明治のはじめ、日本では民撰議院設立建白書の提出を契機に、自由民権運動が始まったといわれます。当初は、明治政府に不満を抱いた士族が中心だったということですが、憲法の制定、議会の開設、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障に加えて、地租の軽減などの要求も掲げたため、しだいに運動は、不平士族のみならず農村にまで浸透し、全国民的なものとなっていったようです。
そんな中で、自由民権運動を抑え込むようなかたちの教育政策が進められ、教科書は「国定制」に切り替えられたようです。
そして、子どもたちが手にする「国定教科書」の修身に、下記、死んでもラッパを離さなかった木口小平(日清戦争)の話が登場することになるのです。でも、私はこうした軍国美談は、一部は真実だとしても、全部が真実であるかどうかは疑わしいと思います。木口小平をヒーローに仕立てることによって、政権に都合のよい教育を意図したのだろうと思うのです。
そして、それは、下記のように、その目標が「勇気を起さしむるを以て本課の目的とす」から「忠義の心を振興せしめ…」に変わっていったことにあらわれているように思います。特に、軍事教材では、真実は脚色され、ねじ曲げられたり、様々な誇張や無視が入ったり、時には嘘さえもが盛り込まれてしまったりするのではないかと思います。
「歴史教科書を格付けする」藤岡信勝編(徳間書店)に、”「国のおこり」は、神話によって感動的に物語られなければならない”といったような文章があったことも思い出します。
また、「靖国神社」の文章にみられるような、”陛下の御めぐみの深いことを思い、ここにまつってある人々にならって、君のため国のためにつくさなければなりません”というような、皇国史観に基づく国定教科書で育てられた人たちが、日中戦争開始の頃に、日本の中心的存在であった歴史を忘れてはならないと思います。
下記は、「軍国美談と教科書」中内敏夫著(岩波新書)から抜粋しました。
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Ⅰ 軍事教材の誕生
十七
クグチコヘイ ハ テキ ノ タマ ニ アタリマシタ ガ、シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセンデシタ。
目標が変わった例
つぎに、五期四十数年をへる間に、同じ軍国日本を称揚するものでありながら、重点のおき方に変化が生じ、その結果が個々の軍事教材の指導目標の変化となって教材の改廃へと連動していった例をあげておこう。これもじつは二つの種類がある。ひとつは、新しい目標にあわせて旧素材を解釈しなおして新教材をつくるばあいである。もうひとつは素材そのものを一新し、したがって旧素材は廃棄ということになるばあいである。カッコ内は教科書中の題名である。
木口小平一等卒
(1) 第一期本(修身、二の二十四、ユーキ)
<目的>勇気を起さしむるを以て本課の目的とす(『尋常小学校修身巻一 教師用』1903年)
(2) 第二期本(修身、一の十七 チュウギ)
<目的>忠義の心を起さしむるを以て本課の目的とす。(『尋常小学校修身書巻一 教師用』1910年)
(3) 第四期本(修身、一の二十六 チュウギ)
<目的>忠義の心を振興せしめ、天皇陛下の御為には一身を捧げて尽くすよう心掛けしむるを以て本課の目的とす。(第三期本も同じ - 引用者注)
なおこの第四期本の解説書には、〔注意〕として「戦場に出ない者でも、自分自分の職場を守って国の為に働くのが天皇陛下に忠義を尽くすことになる事を諭すこと」(『尋常小学校修身書巻一 教師用』)とある。
陸軍歩兵一等卒木口小平の明治27、8年日清戦争成歓(ソンファン)の戦場での言行を素材にしてつくられたこの軍事教材の歴史は、岡山県川上郡成羽村出身の一職人兵士の同じ一つの行動が、時期により異なる目標のもとに教材化された例である。第一期本では「勇気を起こさにせる」というどこにでも通じる一般的な徳目だったのに、二期本以後では、これが天皇の国家にむけての勇気という枠のなかに閉じ込められて、、「忠義の心を起こさしむる」「天皇陛下の御為」となる。第四期本の〔注意〕はその頂点を示している。ところが木口小平は、こうして天皇の軍隊である皇軍の価値秩序にくみこまれて極点まで登りつめるとともに、突然消される。その背後には、じつは、さきにのべた軍事行動の近代化にともなう指導目標の大きい転換があった。そして、この転換が、あとにのべるように、第五期にいたって大量の新出軍事教材が誕生する原因となるのである。
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Ⅱ 軍国美談と民衆
1 「強い教材」の精神的支柱
(1) 国家原理と教材目標
靖国関係教材
教材「靖国神社」の指導目標を考えてみよう。
靖国神社の原型は招魂社である。招魂とは死者の霊を天から招き降ろして鎮魂するの意である。その起源は古代にさかのぼるが、平安期に入るころから死者の怨念をはらすことを目的とする御霊(ゴリョウ)信仰ともまざりあいながら、戦国期になると、祟りなきよう戦争で死んだ敵味方を弔う習俗に発展した。靖国の思想も、神道ふうのこの招魂の思想をうけついでいるのであるが、両者の間には決定的なちがいがあった。戦国期の招魂の思想は、仏教の影響もあって、死ねば敵も味方もないという神道の立場からの一種のヒューマニズムに達していたのに対して、靖国の思想によれば、天皇に敵対したものは死後も未来永劫に「内外の国の荒振寇等(アラブルアダドモ)」つまり賊徒であり、逆に天皇に従うものは天皇のために死んだという一点の功によって生前のあらゆる犯罪、罪罰から放免され、神とあがめられる存在になるとされる。つまり、靖国は、天皇の力が、地上のあらゆる犯罪、道義上の悪を駆逐して、万民の解放を自らの意志によってなしとげる場である。教材「靖国神社」には、ここのところが簡潔に説かれている。靖国神社の威力は、この種の政治制度上のものに加えて、もうひとつ日本人の死生観に根を下しているところからもくる。
神殿にたって柏手(カシワデ)をうてば、万里の彼方で死に、億万里彼方へ去った息子や夫たちの魂が瞬時に目前にかえってきて対話すら可能となる。いけるもののこの世と死せるものの霊界の間に断絶をみず、死を永遠の別離としない日本人の民族的死生観を、この国家制度は見事に活用して、現実には兵士とその家族たちを死の局面にさらしていたのである。靖国神社は、これまた、近代日本の国家機構を、国民感情の深部から支える巨大な精神的空間だったといわねばならない。そのゆえんを教えつづけることの国家指導者にとっての価値は、はかり知れないものがあったといえよう。
第三 靖国神社
靖国神社は東京の九段坂の上にあります。この社(ヤシロ)には君のため国のために死んだ人々をまつってあります。春(4月30日)と秋(10月23日)の祭日には、勅使をつかわされ、臨時大際には天皇・皇后両陛下の行幸啓(ギョウコウケイ)になることもございます。君のため国のためにつくした人々をかように社にまつり、又ていねいなお祭をするのは天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。わたくしどもは陛下の御めぐみの深いことを思い、ここにまつってある人々にならって、君のため国のためにつくさなければなりません。
(第三期修身 四の三)
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