真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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統監府の大韓帝国宝印奪取と皇帝署名の偽造?

2014年02月09日 | 国際・政治
 戦前・戦中、日本には「言論の自由」や「表現の自由」がほとんどなかったという。軍部が、政治、経済、文化、教育、社会構造などの国民生活のあらゆる分野で絶大な影響力をもったからであろう。軍主導で戦争に突き進む日本を、国民はどうすることもできなかった。正確な情報があたえられなかったばかりでなく、厳しい取り締まりがあったからである。だから、たとえ批判的な考えを持っていても、現在のように、簡単に戦争反対の声をあげられるような状況ではなかったという。国家戦略として教育の統制支配を強め、「忠君愛国」の教育を徹底することによって、軍国日本に都合のいい国民をつくり出していたことも、そうした状況との関係で、忘れてはならないことだと思う。

 その軍主導の政治や教育に、「鬼畜米英」や中国人蔑視、朝鮮人蔑視の思想がからんで、日本は人命軽視の無謀な戦争を続け、第2次世界大戦では、国民自ら大きな被害を被ったばかりでなく、中国や韓国など諸外国に大変な被害を与えて、無条件降伏した。そして、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配下に入ることになった。

 ところが、当初、日本の民主化に取り組んだGHQが、米ソ冷戦の激化や中華人民共和国の誕生、朝鮮戦争勃発などに影響されて、民主化方針を変更し、旧指導者層を復活させる、戦争責任者の公職追放解除、警察予備隊の創設(再軍備・旧日本軍軍人の採用)、レッドパージ、公安警察創設(政治警察復活)など、「逆コース」といわれる政策をとった。
 その結果、戦前・戦中の指導者層が、政権中枢や 自衛隊、経済界、学界その他に返り咲いて、再び力を発揮するようになった。そうしたことが、先の大戦における日本の戦争行為を正当化する動きに影響を与えているのだろうと、私は思う。また、日本人自身による戦争責任の追及がほとんどなされなかった理由や、謝罪・補償を含む戦後処理が充分なされなかった理由も、そうしたGHQの「逆コース」といわれる政策の影響抜きには、考えられないことではないかと思うのである。 

 広島には『二度とあやまちは繰り返しませんから』と書かれた石碑がある。でも、残念ながら日本の戦争における「あやまち」が何であったのか、日本では共有されていない。だからいまだに戦争の問題を引き摺っているといえる。また、歴史認識をめぐる近隣諸国との対立の原因も、その辺にあるのだろうと考えるのである。

 特に日韓関係は、安重根記念館や石碑設置問題に限らず、竹島問題、従軍慰安婦問題、首相の靖国参拝問題等々で、このところ悪化するばかりである。そして、それらは、いろいろな面で先の大戦や日本の植民地支配と関わる。だから、ここでは、「日韓協約と韓国併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)から、衝撃的な記述部分を抜粋する。こうした事実の主張にもきちんと耳を傾け、早く関係改善の糸口を見出したいものだと思うからである。
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          Ⅵ 統監府の大韓帝国宝印奪取と皇帝署名の偽造

 まえがき

 1992年5月12日、私はソウル大学校奎章閣図書管理室長として、「乙巳条約」の原文が形式上問題が多く、純宗皇帝の名で発令された重要な諸法令の中に署名が偽造されたものが多いという事実を公開した。この発表は、当時すでに提起されていた「従軍慰安婦」問題と関連して非常な関心を集め、日本の大韓帝国国権侵奪の不法、無効を新たに確認する契機となった。発表後1ヶ月が経った6月13日、北韓(北朝鮮)外交部は、金日成総合大学の歴史学教授らが「『乙巳条約』と『丁未条約』が条約の合法性を保証できる初歩的なプロセスも踏んでいない証拠を『皇城新聞』から見付けた」と発表した。


 発表に対する反応は遠くヨーロッパからも飛んできた。ハンガリー貿易大学(Hungarian College for Foreign Trade)で韓国史を教えるロリー・フェンドラー(KarolyFendler)氏が、オーストリア・ハンガリー帝国文書館(Archives of the Austro-Hungarian Empire)にも関連資料が所蔵されているというニュースを『コリア・ヘラルド』紙に知らせてきた。該当文書は「乙巳条約」当時、韓国駐在ドイツ外交官だったフォン・ザルデルン(vonSaldern)が、事件発生後、3日目にドイツの首相フルスト・フォン・ブロウ(Furst vonBulow)に送った報告書で、ここには次のような事実が記されていると知らせてきた。つまり高宗皇帝が伊藤博文日本大使の提案に対して、最後まで「駄目だ」を貫き、外部大臣の朴斉純も皇帝の前で自分は条約に署名した覚えはないと語り、皇帝の側近の一人がザルデルンに、数分前に、条約文書の外部大臣捺印は日本公使館の職員が官印を強制的に奪って押したものだと語ったことなどを明らかにしているというのである。


 翌年の1993年7月31日には、日本で結成された「国際シンポジウム実行委員会」が、「『韓国併合』はいかになされたか」という主題で国際シンポジウムを開催した。この会議を通じて韓国、北韓、日本の三カ国の学者がはじめて一緒に集まって互いの見解を交換した。

 「乙巳条約」をはじめ韓・日間の重要条約の問題点に対する関心は、1993年10月24日に金基奭教授が高宗皇帝の親書を発見したことで一層高まった。金教授は米国ニューヨーク・コロンビア大学の貴重図書館および手稿図書館で、高宗皇帝が9カ国の修好国国家元首に「乙巳条約」の無効性を解明しながら、大韓帝国の国権回復に協力を要請する親書9通と併せてハルバートを特使に任命する委任状などを発見し、これを公開した。さらに1994年3月1日付の「東亜日報」に報道された、高宗皇帝のもう一つの親書に関する資料も大変重要な内容を含んでいる。この資料は、退位させられた高宗皇帝が1914年12月22日にドイツ皇帝にあてた親書を、北京駐在ドイツ公使のヒンツェ(Hintze)が受け取り、ドイツ語に翻訳したものだ。資料発掘者の鄭用大氏は、親書の原本がドイツのどこかにあるものと推測したが、いずれにせよこの資料は、高宗皇帝が退位させられた後も引き続き、国権回復のための外交闘争を展開させていたという証拠として、大変重要な意味を持っている。


 資料の内容のうち、自分が使っていた帝国の国璽・御璽などの実印が、今は全て敵の手中に収まり、この手紙ではそれらを使うことができず、自分が日常的に使う印章を押して証明するしかないと明らかにしているのは、この論文で筆者が明らかにしようとする皇帝の署名行為の事実と関連して、たいへん注目される内容である。

 日本の大韓帝国国権侵奪の不法性は、以上のように関連資料が引き続き発見、発掘されることで、これ以上否定できなくなった。今まで明らかにされた事実だけにもとづいても、彼らの行為は不法というより犯罪として規定しなければならない状況だ。遅きに失した感はあるが、学者らが使命感をもってこれに対する徹底した真相究明を行うならば、より詳細な事実が明らかになるだろう。

 この論文は、2年前に筆者の責任の下に発表した「乙巳条約」の文書の形式上の欠陥および純宗皇帝の署名偽造に関する諸問題を整理することを目的としている。私はこの間、すでにこの問題に関する発表を2度行った。1993年3月23日に韓日文化交流基金の第25回韓日文化講座で、「純宗勅令の偽造署名の発見経緯とその意義」と題して最初の発表を行い、同年7月に東京国際シンポジウムでも「『乙巳条約』、『丁未条約』の法的欠陥と道徳性問題」と題した論文を準備して参加した。しかし、2度にわたる発表は全て整理段階で行ったものであり、満足できるものではなかった。この間、多くの学者の見解を聞き、また前に紹介したように金基奭教授、鄭用大氏らによって新しい資料が発見されたことで、私の見解はより一層、強い裏付けを得た。未だ確認しなければならない事がたくさん残っているが、当初、捕捉された日本側の犯罪的不法行為は明白に指摘できるようになり、この間の調査を総括的に整理する意味でこの論文を新たに書いた。


 侵略者が侵略対象国の国璽もしくは御璽を奪い、重要公文書に勝手に使用して、法令の発令者である皇帝の署名を偽造した事実は、法令自体の効力喪失はもちろん、当然なこととして歴史の審判を受けるべき犯罪行為である。このような行為は、日本が「乙巳条約」に大韓帝国の外交権を剥奪した後、ふたたび「丁未条約」を通じて内政権を奪う過程で犯したものである。したがって、これに対する解明は、「乙巳条約」の不法性に対する指摘とともに、日本帝国の大韓帝国「併合」は成立しなかったという明白な証拠となるだろう。

 この論文は、国璽・御璽奪取の状況と、統監府文書課職員らによる皇帝の署名偽造の恣行過程を明らかにするだろう。統監がこうした犯罪行為の主役だったならば、近代韓・日関係史に対する認識は、現在と根本的に変えねばならないだろう。


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             3 純宗皇帝署名の偽造と統監府

2 署名偽造の実状

 1907年10月、統監府が「丁未条約」の実行を目的に編制を改編した後、大韓帝国の各種法令類の制定は、次のような過程を経て達成されるようになった。まず、当時該当各部大臣官房室が起案して(各部起案用紙使用)内閣の書記長に渡すと、内閣では皇帝に決裁を申請する文案を作成し、これを添付して(内閣起案用紙使用)統監府に渡す。「丁未条約」に従い、全ての法令制定は事前に統監の承認を受けるようになっていたからだ。統監府に渡った文書は、統監官房文書課が受け付け、統監に見せ、彼の”承認”を得るという手続きを踏む。この手続きが終われば該当法令は事実上確定したのも同じだが、形式的には該当文書を内閣が純宗皇帝に提出し、御名の親署決裁を受けるという順序が残っている。問題の署名偽造は、まさにこの最終過程を省略しながらしでかされたのである


 これについての具体的な検討のため、まず、当時通用していた大韓帝国の立法関係公文書形式についての考察から始めてみることにする。
 朝鮮王朝は1894年11月の甲午改革の時、朝廷の各種公文書形式を大きく変えた。歴代にわたって使用してきた『大典通編』のものを捨てて新制に変えた。その中で、国王が命令、制定するものとして勅令、法律、詔勅などがあった。この法令形式は全て1910年8月に大韓帝国が日本に強制併合されるまで存続した。
 現在、ソウル大学校奎章閣に所蔵されている1894~1910年間の3種類の諸法例の件数は、次の表3のとおりである。皇帝の署名が偽造されたものは、1907年~1908年度の分60件に達する。(表3略)


 ・・・(以下略)

3 文書課と署名偽造

 それでは、皇帝の署名偽造の犯人たちは誰か。前述の偽造署名例示には、互いに異なる筆跡が5,6個もある。また、偽造が事務的に処理されたようであることもあらわになった。統監府の勢いが凄まじかった時期に5、6人が集団で回し合いながら大韓帝国皇帝の署名を偽造できる者たちとは、統監府の日本人官吏以外に想像できる対象はいない。当時の法令制定の手続きを見ても、統監府の文書処理および管理制度の整備過程および状況を見ても、統監府の官吏たちが主犯であることは疑う余地がない。


 大韓帝国の内閣側もこれを手助けしただろうが、それも文書担当責任職にすでに日本人が任命されている状態にあったので、結局は統監府がやったことに変わりはない。制度的、現実的状況から見て、統監府の統監の黙認の下に、傘下の文書課職員たちが内閣と各部に配属されている日本人書記官の助けを借りて署名を偽造したことは疑う余地がない。しかし、私はこれをもう少し確実に明らかにするために、上の各種偽造署名筆跡のうちの一つを書いた人間を捜すことにした。偽造事例のうち、1907年12月23日付の(7)~(28)の22の勅令に加えられた偽造署名の筆跡の主人公を捜すことにしたのである。

 調査対象にあがったこの筆跡は、問題の516個の筆跡のうち、最も達筆だと言える。私はこの点に留意し、筆跡の主人公を追跡してみたが、私が嫌疑をかけた人物は前間恭作だった。彼が達筆で多くの筆跡を残したことが、私が彼に注目する契機と言えば契機だったかも知れない。また、彼の生涯に関する既存の一つの履歴書的整理が私の調査に大きな助けとなった。著名な日本の韓国史研究家末松保和教授が前間の遺稿『古鮮冊譜』の完刊(1957年)に付けた「前間先生小伝」が、彼の行跡追跡に大きな助けとなった。


 前間恭作は開港以後、韓国学の研究に従事した日本人第1世代に属する。彼は韓国の書誌、言語、文学、歴史などに関する多くの著書と論文を残したが、とくに肉筆で書かれた原稿として影印出版して出した著書が多く、日本人学者の間で賞賛されていた。私が彼に疑いを持つようになったのは、彼の次のような特別の履歴と、達筆の所持者という二つの事実が合わさっていた。彼は韓国学関係の著述を本格的に出す前に、日本公使館の通訳官として活動していた際、初代統監伊藤博文の側近、腹心となって、統監府の文書課にも深く関与した履歴を持っていた。そして、彼が「乙巳条約」の不法締結過程に大変活躍したということも、既存の研究で、すでに明らかにされていた。したがって、彼に対する疑いを持つのは当然だった。
それではまず彼の履歴書を見てみることにする
。…

 ・・・(以下略)
  
 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに、空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

コメント (2)
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