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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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軍国美談 三勇士

2017年09月30日 | 国際・政治

 戦前・戦中の日本で、軍事美談が教材として活用されたことは誰でも知っていることでしょうし、当時の状況を考えれば不思議なことではないと思います。考えなければならないのは、教材化され広く知られた美談が、実は加工されたり、脚色されたり、誇張されたりしたものであったことであり、その美談が子どもたちのみならず、一般国民の心をとらえて、国民が軍部を支え、戦争を推し進める積極的存在になっていったという側面だと思います。そう言う意味で、軍国美談は文部省に圧力をかけた軍部や美談を教材化した関係者だけの問題ではなく、国民全体の問題として受けとめなければならないのだと思います。

 だからこそ、三勇士の一人、作江一等兵が言ってもいない、「天皇陛下万歳」が挿入され、「作江はこういって、静かに目をつぶりました。」と表現されることの問題は小さくないのではないかということです。

 「深部の声」や「ひとばしら」に書かれているような、皇国日本における差別の利用には考えさせられるものがありますが、それも、国や天皇に命を捧げることが美談として語られるような世の中であったがためだと思います。
 差別に苦しむ被差別の兵士が、一命を捧げる覚悟をして「よーし、馬山作戦で天皇のために最後の手柄をたてよう」と考えたり、差別のいたみを中国民衆を虐殺することによって癒すため、冷血な殺人鬼になるに至るというようなところには、捉え尽くせない深い思いや苦しみがあるのを感じます。忘れないようにしたいと思います。

下記は、「軍国美談と教科書」中内敏夫著(岩波新書)から抜粋しました。
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               (2) 教材「三勇士」の裏面史
 難産だった「三勇士」
 
 これも著名な軍事教材「三勇士」は、第五期、つまり軍国日本では最後の国定国語教科書(初等科二の二十一)に難産のすえ登場した。次期国定教科書からの軍事教材の全面排除は、すべて占領下という特異な権力関係のもとで遂行されたものである。それゆえ、教材「三勇士」はその採用が一回きりで終わったといっても、教材「一太郎やあい」とは廃棄の性格を異にするものといわねばならない。しかし、第四期改訂本編輯のしごとが始まってまもない時期にあたっている上海事件の一挿話に取材し、当時その新採用を推す有力筋があったにもかかわらず、第四期編纂作業で見送られ、十年たった第五期本になってようやく日の目をみたこの新出教材の地位は、安定性の高いものであったとはいえない。しかも、採用後におこった数々の事件は、教材「一太郎やあい」がたどったと同様の運命を、この教材についても予想させるものであった。なお、この素材は、第五期国語本と同時期に出た第四
期唱歌教材にも同じ「三勇士」の題(一の二十)で採用され、歌詞は、「その身は玉とくだけても、ほまれは残る廟巷鎮(ビョウコウチン)」と結ばれている。
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               ニ十一 三勇士

 「ダーン、ダーン。」
 ものすごい大砲の音とともに、あたりの土が、高くはねあがります。機関銃の弾が、雨あられのように飛んできます。
 昭和七年二月ニ十二日の午前五時、廟港の敵前、わずか五十メートルという地点です。
 今、わが工兵は、三人ずつ組になって、長い破壊筒をかかえながら、敵の陣地をにらんでいます。
 見れば、敵の陣地には、ぎっしりと、鉄条網が張りめぐらされています。この鉄条網に破壊筒を投げこんで、わが歩兵のために、突破の道を作ろうというのです。しかもその突撃まで、時間は三十分というせっぱつまった場合でありました。
 工兵は、今か今かと、命令のくだるのを待っています。(中略)
 北川が先頭に立ち、江下、作江が、これにつづいています。
 すると、どうしたはずみか、北川が、はたと倒れました。つづく二人も、それにつれてよろめきましたが、二人は、ぐっとふみこたえました。もちろん、三人のうち、だれ一人、破壊筒をはなしたものはありません。ただその間にも、無心の火は、火なわを伝わって、ずんずんもえて行きました。(中略)
 もう、死も生もありませんでした。三人は、一つの爆弾となって、まっしぐらに突進しました。
 めざす鉄条網に、破壊筒を投げこみました。爆音は、天をゆすり地をゆすって、ものすごくとどろき渡りました。
 すかさず、わが歩兵の一隊は、突撃に移りました。
 班長も、部下を指図しながら進みました。そこに、作江が倒れていました。
 「作江、よくやったな。いい残すことはないか。」
 作江は答えました。
 「何もありません。成功しましたか。」
 班長は、撃ち破られた鉄条網の方へ、作江を向かせながら、
 「そら、大隊は、おまえたちの破ったところから、突撃して行っているぞ。」
とさけびました。
 「天皇陛下万歳」
 作江はこういって、静かに目をつぶりました。
                              (初等科国語 二の二十一)
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「”三勇士”の原典」、「三勇士ブーム」、「教材化へ」、「中央指向性」、「国家のリアリズム」、「階級強調」等の項目は略

ズレを追う
 もう一度、事件の発生とその後の経過を追ってみよう。前例からいってまず考えられるのは、この教材にも「一太郎やあい」のときと同じように、国定教科書の期待する三勇士像と現実のそれとの間にズレが存在していたのではないかという問題である。
 というのも、これまでのべたように、国定教材の三勇士像とそのタネ本になった教育総監部編『満州事変軍事美談集』の間には事件の真相についての一致がみられるのだが、後者の発表と同時期、つまり国定「三勇士」教材完成以前に発表された三勇士もののうち戦死の現場に近い層から発表された記録類と前者国定教科書との間には、じつに微妙な違いがみられるからである。そのひとつに、前にも引用した陸軍工兵中佐小野一麻呂あらわすところの『爆弾三勇士の真相と其の観察』がある。この記録は上海事件が終わってまもない七月十五日の発行になっており、また著者の小野は「三勇士を出せる工兵隊に勤務することじつに十有一年」、とくに「勇士の中隊長たる松下大尉とは父子の如き縁故」にあった人物であるというから、三勇士関係の実録としてはもっとも近い所から出たものとみなければならない。ところが、この書物には、三勇士の最後としてつぎのようにあるだけなのである。

 内田伍長は(中略)作江一等兵を左腕に抱きかかえ、「鉄条網は破れたぞ、傷は浅いぞ、しっかりせよ」と呼ぶ。吉田看護兵も馳せ寄り水筒を口にあてて水を飲ます。その瞬間、憎しや敵弾飛び来りて内田伍長の右大腿部を貫通し、父子相抱くが如く上官と部下とは共に傷つき共に倒れ間もなく作江一等兵の英霊は彼の肉体より去ってしまった。

 他方、国定教材『三勇士』の最後は、「天皇陛下万歳。」作江はこういって、静かに目をつぶりました。」と結ばれていたのだった。
 小野の記録には、孝行息子だった作江一等兵が最後にいったことばが、「天皇陛下万歳」だったとはどこにも書いていないのである。

技術的失敗説・・・略

深部の声
 技術的失敗説の当否はわたくしの判断の能力をこえる。ただいえることは、この種の問題は、こと教科書編集の領域に関するかぎり、採用をひかえる決定的な理由にはならないということである。「一太郎」母子については、あれほどまでして事実を加工した軍部・文部省であった。三人はすでに確実に死亡しており、「一太郎」のばあいのように、当人が日本国内に現に「生きている」のではない。遠くはなれた余人のうかがい知ることのできぬ大陸の戦場でおこった事実の加工は、かれらにとっては、それほどむずかしいことではなかったはずである。
 ところで、上野英信の前出書は、同じく三勇士とその死をめぐる毀誉褒貶には、巧に偽装され、かつ計算されたもうひとつの別性格のものがあったとして、つぎのようにのべている。
 
 その重い絶望的な暗黒の谷底で、ひそやかに都から村へ、村から都へと伏流するある一つのうわさがあった。冷厳な命令のままに従容として<護国の鬼>と化した三人の兵士の中に被差別民がいるという、うわさであった。

 この「うわさ」は、だれが、どういう目的で流したものだったのか。証言は少なくないが、各地のそれらの証言を集めただけでは、最初の発信者やその意図はわからない。わかることは、勇士たちの戦死後まもなく、そのブームのあとを追ってほぼ一年あまりの間に、かなり広くゆきわたり根を下ろしたものというところまでである。ただ、結果からみて、もうひとついえることがある。それは、三勇士が労働者階級の出身であったという事実を階級協調と搾取の強化の武器として活用した前述の論法と全く同じやり方で、この「うわさ」を、一方では差別意識をあおっての殉国精神の強要のための、他方では融和政策のための、それぞれの道具として巧妙に使いわけ、活用しようとする立場がそこに姿をみせているということである。

 「私は思いだす、”爆弾三勇士”が私たちをふるいおこさせていた記憶を。私の耳に入ってきたヒソヒソとした流言のことを」と、戦後、実践記録『落第生教室』(1964年)を書いた高等学校教師福地幸造はその体験を語っている。「二十年経った今でも、このときの衝撃が生々と思いだされてくるのだ。(私はこの文をかく前に先輩のKに確かめてみた。Kもこの話を確かに聞いたといっている。)勿論、私はこの頃、問題については知らなかったが、衝撃はうけた。その一つでも私に二十年前の記憶を生々と思い起こさせる刻印を打っている。」(福地「再び民兵士の手記を」1961年)

 他方、上野の著書は、つぎのような長崎市での証言を引用している。「ええ、三勇士が戦死して間ものう、ほんの間ものうでしたばい。それはもう感激したもんたい。三勇士の中に一人俺たちと同じ民がおるというて。」

ひとばしら
 大戦後三十年近くたった時点で、日本中国友好協会と中国帰還者連絡会は、中国宣戦で戦犯として抑留された会員旧日本兵の手記『侵略-従軍兵士の証言』(1975年)を発表した。この手記の発表は、同書の「まえがき」によると、戦争と戦前の教育を知らない「若い人たちの間から”ありふれた普通の人間”がどうしてこのような(同会が58年に公刊した同会員のもうひとつの手記集『侵略』に語られているようなー引用者注)凶悪な罪行を犯すようになったのか?”という疑問がしばしばきかれるようになった」ので、この疑問にすこしでも答えることになればとの意向で計画されたものであり、「事件はすべて事実である」(ただし人名は一部仮名)とある。その手記のひとつは、「社会で解決し得なかった身分差別を解決すること」が出来る最後の場所として「皇軍」という社会的空間を求めて入隊したひとりの兵士(筆者)が、ここでも差別に苦しみ、自殺を考えたり、差別者への復讐を試みたりする過程を記録している。その兵士が、差別のいたみを中国民衆を虐殺することによっていやそうとし、かくて「ありふれた普通の人間」から冷血な兵士に転身する過程に一役演じたものとして、教材「三勇士」が登場する。手記にはこう書かれている。

 彼は、肉弾三勇士のことを思い出した。(中略)「……わしらのでもあげな勇士を出して、世間の者を見返してやらななあ──」といって、全員が祭りのようにさわいだことを思い出した。たとえ一等兵でもあのように死んで行けば、金鵄勲章がもらえる、そうすれば貧しい俺の家にお金がおりるし、菊も弟妹たちも肩身が広くなり、の人びともきっと喜んでくれるだろう、と常吉は考えた。
 「よーし、馬山作戦で天皇のために最後の手柄をたてよう」
 と決心した。

 世界の先発資本主義国と社会主義国家群を相手に帝国主義戦争をすすめつつあった日本の軍事国家によって、三勇士は二重の意味で人柱とされ、上野によれば「活用」されたのである。とすれば次に問題になるのは、だれが最初にこれを意図したかは別としても、三勇士のこのような「活用」が、なぜこの時点で必要であり、かつ可能であったのかという問題である。

 可能と必要
 日本の近代国家は、一方で差別意識を温存し、これを活用しながら、他方その公布した解放令で、差別に苦しんでいた人びとに期待を抱かせた。こうした事情のゆえに、指導下の差別抗議の運動ですら「明治大帝の聖旨」を楯にすすめられ、この楯そのものを俎上にのせることはむずかしかった。そうした文脈でみると、三勇士事件もまた天皇への忠誠を顕示することにより差別から抜け出したいという民衆の深部のねがいに、どこかでつながっていたことになる。(「〔対談〕植松安太郎・井上清」1975年)この心情が「活用」を可能にした。

 では、この「活用」の必要はどこからきたか。これを明らかにするには、前出の手記集『侵略ー
従軍兵士の証言』にも出てくることだが、「一君」のもとでの「万民」の平等なることをもっとも強調してきた軍隊内部において、ほかならぬ差別が苛酷をきわめていたという、もうひとつの同時代史に眼を転じなければならない。たとえば、『水平新聞』三十五(昭和10)年11月5日付第十三号は、「軍隊に行った者でなければ真実のサベツの苦しみは判らぬ」という「兄弟たちの告白」を伝えている。三勇士事件の発生する32年前後の時期、『水平新聞』紙上に報ぜられたものだけでも、軍隊内差別は枚挙にいとまがない。

 三勇士事件との関係でで大事なことは、このような軍隊内の差別事件に対して、当事者たちは個々に抗議するだけでなく、などを通じて次第に組織的に抗議運動をおこし、しかも、これを、無産労働者解放運動の一翼としてすすめるようになっていたということである。このことは、解放運動が、無産労農運動の目ざすもの、すなわち、近代日本の国家機構そのものの変革を早晩その俎上にのせはじめることを意味するからである。

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