軍は抵抗せず、占領は完全に無血で行われました)。

(注)日ソ中立条約(1941年4月)

 同条約の有効期限は5年間(1946年4月まで有効)。なお、期間満了の1年前に破棄を通告しなければ5年間自動的に延長されることを規
定しており、ソ連は、1945年4月に同条約を延長しない旨通告。

(3)サンフランシスコ平和条約(1951年9月)
 日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。また、ソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできません。


資料2-------------------------------

一般命令第1号(陸・海軍)
                          1945年=昭和20年9月2日)
一  帝国大本営ハ茲ニ勅命ニ依リ且勅命ニ基ク一切ノ日本国軍隊ノ連合国最高
  司令官ニ対スル降伏ノ結果トシテ日本国国内及国外ニ在ル一切ノ指揮官ニ対
  シ其ノ指揮下ニ在ル日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル軍隊ヲシテ敵対行為
  ヲ直ニ終止シ其ノ武器ヲ措キ現位置ニ留リ且左ニ指示セラレ又ハ連合国最高
  司令官ニ依リ追テ指示セラルルコトアルベキ合衆国、中華民国、連合王国及「
  ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ名ニ於テ行動スル各指揮官ニ対シ無條件
  降伏ヲ為サシムベキコトヲ命ズ指示セラレタル指揮官又ハ其ノ指名シタル代表
  者ニ対シテハ即刻連絡スベキモノトス但シ細目ニ関シテハ連合国最高司令官
  ニ依リ変更ノ行ハルルコトアルベク右指揮官ノ命令ハ完全ニ且即時実行セラ
  ルベキモノトス
(イ)  支那(満洲ヲ除ク)、台湾及北緯16度以北ノ仏領印度支那ニ在ル日本国先
  任指揮官竝ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ蒋介石総帥ニ降伏スベシ (ロ)  満洲、北緯38度以北ノ朝鮮、樺太及千島諸島ニ在ル日本国先任指揮官
  竝ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ「ソヴィエト」極東軍最高司令官ニ
  降伏スベシ
(ハ)略
(ニ)  「ボルネオ」、英領「ニユー・ギニア」、「ビスマルク」諸島及ビ「ソロモン」諸島
  ニ在ル日本国先任指揮官竝ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ濠州陸
  軍最高司令官ニ降伏スベシ
(ホ)日本国委任統治諸島、小笠原諸島及他ノ太平洋諸島ニ在ル日本国ノ先任指
  揮官並ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ合衆国太平洋艦隊最高司令
  官ニ降伏スヘシ
(ヘ)日本国大本営並ニ日本国本土、之ニ隣接スル諸小島、北緯38度以南ノ朝鮮
  、琉球諸島及「フィリピン」諸島ニ在ル先任指揮官並ニ一切ノ陸上、海上、航空
  及補助部隊ハ合衆国太平洋陸軍部隊最高司令官ニ降伏スヘシ


 ・・・(以下略) 

資料3------------------------------

 日ソ中立条約破棄にかんする覚書
                          昭和20年4月5日ソ連邦外務部
                          モロトフ委員ヨリ佐藤大使ニ手交

「日」ソ中立条約ハ独「ソ」戦争及日本ノ対米英戦争勃発前タル1941年4月13日調印セラレタルモノカ爾来事態ハ根本的ニ変化シ日本ハ其ノ同盟国タル独逸ノ対「ソ」戦争遂行ヲ援助シ且「ソ」連ノ同盟国タル米英ト交戦中ナリ斯ル状態ニ於テハ「ソ」日中立条約ハ其ノ意義ヲ喪失シ其ノ存続ハ不可能トナレリ依テ同条約第3条ノ規定ニ基キ「ソ」連政府ハ茲ニ日「ソ」中立条約ハ明年4月期限満了後延長セサル意向ナル旨宣言スルモノナリ


資料4------------------------------

 千島に関するブレークスリー極秘文書
                        1944年12月6日アメリカ国務省
                        1972年6月20日同省が公表
1944年12月28日付、領土調査課の覚書。国務省及び地域委員会第302号。秘。(極東委員会文書)
  日本=領土問題=千島列島
 1 主題 千島列島の将来の処理
 2 基本的要因
 千島列島は、日本、ソヴィエト、アメリカにとって戦略的重要性を持つ。また日本にとっては相当な経済的価値を持っている。
 A 概観
 千島列島は日本の主要島嶼の最北端北海道から北東に向かい、ソヴィエトのカムチャッカに至る約600マイルにわたって点在し住民を有する47の火山島の連鎖を形作っている。全域はおよそ3,944平方マイルである。定住人口は17,550人(1940年)で、全部日本人であり、夏季は漁業に従事する季節労働者2万乃至3万人が増加する。日本は1800年頃から南部千島列島を所有していた。カムチャッカから北部諸島に進出しつつあったロシアは1855年、これら南部諸島の日本所有を承認した。1875年ロシアは日本が南部樺太から撤退する代りに、全千島から撤退した。千島列島は日本本土の一部に考えられ、行政区としては北海道庁のもとにおかれている。

・・・

 千島列島は、南部、中部、北部の三群に分けることができる。南部群は北海道から北上して約235マイルにわたって展開し、択捉島を含み、千島列島総人口の約90%を擁し、1800年頃以来明白に日本領土だった。この群の最も近接した地点は北海道から僅か12マイル程度である。住民は日本人であり、その生活は日本本土諸島のそれと同じである。これらの島の戦略的価値は1年のうち約半分、オホーツク海から千島列島の西方にわたる海域が大部分氷に満たされ、航行はほとんど不可能な事実によって制限されている。

 中央群は得撫島から北方約375マイルにわたって展開し、大部分は人口稀薄で、経済的価値はほとんどない。しかし戦略的には重要である。これらの島はオホーツク海の入り口に横たわっており、新知島は、長さ31マイル、幅5マイルをもち、ブロトン湾を抱き、これは開発すれば重要な基地とし得、艦隊の投錨も可能となる。海軍作戦本部が1945年11月(?)発行した「千島列島便覧」は、この湾について、湾口が改善されればブロトン湾は素晴らしい湾になると述べている。陸軍省諜報部が発行した「千島列島調査報告」には、「この湾は千島列島作戦にあたり、決定的原因の一つとなろう」と述べてある。湾口は6フィートの水深しかないが、これは明らかに浚渫して深くすることができる。入口をいかなる船舶にでも通過できるようにする工事は決して不可能ではない。湾一帯の地域は要塞化されていない。中央群に属する諸島は南方群に至る踏石を形成しているので、その意味での戦略的価値を持っている。

 北方群は幌筵島、占守、阿頼度の3つの主要な島からなり、漁業としても、空海軍基地としても重要である。北方及びその周辺の漁業及びその他の水産の価値は、1938年全千島列島の生産900万ドルのうち700万ドルを占めていた。地理的にはこの群はカムチャッカの継続であり、カムチャッカからへだてる海峡は僅か7マイルの幅しかない。

 千島列島の処理を決定するに当たっての重要な要因のうちには、①列島中のあるものに、一個乃至数個の基地を設けるべきであるとするアメリカ海軍の希望、②対日戦に参加、あるいは不参加の決意をするに当たって、北部群と中央群、あるいは全千島列島の獲得を要求することもあり得るソヴィエト政府の圧力、③戦争の結果として日本帝国から分離される全島嶼に、国際管理の原則を適用することが望ましいことなどがある


 ・・・(以下略)
----------------------------------
資料の3と4は、「ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)よりの抜粋である。


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。   

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