真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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原爆投下 米軍「作戦計画の要約」 第509混成群団

2013年11月12日 | 国際・政治
 1945年7月25日に原爆投下命令が発せられた後、ポツダム滞在中のトルーマンン大統領から、ワシントンのスティムソン陸軍長官に対し、8月2日以降の原爆投下とその大統領声明発表承認のメモが届く。それを受けて、それまで実物を模したパンプキン爆弾で訓練を続けていた陸軍第509混成群団を率いるポール・W・ティベッツ(Paul・W・Tibbets)のもとに、ルメイ将軍の署名の入った原爆投下命令書が届く。8月3日である。下記はその命令に関わる「特殊爆弾(原爆)任務13号」である。ティベッツに出されていたそれまでの12回の指令は投下テストであったが、この13号が実戦指令である。

 ティベッツは、1944年9月にコロラド・スプリングスで、P・D・エント第2航空軍司令官から、原爆投下の特殊任務について指示をうけたという。エント司令官は、ネブラスカ州の基地の1箇戦隊のB-29を提供し、それを中核にして「君が思うとおりの組織を作り上げるとよい」と指示したという。それを受けて、ティベッツはウェンドーヴァー空軍基地で、機密保持に気をつかいながら、20機(当初は15機) のB-29を利用して、彼が選んだ優秀な戦闘搭乗員と訓練に取り組んだのである。国内訓練終了後は、ティニアンに移動して、攻撃を有効にするためレーダーを補助手段とした、目視攻撃の訓練を続けたという。そして、日本本土に対する特殊爆撃任務(Special Bombing Mission.SBM)が年7月20日からパンプキン爆弾を利用して行われたのである。

 訓練で使われたパンプキン爆弾は、長崎原爆ファットマンと、形も、大きさも、重量も同じ特性の大型の火薬爆弾で、本物の原爆投下をシミュレートするために、ティベッツの要求によって作られたという。その形と橙黄色の塗装からパンプキンと呼ばれたのであるが、模擬爆弾とはいっても、それまで使われていた最大の規格爆弾、2トン爆弾の倍以上もある5トンの爆弾であり、その破壊力は大きく、恐るべき被害をもたらしたようである。
 特殊爆撃任務(Special Bombing Mission.SBM)で、総計49発のパンプキン爆弾が日本本土に投下され、その間に、下記8月6日のSBMNo13 で広島に、9日のSBM No16 で長崎に本物の原爆が投下されたというわけである。因みに広島に投下された原爆はリトルボ-イいうコードネームのウラニウム型原爆で、TNT火薬換算15キロトン相当という。8月6日、エノラ・ゲイと名づけられたB-29爆撃機の機長として、広島に原爆を投下したのは、エント司令官から特殊任務を指示されたティベッツ自身であった。

 9日のSBM No16 では、第1目標が「小倉造兵廠および市街地」となっている。しかしながら、原子爆弾は長崎に投下された。その理由は2つある。その一つはよく知られている気象条件である。目視攻撃が難しかったのである。当初、目視攻撃ができないときは、爆弾を持ち帰ることになっていたという。しかしながら、飛行機に問題が発生したことがもう一つの理由である。タンクから燃料を送ることができず、マリアナに帰ることが難しい状況にあったのである。爆発可能な兵器を積んで沖縄などに着陸することは考えられなかったということである。長崎に投下された原爆はファットマンというコードネームのプルトニウム型原爆で、TNT換算およそ22キロトン、投下したB-29爆撃機ボックスカーの機長はチャールズ・スウィーニー少佐であった。 

 米軍が小倉や長崎に、アメリカ兵などが入っている捕虜収容所があることをつかんでいたという事実には考えさせられる。長崎の収容所には、およそ2,000名の捕虜が入っていると見積もっていた。報告によっては、シンガポールから送られた30,000名のイギリス軍の捕虜がいるというものもあったという。しかしながら、陸軍省と連絡を交わした結果、「収容所の存在は、目標の選定を左右する要件ではない」と確認されたのである。 

 下記は、「米軍資料 原爆投下の経緯 ウェンドーヴァーから広島・長崎まで」奥住喜重・工藤洋三訳(東方出版)から、その「特殊爆弾(原爆)任務13号」の部分を抜粋したものであるが、この「作戦計画の要約」は、「原爆投下報告書」を作成するために、第20航空軍の求めに応じて、第509混成群団が用意したものではないかという。
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資料G
             第509混成群団、作戦計画の要約

                                      報告8
                                      第509混成群団
                   作戦計画の要約

野戦命令:13号
特殊爆撃任務〔SMB〕:13
任務実行:1945年8月6日
 
1、第509混成群団の第1目的
  1945年6月初め、当司令部は、1945年8月6日に敵に対して1発の原子爆弾が使用可能になろうという報告を受けた。1945年8月5日までに、世界史上最初の原子爆弾攻撃始めるための万端の準備ができた。爆弾の用意もでき、天気も申し分なく、厳選された搭乗員は十分に訓練を受けていた。

2、攻撃のために選んだ目標
  A、第1目標:90.30 広島市街地工業地帯
         照準点 063096
         照準点参照:XXI爆撃機集団石版集成図広島地区
         No.90.30-市街地
  B、第2目標:90.34 小倉造兵廠および市街地
         照準点 104082
         照準点参照:XXI爆撃機集団石版集成図小倉造兵廠  
         No.90.34-168
  C、第3目標:No.90.36-長崎市街地
         照準点:114061
          照準点参照:XXI爆撃機集団石版集成図長崎地区
         三菱製鋼および兵器工場、No.90.36ー546

 気象観測機が、攻撃時の気象予報を攻撃機に中継するために、全ての目標に派遣された。しかし、他の2つの指定目標よりも、できるだけ第1目標を攻撃することが望ましかったので、攻撃機に対しては、第1目標を目視攻撃する機会を逃さないために、気象観測機の連絡に関係なく、攻撃機自身が第1目標に充分接近してみるように、指示が与えられた。ただし、その点検のあとは、攻撃機は気象観測機の指示次第で、第2目標または第3目標のどちらに向かってもよいとされた。
 この爆弾は極めて広範囲の平均有効面積〔Mean Effective Area,MEA〕を有していたが、それは高価なものであり、また、市街地目標の重要な地区は極めて集中していたから、攻撃を有効にするためには、目視攻撃をすることが大切であった。レーダーは補助手段として使うものとし、もしも目標上空で目視してみて、ノルデン爆撃照準機が使えない場合には、搭乗員は爆弾を基地に持ち帰ることになっていた。搭乗員に対して目視作戦ができる余分の機会を与えるためには、第1目標に加えて、2つの目標が割り当てられたのである。
 [訳注.次の1段は切り抜かれて、機密解除から外され、後になって解除された。]

3、目標選定の理由
 原子爆弾攻撃のために取り分けてあった4都市の中で、新潟はこの種の攻撃のためには配置があまりにも貧弱である──工業が集中している地区と小さな工場を含んだ居住地域とが互いに遠く離れている理由から除外された。他の3都市のうち、長崎は配置が最も貧弱であり、しかも近くに捕虜収容所があった。(息子たちが、捕虜収容所にいて帰ってこなかった母親たちにとって、刺激的[Sensitive]である)それでこれは第3目標になった。他の2つ、広島と小倉は、配置がよく、比較的重要であった。しかし、小倉には捕虜収容所があり、一方広島にはわれわれの知る限りそれがなかった。それで広島が第1目標となったのである。

 目標そのものに関して言えば、広島は工業目標として極めて重要であった。この攻撃に先立って、広島は日本本土内でBー29の焼夷攻撃にやられずに残っているものでは、(京都を除いて)最大の都市に挙げられた。この都市の人口は1940年に344,000人であった。
 広島は陸軍の──第5師団の司令部と第1級の乗船港がある。市の北東部と東部は全体が軍用地である。市の北部中心部分で目立つのは陸軍の司令部地区であり、広島城、多数の兵舎、軍政上の建物、兵器庫がある。そのほかには以下のような軍事目標がある:

  A、陸軍の新兵収容所
  B、大きな軍用飛行場
  C、陸軍兵器廠
  D、陸軍被服廠
  E、陸軍糧秣廠
  F、大きな港とドック地域
  G、いくつかの船舶修理と造船の会社
  H、日本製鋼会社
  I、鉄道操車場
  J、多くの航空機部品の工場

 広島が無傷であったことがそれを理想的な目標とした。このことは、原子爆弾が与える被害を正確に評価するために必要であった。この都市の大きさも、一つの重要な選定要因であった。事前のデータによれば、原子爆弾が及ぼす被害は半径7,500フィート[約2,3km]と信じられた。市の中心に照準点を置くことにより、予測される被害の円は南部のドック地域を除く広島のほとんど全域を覆った。


4、弾薬
    1発の原子爆弾

5、航法上の計画
 (第509混成群団 報告1 PAGE 6 1節をみよ)

6、爆撃手の計画
 (第509混成群団 報告1 PAGE 6 2節をみよ)

7、レーダー計画
 (第509混成群団 報告1 PAGE 7 3節をみよ)

8、航空機関士の計画
 (第509混成群団 報告1 PAGE 7 4節をみよ)

9、レーダー対策 [R.C.M.]
なし

10、戦闘機による援護
  なし   

11、空海救助


  通常この活動は航空団司令部によって手配される。しかしこの作戦が重要なものであるため、この任務に関しては第20航空軍司令部が手配した。いかなる不運な出来事も、すべての目撃者[参加者]の安全な帰還を妨げないように、完全な空海救助の便宜を与えるよう、あらゆる注意が払われた。

12、攻撃兵力
  3機 ─ 1機は爆撃、2機は観測

13、特別に計画した作戦行動
  A、全ての味方機の攻撃との混乱を避けるため、攻撃時に先立つ4時間の間は目標地区から少なくても50マイル[80.5km]だけ離れているように指示された。爆発の真上の空域におけるほとんど無限大量の放射能から味方機を守るために、味方機は攻撃後6時間のあいだは50マイル以内に入ることを禁じられた。爆発後の写真を撮影する機は、特別な命令を受けていたから、攻撃の4時間後に地域に入ることを許された。


  B、爆撃担当機に失敗があった場合にも、計画された日に攻撃が実行できるように、予備の攻撃機が1機硫黄島に待機した。そこには、原子爆弾を積み降したり積み直したりするためのピットも用意してあった。

  C、天候:それぞれの目標に1機ずつ、3機の気象観測機が、それぞれに割り当てられた目標から、06845K[060745J]から060915[060815J]までの間に、攻撃時の気象予報を中継放送できるような時刻に発進することになった。これによって攻撃機は、第1目標が雲に覆われていることが判ったときにも、第2か第3のどちらかの目標が選べるはずであった。それぞれの気象観測機には、第313航空団が提供した気象観測者が乗り込んだ

  D、攻撃後の写真: 第509群団の指揮官は、2機のFー13機に指示を与え発進させる責任を負う。これらの機は、投弾から4時間たたないうちは目標地域に入ることができない。攻撃部隊が硫黄島の予備機を使わなければならなかったか否かにかかわりなく、この予定が確実に守られるために、写真撮影機は硫黄島を通過するときに、ティニアンと硫黄島の両地上局に連絡をとって許可を得ることにした。もしも、これらの写真撮影機が、どの目標が爆撃されたか通知を受けなかった場合には、撮影機は3つの目標全部の写真をとることにした。

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

コメント (10)
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