真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ユーロマイダン革命

2024年09月24日 | 国際・政治

 現在アメリカでは、トランプ氏とハリス氏が大統領選挙で競っており、その支持率は拮抗しているといいます。でも、日本の主要メディアの報道は、ほぼ同じで、トランプ氏を支持する報道はほとんどありません。アメリカのメディアには、FOXニュースやブライトバートのようなトランプ寄りのメディアも存在するようですが、日本では、なぜか、みな同じで対立がないのです。

 トランプ氏は、バイデン政権のウクライナに対する巨額支援を批判し、”自分であれば戦争を24時間以内に終わらせる”と断言しているのに、日本のメディアはみなトランプ氏に対し批判的であり、否定的です。私は、戦争を終わらせることを本気で考えれば、トランプ氏を支持するメディアがあってしかるべきだと思います。停戦すべきだと主張しているロシアと関わりの深い鈴木宗男氏も、主要メディアはほとんど相手にしません。おかしいと思います。

 

 先日(918日)朝日新聞の「時事小言」の欄に、「討論会 自滅したトランプ氏前大統領 人種偏見 これが実像」と題する順天堂大学特任教授(国際政治)藤原帰一氏の記事が掲載されました。その結びに

米大統領選は、追い詰められたと思い込んだ白人と男性を代弁するトランプと、人種民族性別の差異を問わない連帯を訴えるハリスとの間の選択であり、他者の排除による政治と、自己と他者を含む市民社会の選択である。トランプの「正常化」に与してはならない。

 とありました。他国の大統領選に関し、ここまではっきりハリス支持の立場を明らかにして、日本の読者に訴えるのはなぜでしょうか。停戦することなくロシアを軍事的に潰すことは、”他者の排除”ではないのでしょうか。

 

 だから私は、プーチン大統領を、ウクライナ侵略を命令した悪魔のような独裁者として、よってたかって、プーチン政権を転覆しようとするウクライナ戦争には、必ずいろいろな欺瞞があると思うのです。

 今回は、「ウクライナ動乱 ソ連解体から露ウ戦争まで」松里公孝(ちくま新書1739)から「第二章 ユーロマイダン革命とその後」の「3 ユーロマイダン革命」の一部を抜萃しました。

 一つか二つの事実であれば、バイアスによる思い込みであると言われても仕方がないと思いますが、私は、数々の事実が、ユーロマイダン革命が、ヤヌコビッチ政権転覆の謀略の結果であり、また、2014年のユーロマイダン革命当初からすでに、アメリカが関わるプーチン政権転覆の意図を持った作戦であったことを物語っていると思うのです。

 例えば、下記のような記述が、あります。見逃すことのできない記述だと思います。

ここまでならウクライナ政治の日常風景である。政府のEU政策の変更に抗議することだけが目的だったら、厳寒の中でどれだけの人が座り込みを続けただろうか。

奇妙なことに、朝4時に始まった作戦なのに、インテル(フィルタシュ)、ウクライナ24(アフメトフ)、「1+1」(コロモイスキー)などオリガーク系のテレビ局のクルーが待ち構えており、警察の暴行や流血沙汰を全国放送した。大統領府か内務省から誰かが情報を流したのであろう。オリガークたちは、ユーロマイダン運動を応援することで、ヤヌコヴィチ政権を追い詰めるか打倒しようとしたのである

なお服部は、この方針転換は、アメリカ大使が富豪のアフメトフを通じて政権に圧力をかけた結果だったという説を紹介する。

 

 特に、「アフメトフ」という人物が、”SCM持株会社の創設者兼社長で(その配下にアゾフスタリ製鉄所も所有するメトインヴェストがある)、ウクライナで最も裕福な男の1人にランクされている(Wikipedia )”ということであり、また、ロシアに狙い撃ちされるような軍のための機器を生産している会社を所有しているということなので、見逃せないのです。


 そして、アメリカを中心とする西側諸国が、ヤヌコビッチ政権を転覆し、ウクライナを西側諸国と一体化させることによって、ロシアのプーチン政権をも転覆しようと意図したと考えざるを得ないことが、ほかにもいろいろあるのです。

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                   第二章 ユーロマイダン革命とその後

   3 ユーロマイダン革命

 EUアソシエイション条約調印の延期

 多くの人が誤解しているが、欧米への経済統合はウクライナの(共産党除く)政治家とオリガークの一致点・基本戦略であり、ここにおいて親欧・親露の対立などない。

 EUとウクライナの接近は、1994年にウクライナが自発的に核兵器を放棄してから始まった。この年、両者の間でパートナー合意が締結された。これをアソシエイション合意に格上げすることが、クチマ ユシチェンコ、ヤヌコヴィチ三代を通じて、ウクライナの基本外交であった。2013年、EUのヴィルニュス・サミットにおいて「深化し包括的な自由貿易協定(DC FTA)」を含むアソシエイション合意が調印される手はずになった。

 しかし、その内容は、①ウクライナの市場開放が性急に求められている。②ウクライナ経済適応のための負担に見合ったEUからの援助が約束されていない。③ウクライナでは石油ガスの国際価格に見合った公共料金を国民が払えないため、国庫から逆ザヤで援助していたが、これが「二重価格」として排除される──など、ウクライナに不利なものになっていた。

 経済的に劣位にある国が優位にある国と自由貿易協定を結ぶ際には、自国の国民経済に大きな打撃を与えないように注意すべきである。特に③を遵守すると、2015年に予定された大統領選挙の前年にヤヌコヴィチ政権は公共料金を大幅に値上げしなければならなくなる(公共料金の大幅値上げは、ポロシェンコ政権下で実際になされた)。

 私のウクライナの知人は、アザロフ首相は役人任せで、調印直前までDCFTAやアソシエイション合意の案文に目を通していなかったのではないかと疑っていた。

 当初、ヤヌコヴィチ政権は、EUとアソシエーション条約を結び、ユーラシア関税同盟にも入るという虫のいい政策を追求していたが、そのようなことになれば、ウクライナを中継点としてEUの製品がロシア、カザフスタン等にほぼ無関税で流入することになる。プーチン政権は飴と鞭を駆使して、ウクライナを翻意させようとした。

 アソシエーション合意への調印延期がその後のウクライナにもたらした災禍に鑑みて、私のウクライナ人の友人は調印だけして履行しなければよかったのに」と言っていた。たしかに、ウクライナがそのように行動したとしても誰も驚かなかっただろうし、革命も戦争も起こらなかっただろう。

 しかし、アザロフ首相は正直に行動した。1121日、EUアソシエーション合意の調印を延期することを発表したのである。

 内政の地政学化の結果として、ウクライナでは貧困、貧富格差などの社会問題を社会問題として解決しようとする政治勢力は弱体化していた。そのかわり、「EUに入れさえすれば経済は繁栄し、国家は効率化し、汚職もなくなる」と固く信じる一定の階層が形成されていた。その人々は独立広場(マイダン)で座り込みを始めた。

 

 1130日未明の暴力

 ここまでならウクライナ政治の日常風景である。政府のEU政策の変更に抗議することだけが目的だったら、厳寒の中でどれだけの人が座り込みを続けただろうか。

 事態を一変させたのは、1130日未明の警察によるピケ参加者への暴行であった。午前4時、警察隊はピケ参加者に、新年のクリスマスツリーを広場に立てるため退去することを要求した。これに従った者もいたが、数百名が拒否した。警察は実力で排除し、79人の負傷者を出した(うち7人は警官)。約30名の運動参加者が拘束された。

 奇妙なことに、朝4時に始まった作戦なのに、インテル(フィルタシュ)、ウクライナ24(アフメトフ)、「1+1」(コロモイスキー)などオリガーク系のテレビ局のクルーが待ち構えており、警察の暴行や流血沙汰を全国放送した。大統領府か内務省から誰かが情報を流したのであろう。オリガークたちは、ユーロマイダン運動を応援することで、ヤヌコヴィチ政権を追い詰めるか打倒しようとしたのである。

 なお、フィルタシュ盟友であるリョヴォチキンは「警察の暴行に抗議して」、大統領府長官を辞任した。

 ウクライナでは、独立後四半世紀、政治的対立があっても非暴力で解決してきた。それに慣れた市民にとって、1130日の事件はショックであった。EU云々は吹っ飛び、弾圧抗議、不当逮捕者釈放、責任者処罰がスローガンとなり、いわば抗議が自己目的化した。親欧運動だった頃はキエフとリヴィウでしか盛り上がっていなかったのに、「学生を流血するまで殴った」ことへの抗議に変わると同時に、ウクライナ全土、社会各層に火がついた。

 しかし、運動の広がりに反比例するように、121日には、「右翼セクター」などがキエフ市庁舎を占拠した。祖国党、「自由」など議会内右派もこれに合流してマイダン脇の労働組合会館を占拠した。

 この後、議会内野党三党の党首──ヤツェニュク(祖国党)、クリチコ(改革民主連合)、チャフヌィボク(「自由」)が、政権と街頭運動体の間を結ぶパイプになる。しかし、彼らには、次第に暴力性を増す街頭運動体を指導・統制する力はなかった。

 この後、2014218日─20日にピークを迎えるエスカレーションの経過は本書では割愛する。その特徴だけ列挙すると次の通り。

 ①ヤヌコヴィチ大統領は「抗議者の暴力はよくないが、警察の暴力にも反対」などとたびたび発言して、まるで第三者のような態度であった。暴力を放置して自然鎮静を待つにしても、天安門事件の鄧小平、10月事件(議会砲撃)時のエリツィンのように暴力的に鎮圧するにしても、国家指導者なのだから責任を負うべきではなかったか。

 ②警察幹部は、大統領の意図を測りかね、また強く鎮圧すると自分が解任されるため、次第に暴徒化する抗議行動に対し、中途半端な対応であった。

 ③どっちつかずは警察に限らなかった。例えば最高会議は2014116日に一連の弾圧法を採択したが、抗議を受けると、131日には大統領が撤回した。運動参加者は、「決然と行動すれば目標は達成できる」と再度感じただろう。なお服部は、この方針転換は、アメリカ大使が富豪のアフメトフを通じて政権に圧力をかけた結果だったという説を紹介する。

④警察隊が「ぶたれっ子」(日本語比喩では「サンドバッグ」と化す反面では、特務機関が著名活動家を誘拐してリンチにかけるなど、陰湿な弾圧が続いた。抗議者はヤヌコヴィチ指導下の国家を私的なギャングのように感じただろう。


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