トランプ氏が大統領に就任し、約束通りウクライナ戦争が停戦されれば、バイデン民主党政権の進めてきた戦争戦略の欺瞞のいくつかが明らかになるだろうと思います。
例えば、選挙期間中ハリス候補が主張した、
”トランプが大統領になったらウラジーミル・プーチンはキエフを占領するわよ。 プーチンのやりたい放題になったら、ポーランドや他のヨーロッパ諸国に侵攻しないわけないでしょ?”
などということが、自動的に欺瞞であったことが明らかになると思います。
ハリス氏の主張と同じようなことは、ウクライナ戦争の解説に出てきた日本の専門家と言われる人たちもくり返し語っていました。
クリミアやドンバス地域が、ロシアに占領されているときに停戦をしてはいけない、ロシアを利することになる、とか、周辺国も侵略されるとか・・・。こうしたことを主張した日本の知識人は、一人や二人ではありませんでした。それが嘘であったことが明らかになるだろうと思います。
ウクライナ戦争でもイスラエル・ガザ戦争でも、間違った判断をしないためには、戦争をする両方の国や組織の主張・言い分、また、関係国の歴史や戦争に至る経緯をいろいろな方法で知ることが大事だと思います。
私は、ウクライナやイスラエルは、自らの攻撃を正当化するために、自らが攻撃を受けたり被害を受けたりした時点からしか、戦争や紛争の現実、相互の関係等を語っておらず、大事なことを隠していると思います。そして、自らに都合の良い情報ばかりを流してきたと思います。それは、ロシア側やハマス側にも当てはまる面があるかも知れませんが、西側諸国、すなわち、ウクライナやイスラエルを支援する側の情報に取り巻かれている私には、西側諸国の情報には、深刻な欺瞞があると思っています。
ハリス氏のような主張が欺瞞であることを確かめる意味で、いろいろな著書に当たっているのですが、「ウクライナを知るための65章」服部倫卓・原田義也編著(明石書店)は、そのひとつです。
同書は、ウクライナ戦争がはじまる前に出版されており、ウクライナ戦争の直接的な影響を受けていないため、大事なことを隠したり、極端にどちらかに偏ったことは書かれていないと思います。客観的な事実が中心だと思うのです。
同書の「 一 ウクライナのシンボルと風景」の「第一章 クリミア 変転極まりない歴史」を読むと、ウクライナとロシアが一方的に併合したというクリミアの間には、ウクライナ戦争が始まる前から、深刻な対立があったことが分かります。
したがって、ゼレンスキー大統領の「クリミアを取り戻すまで戦う」という言葉は、多くのクリミアの人たちにとっては、受け入れ難い言葉であろうと考えられます。にもかかわらず西側諸国では、プーチンがクリミアを奪い取ったとか、ロシアが一方的にクリミアを併合したとくり返すだけで、クリミアの人たちが併合をどのように受け止めているのかということに関する取材に基づく報道はほとんどありませんでした。クリミアは70%近くがロシア人なのです。そして、同書には、下記のような記述があります。
”1783年、ロシアのエカテリーナ女帝(二世)の寵臣ポチョムキンがバフチサライを陥落させ、クリミア・ハン国は滅んだ。クリミアはロシア帝国に併合された。それまでクリミアにはスラブ系の住民は少なかったが、ロシアの併合後、ロシア化が進み、ロシア人・ウクライナ人の移住が進んだ。現在ではクリミアではロシア系の住民が最大多数を占めるに至っている(2020年のロシア国勢調査によると、クリミア半島のロシア人の比率は約68.7%、クリミア・タタール人が10.2%、ウクライナ人が6.9%・・・(http://www.hattorimichitaka.net/archives/57623948.html)。
また、下記のような記述もあります。
”戦後の1954年、フルシチョフ第一書記の時代に、クリミアはソ連内のロシア共和国からウクライナ共和国に移管された。当時はウクライナが将来独立することなど夢にも考えられなかったので、行政上の軽い気持ちで行われたものと思われる。
しかし1991年、ソ連が崩壊してウクライナが真の独立国となると、クリミアはクリミア自治共和国としてウクライナ内に留まることになった。ロシアもクリミアを含めたウクライナの領土保全を正式に認めたし、独立当初強かったクリミアのロシアへの復帰運動も鎮静化していき、誰もがクリミアのウクライナ残留は解決済みのこと考えるようになった。”
ウクライナが独立したとき、クリミアにはロシアへの復帰運動があったことが分かります。
だから、マイダン革命に関わって、クリミアの活動家のみならず一般市民も、ローテーションを組んで数百人単位でキエフに行き、ヤヌコビッチ大統領を応援する示威行動を展開してもいたのです。
ヤヌコビッチ大統領が倒れた時、クリミア人たちが、ロシアに助けを求めた側面を見逃してはいけないと思います。
さらに、反政権デモのマイダン広場をウェスターウェレ独外相、アシュトンEU外交安全保障上級代表、ヌーランド米国務次官補が相次ぎ訪れていたことも問題視し、”反露的色彩が強いデモへの欧米の露骨な肩入れは、プーチンを強く刺激した”ともあります。
だから、 プーチン大統領の、デモは「外部から入念に準備された」との主張は、事実を偽ったプロパガンダなどではないことがわかります。
見逃せないのは、
”ウクライナの西部には、歴史的にいくつかの民族主義組織が存在しており、その中にはナチスとの関係が指摘されるものもあります。特に有名なのは、ウクライナ民族主義者組織(OUN)とその軍事部門であるウクライナ蜂起軍(UPA)です。”
という記述です。
UPAは、ソ連に対抗するためドイツ軍と協力関係を築いた軍事組織だといいます。現在のウクライナではUPAは、ウクライナ国家独立のために戦った組織として名誉回復されているようですが、ロシアやロシアと関係の深い国々およびポーランドなどでは、「ナチス協力者」「戦争犯罪組織」と扱われているといいます。
そして「アゾフ大隊」を結成したウクライナ民族主義者組織に関して、日本でも次のようなことがありました。
ウクライナ戦争が始まってまもなく、在日ロシア大使館は、日本の公安調査庁がウクライナの国家組織「アゾフ大隊」をネオナチ組織と認めているとSNSで拡散したのです。それを受けて、公安調査庁はホームページから「ネオナチ組織がアゾフ大隊を結成した」という記載を削除しました。
削除の理由について、公安調査庁は、
”「国際テロリズム要覧に関するお知らせ」と題し、『国際テロリズム要覧2023』から抜粋し、公安調査庁ウェブサイトに掲載していた「主な国際テロ組織等、世界の国際テロ組織等の概要及び最近の動向」と題するウェブページについては、政府の立場について誤解を一部招いたことから、当該ページは削除しましたので、お知らせします。(https://www.moj.go.jp/psia/ITH/index.html)”
と説明しました。
かつてテロ組織と認定していたネオナチ組織が結成した「アゾフ大隊」が、ウクライナ戦争が始まり、国家親衛隊になったから、テロ組織ではなくなったということであれば、もう少し丁寧な説明が必要ではないかと思います。削除ですむことではないように思います。
また、
”「国際テロリズム要覧」は国内外の情報機関などが公表した情報をまとめたもので、独自の評価は加えておらず、アゾフ大隊をネオナチ組織と認めたものではない”
ともいうのですが、無責任な話ではないかと思います。
この件に関し、ウィキペディア(Wikipedia)には
”日本の公安調査庁は『国際テロリズム要覧2021』において、極右過激主義者の脅威の高まりと国際的なつながりの項目でアゾフ大隊について言及した。公安調査庁は白人至上主義の過激派の動向を分析したThe Sofan Center(TSC)の報告書を元に、『2014年,ウクライナの親ロシア派武装勢力が,東部・ドンバスの占領を開始したことを受け,「ウクライナの愛国者」を自称するネオナチ組織が「アゾフ大隊」なる部隊を結成した。同部隊は,欧米出身者を中心に白人至上主義やネオナチ思想を有する外国人戦闘員を勧誘したとされ,同部隊を含めウクライナ紛争に参加した欧米出身者は約2,000人とされる』と記述していた。”
とあります。
そして、ウクライナ戦争と関わって、アメリカが、「アゾフ連隊」に対する長年にわたる武器供給と訓練の禁止を解除したことも、忘れてはならないことだと思います。同連隊が、その起源に極右集団とのつながりが疑われ、議論があったというのです。
だから、ウクライナの「非ナチ化」を掲げるプーチン大統領の主張も、事実を偽ったプロパガンダなどではないと言えるように思います。
たとえ、トランプ氏の大統領就任で、ウクライナ戦争が終わっても、こうした欺瞞は、忘れ去られるのかも知れませんが・・・。
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一 ウクライナのシンボルと風景
第一章 クリミア 変転極まりない歴史。
クリミアは、面積2万7000 ㎢で、九州と四国の中間の広さを持つ。黒海に面し、幅5から7kmのペレコープ地峡によりユーラシア大陸、つまり現在のウクライナ本土と繋がっており、かろうじて半島になっている。ロシアとは地続きになっていない。北・中部はステップ地帯である。南部には、最高1545mのロマン・コシュ山を含む險わしい山脈が東西の海外沿いにそびえている。
半島南部の気候は地中海性気候で、糸杉が連なり、ぶどう畑が広がり、写真だけを見れば南仏のリヴィエラ海岸かと見まちがう。極寒と思われているロシア・ウクライナの地にこのような温暖な地があることは信じられないほどだ。ロマノフ王朝の諸皇帝およびその家族もクリミアをこよなく愛し、最後の皇帝ニコライ二世も都のサンクトペテルブルクよりもヤルタに居たがったという。ソ連の時代にも人々はクリミアへ保養に行くことを何よりも望んだというのもうなずける。
歴史をふり返れば、クリミアは、その特異な地理上の位置から、歴史上まことに目まぐるしい変転を重ねてきた。これほど主が度々入れ替わった半島は世界史上にも例がないのではないか。
クリミアには紀元前10世紀頃からイラン系キンメリア人が住み始めたが、紀元前7世紀頃には同じくイラン系のスキタイ人に駆逐された。スキタイ人はこの地に多くの円形の古墳を残した。同時期にギリシャ人もクリミア海岸に現れ、ケルソネソス(現セバストーポリ近郊)、パアンティカパイオン(現ケルチ)、テオドシア(現フェオドシア)などの植民都市を作った。
紀元前10世紀ごろには大陸部でキエフ大公国が隆盛となり、ケルソネソスは一時ヴォロディーミル大公により占領された。同大公がキリスト教(正教)に改宗したはケルソネソスであったと言われている。
13世紀になるとモンゴルが来襲してキエフが陥落し、キエフ大公国が滅びた。クリミアもモンゴルの末裔のキャプチャク・ハン国に支配されるようになった。クリミア南部のカーファ(現在のフェエオドシア)をはじめとするソルダイア(現スダーク)、エフパトリアなどにイタリアのジェノバやヴェネチアが貿易拠点を設けた。これらの都市は自治を許され、はるか中国の元とも交易をおこなった。マルコポーロの父もソルダイアに商館を持っていた。
キプチャク・ハン国の力が衰えると、15世紀中ごろクリミアのタタール人は独立し、ジンギス・ハーンの後裔と称するメングリ・ギレイはギレイ朝のクリミア・ハン国を建国した。同国はイスラームを奉じた。その都であるバフチサライには、今も純イスラーム風の木造の宮殿が残っている。ロシアの文豪プーシキンも19世紀の初めにこの地を訪れ、叙事詩「バフチサライの泉」を残した。
15世紀後半、クリミア・ハン国はオスマン帝国の属国となった。オスマン帝国がその軍とハーレムのために奴隷を必要としていたこともあり、クリミアのタタールは大陸部で町や村を襲い多数の男女を拉致した。クリミア海岸地域には奴隷市が栄え、彼らはオスマン帝国売られていった。奴隷交易はクリミア・ハン国の大資金源であった。ただ、オスマン帝国のハーレムに売られた女奴隷の中には後にスレイマン大帝の皇后なった女性もいた。なお、ウクライナ南部でコサックが発生したのも、このタタールによる奴隷狩り対抗する面もあった。
1783年、ロシアのエカテリーナ女帝(二世)の寵臣ポチョムキンがバフチサライを陥落させ、クリミア・ハン国は滅んだ。クリミアはロシア帝国に併合された。それまでクリミアにはスラブ系の住民は少なかったが、ロシアの併合後、ロシア化が進み、ロシア人・ウクライナ人の移住が進んだ。現在ではクリミアではロシア系の住民が最大多数を占めるに至っている。また、ロシアはセヴァストーポリに軍港を築き、黒海艦隊の基地とした。
1853年から56年までクリミア戦争が起きた。英・仏がオスマン帝国を助ける形で、東欧や地中海に進出しようとしたロシアを押えるために起こした戦争で、クリミアが主戦場となったためクリミア戦争と呼ばれる。結局はロシアが敗け、ロシアの貴族・知識人はロシアの後進性を痛感してその後の改革・革命の端緒となった。また、英・仏・露がこの戦争に忙殺されていたため極東への進出に出遅れた結果、日本進出では、米国に先を越され、ペリーによる日本開国につながったとの説もある。さらに同戦争ではナイチンゲールが敵味方の区別なく傷病兵を看護したことが後の赤十字発足のきっかけとなった。若きトルストイは自らの従軍の経験を『セヴァストーポリ物語』に書き、彼の出世作となった。
ロシア帝国の下、南部海岸沿いのヤルタなどは保養地として皇帝一家をはじめ多くの貴族、金持、文人、芸術家が離宮や別荘を建て、社交地として栄えた。今でも文豪チェーホフの家が残っている。彼の名作『犬を連れた奥さん』もヤルタが舞台である。
第一次世界大戦およびロシア革命の間、クリミアはボルシェヴィキの赤軍、デニキンやウランゲリなどの白軍、ウクライナ独立軍、ドイツ軍が入り乱れて戦ったが、結局はボルシェヴィキが勝利を占め、クリミアはソ連に編入された。1921年、クリミアはロシア共和国内のクリミア自治共和国となった。
第二次世界大戦ではクリミアはドイツ軍に2年半占領された。ソ連による再占領後、スターリンはクリミア・タタール人を対独協力の嫌疑で全員約19万人余を中央アジアに強制移住させた。その移送途中や移送後に多数が死亡した。これはスターリンの暴挙の一つに数えられている。戦後1967年になり追放措置は解除され、多くがクリミアに帰還した。現在ではクリミア人口の約1割を占めているが、元々の先住民族であるにもかかわらず、すっかり少数民族になってしまった。
第二次世界大戦末期重要会談がクリミアで行われた。1945年2月のヤルタ会談である。ヤルタのロシア皇帝のリヴァディア離宮でローズヴェルトとスターリン、チャーチルの三首脳が集まり、戦後体制の大枠を決めた。そのため戦後は「ヤルタ体制」と言われるほどである。とりわけ日本にとって重要なのは、ローズヴェルトとスターリンの間で密約ができ、ソ連はドイツの降伏後2、3ヶ月して対日宣戦し、それを対価として日本領であった樺太南部及び千葉列島をソ連に引き渡すことを。米国が承諾したことである。
戦後の1954年、フルシチョフ第一書記の時代に、クリミアはソ連内のロシア共和国からウクライナ共和国に移管された。当時はウクライナが将来独立することなど夢にも考えられなかったので、行政上の軽い気持ちで行われたものと思われる。
しかし1991年、ソ連が崩壊してウクライナが真の独立国となると、クリミアはクリミア自治共和国としてウクライナ内に留まることになった。ロシアもクリミアを含めたウクライナの領土保全を正式に認めたし、独立当初強かったクリミアのロシアへの復帰運動も鎮静化していき、誰もがクリミアのウクライナ残留は解決済みのこと考えるようになった。
しかるに、2014年、ウクライナで親ロシアのヤヌコビッチ政権が崩壊すると、ロシアは軍を出動させてクリミアをロシアに併合した。その詳しい経緯は第49章及び第52章に譲るが、この併合は、国連憲章の中心原則である「国際関係における武力行使の禁止」に真っ向から違反するものとして、ウクライナはもとよりG7のなど多くの国が認めていない。2018年、ロシアはクリミアとロシアを隔てるケルチ海峡に自動車橋を完成させ、クリミアを手放さないとの姿勢である。クリミアの帰属をめぐる問題は今後も長く尾を引きそうである。(黒川祐次)。
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