真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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『回想 本島等』

2016年05月27日 | 国際・政治

 NO1

 「回想 本島等」平野伸人 編・監修(長崎新聞社)は、「戦争が近づいていないか」と問い、「子どもたちに残す唯一の遺産は平和」という考えから、「いまだから、本島等(元長崎市長)を回想する」として、出版されました。

 昨年、圧倒的多数の憲法学者が違憲と主張しているにもかかわらず、集団的自衛権行使容認の閣議決定がなされました。あってはならないことだったと思います。さらに、安倍自民党政権には、常軌を逸するようなメディアに対する圧力や先の大戦における史実を修正するかたちの教育介入があることも見逃せません。また、沖縄県民の声を無視した普天間基地辺野古移設計画なども、静観することが許されない問題ではないかと思います。それだけに、ひとりでも多くの人に読んでほしいと思う一冊でした。

 平和活動支援センター所長の著者は、『「回想 本島等」刊行にあたって』のなかで、 
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 本島さんは、長崎市長時代に長崎市議会で柴田朴市議会議員の質問に答える形で「天皇の戦争責任はあると思う」と発言した。1988年12月7日のことである。昭和天皇の病状が重篤な状況での発言は全国的に大きな反響があった。そして、1990年1月18日、長崎市長銃撃事件が起きた。この事件に対して「民主主義の危機」「言論の自由を守ろう」と全国の多くの人々は、本島さんの言動に共感し、多くの手紙を寄せたり、署名に協力して、本島さんを励ました。あれから25年が経過した。
 本島さんは2014年11月31日午後5時27分その生涯に幕を閉じた。本島等が亡くなった今、改めて、本島等の考えてきた「戦争」「平和」「原爆」そして「民主主義」や「言論の自由」を考えてみたいと考えた。 
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と書いています。そして、毎年一月一日に長崎平和祈念像の前で、平和な世界の実現を願う『正月座り込み』を欠かすことなく続け、『戦争と原爆』を問い続けた本島等の思想は、「今の世の中に投影されなければならない」とも書いています。それは、武力行使の可能性を排除せず国際政治に関わろうとする安倍政権下で、最も大事なことではないか、と私は思います。
 また、「追悼文」を寄せた人たちや追悼シンポジウムに関わった人たちひとりひとりの文章の中にも、しっかり理解し、受け止めなければならないことや忘れてはならないと思うことがいろいろ書かれていました。それらの中から、一部を下記に抜粋しました。
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              世論におびえず揺らがず 本島等さんを悼む
                                             佐竹 信(評論家)
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 本島は戦時中に熊本の旧陸軍西部軍管区教育隊に入り、山砲部隊の小隊長をしている。その後、後輩の教育をする担当になったが、「天皇陛下のために死ね」と、いつも教えていた。
 「だから、ぼくにも戦争責任があるんです」。こうした思いが、1988年12月7日の長崎市議会での「天皇の戦争責任はある」という発言につながった。
 この発言に自民党長崎県連などが騒然となって取り消しを求めると、本島は「撤回は私の(政治家生命)死を意味する」と答えて拒否する。
 「勇気ある発言」と言われると、「バカ言うな、おれに勇気なんかあるか」と否定しているが、その気負いのなさが取り消しを拒ませたのだろう。本島によれば、「ボソボソ言っただけ」のこの発言はしかし、全国的な反響を呼び、翌年春「長崎市長への7300通の手紙」(径書房)という本が出される。右翼の抗議が生命の危険を感じさせるほどになり、本島の意向によって、一度は刊行が中断されたが、出版されたのである。
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 しかし、90年1月18日、ついに本島は撃たれる。「週刊金曜日」の2008年5月30日号で対談したとき、「神はいないなんて気持ちにならないんですか」と尋ねると、本島は「それによって信仰が揺らぐことはありません」と答え、逆に私を「先生は若いんだから世論におびえず頑張ってください」と励ましてくれた。合掌。
(長崎新聞 2014年11月25日付寄稿・共同通信配信)
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土井たか子・坂本義和、そして本島等を悼む
                                  西田 勝(平和研究室主宰、法政大学定年教員)
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 本島さんと最初に交渉を持ったのは、1987年秋、『月刊・非核自治体通信』に「私の平和政策 緑の地球を残そう」(33号、同年11月)を寄稿していただいた時で、それより先、同年の長崎市の平和宣言が「平和こそ人類が子孫に伝え残すべき最高の遺産」であるとして「日本人は、世界の飢餓、難民、疾病、失業などを自らのものとして解決しなければなりません」と、これまでの同市の平和宣言とは違い、本当の意味での「積極的平和」((安倍政権の言葉だけの「積極的平和主義」とは全く異なる)の実現を視野に入れていることに注目しての執筆依頼だった。
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 本島さんがマラソン講座に寄せたメッセージは、はっきりと戦前日本のアジアへの侵略に触れたもので、最後は次のような読者の想像力に強く訴える印象的な言葉で結ばれていた。
「私のところにきた(中略)大多数の投書は、あのすさまじい大戦争、何百万人の軍隊、国内の産業も、生活も、教育も、すべて天皇唯一人を中心として、それがすべてで戦ったではないか。
天皇を唯一の中心として戦っていたことは、天皇自身新聞やラジオで十分知っていたではないか。数知れぬ兵隊の屍が、南の島々に、太平洋の海底に、今も眠っているではないか。/それらの青春を奪われた英霊が甦って、天皇の前に立った時、天皇は、君たちは誰だ、俺は知らんよ、と言えるだろうか。そのようなことであります」
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 一昨年の夏、本紙159号(2012年8月25日)への寄稿(「67年目の夏を迎えてまず過去の侵略への謝罪を!」)を本島さんにお願いした時、電話口でながら、お話ししたのが、お声を聞く最後となってしまった。そのトツトツとした独特の語り口は今も耳朶の中にある。
 その寄稿された文の終わりは次のように結ばれている。
「謝罪というのは、延々と続けなければなりません。心からの謝罪を100年は言い続けなければならないと思います。それが私の唯一の考え方です」 
 本島さんが私たちに残した最後の遺言といっていいだろう。(2014年11月25日)
 (非核自治体全国草の根ネットワーク世話人会刊「非核ネットワーク通信」180号・2015年2月)
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貧しい被爆者への誠意 ─── 本島等元長崎市長を悼む
                                      郭 貴勲(韓国原爆被害者協会名誉会長)
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 私が本島さんに初めて会ったのは、確か1992年だったと思います。私が韓国原爆被害者協会の会長職にあったので、当時、長崎市長が韓国の原爆被害者たちに謝罪に来るというので、会長である私が何の予備知識もないまま、案内役を務めたのでありました。
 ソウル、釜山など被爆者たちを訪ね歩く道々での本島さんの言動は、まったく私の常識外れの日々でした。韓国の被爆者は極貧層であるため、町はずれの貧民たちの村に住んでいるにもかかわらず、本島さんは凍りついた坂道を苦にもかけず上りつめ、貧困のどん底にある被爆者にひざまづいて謝罪、慰労し、見舞金を差し上げるのでした。
 そんな姿を連日見ながら、私はこの人は普通の日本人市長ではなく聖人だと思いました。
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長年にわたって市長を務められた本島等氏の死を悼んで
田上富久長崎市長、
ご家族のみなさま
長崎市民のみなさまへ
                    オイゲン・アイヒホルン(独日平和フォーラムベルリン代表・元ベルリン工業専門大学教授) 

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 私たちの共通のテーマは先の大戦であり、無数の戦争犯罪の罪と責任でした。それは小田実がくりかえし強調しているように「誇ることのできない」行為でした。ドイツと日本にとって同じようにあてはまるテーマでした。平和のために大きな重要性をもつのは、次に続く世代であり、今日の青年、若い大人たちです。彼らは実際に起こったことを知らなければなりません。また、どこから見ても美化することのできない歴史を次に渡していかなければなりません。
 私たちはこの未解決の傷について語った彼の率直さに感銘を受けました。長崎がアメリカの原爆によって、ひどい苦しみと、地球上のあらゆる生命に対する脅威のシンボルになっただけに、なおさら感銘を覚えたのでした。
 そうした都市で、他の人に加えられた苦しみを思い起こすことはそんなに簡単ではありません。それには智恵、正しい感情と大きな勇気が必要です。私たちの名前において明らかに起こったことの責任を引き受ける用意があるときにだけ、そして私たちの犠牲者にとって受け入れることができる方法で許しを請う用意があるときにだけ、私たちの最重要の課題である平和を結ぶことが可能です。
 亡くなった平和の友、そして憲法九条の擁護者は、たびたび大きな政治と葛藤をしながら、自分に可能なことを果たしました。
 本島氏は平和市長会議の発展にも努めました。
 ・・・                                               訳・園田尚弘
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日本人が口を閉ざしたことを発言=要約=
                                       マッシモ・ベルサーニ(リベルタ記者)
 元長崎市長本島等、多くの国民が口にできなかった事を強い信念をもって発言した男。
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 リベルタ新聞が日本の被爆地に学び、イタリアの子どもたちに教えている「平和の折り鶴」活動に関し、彼の意見を聞いてみた。
「ずっと続けなさい!あなたたちの活動、記事における長崎や折り鶴の紹介は、小さな滴に過ぎないかもしれない。だがこれこそが、記憶を語り継ぐために大事な手段だ。記憶は失われてはならない。おぼえておかなくては!平和の文化、そして希望の文化をつくろう。地球の反対側であなた方が行っていることは、記憶の手段であり、この小さな一歩一歩が、私たちの希望の平和文化を作り出す」
                                (イタリア・リベルタ新聞 2014年12月11日付)
                                                  訳・豊島文
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本島さんの足跡をしのぶ
                                       宿輪 啓祐(元長崎市市民生活部長)
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 本島さんは一般に原爆平和の市長だという印象が強いようだが、私から見るとそれはほんの一部に過ぎない。
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 就任後の6月、故久保元長崎県知事の肝いりで日中交流が始まり、出島に中国の客船明華号が入港した。本島さんは随行車の中で次のように言った。「こうして中国から来てくれるようになったことは何よりもうれしい。中国は15年もの長い間、自分たちの座敷を土足で踏みにじられ、大きな犠牲を出した。あの悲惨な沖縄の地上戦が三ヶ月だったことを思うと、中国の人たちにとってあの戦争がどんなものであったか想像しても余りあるものがある」。このとき既にあの戦争への反省、中国への加害意識、謝罪の心があったのだった。
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 市長退任後、同僚だった人の法事でご一緒したことがあった。久しぶりにじっくり話をすることができた。本島さんは過去を振り返りながらしみじみ語った。「政治とは、対立する利害を調整し、市を一つの方向にまとめる仕事だ。その政治の舞台に登場するのは全部生身の人間である。人にはそれぞれ立場、利害がある。政治が一つの決定をすれば、必ず誰かに痛みが出る。その痛みにそっと手を当てること、それが政治なんだ」と。これが本島さんの政治哲学である。
 人の話をよく聞く。その人の立場を理解する。人の痛いところにそっと手を当てる。その痛みに共感する。どんな人にも分け隔てなく丁寧に対応する。このような本島さんの心情、人間性はどこから来たのだろうか。
 本島さんは、かくれキリシタンの末裔としてその精神を受け継ぎ、耐える力、信じる力、許す力、与える力を学び、それを苦学の体験の中で熟成させていったのだろう。
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けた外れに過剰な多面性 本島元長崎市長死去に思う
                                           西出 勇志(共同通信長崎支局長)
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 平和運動の闘士のイメージが強い本島さんだが、四半世紀前、戦争責任発言から91年の四選までを長崎支局で取材した筆者は、したたかで多面的、全体像を捉えるのが困難な政治家との印象を持つ。
 冗談好きで誰とでも気軽に会い、人の気持ちをつかむのがうまかった。庶民性にあふれ、町中で中高年の女性に囲まれて楽しそうに談笑する場面を何度となく見た。市場や料理店の従業員らに抜群の人気を誇った。
 長崎県議時代の本島さんから励ましの手紙をもらった人の話を聞いたことがある。厳しい境遇に置かれていた時期、真情のこもった気遣いある文面に涙したという。幼少期から苦労を重ねた本島さんの「弱い人の立場に立ちたい」との信条は本物だっただろうと思う。
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鋭利な思想と庶民性 本島さん評伝
                                               森永 玲(長崎新聞記者)
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 本人の思想は明確で、「日本の侵略・加害は悪」という立場を一歩も譲ろうとしなかった。市長退任後の論文「広島よ、おごるなかれ」(97年)で原爆ドームの世界遺産登録を「加害の自覚がない」と批判。元長崎市長による被爆地広島への攻撃が世間を仰天させた。ついには、未曾有の惨禍をもたらした原爆投下について「日本が悪いことをした以上、仕方なかった」と極論を公言するようになり、被爆者の憤激を買った。
 刺激的な言動によって、自身はピンチに陥ったが、波紋の広がりと比例するように、その主張は社会に鮮やかに伝わった。戦争責任発言も「おごるなかれ」も「原爆仕方ない」も人を驚かせたが、考え込ませた。そうなることを理屈ではなく肌で知っていた点で、言論を操る天才だった。
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元長崎市長・本島等 追悼シンポジウム


2015年1月18日(日)13:30 教育文化会館・大会議室 
寄稿『記念シンポジウム・パネリスト』
 『本島さんが問いかけたこと』
                                          長崎新聞特別論説委員 高橋 信雄
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 一つ、誇るべきことがある。それは長崎市民は、本島さん同様、決してテロの脅しに屈しなかったということだ。事件後、直ちに「言論の自由を求める長崎市民の会」が行動を起こし、市長を守り、自由を守る全国的運動の中心となった。勇気ある市民が続々と立ち上がった。そして、それから25年、市民はそれぞれの場で、多様な運動を堂々と展開し、発展させてきた。テロがあっても、言論を萎縮させることはなかった。本島さんもまた、「天皇に戦争責任はある」という発言を撤回しなかった。テロの目的が「暴力の威嚇で、言論を萎縮させる」ことにあったとするなら、あのテロは全く効果がなかったということになる。「市民はテロの脅しに屈しない」「あのような卑劣なテロは市民に対して無効である」ということを、長崎市民は、25年間、証明し続けてきた。1月18日の事件25周年シンポジウム開催は、その結実であった。あの場で参加の市民たちが示した、さらなる決意の表明が、本島さんを襲ったテロリストへの答えである。長崎市民は、テロという言論封殺のもくろみを打ち破る、最高の答えを示すことができたと言えるだろう。
 だが、日本全体を見渡せば憂慮すべき事態が拡がっている。本島事件の教訓は生かされていない。それどころか、言論状況はあますます悪化している。天皇タブーは一層、強固になっている。巨大メディアの一部は政権と一体化して、権力者や既得権益層に都合の良い情報を一方的に垂れ流す傾向を強めている。それがこの国を急速に危険な方向に導いている。
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銃撃事件25周年 平和と民主主義は守られたか
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一 本島市長の天皇発言は熱海で知る
 本島市長の天皇発言は、1988年12月8日、熱海のホテル・暖海荘で新聞報道にて知りました。
 私は出張先で朝食前に散歩するのが趣味になっておりまして、この日も軽快な足取りで熱海の海岸を散歩した後、ホテルのロビーで新聞に目を通すと、一面トップに本島市長発言が載っていました。何人かの県労評代表から「本島市長ってすごいね」「本島さんはどんな人」と尋ねられ、長崎市民の一人として誇りに思ったところです。
 新春の長崎新聞で、歴史家で作家の色川大吉さんが「天皇陛下万歳と叫び亡くなった兵士や遺族、国民への謝罪を最後まで口にしなかった天皇はつまらん男」と発言されていました。私も新聞を読みながら納得しました。
 あの当時を静かに思い起こしてみると、天皇Xデーを始め天皇に関する事柄が集中しておりまして、いやがうえにも本島発言をはじめ天皇、天皇制について真剣に考えたものです。
 ・・・
二 1990年前後は天皇の季節
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 1989年1月7日、天皇が死去されると、あの夜はアーケード街やパチンコ店などのネオンが完全に消され、まさに戦争前夜の異様な光景を醸し出していました。一夜明けた8日、誰がどこで決めたか分からないまま、この日から突然「昭和」から「平成」へと変わりました。不思議に思ったのは、ほとんどの国民が異議を唱えなかったことです。
 実はこの年の7月8日、平和会館において「小異を捨てて大同につこう」というスローガンのもとに、「第一回ながさき平和大集会」が県労評、県婦連、平和団体を中心に開催されました。この「ながさき平和大集会」の成功によって、長崎県における広範な市民運動と平和運動の原型が出来上がったと思っています。原水禁運動の分裂を乗り越え、4年振りに大同団結しただけに忘れることができません。実は、広島県には存在しない「ながさき平和大集会」の成功が広範な市民戦線を総結集させ、本島市長の天皇発言を支持する運動に引き継がれました。その後は、長崎における市民運動に参加する皆さん方の地道な努力の中で、継承・発展の道を歩んできたと思っています。
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