真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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安重根 「伊藤博文の罪状15ヶ条」

2013年12月02日 | 国際・政治
 2013年6月、韓国の朴槿恵(パククネ)大統領が中国の習近平(シーチンピン)国家主席との首脳会談で、安重根が中国・ハルビン駅で伊藤博文を暗殺した現場に碑を設置することを提案した。そして、11月18日、それが「両国の協力でうまく進んでいる」と述べたことに関して、菅義偉官房長官が、19日の記者会見で、「我が国は”安重根は犯罪者”と韓国政府に伝えてきている。このような動きは日韓関係のためにはならない」と述べ、不快感を示したとの報道があった。また、安倍晋三首相もテレビ出演で、碑設置の動きについて「伊藤博文は初代の日本の総理大臣だ。(首相の地元の)長州にとっても尊敬されている偉大な人物だ。お互いにしっかりと尊重しあうべ きだ」と述べた、という。

 このことからも分かるように、安重根に対する日韓政府の評価は、現在も正反対である。この日韓政府の評価の溝を埋める努力なくして、共通の歴史認識は生まれないし、関係改善も難しい。そこで、再び安重根の裁判における公判記録から、彼の主張を抜粋するが、下記のような、日本人の存在にも考えさせられるものがある。

 伊藤博文殺害後に、獄中の安重根の看守を命ぜられた関東都督府陸軍憲兵上等兵「千葉十七」(ちばとうしち)は、当初、伊藤公を殺害した安重根に激しい怒りを感じていたという。しかしながら、取り調べや公判が進むにつれて、彼の主張には正しい部分もあると、自分でも思い当たることがあり、千葉は考えさせらていく。また、彼の行為が彼の主張通り、個人的な恨みによるものではないことが明らかなうえに、獄中の安の態度には、日本の元勲を殺した男とは思えない、素直で礼儀正しい不思議な雰囲気があったという。そして、いつしか「この男はただ者ではない」と思うようになり、しだいに心を通わせていく。

 彼の処刑が近づくと、千葉は「この人は、生き永らえたら、必ずや韓国を背負ってたつ人物なのであろうに──」と畏敬の念さえ抱き、「日本人はこの人にもっともっと学ばなければならない」と思いつめて、「安さん、日本があなたの国の独立をふみにじるようになったことは、何とも申しわけありません。日本人の一人として、心からお詫びしたい気持ちです」と頭を下げたというのである。

 また、下記抜粋文にあるように、検察官溝淵孝雄も、安重根の主張を聞いた当初は、日韓併合を進めようとする日本政府の対韓外交政策を知らず、安重根を「東洋の義士」と認め、「死刑はあるまい」と言っている。

 にもかかわらず、当時の外相小村寿太郎から、「日本政府においては、安重根の犯行はきわめて重大なるをもって、懲悪の精神により極刑に処せらるることを相当なりと思考す」との指示があり、安重根の裁判は、その指示に基づいて、日韓併合の外交政策上「極刑」しかない、ということで進められていくことになったのである。

 日本政府は、韓国民では英雄とされている安重根を凶漢と呼び、犯罪者であるという。しかし、当時、彼の裁判を担当した判官真鍋十蔵に、伊藤公および随行員殺傷について問われて安重根は

「それは、私が3年前から国事のために考えていたことを実行したのですが、私は義兵の参謀中将として独立戦争の最中に伊藤さんを殺したのです。個人の犯罪ではなく、あくまで参謀中将という資格で計画したのですから、そもそもこの法院で、殺人罪の被告人として取調を受けるのは間違っているのです」

と答えている。判官真鍋十蔵はこの主張に耳を貸さず、伊藤殺害の事実だけを問いつめていったという。伊藤殺害の背景には踏み込まなかったのである。したがって、日韓の主張は、彼の裁判のスタート時点からかみ合っていないということであろう。安重根を裁くに当たって、殺害の背景が無視されてよいのかどうか、義兵の参謀中将としての彼の立場を考慮しなくてよいのかどうか、考えさせられる。 

 下記は、「わが心の安重根 千葉十七・合掌の生涯」斎藤泰彦著(五月書房)から、安重根の指摘した「伊藤博文の罪状15ヶ条」の部分を抜粋した。
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                   二人の出会い

 ・・・

 10月30日、安重根に対する初の取り調べ(第1回尋問)が、検察官溝淵孝雄によってハルピン総領事館で行われた。書記は岸田愛文、通訳は嘱託の園木末喜であった。残されている公判記録は、すべて漢字とカタ仮名による翻訳日本語なので、安重根の答えた韓国語の内容をそのまま伝えるものではない。この安重根の正確な経歴と真意とは、のちに獄中で書かれた自伝の「安応七歴史」をも参照しなければならないのだが、ここではまず公判記録に沿って尋問のようすをのぞいてみる。初めに、冒頭部分をしるしてみると、

問 氏名年齢身分職業住所本籍出生地ハ如何
答 氏名ハ安応七
  年齢ハ31歳
  身分ハー
  住所ハ韓国平安道平壌城外
  本籍地ハ同所
  出生地ハ同所
問 其方ハ韓国臣民カ
答 左様デアリマス
問 韓国ノ兵籍ニ就イテ居ルカ
答 兵籍ニハ就イテ居リマセヌ
問 其方ノ宗教信仰ハ如何
答 私ハ天主教信仰者デス
問 其方ハ父母妻子アリヤ
答 アリマセヌ


 このように尋問の最初から、同族や同胞へ罪が波及するのを避け、一人でその責任を背負っていこうという安重根の決意が示されている。しかし、伊藤公をなぜ敵視したのか、という問に対しては毅然と答えた。記録や安の述懐によれば、その原因つまり殺害理由はとても多いので、それらを「伊藤博文の罪状15ヶ条」として列挙させてもらいたい、として次のように述べたという

第1、10年ほど前、伊藤さんの指揮で、韓国王妃を殺害しました。
  (注)これは明治28年(1895)10月の閔妃殺害事件をさす

  ※この件に関しては、「閔妃暗殺の首謀者はソウル駐在日本公使(三浦梧楼)
  ?」(195)の項目参照
第2、5年前に伊藤さんは兵力をもって、韓国にとっては非常に不利益な、5ヶ条の
  条約を締結させました。
  (注)これは明治38年(1905)11月17日、伊藤全権大使のもとに調印された
  第2次日韓協約をさす。日本は韓国の外交権を全面委譲させ、ソウルに韓国
  統監府を置いて保護政治を強化していった。韓国併合への実質的な第一歩と
  なった条約

  ※条約関係は「日韓議定書と日韓協約(第1次~第3次)全条文」(180)の項
  目参照
第3、3年前、伊藤さんが締結した12ヶ条の条約は、韓国の軍隊にとって、非常に
   不利益なものとなりました。 
  (注)これは明治40年(1907)7月24日、伊藤初代韓国統監のもとに調印され
  た第3次日韓協約をさす。全文7ヶ条であるが、安重根は第2次協約の5ヶ条と
  合わせ12ヶ条としている。この第3次協約で、韓国の内政は統監指導下に完
  全掌握され、翌8月には韓国軍も解散させられたことをさす。

  ※この韓国軍解散の件も含め、安重根があげた15ヵ条の問題点の大部分は
  (177)~(204)の項目で、すでに取り上げている。
第4、伊藤さんは、強要して韓国皇帝を退位させました。
  (注)これは明治39年(1906)6月、ハーグ密使事件が発覚し、韓国皇帝高宗
  が伊藤統監によって退位させられたことをさす。このあと第3次日韓協約が結
  ばれた。
第5、韓国の軍隊は、伊藤さんによって解散させられました。
  (注)前述の「第3」と同じ。
第6、条約締結に韓国民が憤り、義兵が起こると、伊藤さんはこれに絡んで韓国
  の良民を多数殺させました。
第7、韓国の政治、その他の権利を奪いました。
第8、韓国の学校で用いた良好な教科書を、伊藤さんの指揮で焼却させました。
第9、韓国人民に、新聞の購読を禁止しました。
第10、充当させる財政もないのに、性質のよくない韓国の官吏に金を与え、韓国
  民には何も知らせず、しまいには第一銀行券を発行させています。
第11、韓国民に負担させる国債2300万円を募り、官吏が勝手に分配し、また韓
  国民の土地を奪いました。これは韓国民にとって、非常に不利益な事です。
第12、伊藤さんは、東洋の平和を攪乱しました。すなわち日露戦争当時から「東
  洋平和を維持するため」と言いながら、韓国皇帝を退位させるなど、当初の宣
  言とはことごとく反対の結果を見るに至り、韓国人2千万はみな憤慨しておりま
  す。 
第13、韓国が望まないのに、伊藤さんは韓国保護に名を借り、韓国政府の一部
  の者と意志を通じ、韓国に不利益な施政をいたしております。
  (注)第6からこの第13までは、韓国統監としての伊藤の「内政改革」を非難し
  たものである。
第14、伊藤さんは、42年前に、現日本皇帝の御父君に当たられる御方を害しまし
  た。そのことはみな、韓国民が知っております。
  (注)これは慶応2年(1866)12月の孝明天皇死没に、弑殺のうわさが流れた
  ことにふれたもの。が、当時の伊藤はまだ宮中に出入りできる身分ではなく、ま
  た郷里で病臥中だったので、この項目だけは安重根の間違いであるとされてい
  る。
第15、伊藤さんは、韓国民が憤慨しているにもかかわらず、日本皇帝や世界各国
  に対して「韓国は無事なり」と言って、欺いております。


 検察官溝淵孝雄は、この「伊藤の罪状15ヶ条」を聞き終わって驚いた。これは、取り調べの冒頭で答えた「人物」が語る内容ではないと内心舌をまいたのである。一つ一つが、溝淵にとっても手厳しい指摘であった。今日の現状を、的確にとらえているとも思った。

 溝淵は、安の顔をじっと見つめ、「いま、陳述を聞けば、そなたは東洋の義士というべきであろう。義士が死刑の法を受けることはあるまい。心配しないでよい」と思わず言ってしまった。が、これに対し安は「私の死生について論じないでください。ただ、私の思っていることを、ただちに日本の天皇に上奏してください。すぐにでも伊藤さんのよからぬ政略を改め、東洋危急の大勢を救ってくださることを切望いたします」と答えた。


 ・・・

  http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を示します。 

コメント (2)
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