先日(2017年9月13日)、朝日新聞に”沖縄「集団自決」のガマ荒らされる”という記事が掲載されました。沖縄県読谷村の洞窟「チビリガマ」で、入口の説明板が引き抜かれたり、内部のつぼやガラス瓶などの遺品が粉々に割られたり、千羽鶴が引きちぎられたりしたというのです。私は、沖縄における「集団自決」の事実は、日本で継承されるべき歴史的事実であり、こうした行為は許されないことだと思います。
また、先日、関東大震災の際に虐殺されたという朝鮮人の犠牲者を悼む行事に、小池百合子都知事は追悼文を送らなかった問題も報道されました。そして、すでに多くの証言や資料をもとに、歴史家が明らかにしている歴史的事実であるにもかかわらず、虐殺の有無について認識を問われると、「様々な見方があると捉えている」と回答し、「歴史家がひもとくものだ」とも述べたといいます。
こうしたことは、下記の「慰安婦問題」における安倍政権の姿勢と、無関係ではないと思います。
2015年(平成27年)12月、慰安婦問題に関して、日韓が合意にいたりました。でも、その際、「日本軍の慰安婦問題を最終かつ不可逆的に解決する」合意である、というようなことが言われました。私は、「最終かつ不可逆的に解決する」というような言い方に引っかかるものを感じました。
安倍総理は、
”私たちの子や孫、その先の世代の子供たちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない。
今回、その決意を実行に移すための合意でした。この問題を次の世代に決して引き継がせてはならない。最終的、不可逆的な解決を70年目の節目にすることができた。今を生きる世代の責任を果たすことができたと考えています。”
というのですが、私はおかしいと思います。安倍総理は「元従軍慰安婦の人たちの主張を事実としては認められないが、10億円を支払って謝罪をするので、今後は慰安婦問題を持ち出さないでほしい」と考えているのではないでしょうか。そして、かつて日本を戦争へと導いた指導層や軍にとって不都合な慰安婦問題を教科書から削除し、なかったことにしようとしているように思えます。
でも、「歴史に学ぶ」というのは、「負の歴史」も含めてでなければならないと思います。日本は、こうした「負の歴史」を記憶し、後世に伝えていく義務を負っているのではないでしょうか。河野談話を問題視するようなことをいいながら、慰安婦像の撤去を執拗にもとめる安倍政権の姿勢は、歴史を修正しようとするものであり、そうした姿勢が様々なところで、日本を戦争へと導いた指導層や軍にとって不都合な歴史的事実を、なかったことにしようとする動きをうみ出しているとさえ思えてなりません。
かつて、下記のような軍国美談が教材とされた事実や、実態をとらえて改作された同じ題名の教材があった事実なども、忘れてはならないと思います。
「一命を捨てて君の御恩に報ゆる」ことを我が子に諭す母親が、感心な母親であり、立派な母親であると、当時の子どもたちは、国の方針に基づいて指導されたということですから。
下記は、「軍国美談と教科書」中内敏夫著(岩波新書)から抜粋しました。
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Ⅱ 軍国美談と民衆 軍事教材改廃の歴史
1 「強い教材」の精神的支柱
(4) 「水兵の母」のねばり
「水兵の母」の由来
教材「水兵の母」の水兵は実在の人物で、じっさいあったかれの言行がその素材となっている。しかし、かれには、他の強い教材の場合のような皇室とのつながりなどはない。そのうえ、素材の適切さという点では深刻なキズを負っていた人物だった(後出)。それがなぜ強い教材なりえたか。
素材は日清戦争の一挿話。第一期国語、高等小学校読本に「感心な母」の題名で登場して以来、第五期本まで連続登場し、「入営・兵役」ものと並んで、最長の記録をもつ。素材の提供者は、第一期教科用図書調査委員会の海軍側代表委員子爵小笠原長生であった。小笠原には『東郷平八郎伝』(1931年)、『忠烈爆弾三勇士』(1932年)など、他にも国定教材の原典や参考文献になったドキュメント類があるが、「水兵の母」のそれは、当時軍艦高千穂に乗り組んでいたかれが、日清戦争従軍中、手帳に書きとめていたものをあとで整理したドキュメント『海戦目録』(1896年)だといわれる。
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第二十四 水兵の母
明治二十七年戦役の時であった。或日我が軍艦高千穂の一水平が、女手の手紙を読みながら泣いていた。ふと通りかかった某大尉が之を見て、余りにめめしいふるまいと思って
「こら、どうした。命が惜しくなったか、妻子がこいしくなったか。軍人となって、いくさに出たのを男子の面目とも思わず、其の有様は何事だ。兵士の恥は艦の恥、艦の恥は帝国の恥だぞ。」
と、言葉鋭くしかった。
水兵は驚いて立上がって、しばらく大尉の顔を見つめていたが、(中略)
「それは余りな御言葉です。私は妻も子も有りません。私も日本男子です。何で命を惜しみましょう。どうぞこれを御覧下さい。」
と言って、其の手紙を差出した。
大尉はそれを取って見ると、次のような事が書いてあった。
「聞けば、そなたは豊島沖の海戦にも出ず、又八月十日の威海衛攻撃とやらにも、かく別の働なかりきとのこと。母は如何にも残念に思い候。何の為にいくさには御出でなされ候ぞ。一命を捨てて君の御恩に報ゆる為には候わずや。村の方々は、朝に夕にいろいろとやさしく御世話下され、『一人の子が御国の為いくさに出でし事なれば、定めて不自由なる事もあらん。何にてもえんりょなく言え』と、親切におおせ下され候。母は其の方々の顔を見る毎に、そなたのふがいなき事が思い出されて、此の胸は張りさくるばかりにて候。母も人間なれば、我が子にくしとはつゆ思い申さず。如何ばかりの思にて此の手紙をしたためしか、よくよく御察し下されたく候。」
大尉は之を読んで、思わずも涙を落し、水兵の手を握って
「わたしが悪かった。おかあさんの精神は感心の外はない。お前の残念がるのももっともだ。しかし今の戦争は昔と違って、一人で進んで功を立てるようなことは出来ない。将校も兵士も皆一つになって働かなければならない。総べて上官の命令を守って、自分の職務に精を出すのが第一だ。おかあさんは、『一命を捨てて君に報いよ』と言っていられるが、まだ其の折りに出会わないのだ。(後略)」
と言聞かせた。
水兵は頭を下げて聞いていたが、やがて手をあげて敬礼して、にっこり笑って立去った。
(第三期 国語、九の二十四)
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水兵とその母が誰であるかについて、『海戦目録』は「余の部下」で「某が家は世々鹿児島の浜辺にありて見る蔭もなき漁民なり。早く父に別れて、兄弟もなく、年老いた母のみ家に留めて出陣」と記すだけで、詳細不明の状態がながくつづいた。貧しく、名もない母子家庭の老母とその息子。そんな母親でも「一人の子」を「お国」のためによろこんでさしだし、天皇のいくさに身を捧げるよう願っているという筋書き。これは、軍指導部にとって国民教化の絶好の素材たりえたであろう。第一期本「感心な母」はこの点をとりたてて強調する構成になっている。
大尉はこれを読んで、思わず、涙を落した。しばらくして、水兵の手を取り、せなかをなでて、
「あー。ゆるせ。わたしがわるかった。おまえはよい母をもっている。たぶん、おもえは、よい家柄に、うまれたものだろうな。」
といった。
水兵は、頭をふって、
「いえ、私は鹿児島のうみばたのりょーしの子です。父は、早く死んで、うちには、母ばかり、のこっています。(後略)」
といった。
実相の露呈
中村紀久二の研究によれば、1929(昭和4)年になって、突如『肥後日日新聞』が水兵母子を「漸く探し当てた」と報じ、翌々年には野崎敬輔著『実話 水兵の母』が公刊され評判になる。さらに、32年2月には、当の文部省がこれを「社会教育ニ裨益アリ」と認定するにいたった。問題は、こうして公認となった現実の水兵母子のその後である。新聞が明らかにしたところによると、この母子は鹿児島県揖宿郡指宿村の有村おとげさとその次男善太郎であって、善太郎、つまりくだんの「水兵」は実は病気がち、教科書に載った挿話のあったあともはかばかしくなく、結局、1894年9月の黄海の海戦のはじまるまえに高千穂から下艦を命じられた。そして、母の住む村に帰郷し、3年後に病死していたのである。
国定教材では、「てがら」をたてて故郷に錦をかざるはずの漁民兵士が、じっさいは手柄なくうらぶれた病兵であることがあらわになったことの軍指導層にとっての衝撃は軽くない。このようなとき、教材製作の直接の責任者である図書監修官は、後述するように、素材に加工するか、教材を廃棄するかしているが、「水兵の母」の場合いずれの処置もなくおし通した(通しえた)のはなぜか。それはこの教材の主人公が、善太郎「水兵」や小笠原「大尉」ではなく、現実にはその場に登場しない「母」だったのだと考えると、その理由がわかってくる。軍国の母像のフレーム・アップがこの教材の眼目である。まえに引用した教材解説書のいうように、そのめざすところは、理想の母像を提示することによる情操教育であって、関連教材一体となって「母親のわが子に対する真情の種々相を教材とし、これまで培われて来た児童の母に対する情感を一層深めて行くようになっている」のである。
そうだとすると、「水兵の母」である有村おとげさに直接のキズがなければ、子の病弱は母性原理を介してかえってプラスに働くのであって、それがこの素材の適切さだと判断されたのではないか。もっともこれは、図書監修官やその上司たちの間になりたちえた判断のひとつであって、有村母子の実相が軍国の母像をフレーム・アップするうえでじっさいに適切な素材でありえていたということではない。わたくしにはこの点がなお疑問としてのこる。
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Ⅲ 軍事教材の転生
1 変身する軍事教材
(1) 水面下の演出者
教材の改廃理由を調べていくことによって、文部省のすすめた改廃作業の裏側に、じつは、近代日本の軍と学校をまきこんだ深刻な内部矛盾があったことがわかる。このことは、その矛盾の事態、事実を素材にして、国定教材とは目的も指導目標もちがう反官・反軍の軍事教材づくりが、同時代において可能だったことを物語っている。じっさい、軍国日本の内外の反対勢力が国定軍事教材に対しておこなった闘争じれいを調べてみると、「水兵の母」、「一太郎やあい」「三勇士」など、わが監修官たちをてこずらせ、悩ませた教材にかぎって、このもうひとつの教材づくりの試みは興味深い深まりをみせているのである。1920年代から30年代にかけての国際的なデモクラシーと社会主義運動、そして、国内在野運動の高揚期に、国定教科書の批判と新教材の製作および使用を試みたのは、新学校に拠った「自由教育」者たちであり、なかば非合法の教員の労働組合や労農少年団運動にとりくんでいた農民組合の青年たちであった。軍国日本の植民地・占領地であった朝鮮、中国等の抗日勢力も同様の試みをした。この章では、これら在野の活動家層にむけて、それぞれの関連団体が用意した「新学校」副教材や「プロレタリア教育の教材」「抗日教材」中の関連部分がどのようなものだったかをのべておくことにしよう。
新学校の副教材 ・・・略
プロレタリア児童文化 ・・・ 略
教師の集団 ・・・略
(2) 生まれ変わる美談の主
「水兵の母」のばあい
代々の図書監修官たちの手になる国定軍事教材を、反軍国主義の立場からつくりかえる動きは、こうして1930年代にかけての無産大衆運動のなかではじまった。「プロレタリア教育の教材」は、学校教育の教科目全分野にわたっているが、ここでは、そのうち、軍事に素材をとった民間「軍事教材」とでもいうべきものに限って話をすすめることにする。
新興教育研究所はコップ加盟後、精力的にピオニール関係の教科書を編輯発行したが、そのひとつ、
1932年8月3日付特輯『ピオニーロ夏休み帳』 で、最強の国定教材のひとつである「水兵の母」の素材をプロレタリア教育の立場からとりあげ、教科化した。以下はその一部である。
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水兵の母
(前略)
大尉(おこった顔)「こらっどうした命が惜しくなったか。妻子が恋しくなったか。軍人となって軍(イクサ)に出たのを男子の本懐と思わず其の有様はなんだ。兵士の恥は艦の恥、艦の恥は帝国の恥だぞ。」
水兵六(驚いて飛上がる。だんだん怒りの色をあらわす。黙って手紙を渡す!)
大尉(手紙を受け取る)「何だ是は(いやな顔をしながら)ふん。女の手紙だな。」(大きな声で読む)
聞けばお前は豊島沖の海戦にも八月十日の威海衛の攻撃にも別にけがもなかったちう清二の話じゃが「やれやれ安心しただ。お前が出たあとの村ちうものはそれはそれはひどいもんじゃ。お前の働いていた田には草が生え、お前の可愛がって居た兎は六匹とも死んじまった。すけどんちの三男坊は大砲の弾でとんじまったちうじゃねえか。
俺は地主様の作男がわりにつかわれているだが、この年に無理な仕事で一日十五銭、是でどうして三人の倅を養って行けるだか、今に母も倅もヒボシさ。(中略)そんなようで家ばかりでねえだ。村中あっちでも夏の池の鮒みてえに、村人がアップアップしているだあ。じゃが母はお前の怪我もなく戦死もせず無事に帰るのをまっているだあ。例え上官の命令じゃとてもあぶない所へは行くな。お前ばかりでない。お前と一緒に働く水兵ちう者にも親も子もあるべえ。何とかうまくやって生きて帰って来てくれ一生のねがいだ。友だちの水兵様によろしく云っておいてくれ。書いているそばにはカタワの清二もお前を可愛がっている三人の弟もいるだ。皆やせこけているだあ。
大尉「こらっ不とどき者、何と云うことだ。」(水兵をなぐりつける)
第四景
水兵六なぐられてたおれて手紙を持ちながら泣いている。他の水兵登場。
水兵一「何だ何故泣いている。福田。」
水兵二「おい手紙を持っているぞ。」(水兵三、四、一、手紙のまわりに来る。そしてみんな読み合う)
水兵三「俺の嬶はどうしているだろう。俺の子供は」
水兵四「国のためだ何て云ってるが一つも俺達のためではないじゃないか。」
水兵三「そうだ。俺達は何のために戦してるんだろう。」
水兵六(泣きながら)「母の云うことは本当だ。お母さんの云う通りだ。俺達は自分のとくにならない上に支那の労働者や農民をやたらに殺すのはいやだ。」
水兵一、二、三、四、六、(声を揃えて)「そうだ!そうだ! 俺達は金持ちばかりの得になるばかばかしい戦争はマッピラだ。皆して戦争をやめよう!」
改作「水兵の母」の裾野
「水兵の母」有村おとげさにとっての問題は、図書監修官のいう軍国の母のふるまいといった立派なものではなく、息子が国定教科書の教えや「上官の命令」におどらされないで我が身大事と「うまくやり」、どうやって無事にムラへ帰ってくるかであり、それが農民兵士やその母たちすべての本音でもあったというもうひとつの軍国日本の母と兵士の現実が、ここではあからさまに形象化され、教材としての機能を国定版のばあいとは一変させている。この改作版もとらえているように、中堅労働力の根こそぎ召集にともなう家族の生活破壊や地域の荒廃は、戦争が長びくにつれてさまざまなかたちで深まりつつあった。…
・・・以下略
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