「回想 本島等」平野伸人 編・監修(長崎新聞社)の中で、私が特に考えさせられたのは、舟越耿一教授の下記”「異例の発言」に導かれて”という文章でした。本島市長の「天皇の戦争責任はあると私は思います」という発言は、長崎市議会で質問があったので、質問に答えるかたちで、歴史的な事実を踏まえて市長が自らの考えを述べたに過ぎないものです。ところがそれを「異例の発言」という。そういう受け止め方こそ異常なのだ、ということに気付かなければならないと思いました。
多くの歴史家や研究者が、戦時中の天皇の立場や側近の証言および日記の記述、天皇の裁可を受けて発せられた数々の軍命、御前会議における天皇の発言等から、天皇の戦争責任を明らかにしています。舟越教授も下記に抜粋したように”私の知っている学界では「天皇の戦争責任」を否定する見解を探し出すことさえ難しい”と書いています。
でも、世間ではそうした天皇の戦争責任に言及すると、「異例の発言」と受け止められる。
それは、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判で、昭和天皇がアメリカの都合によって訴追されることなく免責され、全く裁きの対象にならなかったことや、一旦公職を追放された戦争指導者・戦争協力者などが、「逆コース」といわれるGHQの対日占領政策の転換によって、公職追放を解除され、要職に復帰したことなどが影響して、日本は戦後も皇国史観に基づく戦前、戦中の意識を引きずることになってしまったからではないか、と私は思います。
また、一部の政治家や活動家によって、意図的に天皇の戦争責任を否定するプロパガンダとしかいいようのない主張がくり返されたことなども影響しているのかも知れません。
そうしたことがあって、歴史家や研究者が明らかにした天皇の戦争責任に関わる史実が、広く共有されてはいないことが銃撃事件の背景にあるのではないでしょうか。
同書に掲載されたそれぞれの人の文章によって、当時の状況や本島市長の様々な側面を知ることができましたが、特に長崎原爆中心碑裁判原告団長の阪口さんの文章が、私には貴重でした。。本島市長が平和公園一帯の整備計画を構想していたこと、また、裁判の中で
”その時、気づいた。平和公園には世界中から、さまざまな宗教を持つ人が訪れる。ところがイスラム教など多くの宗教は偶像崇拝を禁じている。平和祈念像という巨大な偶像が周囲を圧する公園では、心穏やかに祈りをささげることができない人が大勢いるのではないか。公共の祈りの場はいかにあるべきか、真剣に考える必要があると痛感した”
と証言したことなどを知り、「平和公園」というもののあり方について考えさせられたからです。
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「異例の発言」に導かれて
舟越 耿一
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それは、1988年12月7日の長崎市議会一般質問への答弁だった。
以下に26年と一ヶ月ぶりに抜粋する。これが「異例の発言」だったといえるか。
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お答えいたします。
戦後43年たって、あの戦争がなんであったのかという反省は十分できたというふうに思います。
外国のいろいろな記述を見ましても、日本の歴史をずっと、歴史家の記述を見ましても、私が実際
に軍隊生活を行い、特に、軍隊教育に関係しておりましたが、そういう面から、天皇の戦争責任は
あると私は思います。
しかし、日本人の大多数と連合国側の意思によって、それが免れて、新しい憲法の象徴になった。
そこで、私どももその線にそってやっていかなければならないと、そういうふうに私は解釈いたし
ているところであります。
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ほんとに久し振りに目にしたが、さて読者の皆さんは、一読どのような感想をもたれただろうか。要は、命を狙われるような、よっぽど何かのご機嫌を損なうような、きわめて不謹慎な、というようなそんな発言に読めるだろうかということ。「エーッ! こんなもの? なんてことないじゃないの!」とわたしは言いたくなる。何も特別なことは言っていない。
前段では、内外の文献を読んでも、また私の軍隊経験に照らしても、天皇の戦争責任は肯定せざるを得ないと述べ、後段では、にもかかわらず日本国民と連合国側の意思によってそれを追及せず、憲法上象徴たる地位に置くことになったので、私たちもそれに従わなければならないことになったと述べている。天皇制を否定していないばかりか、象徴天皇制を支持すると言っている。品格を欠いているわけでもなく、かえってそれなりに配慮の行き届いたバランスのとれた発言だという印象さえ受ける。
改めて当時の新聞報道を検証してみたい気もするが、マスコミは「天皇の戦争責任はあると私は思います。」というところだけとりたてて強調するという報道ぶりだったのだろうか。しかし、私の知っている学界では「天皇の戦争責任」を否定する見解を探し出すことさえ難しいということを考えると、とりたててどうということはない発言だったと私は思う。そんな発言を長崎新聞は「異例の発言」と報じていた。
何をもって「異例」というのか、またそのことが検証されたことがあるのか否か定かでないが、ともかくその後発言の趣旨と位置がずれて受け取られていったと私は思う。どうってことはない「一般質問への答弁」と「異例の発言」とでは大いに違う。
本島発言があったときの社会状況はこうだった。昭和天皇が吐血し重篤の病床にあった。マスコミは連日病状報道をした。そして一方では、各地に平癒を祈願する記帳所が設けられ、記帳の行列と記帳者数が報じられた。他方では、テレビのCMやバラエティ番組が、学校では運動会や学園祭などが、市民社会では、花火や祭り、個人の祝宴まで、笑いや歌舞音曲が「自粛」を求められ、規模縮小中止にに追い込まれた。長崎では諏訪神社の恒例の秋祭り・長崎くんちが中止になった。そのほか驚くようなことが多々あったのだが、ここにあげたくらいは40歳台以上の人なら任意に思い出すことができるだろう。
こうして昭和天皇のXデー状況の中、「記帳」と「自粛」によって昭和天皇の病状回復を祈願することが社会的・心理的に強要され、天皇重体のさなかの各種行事は「不遜、不敬、不謹慎」にあたるという社会的雰囲気ができていった。その現象をわたしは天皇制コンフォーミズム(大勢順応主義、あるいは集団同調主義)と名付けていた。日本中の政治と社会が、まさに過剰に「右へならえ」で自粛に誘導されていったのどこかで何らかの政治的決定がなされたわけではないのにそうなった。
そんな雰囲気下に本島市長の議会答弁があり、発言は「天皇の戦争責任はある」という短い言葉にされ、「右へならえ」に従わない「不遜、不敬、不謹慎」な発言として受け取られていった。まさに「異例の発言」はそう受け取ったということを示している。
発言とその報道の後、長崎の街は、右翼街宣車の「天誅」の怒号に埋め尽くされていく。1988年12月21日には、右翼団体が62団体、車両82台をもって長崎に集結し、市役所・市議会を取り巻き、市内中をノロノロ運転した。このような事態の延長線上に銃撃事件は起こった。その時の恐怖、またその過敏症状の感覚は今も残っている。
ここまでのところで、もう「異例」とされた背景と意味が明らかになっているが、もっと具体的な表現を探ってみよう。それは、平野伸人編・監修『本島等の思想』(長崎新聞社、2012年)の71ページ以下にもある。
「天皇ご重体のときに不謹慎極まる発言で、心ある国民を愚弄するものだ」とか「公人である立場もわきまえず軽率な発言だ」といったもの、さらに具体的に、そもそも天皇の戦争責任追及が恐れ多いことだ。言論の自由はあっても発言の時期と場所を配慮すべきだ、といった表現もある。
これに対して本島市長は、89年7月、インタビュアーに求められて、時期、場所・立場をわきまえよという自制論・自粛論に関して「議会制民主主義の本質」という観点を押し出して次のように語っている。前掲書72ページ。
「思想・表現の自由が時と場所で守れないようでは、民主主義は成立しない。天皇の戦争責任についても同様で、『なぜあんな戦争を始めたのか』『なぜもっと早くやめなかったのか』。市民や被爆者、そして私自身が深いこだわりをもっている。おれを正直に良心的に答えた。不謹慎、軽率だと言われようとも、これだけは撤回するわけにはいかない。議会でも私が答弁した直後は平静で、何の反論もなかったんです。
それをマスコミが取り上げ、タブーを破ったということで騒ぎが大きくなり、撤回せよ、辞職せよ、さもなければ天誅を加える、というのでは議会制度など成立しない。」
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天皇は「神聖ニシテ侵スヘカラス」とされ、反天皇制の活動には死刑さえ準備されていたという時代が長く続いた国柄であるだけに、時期・場所・立場をわきまえよという身の処し方を当然だと思う人にとっては、「異例」と「天誅」はいまでも簡単につながっているのではないかと私は思っている。
しかしそんなものに畏怖して沈黙すれば議会制度は死ぬと考えたのが本島さんだった。
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実行委員の感想から
《銃撃事件25年展》に思う
高實 康稔/長崎大学名誉教授
《25年展》の実行委員会が結成された直後に本島先生がお亡くなりになり、ご本人がお見えになれなかったことが残念でなりません。昨年7月6日の中国人原爆犠牲者追悼式であれほどお元気で、追悼の言葉を述べられたのですから。
展示会場の設営も大変でしたが、事件の重大さにあらためて衝撃を受けるとともに、2万通の手紙、37万人の書名など、市民や労働者が示した反応の迫力にも圧倒され、社会の健全な反応を照射する展示として大いに意義があったと思います。来場者も、暴力を許さない市民社会の形成にとって一人ひとりが声をあげることの重要さを痛感したことでしょう。
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…舟越実行委員長がオープニング・セレモニーで言われた「平和と民主主義は絶えず到達目標」という指摘を肝に銘じたいものです。歴史修正主義やヘイトスピーチが横行する日本の現実を克服するためにも、この到達目標を日々目指したいと強く自覚した《銃撃事件25年展》でした。
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本島さんのいる情景
山川 剛/被爆者
「物が語る」というが、背広の銃弾の痕や手術時に切り裂かれた血染めのワイシャツは、どんな言葉も寄せ付けない生々しさで25年前の銃撃事件を語っていた。5ミリにも満たない背広の穴の向こうに、民主主義と暴力のせめぎ合いという現代の巨大なテーマが拡がっている。
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「校長を辞めたらなんばすっとか」と唐突に電話があった。私が定年退職した日の夜だった。私を校長と思っていたのは本島さんだけである。このあたりが、情の本島だろう。”皆勤”だった元日座り込みでの口癖は「話はうまいのだがながくなる」だった。するめの味があった。平和公園の中国人原爆犠牲者追悼碑の除幕式で「この碑こそ一番先に建てられるべき碑だった」という本島さんの言葉が耳にこびりついている。
これからも、おずおずと本島等の思想を受け継いでいきたい。
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『本島等さんとの出会い』
阪口 博子/長崎原爆中心碑裁判原告団長
本島さんんの人となりを初めて知ったのは、爆心地に設置された母子像には宗教性があるとして、私が像の撤去を求める裁判の原告の一員として出会ったときです。元市長としての話を伺い、原告側証人として法廷に立ってもらいました。2003年ごろだったと思います。本島さんは市長として、平和公園一帯の整備計画を構想し、完成を見ぬまま選挙で敗れてしまいました。後任となった伊藤一長氏が構想案にはなかった爆心地にある原爆中心碑を撤去して、その跡に母子像を建設する計画を議会に提出しました。中心碑の撤去と母子像建設に対する大きな反対運動が起きて市民運動に発展し、中心碑は残りました。しかし爆心地公園内に設置された母子像は爆心地にはふさわしくないと市民4人が撤去を求めて裁判をおこしました。その裁判の過程でした。
本島市長が平和公園聖域化検討委員会を立ち上げ、平和公園一帯をどのような思いで整備しようとしたのか、中心碑を撤去しようという案はあったのか、母子像計画は知っていたのか、などこの計画の本来の目的を知ることが重要だったからです。
3回ほど時間をさいていただいたでしょうか。本島さんの話は尽きることがありませんでした。軍隊時代への反省、カトリック教徒としての思い、信念、その中から語られる市長としての思い、原爆投下への思いなどなど。
証人として法廷に立たれた時も、ユーモアを交えつつ多弁で、しかし、確信の部分ははっきりと答えてくれました。ローマ法王ヨハネ・パブロ二世が来崎した際、広島では平和公園で祈りを捧げたのに、要請したにも関わらず、長崎では平和公園を訪れず、市陸上競技場で野外ミサを行ったことから「その時、気づいた。平和公園には世界中から、さまざまな宗教を持つ人が訪れる。ところがイスラム教など多くの宗教は偶像崇拝を禁じている。平和祈念像という巨大な偶像が周囲を圧する公園では、心穏やかに祈りをささげることができない人が大勢いるのではないか。公共の祈りの場はいかにあるべきか、真剣に考える必要があると痛感した」と整備計画の核心に至った経緯を証言していただきました。私たち原告が主張していた、公共空間に偶像はふさわしくないという考えのもと、公園整備を構想していたということだったのです。新旧市長対決と言われ、その後に証人台に立った伊藤市長に比べて、人間としてのスケールの大きさに圧倒されたことを思いだします。
今回、銃撃事件25年展が遺品展となってしまい、とても残念でした。展示されていた付箋紙付きの愛読書の数々、話の奥行きの深さ、幅広さはこのような本を血肉とされていたのかと納得しました。
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『本島等さんの思い出』
丸尾 育朗/長崎県被爆二世の会会長
…本島さんの信念は、戦争と原爆、加害と被害、そして赦し、生涯変わることがなかったと思う。政治家としての顔、平和を求めた顔、カトリック信徒として、自らを傷つけられても、赦すと言える、私にとっては鵺のような存在でした。話し出すと様々な本から引用して話すので大変おもしろく、良く本を読んでいるなと感心もし、多岐にわたっており、参考になる事も多かった。今回自宅にあった本の展示を行ったが、一冊の本の中には、線が引かれ、付せんが貼られ、読み込んでいる事がよく分かった。そういう本が何冊もあった。カトリックの中では、「正義と平和」を基調につくられた委員会の長として、平和を考え共に活動してきた。常に視野を広くもたなければ平和を作り上げることは出来ないと、先鋭的になる事を戒めてきた。…。
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銃撃事件25年展を終えて
本多 初恵
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本島氏が天国にいけるかもしれない、と思えるのは氏が弱者の視点を持ち、情に厚い面があったことだ。いろんな人の相談にのってそれを解決した話の中にそれを感じたし、次の市長の時代に市の乳児院が廃止になった時には心を痛めていらした。また、本島氏は市長を辞めてから外国人被爆者に関心を持ったわけではなく、在任中から心を砕いていらした。韓国人被爆者に援護法の適用がなかった時代に、長崎市長として韓国の被爆者を訪問しお見舞いをされた。八者協の会議では韓国人被爆者の援護を訴えて、他市の市長から「お前は何人か?朝鮮人か?」と怒鳴られた。この市長は学徒動員をまぬがれた理科系秀才だったそうだから、シモジモのことは眼中になかったのだろう。「しかし裁判で解決しようなんて発想はなかったよ。平野さんはエライ。」とおっしゃっていた。
さらにブラジル在住の被爆者、森田氏からお聞きした話が、本島氏は天国にいけるかも知れない、と思わせる。かつては日本国籍を持っていても、海外に居れば被爆者手帳は何の役にもたたなかった。韓国の被爆者と手をつないで数々の裁判をして今の状況を勝ち取ったのは数年前のことだ。海外の被爆者にとって被爆者手帳が紙切れ同然だった時代、森田氏らブラジルの被爆者たちは、日本国内の被爆者なみの援護を訴えようと厚生省を訪れた。しかし「国を棄てた者が何をいうのか」と、ケンもホロロな対応だった。そんなひどいことを言うなんて、お役人たちはブラジル移民が国策であったことを忘れていたのだろう。次に広島市役所を訪れたが、同様の扱いを受けた。打ちひしがれて長崎市役所を訪れると「遠いところから大変だったでしょう」と丁寧な対応で話を聞いてくれ、役に立ちそうな資料をたくさんくれた。森田氏らの地元であるため、再度広島市役所をおとずれて長崎の資料を見せると、職員らは驚き、「ちょっと貸してください。」と争って資料を持っていったそうだ。森田氏はこの時から長崎を愛し、いまでも日本に来たときは長崎まで足をのばして下さっている。長崎市長が本島氏で本当に良かった。
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「銃撃事件25年展」~平和と民主主義は守られたか~へ
竹下 芙美
1月15日から19日までの5日間、危惧したような事もなく無事、終わることができた。展示された写真パネルを見ながら、当時のことが思い出された。
本島氏の発言、その後の銃撃事件後に立ち上げられた「言論の自由を求める長崎市民の会」では、全国から寄せられた多くの賛同、激励文、書名などの整理に追われた。街頭書名に立った時は、まだ携帯もいまほどには普及していない時代で、公衆電話の位置を確認し、緊張に包まれていった。また、福島菊次郎写真展の時にも、会場周辺を取り囲んだ街宣車が回り、騒然としたなかでの開催だった事等々…。
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