真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本軍政下 ベトナム"200万人"餓死

2014年07月08日 | 国際・政治
 1945年3月10日は、「東京大空襲」のあった日である。その前日の1945年3月9日は、大本営の「仏印処理ニ伴フ声明」に基づいて、フランス軍を壊滅させるべく、日本軍の「明号作戦」が仏印全域にわたって発動された日である。

 「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)に、「東京大空襲」が、この日本軍の「明号作戦」発動に対する報復であるという、当時、陸軍所属の学徒兵(金矢義雄氏)の証言が出ている。連合国は、日本軍が仏印全域を軍事支配化に置く準備に入ったときから、繰り返し警告していたという。”日本軍が仏印において武装行動に移る場合には、その報復として首都東京に対し、空前の大爆撃を加える”と。その事実関係を明らかにする確たる文書資料はないようであるが、”なるほど”と考えさせられる。

 その連合国の「報復」の話とともに、日本軍の「明号作戦」発動によってもたらされたといえる、「ベトナム”200万人”餓死」の話には、驚くほかない。同書の著者、早乙女勝元氏は、ベトナム戦争末期、アメリカ軍による北爆の被害状況を確認し記録するためベトナムに入り、そこで、日本軍政下の”200万人”餓死、に出会う。、それから、「ベトナム”200万人”餓死」の調査や聴き取りを始めたようである。下記は、同書に取り上げられている、元日本軍兵士のベトナムの”餓死”に関わる証言である。

 下記は「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)からの抜粋である。
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           第3章 北爆の惨禍と飢餓の記憶

元兵士の勇気ある証言


 ・・・

 しかし、そうした批難の手紙とは別に、同じ兵士として、自分の目撃した深刻な状況を克明に知らせてくださった方もいる。広島市在住の武田澄晴氏の手紙は、当時のベトナム北部の惨状を伝える貴重な一証言と見ることができよう。

 「私は昭和18年1月より21年3月までベトナム各地を転々として、20年3月9日夜”明”号作戦と称する戦闘で負傷し、入院しました。当時私は第21師団(師団長三国直福中将)の独立野戦高射砲第62中隊で、ハノイ市外のジャラム飛行場に対空陣地を敷いていました。私は軍曹で分隊長をしていました。
 ハノイ市内のフランス女学校を接収した陸軍病院に約1ヶ月入院している時、見舞いに来てくれる戦友たちが、『市内には餓死者がゴロゴロしているよ、おどろくなよ』と言うのです。
 退院の日、私はジャラムからルージュ河(紅河)畔に移動していた中隊に帰る時堤防の上にずらりと並んでいる餓死者を見たのです。愕かずには居れませんでした。迎えのトラックの上から果てしなく続くその、まるでイリコを干してあるような光景は、ショックでした。胸がしめつけられる思いでした。しかし同乗の友は平気になっているのです。もう見馴れたからでしょう。『早く収容するなりしてかたづければよいのに……』と言うと、『なに、毎晩かたづけられているのだが、次の日はまたこの状態だよ』とのことでした。


 やがて私は、外出できるようになりました。(高射砲隊は昼間防空任務につき、夕方から外出するのです。)いやでもその堤防を通らなければ市内に入れないのです。生まれて初めて見る餓死者、その寸前の者……地獄でした。ほとんどが子どもと、老人でした。
 ムシロがかぶせてあるので、死んでいるのかと思って見ると、大きな眼を開いたうつろな表情、ものを言う気力もすでになく、じっと見つめているガイ骨のような顔々々……。もうそうなっては食べものを与えても食べる力がないのです。

 むすびを持ったまま死んでいる者、幼い兄弟が抱き合ってミイラのようになっている者、(性別は全然わかりません。)いくらかの小銭を与えられ手にしたまま死んでいたり──私も初めのうちは食物や銭を与えたりしていましたが、キリがないのです。そして人間というものは、そんな地獄の環境にも見馴れてくると平気になるものでした。屍体をよけたりまたいだりして、市内の軍酒保に行くのです。そこにはあり余る山海のご馳走が、安く飲食できるようになっていました。(その頃、師団は決戦に備えて2年分の食糧を確保していたそうです。)


 酔ってふらふら賑やかな町の中を歩いていた時、私はハッとして立ち止まりました。街角の歩道の上に、たった今捨てられたと思われる色の白いかわいい、生後4、5ヶ月かと見える幼児がちょこんと坐っていて、キョロキョロめずらしそうに人の通りを見ているではありませんか。そしてその前には、たぶん子を捨てた親の最後の贈り物であろう白い御飯が、バナナの葉の上に盛られて置いてあるのです。
 私はその頃25歳、結婚もしていませんでしたが、捨てた親の気持ちを思うと、胸が熱くなってきました。3日か4日後には、もうムシロの下で、骨と皮なるのだと思うと、哀れで哀れでなりませんでした。許されるものなら、部隊につれて抱いて帰って育ててやりたい気持ちで一杯でした。


 それからやがて夏がきて、私たちはヅーメル橋(ロンビエン橋)の防空に当たっていました。野戦倉庫の兵隊が、現地人の曳く米の麻袋を満載した荷車につきそっていくと、家陰からナイフを持った少年がさっと飛び出してきて、麻袋を切り裂くのです。すると、そこから白い米がサラサラとこぼれ、アスファルトに白い細い帯を敷いたように落ちてゆく。それを、難民の女性がホウキとチリ取りとを持って奪っていくのです。私たちはこの少年を「斬り込み隊」と呼んでいましたが、警備についている兵隊の中には、大眼に見いていたものもおりました。

 やがて越南独立同盟=ベトミンの暗躍が活発になってきました。そして敗戦。独立を絶叫して泣く越盟の闘士たち、湧きにわくハノイの街、ホー・チ・ミン主席の独立宣言をとりまく大群衆──その中で、我々はヤケ酒でうさ晴らしをしていたのです。


 いつでしたか、新聞で日本がベトナムに与えた損害のことで『鶏3羽くらいだ』と元将官が語ったのを読み、私は唖然としました。あの頃でさえ餓死者の数は、ハノイ周辺でも50万人から100万人だということがささやかれていたのです。それらをすべて天災のせいにするのでしょうか!以上、実情を見たまま聞いたままを書いてみました。乱筆御容赦ください。」

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               第5章 内外の証言記録から

学者兵士と特派員の目

 ベトナム関係の文献には、かならずといっていいほど、1945年初めの大飢饉についての記述がある。それはほんの数行であったり、かなりのページを費やしているものなどさまざまだが、ベトナム現代史にとって、あまりにも苛酷な抵抗戦争を別にすれば、欠かすことのできない大惨事だったからだろう。
 飢餓問題について、それだけをテーマにして書かれた一冊は、残念ながら日本側ではまだ見当たらないが、ここでは数多くの資料のなかより、日本とベトナム双方の記述を見比べながら、その実態はどんなものであったのかをあきらかにしてみたいと思う。


 まず当時、ベトナム北部にいた日本人の記録である。”現場の人”といえば、もっとも多かったはずの該当者は日本軍兵士だが、私あてにきた元軍曹武田澄晴氏のヒューマンな証言は第3章で紹介した。しかし、兵士というなら、まだほかにもいる。
 陸軍二等兵だった小林昇氏である。氏は福島大学教授から召集された経済学者で、1945年4月、サイゴンからユエ(フエのこと)を経て、ハノイに到着した。『私のなかのヴェトナム』は、60年代後半に出たエッセーふうの本だが、ベトナム飢餓問題を私が最初に知った貴重な一冊である。氏は44年11月に南方へ送られる途中、南シナ海で遭難した。敵の魚雷攻撃で船を沈められたのである。
 かろうじて一命を取りとめて、ベトナムの地を踏み、南方軍司令部に配属されることになる。そして北部の第21師団第62連帯へと急ぐことになったが、もうその頃は連合軍の爆撃で、鉄道はかなりの被害を受けていた。中国を基地にした連合軍の爆撃は日本軍を目標にしたが、ベトナム人民は巻きぞえとなり、とんだ災難にあったわけである。サイゴンからハノイまで、汽車を乗り継ぎながらなんと10日を要したという。


 「ソンコイのデルタの南端にあるナムディンの町は、トンキンではハノイ、ハイフォンにつぐ都会である。わたしはサイゴンからここまでたどりついたとき、猛烈な飢饉の惨状にいきなり出くわした。四方から流れついた農民の家族たちが、文字どおり骨と皮だけになって、街路に斃死してゆくのである。それは栄養失調の死ではなくて絶食の死であった。息をとめた夫の躰にすがって妻や子の哭いている歩道を、幾時間かしてまたもどってくると、妻のほうももう生命のしるしがかすかになっているというような、やがていたるところで接しなければならなくなる光景に、わたしははじめて接したのであった。市の大八車が、路上のそういう死者たちを積み上げて、屍臭をふりまきながら焼場へ運んでゆく。その車には、まだたしかに息のかよっていると思われる躰も積み込まれていた。

 まだ息のある者さえ、死者といっしょくたにされて運ばれていく光景は凄惨そのものである。あまりにも多くの死体処理で、作業者たちは一体ずつ個別に尊重するゆとりがなかったのだろう。
 やがて雨が降りつづくようになり、水路はすべて濁流にまみれ、たまに霧の晴れた日に近くの山に登って見ると、ソンコイ川(紅河)は中流で決壊して、平野は一面水びたしになっている。洪水はトンキン平野のほとんどを覆いつくして、稲の収穫が重大な影響を受けたのはまちがいないと見られた。


 そして、気温が上昇していくにつれて、炎熱下の洪水がコレラを蔓延させた。疫病もまた、容易ならざる事態だったことがわかる。兵営には、ベトナムの母や娘たちが、莚一枚を抱えた身で近づいてきては、日本軍の残飯や小銭をめあてに体で取引きしようとする。なんともやりきれぬ事実である。日本軍は「金と食糧を持っていたために、ヴェトナムの民衆に対しては経済上の優越者であった」と記されている。

 戦後20年ほどしてから、小林氏は自分が生きのびたベトナムをもう一度確かめてみたいという思いから、横浜港より海路の旅に出た。その同じ船で、サイゴンの孤児院に籍を持つというカトリックの神父と親しくなる。
 神父はオランダ人だったが、1945年当時はハノイの孤児院にいたということで、たまたま大飢饉の話になった。一体どれだけの人が死んだと思うか、の問いかけに、「ほぼ200万人でしょう」と氏が答えると、「そのとおりです。ああ、当時のことを知っている人がいようとは……」と、神父は掌に顔を埋めて絶句した。おそらく神父にとっても、一生のうちの忘れがたい思い出だったのだろう。
 
 小林氏は当時の惨状を回想して、次のように書かざるをえなかった。
 「この大飢饉が太平洋戦争の間接の結果にほかならず、したがってこのときの200万という膨大な数の死者に対する責任を日本人が負うべきだということを、われわれのなかの幾人が知っているだろうか」



 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です

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