最近日本では、嘆かわしいことに、民族的マイノリティ、特に在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチや差別落書きなどが、後を絶たない状況のようである。安倍政権の強硬路線によって、靖国参拝問題や「従軍慰安婦」問題、さらには竹島をめぐる領土問題や「安重根」記念館問題など、歴史認識に関わる問題での対立が深まり、それを背景として、営利を目的とした週刊誌などのメディアが、扇情的な報道を繰り返し、次々に出版される著作物が「嫌韓」「反韓」「憎韓」などをかき立てて、民族差別を煽っているからであろう。朝鮮学校の高校無償化法からの排除など、国や自治体の決定も、人々の差別・排除意識を助長してしまっていると思う。
相変わらず、日本の「従軍慰安婦」問題など、過去の不都合な事実をなかったことにしようとする主張が繰り返されているが、そうした主張は、世界では通用しないし、日本の孤立化を招くだけであろう。日韓や日中の関係改善のためには、真摯に過去に向き合い、共通の歴史認識をもとめて協力するしかないのだと思う。
ここで取り上げるのは、以前にも取り上げたことがあるが、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃、明成皇后(閔妃)殺害事件である。昔の事件であるとはいえ、当時の日本の指導者層の韓国に対する所業が、いかに理不尽なものであったかを思い知らされる事件である。伊藤博文を殺害した安重根も、「伊藤博文の罪状15ヶ条」の最初にこの事件を取り上げている。こうした事実をなかったことにして、「嫌韓」・
「憎韓」「反韓」の流れに沿って、「愛国心」を語る政権の危うさを指摘せざるを得ない。
下記は、いずれも明成皇后(閔妃)殺害事件に関わる日本人関係者の文章であり、まさに動かぬ証拠であるといえる。事件の背景に、興宣大院君と閔妃の権力闘争があったとはいえ、他国の王妃を殺害するなどということは許されることではない。「日本の韓国併合」山辺健太郎(太平出版社)からの抜粋である
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Ⅶ 閔妃事件について
1 閔妃事件とは何か
閔妃事件というのは、1895(明治28)年10月8日、一団の日本軍隊と日本の民間人がソウルにあった朝鮮王宮に侵入して、王妃を殺した事件である。
・・・
そこで私は、まず事件当日のもようを、当時ソウル駐在の一等領事内田定槌の談話から再現させることにしよう。
私ハ其ノ頃領事館ニ住ンデ居ツタガ、或ル朝(明治28年10月8日)ケタタマシイ銃声ニ眠リヲ破ラレタ。窓ヲ開クト未ダ夜ハ明ケ切ラヌ館内ニハ警察署ガアツタノデ、何事ガ起ツタカト巡査ニ訊イタガ、知ラヌト言フ。荻原警部ヲ起シニ行ツタガ、其ノ室ニ居ラヌ。厩舎ヘ行クト私ノ馬ガ見エナイ。ドウシタカトイ巡査ニ訊クト、警部ガ乗ツテ行キマシタト言フ。其ノ中ニ銃声ハ止ンダ。近クニハ新納少佐ト云フ海軍ノ公使館附武官ガ居ツタノデ、ソコヘ行ツテ訊イテ見タガ、何ノコトカ分ラヌト言フ。
又当時ノ外交官補日置益君モ近クニ居ツタガ、矢張リチツトモ知ラヌト言フ。
ソウシテ居ル中ニ、血刀ヲ提ゲタ連中ガ帰ツテ来テ新納少佐ノ所ヘ報告ニ行ツタ。私モソコヘ行ツテ話ヲ聞イタガ、其ノ連中ハ昨夜王城ニ侵入シテ王妃ヲ殺シタノダト云フ。ドウシテ行ツタノダト尋ネルト、最初ハ大院君(国王ノ父デ王妃トハ犬猿ノ間柄デアッタ人)ガ朝鮮人ヲ率ヰテ王城ニ侵入シ王妃ヲ殺ス筈ダッタ。ソレニ就テハ前カラ種々策謀ガアツタ。例ノ岡本柳之助ガ参謀デ大院君ヲ引ツ張リ出スノガ一番宜シカラウト云フコトニナリ、岡本ガ大院君ニ勧メテ行ツタ。其ノ時一緒ニ勧メニ行ツタノガ領事官補ノ堀口(九万一)君。同君ハ朝鮮語ハ出来ナイケレトモ漢文ニ通ジ文章ガ達者ナノデ筆談ヲシタ。其ノ結果大院君モソレデハ君側ノ奸ヲ倒ス為ニ起タウト承諾シタ。最初ノ計画デハ夜半ニ日本ノ兵隊ト警察官ガ大院君ヲ先頭ニ立テ、王城ニ入リ朝鮮人ガ王妃ヲ殺害スル筈デアツタガ、大院君ハ仲々出テコナイ。京城郊外ノ大院君ノ邸ヘ岡本ヤ堀口ガ夜中ニ行ツテ促ソウトシタガ、大院君ハ仲々出テコナイ愚図々々シテ居ルト夜ガ明ケ始メタノデ、多勢ノ日本人ノ壮士等モ一緒ニナッテ無理矢理ニ大院君ヲ引ッ張リダシ真先ニ守リ立テテ王城ニ向ツタ。王城侵入ノ際護衛兵ガ発砲シテ抵抗シタケレトモ日本兵ガ之ヲ追ヒ散ラシ城内ニ入ツタ。
サウ云フ死骸ノ始末ニ付テハ関係人カラ後デ聞イタノダガ、兎ニ角私ハ非常ニ困ツタ。公使ニ会ツテ話ヲ聞ケバ万事分ルダラウト思ツテ公使館ヘ出掛ケタカ、公使ハ、一寸待ツテ呉レト云フコトデ直グニ会ハナイ。公使ハ2階ニ居リ、私ハ下ノ待合室デ待ツテ居ルト、2階デ頻リニ鐘ノ音ガスル。妙ナコトダト思ツテ居ルト、20分バカリシテ2階ヘ通サレタ。スルト公使ハ床ニ不動明王ノ像ヲ飾ツテ灯明ヲ上ゲテ拝ンデ居ル。ソコデ私ハ「大変ナ騒ギニナリマシタネ」ト言フト、公使ハ「イヤ是デ朝鮮モ愈々日本ノモノニナツタ。モウ安心ダ」ト言フ。ソレデ私ハ「併シ是ハ大変ナコトデス。日本人ガ血刀ヲ提ゲテ白昼公然京城ノ街ヲ歩ツテ居ルノヲ朝鮮人ハ素ヨリ外国人モ見タニ相違ナイカラ日本人ガ此事変ニ関係シタコトハ隠スコトハ出来マセヌ。併シ日本ノ兵隊ヤ警察官、公使館員、領事館員等ガ之ニ関係シタコトハドウニカシテ隠シタイト思フガ、ソレニ就テハドウ云フ方法ヲ講ジタラ宜イデセウ」ト言ツタガ、公使ハ「俺モ今ソレヲ考ヘテ居ルノダ」ト言ハレタ。
公使ト話シテ居ル中ニ露国公使ガ血眼ニナツテヤツテ来タノデ私ハ席ヲ外シタガ、露国公使ガ帰ツテカラ再ビ2階ヘ上ツテ見ルト、公使ハ非常ニ悄レテシマツテ居ル。ソコデ私ハ、日本人ガ関係シタコトダケハ何トシテモ隠蔽シナケレバナルマイト繰返シ言ツテ公使ト別レタガ、偖テソレカラドウシタラ宜シイカ考ヘガ付カヌ。外務省ヘ知ラセヨウト思ツテモ電信ハ公使館ノ命令デ差止メラレテシマツテ居ル。公使館以外ノ者ハ一切電報ヲ打ツコトヲ差止メラレテシマツタノデ私モ無論電信ヲ出スコトハ出来ナイ。後デ聞ケバ「昨夜王城ニ変アリ王妃行衛ヲ知ラズ」ト云フ電報ヲ公使館カラ外務省ヘ送ツタサウダガ、ソレ切リ止メテシマツタノデ私ハドウスルコトモ出来ナカツタ。
其ノ中ニ堀口君ヤ警部ガ帰ツテ来タノデ堀口君ニ「君ハ大変ナコトヲヤッタガ、アトハドウスル積リカ、僕ニハ此ノ始末ハ出来ナイ」ト言ツタラ、何トモ答ヘナイデ黙ツテ居ル。矢張リドウシテ宜シノカ分カラナイノダ。ソコデ私ハ「僕ノ考ヘデハ是ハドウシテモ日本政府ニ始末ヲ委スヨリ他ハナイ。併シソレニハ日本ノ外務省ガ事実ヲ能ク知ラネバナラヌトコロガ外務省カラ何ヲ言ツテ来テモ公使館カラハ返事モヤラナイヨウナ状態デハ外務省デモ真相ヲ掴ミ得マイ。君ハ最初カラ事件ノ真相ヲ知ツテ居ルヨウダカラ、スッカリ其ノ始末ヲ書イテ本省ニ報告シテ呉レ」ト言ツタスルト堀口君ハ達筆ナノデ直グ長イ報告ヲ書イテ特使デアツタカ郵便デアツタカハハッキリ記憶シナイガ兎ニ角本省ニ送ツタ。
其ノ話ヲシテ居ル間ニ、突然昨夜王城に変アリ云々ノ電報ガ来タノダ。併シソレカラ引続キ詳報ヲ何モ送ラナイノデ顛末ガ分ラナカツタガ、堀口君ノ報告書ガ行ツテ初メテ驚イテシマツタラシイ。ソレデ其ノ善後策ヲ講ズル為ニ小村政務局長ガ朝鮮ニ出張ヲ命ゼラレタノダ。
私モ申訳ナイカラ進退伺ヒヲ出ソウト思フト小村局長ニ話シタラ、君ハ何モ関係ナイカラソンナコトヲスル必要ハナイト云フヤウナ訳デ出サナカツタ。小村局長ノ考ヘデハ、此ノ事件ハ京城デハ処分出来ナイカラ日本デ処分スルヨリ他ナイト云フコトニナリ、関係者ハ皆日本ヘ帰スコトニナツタ。公使館員モ軍人モ関係シタ者ハ皆召還シ、民間人ハ在留禁止、退韓ヲ命ズルコトニナツタガ、其ノ命令ヲ出スノハ領事タル私ガ言ヒ付カツタ。其ノ時在留禁止ヲ命ジタノハ47人アツタト思フガ、ソレ等ノ人間ヲ一々呼出シテ命令ヲ渡シタ。トコロガ皆大イニ其ノ時喜ンデ居タ。
殊ニ岡本柳之助トハ、私ハ斯ウ云ウコトヲシタノタカラドンナ処分ヲ受ケテモ仕方ナイノニ、在留禁止デ済メバ非常ニ有難イト言ツテ喜ビ、其ノ他ノ壮士連モ皆有難ク在留禁止命令ヲ御受ケシタ。安藤謙蔵氏ナトモ矢張リ此壮士連ノ首領株ダツタガ、ソレ等ノ連中ハ皆公使館ノ人々、陸軍々人等ト一緒ニ京城ヲ立ツテ仁川カラ船ニ乗ツタ。船ノ名前ハ忘レタガ、皆大イニ手柄ヲ立テテ、勲章デモ貰ヘル積リダツタラウカ喜ビ勇ンデ内地ヘ向ツタ。トコロガ宇品ヘ着ヤ否ヤ皆縛ラレテ牢ニ入レラレ、広島地方裁判所テ裁判ヲ受ケルコトノニナツタ。
広島デ王妃殺害事件ノ公判ガ進行シテ居ル間ニ、朝鮮国王ハ王宮ヲ脱出シテ露国公使館ニ逃ゲ込ンダ。(注=露館播遷ハ29年2月11日、三浦等の免訴釈放は1月20日。故にこの談話は事実とちがう)ソレハ露国公使館員ガ朝鮮宮内官ト通牒シテヤツタ仕事デアツタ。ソレカラ又「アメリカ」ノ宣教師ト朝鮮人ガ一緒ニナツテ日本党ノ人々ヲ暗殺スル陰謀ヲ企テタガ、ソレハ朝鮮政府ノ当局ガ皆犯人ヲ逮捕シ処分シテシマツタ。サウ云フ事件ガ次カラ次ニ起ツタノデ日本ノ方デモ、露国人ヤ米国人ガソンナ陰謀ヲ企テル空気中ニ於テハ日本人ノ犯罪ニ限リ厳重ニ検挙スル政策ヲ執ル必要ハナイト云フヤウナ論議ガ起ツテ来タ。ソレニ又一方朝鮮当局ノ方デモ王妃殺害事件ノ審理ヲ遂ゲタル処王妃殺害者ハ朝鮮人ノ何某ト決定シ既ニ死刑ニ処セラレタカラ、日本ノ裁判所ガ本件ヲ審理スル必要ハナイト云フ理由デ被告人ハ一同無罪放免ニ決定シタ。
併シ当時私ハ非常ニ苦シイ立場ニ在ツタ。ソレト云フノハ領事タル私ハ広島地方裁判所ノ嘱託ニヨリ予審判事ノ職ヲ勤メナケレバナラナカツタ。本件ノ関係人ハ公使館員初メ壮士ノ連中モ皆平素私ノ知ツテ居ル人々デ、ソレ等ノ人々ノ犯行ヲ一々調査シナケレバナラヌノニハ私モ大変困ツタ。併シ領事館巡査ノ中一番朝鮮語ガ上手デ最初カラ事件ニ関係シテ居ツタ渡辺応次郎巡査ダケハ内地ヘ帰サナカツタノデ、広島裁判所ノ依頼ニ依ツテ取調ヲスル時ニハ、其ノ巡査ニ命シ王城内ノ実地ヲ調ベサセテ報告モアル。
要スルニ、表面ハ朝鮮人ガ王妃ヲ殺シタコトニナツテ居ルケレドモ、実際ハ右ニ述ベタヤウナ次第デアツタ。
・・・
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2 事件の真相
以上のことはこれまでだいたい知られていたことである。その奥にある真相はまだ知られていない。私はつぎにこの事件についていままで知られていない2~3の事実をここに紹介しよう。当時ソウルにいた内田領事が外務省に送った報告書のなかで、この事件の善後策についてつぎのようにいっている。
事変後既ニ数日ヲ経テ日本人ノ之ニ関係セシコト最早隠レナキ事実ニ相成候ニモ拘ハラス尚当館ニ於テ公然其取調ニ着手不致候テハ外国人ニ対シテモ甚タ不体裁ニ付キ10月12日ヨ至リ先ツ警察官ヲシテ関係者ノ口述ヲ取ラシムルコトニ致候処杉村書記官ハ其意ヲ国友重章ニ伝ヘ関係者中甘ンシテ我警察ノ取調ヲ受クヘキ者ノ姓名ヲ選出セシメタルニ即チ別紙第5号及第6号写ノ通リ申出テ尚取調ヲ受ケタル節ハ別紙7号ノ通リ同一ノ申立ヲ致スヘキ様彼等ノ間ニ申合ハセシメタリ
要するに、世間体がわるいから見せかけだけの取調べをやるが、そのときの陳述内容は、「同一の申立」をするように「申合」をやらせた、というのである。ここにいう別紙第5号とは、杉村書記官からの要請にたいして、国友重章が差し出した手紙で、このなかにすすんで兇行者であることを名のりでる予定になった者の氏名をあげている。第6号は兇行者として、藤勝顕の名を追加しただけであった。
事件の真相を知るうえにもたいせつな資料だと思うので、全文引用しておく。
別紙第5号
拝啓仕候先刻之御話ニ従ヒ色々評議之末別紙ノ人名ハ何時御召喚有之候共差支無之候間左様御承知可被下候尚願クハ明日直ニ御開始有之候様希望致候先以書中草々如此御座候 頓首
10月11日夜 国友重章
杉村 清殿
ここにいう別紙の人名とは次の者であった。すなわち、
国友重章、月成光、広田止善、前田俊蔵、平山岩彦、隅部米吉、沢村雅夫、武田範之、吉田友吉、片野猛雄、大嵜正吉
以上11人に藤が加わり12人になったわけである。
領事の命令で、「同一申立」をするためにやった「申合」の内容というのは、つぎのようなもので実に人を馬鹿にしたものであった。
一、私交上○○君ノ依頼ヲ受ケテ随行入闕シタル者ナリ而シテ右ハ全ク自己ノ意
思ニ出テタリ
一、依頼ノ趣意ハ単ニ随行ト云フコトナリシモ○○君ノ真意ハ途中安心ノ為メ同行
ヲモトメシコトナラン我々モ亦之ヲ黙諾シテ応ゼシコトナリ
一、途中宮門ニ至ル迄ハ何事も無カリシガ光化門前ニ至リテ朝鮮兵相互ノ小戦興
レリ右小戦ハ蓋シ訓練隊ガ強テ入闕セントシタルヲ侍衛隊又ハ宮中巡査ハ 中ヨリ之ヲ拒ミ終ニ争戦ニ及ヒタルコトト思考セリ是時我々ハ唯○○君ニ危害 ノ及ハザランコトニノミ注意セリ
一、○○君入闕ノ趣意ハ全ク榜文ト同様ノ事ナ館リシ而シテ我々ハ之ヲ黙諾シテ
随行シタルモノナリ
一、○○君同行ノ時朝鮮人モ多数随行シ其中日本服ヲ着シタル朝鮮人モ大分見
受ケタリ
一、宮内ニ於テ騒擾興リ之ガ為メニ2、3ノ死傷者アルヲ目撃シタリ然レトモ右ハ全
ク韓服若クハ和服ノ朝鮮人等之ヲ為セシコトニテ且ツ現ニ朝鮮人ノ抜刀シテ
人ヲ殺害スルヲ見タルモノアリ尤モ未明及ビ困難ノ際ナレバ明白ニ之ヲ認ム
ルヲ得サリシ
一、我々ノ内ニモ自防及大院君防衛ノ為メ抜刀シタルモノ見受ケタルモ其誰タルヲ
詳ニセス天明ノ後チ見物ノ為メカ多数ノ日本人及洋人ヲ見受ケタリ但シ某人
分ハ詳ナラス
一、大院君無事入闕シ且ツ騒擾モ鎮静ニ帰シタルニ付同君ニ別レヲ告ケテ退闕
セリ
つまり、取調べる方から命令して、11人の容疑者がみな右のような主旨の陳述をする「申合」をしたわけである。
・・・
井上理事の報告にある「王妃殺害ノ下手者ト見込寺崎某」は一名高橋源次といい、この男が閔妃を殺した下手人であることは、本人のつぎの手記もこれを認めている。
拝呈仕候昨夜来失敬仕候陳者今朝ハ粗暴之挙止実以慙愧之至ニ御座候 宮中口吟
国家衰亡兆無理 満朝真無一忠臣
宮中暗澹雲深処 不斬讎敵斬美人
実ニ面目次第モ無之只今迄欝憂罷在候処今一友ノ話ニ依レハ或ハ王妃ナリト然共疑念ニ堪ヘス候故此儀真否御承知ニ御座候ハバ御一報被成下度奉万願候
10月8日 高橋源次
再拝
鈴木重元様
呈梧下
ここにいう「不斬讎敵斬美人」というのは、後宮の一室におしいり、戸をこじあけて2人の若い美人を引きだして斬殺したが、その2人の年齢が閔妃にしては若すぎるように見えたことと、だれも閔妃の顔を知らなかったので、一時は、人違いか思った、このことをさすのだろう。…
・・・(以下略)
---------------------------------
3 事件と日本軍隊
・・・
…当時韓国政府の顧問をしていた石塚英蔵から末松法制局長官にあてた報告書によると、このゴロツキどもは閔妃の死体を凌辱したらしい。
その報告書には「王妃ヲ引キ出シ23ケ処刃傷ニ及ヒ且ツ裸体トシ局部検査(可笑又可怒)ヲ為シ最後ニ油ヲ注キ焼失セル等誠ニ之ヲ筆ニスルニ忍ヒサルナリ其他宮内大臣ハ頗ル惨酷ナル方法ヲ以テ殺害シタリト云フ右ハ士官モ手伝ヘタレ共主トシテ兵士外日本人ノ所為ニ係ルモノノ如シ」と書いてある。
このように、閔妃事件というのは、日本帝国主義が朝鮮で犯した罪悪のうちもっともひどいものであった。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
相変わらず、日本の「従軍慰安婦」問題など、過去の不都合な事実をなかったことにしようとする主張が繰り返されているが、そうした主張は、世界では通用しないし、日本の孤立化を招くだけであろう。日韓や日中の関係改善のためには、真摯に過去に向き合い、共通の歴史認識をもとめて協力するしかないのだと思う。
ここで取り上げるのは、以前にも取り上げたことがあるが、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃、明成皇后(閔妃)殺害事件である。昔の事件であるとはいえ、当時の日本の指導者層の韓国に対する所業が、いかに理不尽なものであったかを思い知らされる事件である。伊藤博文を殺害した安重根も、「伊藤博文の罪状15ヶ条」の最初にこの事件を取り上げている。こうした事実をなかったことにして、「嫌韓」・
「憎韓」「反韓」の流れに沿って、「愛国心」を語る政権の危うさを指摘せざるを得ない。
下記は、いずれも明成皇后(閔妃)殺害事件に関わる日本人関係者の文章であり、まさに動かぬ証拠であるといえる。事件の背景に、興宣大院君と閔妃の権力闘争があったとはいえ、他国の王妃を殺害するなどということは許されることではない。「日本の韓国併合」山辺健太郎(太平出版社)からの抜粋である
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Ⅶ 閔妃事件について
1 閔妃事件とは何か
閔妃事件というのは、1895(明治28)年10月8日、一団の日本軍隊と日本の民間人がソウルにあった朝鮮王宮に侵入して、王妃を殺した事件である。
・・・
そこで私は、まず事件当日のもようを、当時ソウル駐在の一等領事内田定槌の談話から再現させることにしよう。
私ハ其ノ頃領事館ニ住ンデ居ツタガ、或ル朝(明治28年10月8日)ケタタマシイ銃声ニ眠リヲ破ラレタ。窓ヲ開クト未ダ夜ハ明ケ切ラヌ館内ニハ警察署ガアツタノデ、何事ガ起ツタカト巡査ニ訊イタガ、知ラヌト言フ。荻原警部ヲ起シニ行ツタガ、其ノ室ニ居ラヌ。厩舎ヘ行クト私ノ馬ガ見エナイ。ドウシタカトイ巡査ニ訊クト、警部ガ乗ツテ行キマシタト言フ。其ノ中ニ銃声ハ止ンダ。近クニハ新納少佐ト云フ海軍ノ公使館附武官ガ居ツタノデ、ソコヘ行ツテ訊イテ見タガ、何ノコトカ分ラヌト言フ。
又当時ノ外交官補日置益君モ近クニ居ツタガ、矢張リチツトモ知ラヌト言フ。
ソウシテ居ル中ニ、血刀ヲ提ゲタ連中ガ帰ツテ来テ新納少佐ノ所ヘ報告ニ行ツタ。私モソコヘ行ツテ話ヲ聞イタガ、其ノ連中ハ昨夜王城ニ侵入シテ王妃ヲ殺シタノダト云フ。ドウシテ行ツタノダト尋ネルト、最初ハ大院君(国王ノ父デ王妃トハ犬猿ノ間柄デアッタ人)ガ朝鮮人ヲ率ヰテ王城ニ侵入シ王妃ヲ殺ス筈ダッタ。ソレニ就テハ前カラ種々策謀ガアツタ。例ノ岡本柳之助ガ参謀デ大院君ヲ引ツ張リ出スノガ一番宜シカラウト云フコトニナリ、岡本ガ大院君ニ勧メテ行ツタ。其ノ時一緒ニ勧メニ行ツタノガ領事官補ノ堀口(九万一)君。同君ハ朝鮮語ハ出来ナイケレトモ漢文ニ通ジ文章ガ達者ナノデ筆談ヲシタ。其ノ結果大院君モソレデハ君側ノ奸ヲ倒ス為ニ起タウト承諾シタ。最初ノ計画デハ夜半ニ日本ノ兵隊ト警察官ガ大院君ヲ先頭ニ立テ、王城ニ入リ朝鮮人ガ王妃ヲ殺害スル筈デアツタガ、大院君ハ仲々出テコナイ。京城郊外ノ大院君ノ邸ヘ岡本ヤ堀口ガ夜中ニ行ツテ促ソウトシタガ、大院君ハ仲々出テコナイ愚図々々シテ居ルト夜ガ明ケ始メタノデ、多勢ノ日本人ノ壮士等モ一緒ニナッテ無理矢理ニ大院君ヲ引ッ張リダシ真先ニ守リ立テテ王城ニ向ツタ。王城侵入ノ際護衛兵ガ発砲シテ抵抗シタケレトモ日本兵ガ之ヲ追ヒ散ラシ城内ニ入ツタ。
サウ云フ死骸ノ始末ニ付テハ関係人カラ後デ聞イタノダガ、兎ニ角私ハ非常ニ困ツタ。公使ニ会ツテ話ヲ聞ケバ万事分ルダラウト思ツテ公使館ヘ出掛ケタカ、公使ハ、一寸待ツテ呉レト云フコトデ直グニ会ハナイ。公使ハ2階ニ居リ、私ハ下ノ待合室デ待ツテ居ルト、2階デ頻リニ鐘ノ音ガスル。妙ナコトダト思ツテ居ルト、20分バカリシテ2階ヘ通サレタ。スルト公使ハ床ニ不動明王ノ像ヲ飾ツテ灯明ヲ上ゲテ拝ンデ居ル。ソコデ私ハ「大変ナ騒ギニナリマシタネ」ト言フト、公使ハ「イヤ是デ朝鮮モ愈々日本ノモノニナツタ。モウ安心ダ」ト言フ。ソレデ私ハ「併シ是ハ大変ナコトデス。日本人ガ血刀ヲ提ゲテ白昼公然京城ノ街ヲ歩ツテ居ルノヲ朝鮮人ハ素ヨリ外国人モ見タニ相違ナイカラ日本人ガ此事変ニ関係シタコトハ隠スコトハ出来マセヌ。併シ日本ノ兵隊ヤ警察官、公使館員、領事館員等ガ之ニ関係シタコトハドウニカシテ隠シタイト思フガ、ソレニ就テハドウ云フ方法ヲ講ジタラ宜イデセウ」ト言ツタガ、公使ハ「俺モ今ソレヲ考ヘテ居ルノダ」ト言ハレタ。
公使ト話シテ居ル中ニ露国公使ガ血眼ニナツテヤツテ来タノデ私ハ席ヲ外シタガ、露国公使ガ帰ツテカラ再ビ2階ヘ上ツテ見ルト、公使ハ非常ニ悄レテシマツテ居ル。ソコデ私ハ、日本人ガ関係シタコトダケハ何トシテモ隠蔽シナケレバナルマイト繰返シ言ツテ公使ト別レタガ、偖テソレカラドウシタラ宜シイカ考ヘガ付カヌ。外務省ヘ知ラセヨウト思ツテモ電信ハ公使館ノ命令デ差止メラレテシマツテ居ル。公使館以外ノ者ハ一切電報ヲ打ツコトヲ差止メラレテシマツタノデ私モ無論電信ヲ出スコトハ出来ナイ。後デ聞ケバ「昨夜王城ニ変アリ王妃行衛ヲ知ラズ」ト云フ電報ヲ公使館カラ外務省ヘ送ツタサウダガ、ソレ切リ止メテシマツタノデ私ハドウスルコトモ出来ナカツタ。
其ノ中ニ堀口君ヤ警部ガ帰ツテ来タノデ堀口君ニ「君ハ大変ナコトヲヤッタガ、アトハドウスル積リカ、僕ニハ此ノ始末ハ出来ナイ」ト言ツタラ、何トモ答ヘナイデ黙ツテ居ル。矢張リドウシテ宜シノカ分カラナイノダ。ソコデ私ハ「僕ノ考ヘデハ是ハドウシテモ日本政府ニ始末ヲ委スヨリ他ハナイ。併シソレニハ日本ノ外務省ガ事実ヲ能ク知ラネバナラヌトコロガ外務省カラ何ヲ言ツテ来テモ公使館カラハ返事モヤラナイヨウナ状態デハ外務省デモ真相ヲ掴ミ得マイ。君ハ最初カラ事件ノ真相ヲ知ツテ居ルヨウダカラ、スッカリ其ノ始末ヲ書イテ本省ニ報告シテ呉レ」ト言ツタスルト堀口君ハ達筆ナノデ直グ長イ報告ヲ書イテ特使デアツタカ郵便デアツタカハハッキリ記憶シナイガ兎ニ角本省ニ送ツタ。
其ノ話ヲシテ居ル間ニ、突然昨夜王城に変アリ云々ノ電報ガ来タノダ。併シソレカラ引続キ詳報ヲ何モ送ラナイノデ顛末ガ分ラナカツタガ、堀口君ノ報告書ガ行ツテ初メテ驚イテシマツタラシイ。ソレデ其ノ善後策ヲ講ズル為ニ小村政務局長ガ朝鮮ニ出張ヲ命ゼラレタノダ。
私モ申訳ナイカラ進退伺ヒヲ出ソウト思フト小村局長ニ話シタラ、君ハ何モ関係ナイカラソンナコトヲスル必要ハナイト云フヤウナ訳デ出サナカツタ。小村局長ノ考ヘデハ、此ノ事件ハ京城デハ処分出来ナイカラ日本デ処分スルヨリ他ナイト云フコトニナリ、関係者ハ皆日本ヘ帰スコトニナツタ。公使館員モ軍人モ関係シタ者ハ皆召還シ、民間人ハ在留禁止、退韓ヲ命ズルコトニナツタガ、其ノ命令ヲ出スノハ領事タル私ガ言ヒ付カツタ。其ノ時在留禁止ヲ命ジタノハ47人アツタト思フガ、ソレ等ノ人間ヲ一々呼出シテ命令ヲ渡シタ。トコロガ皆大イニ其ノ時喜ンデ居タ。
殊ニ岡本柳之助トハ、私ハ斯ウ云ウコトヲシタノタカラドンナ処分ヲ受ケテモ仕方ナイノニ、在留禁止デ済メバ非常ニ有難イト言ツテ喜ビ、其ノ他ノ壮士連モ皆有難ク在留禁止命令ヲ御受ケシタ。安藤謙蔵氏ナトモ矢張リ此壮士連ノ首領株ダツタガ、ソレ等ノ連中ハ皆公使館ノ人々、陸軍々人等ト一緒ニ京城ヲ立ツテ仁川カラ船ニ乗ツタ。船ノ名前ハ忘レタガ、皆大イニ手柄ヲ立テテ、勲章デモ貰ヘル積リダツタラウカ喜ビ勇ンデ内地ヘ向ツタ。トコロガ宇品ヘ着ヤ否ヤ皆縛ラレテ牢ニ入レラレ、広島地方裁判所テ裁判ヲ受ケルコトノニナツタ。
広島デ王妃殺害事件ノ公判ガ進行シテ居ル間ニ、朝鮮国王ハ王宮ヲ脱出シテ露国公使館ニ逃ゲ込ンダ。(注=露館播遷ハ29年2月11日、三浦等の免訴釈放は1月20日。故にこの談話は事実とちがう)ソレハ露国公使館員ガ朝鮮宮内官ト通牒シテヤツタ仕事デアツタ。ソレカラ又「アメリカ」ノ宣教師ト朝鮮人ガ一緒ニナツテ日本党ノ人々ヲ暗殺スル陰謀ヲ企テタガ、ソレハ朝鮮政府ノ当局ガ皆犯人ヲ逮捕シ処分シテシマツタ。サウ云フ事件ガ次カラ次ニ起ツタノデ日本ノ方デモ、露国人ヤ米国人ガソンナ陰謀ヲ企テル空気中ニ於テハ日本人ノ犯罪ニ限リ厳重ニ検挙スル政策ヲ執ル必要ハナイト云フヤウナ論議ガ起ツテ来タ。ソレニ又一方朝鮮当局ノ方デモ王妃殺害事件ノ審理ヲ遂ゲタル処王妃殺害者ハ朝鮮人ノ何某ト決定シ既ニ死刑ニ処セラレタカラ、日本ノ裁判所ガ本件ヲ審理スル必要ハナイト云フ理由デ被告人ハ一同無罪放免ニ決定シタ。
併シ当時私ハ非常ニ苦シイ立場ニ在ツタ。ソレト云フノハ領事タル私ハ広島地方裁判所ノ嘱託ニヨリ予審判事ノ職ヲ勤メナケレバナラナカツタ。本件ノ関係人ハ公使館員初メ壮士ノ連中モ皆平素私ノ知ツテ居ル人々デ、ソレ等ノ人々ノ犯行ヲ一々調査シナケレバナラヌノニハ私モ大変困ツタ。併シ領事館巡査ノ中一番朝鮮語ガ上手デ最初カラ事件ニ関係シテ居ツタ渡辺応次郎巡査ダケハ内地ヘ帰サナカツタノデ、広島裁判所ノ依頼ニ依ツテ取調ヲスル時ニハ、其ノ巡査ニ命シ王城内ノ実地ヲ調ベサセテ報告モアル。
要スルニ、表面ハ朝鮮人ガ王妃ヲ殺シタコトニナツテ居ルケレドモ、実際ハ右ニ述ベタヤウナ次第デアツタ。
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2 事件の真相
以上のことはこれまでだいたい知られていたことである。その奥にある真相はまだ知られていない。私はつぎにこの事件についていままで知られていない2~3の事実をここに紹介しよう。当時ソウルにいた内田領事が外務省に送った報告書のなかで、この事件の善後策についてつぎのようにいっている。
事変後既ニ数日ヲ経テ日本人ノ之ニ関係セシコト最早隠レナキ事実ニ相成候ニモ拘ハラス尚当館ニ於テ公然其取調ニ着手不致候テハ外国人ニ対シテモ甚タ不体裁ニ付キ10月12日ヨ至リ先ツ警察官ヲシテ関係者ノ口述ヲ取ラシムルコトニ致候処杉村書記官ハ其意ヲ国友重章ニ伝ヘ関係者中甘ンシテ我警察ノ取調ヲ受クヘキ者ノ姓名ヲ選出セシメタルニ即チ別紙第5号及第6号写ノ通リ申出テ尚取調ヲ受ケタル節ハ別紙7号ノ通リ同一ノ申立ヲ致スヘキ様彼等ノ間ニ申合ハセシメタリ
要するに、世間体がわるいから見せかけだけの取調べをやるが、そのときの陳述内容は、「同一の申立」をするように「申合」をやらせた、というのである。ここにいう別紙第5号とは、杉村書記官からの要請にたいして、国友重章が差し出した手紙で、このなかにすすんで兇行者であることを名のりでる予定になった者の氏名をあげている。第6号は兇行者として、藤勝顕の名を追加しただけであった。
事件の真相を知るうえにもたいせつな資料だと思うので、全文引用しておく。
別紙第5号
拝啓仕候先刻之御話ニ従ヒ色々評議之末別紙ノ人名ハ何時御召喚有之候共差支無之候間左様御承知可被下候尚願クハ明日直ニ御開始有之候様希望致候先以書中草々如此御座候 頓首
10月11日夜 国友重章
杉村 清殿
ここにいう別紙の人名とは次の者であった。すなわち、
国友重章、月成光、広田止善、前田俊蔵、平山岩彦、隅部米吉、沢村雅夫、武田範之、吉田友吉、片野猛雄、大嵜正吉
以上11人に藤が加わり12人になったわけである。
領事の命令で、「同一申立」をするためにやった「申合」の内容というのは、つぎのようなもので実に人を馬鹿にしたものであった。
一、私交上○○君ノ依頼ヲ受ケテ随行入闕シタル者ナリ而シテ右ハ全ク自己ノ意
思ニ出テタリ
一、依頼ノ趣意ハ単ニ随行ト云フコトナリシモ○○君ノ真意ハ途中安心ノ為メ同行
ヲモトメシコトナラン我々モ亦之ヲ黙諾シテ応ゼシコトナリ
一、途中宮門ニ至ル迄ハ何事も無カリシガ光化門前ニ至リテ朝鮮兵相互ノ小戦興
レリ右小戦ハ蓋シ訓練隊ガ強テ入闕セントシタルヲ侍衛隊又ハ宮中巡査ハ 中ヨリ之ヲ拒ミ終ニ争戦ニ及ヒタルコトト思考セリ是時我々ハ唯○○君ニ危害 ノ及ハザランコトニノミ注意セリ
一、○○君入闕ノ趣意ハ全ク榜文ト同様ノ事ナ館リシ而シテ我々ハ之ヲ黙諾シテ
随行シタルモノナリ
一、○○君同行ノ時朝鮮人モ多数随行シ其中日本服ヲ着シタル朝鮮人モ大分見
受ケタリ
一、宮内ニ於テ騒擾興リ之ガ為メニ2、3ノ死傷者アルヲ目撃シタリ然レトモ右ハ全
ク韓服若クハ和服ノ朝鮮人等之ヲ為セシコトニテ且ツ現ニ朝鮮人ノ抜刀シテ
人ヲ殺害スルヲ見タルモノアリ尤モ未明及ビ困難ノ際ナレバ明白ニ之ヲ認ム
ルヲ得サリシ
一、我々ノ内ニモ自防及大院君防衛ノ為メ抜刀シタルモノ見受ケタルモ其誰タルヲ
詳ニセス天明ノ後チ見物ノ為メカ多数ノ日本人及洋人ヲ見受ケタリ但シ某人
分ハ詳ナラス
一、大院君無事入闕シ且ツ騒擾モ鎮静ニ帰シタルニ付同君ニ別レヲ告ケテ退闕
セリ
つまり、取調べる方から命令して、11人の容疑者がみな右のような主旨の陳述をする「申合」をしたわけである。
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井上理事の報告にある「王妃殺害ノ下手者ト見込寺崎某」は一名高橋源次といい、この男が閔妃を殺した下手人であることは、本人のつぎの手記もこれを認めている。
拝呈仕候昨夜来失敬仕候陳者今朝ハ粗暴之挙止実以慙愧之至ニ御座候 宮中口吟
国家衰亡兆無理 満朝真無一忠臣
宮中暗澹雲深処 不斬讎敵斬美人
実ニ面目次第モ無之只今迄欝憂罷在候処今一友ノ話ニ依レハ或ハ王妃ナリト然共疑念ニ堪ヘス候故此儀真否御承知ニ御座候ハバ御一報被成下度奉万願候
10月8日 高橋源次
再拝
鈴木重元様
呈梧下
ここにいう「不斬讎敵斬美人」というのは、後宮の一室におしいり、戸をこじあけて2人の若い美人を引きだして斬殺したが、その2人の年齢が閔妃にしては若すぎるように見えたことと、だれも閔妃の顔を知らなかったので、一時は、人違いか思った、このことをさすのだろう。…
・・・(以下略)
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3 事件と日本軍隊
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…当時韓国政府の顧問をしていた石塚英蔵から末松法制局長官にあてた報告書によると、このゴロツキどもは閔妃の死体を凌辱したらしい。
その報告書には「王妃ヲ引キ出シ23ケ処刃傷ニ及ヒ且ツ裸体トシ局部検査(可笑又可怒)ヲ為シ最後ニ油ヲ注キ焼失セル等誠ニ之ヲ筆ニスルニ忍ヒサルナリ其他宮内大臣ハ頗ル惨酷ナル方法ヲ以テ殺害シタリト云フ右ハ士官モ手伝ヘタレ共主トシテ兵士外日本人ノ所為ニ係ルモノノ如シ」と書いてある。
このように、閔妃事件というのは、日本帝国主義が朝鮮で犯した罪悪のうちもっともひどいものであった。
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