日本が韓国を併合し植民地化した当時、西欧列強諸国も武力を背景に弱小国を植民地化していた。したがって、日本の韓国併合は合法であり問題はなかった、というのが日本政府の考え方である。でも、はたしてそうか。下記、資料1~4のような文書の存在は、そうした考え方に疑問を抱かせる。
高宗皇帝(光武帝)は、第2次日韓協約(乙巳条約)締結の1905年前後に、日本の植民支配の流れに抗して、外国の元首に対し、韓国の主権守護への協力を要請する親書を数回発送しているという。そして、1906年6月22日付の光武帝の親書が、87年目にして、米国コロンビア大学貴重図書・手稿図書館に保管されている「金龍中文庫」の中から発見された。
それは、光武帝の乙巳条約(第2次日韓協約)無効宣言に関する親書であり、ハルバートを特別委員に任命して委任状を与え、米国、英国、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ベルギー、中国など当時の修好通商条約対象国9カ国元首に宛てたものである。この親書が元の状態で発見されたということは、結局これが伝達されなかったと考えられる。ハルバートが密旨に沿う外交交渉に乗り出そうとした1907年7月には、光武帝は同年4月のハーグ万国平和会議に特使を派遣し、主権を回復させようとした試みによって、強制退位させられたからである。親書を発送した光武帝は、もはや大韓帝国の皇帝ではなく、したがって、委任状と親書は効力を喪失してしまったとハルバートが考えた、ということのようである。日本の強引な大韓帝国皇帝強制退位によって、韓国の主権守護の外交交渉は終わってしまったということになる。
今までに、乙巳条約締結が無効であったという根拠はいくつか示されてきた(乙巳条約締結が無効であれば、韓国併合の合法性が問われる)。
まず、ハーグ万国平和会議に派遣された李相尚正使、李儁副使、李瑋鐘の3人の特使が連名で作成した文書に、条約が皇帝の許可なしに強制された事実が明らかにされている。
また、尹炳奭教授は、日本外務省外交史料館に保管されている条約文書に、批准書がない事実を確認したという。
さらに、李泰鎮教授は、乙巳条約はもとより、いわゆる丁未条約も、国家間の条約で最も重要な手続きである、全権委任がなしに作成されたものであることを明らかにしている。
その上、この親書が発見されたのである。主権者である皇帝自ら、条約が不法かつ無効であることをはっきり示している。手続き的に様々な問題があり、おまけに皇帝が不法で、無効であるという条約が、合法であるといえるのか。日本側は、一貫して、諸条約は合法的に締結され、有効である主張してきたが、考えさせられる。下記は「日韓協約と日韓併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの抜粋である。
資料1------------------------------
Ⅴ 光武帝の主権守護外交・1905-1907年
──乙巳勒約の無効宣言を中心に──
二 対米交渉と米国の違約:1905年親書・電報・白紙親書
・・・
朕は銃剣の威嚇と強要のもとに最近韓日両国間で締結した、いわゆる保護条約が無効であること宣言する。朕はこれに同意したこともなければ、今後も決して同意しないであろう。この旨を米国政府に伝達されたし。
大韓帝国皇帝
この電文は勒約についての皇帝の考え──勒約無効、同意拒否──をもっとも簡潔明瞭に伝えている。この電文はハルバートによって12月11日に国務次官に伝達されたが、米国はこれを黙殺した。
光武帝はハルバートを派遣した直後、対米交渉を強化するために追加措置をとった。パリ駐在の閔泳瓚公使に、米国に急行して外交交渉を強化するよう秘密訓令をくだした。閔公使は12月7日、特命全権資格がないことを通告し、皇帝の意思を伝えるために会談を申し込み、11日にルートと会談した。ルートは12月19日付の答信を送り、「善為調処」の約定による何らかの協力は不可能であるとの立場を通報した。米国は、この答信を日本公使に送るという親切さも忘れなかった。11月末以後、めまぐるしく展開された「文書伝達者」ハルバートと閔公使の対米交渉は、結局米国の非協力でなんの成果もあげられなかった。
・・・(以下略)
資料2------------------------------
三 勒約無効宣言と共同保護:1906年1月29日国書
1906年1月29日に作成された文書は、光武帝が列強の共同保護を要請する意図を公にした最初の文書である。この文書は海外に密送され、1年後に新聞報道によって国内に伝えられた。だが、文書作成経緯と伝達過程、宣言の内容などを通じて確認できる皇帝の帝権守護の外交交渉は、まだ明らかにされていなかった。この文書は『大韓毎日申報』1907年1月16日付に次のように報道された。
1、1905年1月17日、日本の使節と朴斉純が締約した五条約は、皇帝は認可も押印もされていない。
2、皇帝は、この条約を日本が勝手に頒布することに反対された。
3、皇帝は、独立帝権を一毫も他国に譲与されたことはない。
4、外交権における日本の勒約は根拠がないし、内治上の一件たりとも認准することはできない。
5、皇帝は、統監の来韓を許可されておらず、外国人が皇帝権を擅行することを寸毫も許されていない。
6、皇帝は、世界の各大国が韓国外交を5年間の期限付きで共同で保護することを願っておられる。
光武10年1月29日
国璽
この文書が新聞に掲載された際「親書」と紹介されたが、次のような文書形式上の特徴をみれば親書と見なしがたい点がある。文書は「皇帝は…」というように三人称を用いている。親書や委任状では皇帝が自分をいつも「朕」として一人称を使っている。親書では皇帝自身が発信者であることを明示するとともに受信者を特定する。皇帝の意思であることを証明するため御璽を使い、ほとんどの場合「親署押鈴寳」という文字とともに皇帝の花押し御璽が押される。ところが、右の文書では発信者と受信者が明示されず、花押もなく大韓国璽のみがだけが押されている。…
・・・
この国書は、皇帝の他の親書と切り離しても、それ自体として注目に値する意義のある文書である。とくに国書作成の意義はその作成時期に求められる。この文書は勒約が不法に締結されてから約2ヶ月目に作成された。慣用句を借りれば、五賊と日本公使が勝手に押した「印章の朱肉が乾かぬうちに」皇帝はこれが無効であることを宣言したのである。この文書は、光武帝が乙巳年11月18日の早朝に起きた事件をまったく認めていないことを明示している。…
資料3------------------------------
4 勒約無効、国際裁判所提訴の要請:1906年6月22日親書
光武帝が1906年6月22日に作成して発送した親書は、乙巳勒約が国際法的に無効であることを立証するもっとも決定的な外交文書である。…
・・・
朕、大韓皇帝はハルバート氏を特別委員に任命し、我が国の帝国皇室と政府にかかわるすべての事項について英国、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ベルギーおよび清国政府など各国と協議するよう委任した。この際ハルバート氏に親書を各国に伝達するようにさせており、各国皇帝と、大統領、君主陛下に対して、この親書で詳細に明らかにされているように、わが帝国が現在、当面している困難な状況を残らずに聞き入れてくれるよう望むものである。
将来、われわれはこの件をオランダのハーグ万国裁判所に付しようとするものであり、これが公正に処理されるように各国政府は援助してくれることを願う。
大韓開国515年6月22日
1906年6月22日
ハルバートを選んで特別委員に任命した理由は自明である。光武帝が結局、日本の主権侵害を国際裁判所に提訴し、国際公法によって解決する考えをもっていたのである。この密旨を忠実に履行するためには、9カ国の列強国家元首に対して当面の事態について「残らずに」十分協議ができる特命全権の委任をうけた外交官がいなくてはならない。皇帝が信頼するにたりる帝国官吏がいない状況で、外国との交渉であるという点を念頭においてハルバートを選んだのである。…
・・・(以下略)
資料4------------------------------
…次はハルバートが伝達するために委任された親書の韓国語訳である。
大韓国大皇帝は謹んで拝大ロシア大皇帝陛下に親書を差し上げます。
貴国とわが国は長い間、数回にわたって厚い友誼を受けて参りました。現在、わが国が困難な時期に直面しているので、すべからく正義の友誼をもって助力してくださるものと期待しております。
日本がわが国に対して不義を恣行して、1905年11月18日に、勒約を強制締結しました。このことが強制的に行われた点については、3つの証拠があります。
第1に、わが政府の大臣が調印したとされるものは、真に正当なものではなく、脅迫を受けて強制的に行われたものであり
第2に、朕は政府に対して調印を許可したことがなく、
第3に、政府会議について云々しているが、国法に依拠せずに会議を開いたものであり、日本人が大臣を強制監禁して会議を開いたものであります。
状況がこうであるため、いわゆる条約が成立というのは、公法に反するため、当然、無効であります。
朕が申し上げたいのは、いかなる場合においても断じて応諾しなかったということであります。今回の不法条約によって国体が傷つけられました。ゆえに将来、朕がこの条約を応諾したと主張することがあっても、願わくは陛下におかれては信じたり聞き入れたりせず、それが根拠のないことをご承知願います。
朕は、堂々とした独立国家がこのような不義で国体が傷つけられたので、願わくは陛下におかれてはただちに公使館を以前のようにわが国に再設置されるよう望みます。さもなくば、わが国が今後この事件をオランダのハーグ万国裁判所に公判を付しようとする際に、わが国に公使館を設置することによって、わが国の独立を保全できるよう特別に留意してくださることを望みます。これは公法上、真に当然なことでしょう。願わくは、陛下におかれては格別の関心を寄せられるよう期待します。
この件の詳細な内容は、朕の特別委員であるハルバートに下問してくだされば、すべて解明してくれるだろうし、玉璽を押して保証します。
陛下の皇室と臣民が永遠に天のご加護がありますよう、厳かに祈ります。併せてご聖体の平安を希求いたします。
大韓開国515年6月22日
1906年6月22日
漢城において、李熙・謹白
御璽
この文書の書誌的な特徴と真偽を検討してみる。この二つの文書に使用された印章はすべて「皇帝御璽」の文字が刻まれた御璽である。この印章は「寳印符信総数」に登録された御璽ではない。また「親署押鈴寳」という文字がない。したがって、皇帝の花押もなく、御璽だけが押されているのである。すなわち、ハルバートに秘密に渡された外交文書には未登録印章が使われ、花押がない。こうした形式上の問題は、それらの文書がはたして光武帝が作成したものかどうかを疑わせる。だが、「寳印符信総数」に登録された印章は、勅令や法律、詔勅などのように、内政にかかわる法令を皇帝が裁可する際に使われた花押と御璽である。…
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。