「幕末」司馬遼太郎(文春文庫)は、「桜田門外の変」と題された文章から始まっていますが、その終りの方に、私には受け入れがたい次のような文章があります。
”この桜田門外から幕府の崩壊がはじまるのだが、その史的意義を説くのが本篇の目的ではない。ただ、暗殺という政治的行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その最も重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。三百年幕軍の最精鋭といわれた彦根藩は、十数人の浪士に斬り込まれて惨敗したことによって、倒幕の推進者を躍動させ、そのエネルギーが維新の招来を早めたといえる。この事件のどの死者にも、歴史は犬死をさせていない。”
当時の井伊直弼が、どれほど悪辣な人間であったか、私は知りません。しかしながら、いかなる思いで時代の難局に対していたとしても、”斬られたこと”によって”歴史的役割を果たした”などというのは、いかがなものかと思います。明治維新を肯定し、明治時代を明るい時代として描こうとするから、こういう無理な主張をせざるを得ないのではないかと思います。井伊直弼は殺されて当然の人物として、暗殺を肯定してしまうような主張は、私には受け入れ難いのです。さらに言えば、明治維新がそれほど素晴らしいものであったとは、私にはどうしても思えません。逆に私は、明治維新が、第二次世界大戦の敗戦にまで突き進む日本の端緒を開いたように思います。
資料1は、「いい話ほどあぶない 消えた赤報隊」野口達二(さ・え・ら書房)の「あとがき」ですが、薩・長を中心とする官軍の指導者にいいように使われ消された相楽総三の生涯は、明治維新の本質を象徴しているような気がします。明治政府は、確かに日本の文化・制度・風俗・習慣などの近代化につとめ、外見的には著しい飛躍を生み出しました。しかしながら、明治維新以来の日本は、もっとも大事な部分で、深刻な問題を抱え続けていたと思います。
官軍の進軍にあたって多くの軍資金を出した三井や鴻ノ池などの資産家に多少でも返金し、さらに維新の大業を成し遂げるために「年貢半減」の「勅定」を取り消す必要に迫られた時、相楽総三を中心とする赤報隊に「にせ官軍」の汚名を着せ、年貢半減の勅定もろとも消し去ることを言い出したのは、維新十傑の一人、岩倉具視であるといいます。
資料2は、「闇の維新 相楽総三」原田務(叢文社)から抜粋した文章ですが、その相楽総三率いる赤報隊に、「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで幕府に対して反発する民衆の支持をとりつけ、江戸を攪乱し、幕府を挑発する謀略を依頼したのは、維新の三傑として、今も日本が誇る西郷隆盛や大久保利通であることがわかります。
こうしたことが明らかにされることなく、日本の新たな国づくりが進められたために、その後「朝鮮王宮占領事件」や日清戦争、「旅順虐殺事件」、日露戦争などが続いていくことになったように思います。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あとがき
歴史の上で、大きな変革があるときは、いろいろな人物が、さまざまなかつやくをしています。
徳川幕府がたおれ、明治の新政府が生まれ、日本が「近代」にむかって歩みはじめたときも、そうです。中心になってはたらいた、西郷隆盛や大久保利通や、木戸孝允をはじめ、多くのひとが功労者として歴史に名をとどめ、伝記を書かれたリ、小説の主人公にえがかれたりしています。
だが、明治の「御一新(ゴイッシン)」をおしすすめたのは、薩摩や土佐や長州の志士ばかりではありませんでした。日本じゅうのいろいろな藩の、下づみの武士たちが、「尊王」から「討幕」へと力をあわせ、その小さな力が、やがて大きな動きに変わっていったことを見のがしてはなりません。
とくに、そのような力のひとつとして、武士よりは庶民にちかく「草莽(ソウモウ)の士」とよばれた人びとのいたことをわすれてはなりません。そのひとたちは、武士の身分ではなく、百姓や商人だったり、医者や学者、神官だったり、いろいろなひとがいました。わたくしはそのようなひとを、やさしく、「草の根の志士たち」とよんでいます。草の根の志士たちにも、多くの成功者がいて、このひとたちの伝記も多く書かれています。
だが、そうしたなかで、だれかが計画して消してしまったひとも少なくありません。この「いい話ほどあぶない」でとりあげた相楽総三(サガラソウゾウ)そのひとりです。さんざん利用され、じゃまになったときは、申しひらきの機会さえもあたえられずに殺されてしまったのです。相楽の赤報隊のほかにも、九州での、花山院家理(カザンインイエマサ)を総裁としてはたらいた草の根志士たちも、やはりおなじような目にあっています。
そんなひとたちは、おなじようにはたらきながら、ながい間、歴史のなかにしるされることはありませんでした。
ところで、みなさんは、「勝てば官軍」ということばを聞いたことはありませんか。勝ちのこり、力をもった者が、いつも正しいとはかぎりません。きたないことをして勝つこともあります。ですから、人間は、正しいことを正しいとするか、強いものにしたがうかを、そのとき、そのとき、人間としてのルールにしたがってよく見きわめなくてはならないのです。
わたくしがここで相楽総三と赤報隊の人びとをとりあげたのは、政治は民衆のためになくてはならない、という正しいことを信じて行動していながら、殺され、「賊」というよごれた名まで着せられた人びとを、うずもれたままにしておきたくなかったからです。じゃま者だから歴史から消してしまうとうことでは、人間として、すじ道がとおりません。
それと、明治の「御一新」が、ほんとうはどういうものだったかも、知ってもらいたかったのです。
この本をお読みになったひとは、相楽総三がなぜじゃま者にされたか、おわかりになったでしょう。
ひとつは、「御一新」で、だれがいちばんはたらいたか…その手がらをあらそうようになってきたところで、薩摩など大きい藩のめざわりになったということです。草の根の志士たちがはたらきすぎていては、自分たちの手がらがかすんでしまうからです。あるいは、それだけでは、殺す理由はなかったかも知れません。しかし、ひとつの理由になったことはたしかです。
それからもうひとつは、「年貢半減」つまり、力をあわせる者には、税金を半分にしてやるという、太政官のごさた書をもって民衆を手なづけて進んでいったということです。この、朝廷のみとめた命令が、じつは相楽総三とその同志のいのちとりになったのです。「御一新」のいくさをはじめたころは、官軍も、勝てるかどうか自信がなかったのです。そこで、中心になった人びとは、民衆を手なづける方法として、「年貢半減」を考えいたようです。
しかし、相楽総三は、まずしさに苦しんでいる民衆のすがたをよく知っていて、「どうにかしてたすけなくては」と思っていたので、それを、心から信じて行動をおこしたのです。そのために、悪政をつづけてきた幕府をたおすことに、人いちばい熱心だったのです。
だが、官軍がしだいに力をつけてきたとき、「年貢半減」の大号令がじゃまになったのです。それで、じゃまな者と、じゃまな号令をいっしょに消そうとしたのが、この悲劇なのです。しかし、官軍は、相楽たちを殺した後も東北のいくさなどで、官軍が不利になってくると、いつも、この「年貢半減」の号令を出し、百姓たちをみかたにつけ、いきおいをもりかえすと、またとり消しています。
そんなすがたを見ていると、明治の「御一新」には、民主主義につながってゆく「四民平等」のこころは、まったくなかったのではないかということがわかってきます。だから、やがて、国民を戦場にかり立てて、外国とたたかい、力をほこってみせるような国に変わっていったのでしょう。
相楽総三と赤報隊の人びとが、「賊ではない」とみとめられたのは、ずっとのちのことでした。しかし文部省がみとめるような歴史の教科書には、ついに、いちども登場してきませんでした。明治百年をむかえたとき、わたくしは、これを「草の根の志士たち」というドラマに書き、文化座のひとたちが全国を上演してまわりました。
そのとき、多くの人びとが、感動の声をよせてくれました。
しかし、なかには、「つくりごとだろう」といい、「官軍がまさか、こんなことを」ともんくをいってきたひともいました。でも、これは、まったくほんとうの、片いなかにうずもれていた歴史なのです。
この本をつくるにあたって、斎藤三勇さんが美しい版画を描いてくれました。斎藤さんは、文化座の公演のとき、岩倉卿の役で芝居をした俳優さんだったので、人物のこころや表情を、じつによく書きあらわしています。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
闇の維新 相楽総三
一
・・・
ええじゃないか、ええじゃないか
おめこに紙張れ
破れたらまた張れ
ええじゃないか、ええじゃないか
両手をあげ、卑猥な風に科を作って腰を振り、男はたいてい掻っ払った(カッパラッタ)緋縮緬(ヒジリメン)の女装、女は男装をして眼をいっときの解放感に恍惚とうるませ、老若男女、子供までまじえて踊り狂っている。
・・・
--この騒ぎは、つい先月名古屋地方にとつぜん伊勢神宮のお札が降ったときから始まる。日々暗さを増す社会不安におののいていた民衆は
「なにっ、お札が降った? そいつぁまさしく天のお助けだッ!」
と、この降札に飛びついた。
・・・
しかし、今回のこの騒ぎはどこか違う。前回の文政十三年から三十七年目と時期は早いし、踊りの先頭にたいがい浪人体の男が立つなど、なんとなく胡散臭(ウサンクサ)さがあるのだ。<岩倉公実記>に次のような記事がある。
「中山忠親、西郷吉之助、大久保一蔵、坂本龍馬など、王政復古の大挙を図議(トギ)するの時に於いて、相互に往来すること頻繁なり。而して幕府および会津・桑名二藩の偵吏(テイリ)が絶えてこれに気付かざりしは、つとめてその踪跡(ソウセキ)を韜晦(トウカイ)したるのみならず、あたかもこの時に当たり京師(ケイシ)に怪事(「ええじゃないか踊り」のこと)あり、それは八月旬に始まり、十二月九日王政復古発令の時に至って止む。けだし具視が挙動もこの喧閙(ケンドウ)のために蔽われて、自然と人目に触るることを免れたるなり」
事実その通り、この莫迦騒ぎのさなかの九月には、薩・長二藩と長州・広島二藩の討幕の出兵密約ができ、同時に岩倉具視は王政復古の計画に着手。十月には薩・長二藩に討幕の密勅が下される。十一月には薩摩藩藩主島津茂久兵を率いて入京。そして十二月には王政復古発令。同時に全国諸藩に万機親裁を布告する。そこで(あたかも所期の目的を達成したように)ぴたりと「ええじゃないか」騒ぎは終結した。
そこで、昔から、この騒動は旧来の「お陰参り」のように、民衆のあいだから自然発生したものではなく、誰か確たる黒幕がいたのではないか? という疑問がある。
この年、慶応三年の十一月末、幕府軍と長州軍が対峙していた西宮で、この「ええじゃないか」騒ぎに遭遇した福地源一郎<幕臣・のち桜痴(オウチ)・新聞記者・劇作家>は、
「あのお礼降りは、京都方(討幕派)の人々が人心を騒擾(ソウユウ)せしむるために施したる計略なり」とその著書で断定している。
・・・
ーー狂舞の先頭が宿の下にさしかかるころは、ウワーンという音の渦と、群衆の発散する熱気に寒気も薄らいでしまった。四郎が左側をみると、十間ばかり先に今日の午後お札が降ったという造り酒屋の店先には、豪勢にも四斗樽が五本も並べられ、その後ろで下女や近所の娘たちが法被すがたの男の身形(ミナリ)になり、向こう鉢巻きで団扇太鼓(ウチワダイコ)や空桶(カラオケ)を打ち叩いていた。
ええじゃないか、ええじゃないか
へのこに紙着せ
破れたらまた着せ
ええじゃないか、ええじゃないか
この歌詞、実は松平春獄公史料や尊攘(ソンジョウ)党書類雑記によると、おめこの「お」は大を意味し、「め」は樹生芽、「こ」は公。これをつなぎあわせると、新大樹公(将軍の別称)となる。それから、「紙」は神、「張れ」は張る・振るう、「破れ」は敗れ、負くるで、これをまとめると、
「天下億兆に、もはや人望のなくなった新将軍徳川慶喜、こやつを神威を振張して伐(ウ)ち、敗れたらまた伐ち、これを万遍なく繰りかえせば、かならず勝利する」
また次の「へのこ」は、夷の子に通じ、「着せ」は被せ蒙るで、つまり二番目の歌詞は、
「神威を振張して夷賊を伐つ」
の意になるのだそうだ。だが、…群衆はそんな小煩(コウルサ)いことはナンにも知らない。ただ言葉どおり鄙猥(ヒワイ)に唄って踊って浮かれまくっているだけだ。
小島四郎は旅すがたで階下におりると、入口で行列を見ていた父の知り合いで、上洛以来長いこと彼の身の安全を計ってくれていた旅籠(ハタゴ)の亭主に、
「じゃ、立つことにする。世話になったな、おぬしも達者でな」
と笑顔で声をかけた。おやじは急いでふりかえると、
「お名残おしゅうございます。では道中ご無事でーー江戸のお父上さまによろしくお伝えください」
としんみりといった。
以前は同志の打ち合わせには、時を見計らい笠で面をおおってこっそりと忍び出たものである。いまは堂々と素顔で群衆の列にまぎれこんだ。
行き先は三条の旗亭(キテイ)である。そこには薩摩藩の西郷吉之助(西郷隆盛)と、彼の配下の益満久之助(マスミツキュウノスケ)・伊牟田尚平(イムダショウヘイ)、それに大久保一蔵(大久保利通)も激励にくることになっていた。
西郷と何度か会って打ち合わせをすませ、謀略のおもむきはすでに充分承知している。今宵はその密命への旅立ちの、西郷の招待による餞(ハナムケ)の会である。いやむしろ死出の旅の送別の宴といったほうがふさわしいだろう。
密命の内容は、将軍不在中の江戸、および関東一円の攪乱(カクラン)である。目的は武力討幕計画の実現を図るため、幕府を挑発して戦端をひらかしめることであった。
先月九月七日、土佐の藩論を代表して上京した後藤象二郎は、西郷を訪ねて大政奉還建白のことを相談したが、西郷は時すでに遅く、薩長両藩の体制は討幕の軍をおこす段階まできていると後藤の申し出を断った。しかし後藤は諦めずふたたび西郷を訪ねて討幕の延期を求め、ついに理詰めで西郷の承諾を得てしまった。
そこで後藤は、老中板倉勝清(カツキヨ)をたずねて老公山内容堂の大政奉還建白書を提出した。
その建白書にしたがい、土佐案では大政奉還後、列藩会議を開きその議長には旧将軍を就任させるということになっていたからだ。西郷・大久保が、頭脳明晰(メイセキ)な策士とみていた慶喜が列藩会議の議長になってしまえば、これを幕権強化の手段に利用しないはずがない。そうなれば大政奉還は有名無実なものとなり、なんのことはない、徳川幕府の形をかえた存続になってしまう。
もうこうなったら、その土佐案が固まらないうちに一日も早く幕府と戦端を開かなければならない。西郷と大久保はそこで、
「最早かくなる上は、錦の御旗獲得と、幕府挑発戦略以外無い!」
と、宮廷工作と江戸内外の攪乱戦術という二面作戦をたてたのだ。そしてこの<江戸攪乱、幕府挑発策謀>の指導者に、草莽(ソウモウ)の志士である小島四郎<江戸に入ってから相楽総三(サガラソウゾウ)と変名>を西郷らは起用したのだ。
料亭の裏口につくと、慎重に辺りをうかがってからスッと入った。火を消した上がり框(カマチ)の暗がりに潜んでいた西郷の身辺警護の若侍いが、つと出てきて無言で四郎に会釈(エシャク)し、彼をともなって奥まった部屋に案内した。
障子をあけると、西郷はこちらをふりむき、いつもと変わらぬ穏やかな笑顔を泛べてうなずいた。それから、
「さっ、こちらへ直(ナオ)られい」
と四郎を前の座に手招(テマネ)きし、おもむろに威儀を正すと、
「お待ち申しておりもうした」
とまるで目上の人に対するように深々と頭を下げた。四郎は恐縮(キョウシュク)して、急いで座ると両手をついて挨拶を返した。それから、
「いやあ、乱痴気(ランチキ)騒ぎの連中にまぎれこんでやってきましたので、だいぶ遅れてしまいました。申し訳ございません」
きびきびした口調でいい、人懐(ヒトナツ)こい微笑みを泛べた。先着していた益満久之助と、伊牟田尚平が、
「おかしげな世になり申したのう」
「いや重畳重畳、この騒ぎで新撰組も見廻り組もお手上げだろうて」
それぞれがおどけていうと、あとは若々しい爆笑になった。
西郷は正座したまま先に徳利をとり、四郎の杯になみなみと酒を満たした。「くだんの件、よろしゅう、おたの申すーー」
あとは何もいわなかったが。だが、言外に明らかに(貴殿の江戸での働きに、討幕の成否のあらかたがかかっておりますんでのう……)といっていた。
四郎はそれを聞きながら、やはりこれを選んでよかったんだと思った。じつは、彼はついこの間まで、公卿の鷲尾隆聚(タカツム)をいただき、近畿地方で挙兵を目論んでいた討幕運動に参加しようとしていたからだ。
酒宴はやがて佳境にはいり、ことがことだけに女は呼べないが、江戸ぐらしのながい益満と伊牟田が、年季のはいった端唄(ハウタ)や新内節を小粋に唄って座を盛り上げた。
そのころになって、大久保一蔵が遅れてやってきた。平生、寡黙な彼にはめずらしく四郎の手をかたくとって、
「江戸からの吉報、ひたすらお待ち申しておりますぞーー」
と熱っぽく言った。
このとき、岩倉具視も激励にやってきたという説があるが、謀略の規模の大きさと重要さからみて、彼も発想段階から関わっていたのではないか? その後の岩倉の挙動からして充分考えられる。
益満久之助は、すこしまえ西郷に呼ばれて、
「おまえ、すまぬが、江戸にいってくれ。かねておまえは同志仲間も広いから、江戸へ出て浪士らとまぜっかえしてこい。そうすれば、幕府はかならず兵をむけてるであろう。そのとき出たり隠れたりして充分にまぜっかえしてくれ。その挙句は抵抗してこい」
と申しつけられていた。
彼は、薩摩藩士益満新之丞の四男として天保十二年に生まれた。幼少時より江戸で育ち、藩から隠密蝶者(オンミツチョウジャ)としての訓練を受けている。剣術は長沼流をまなび、その道場で幕府直参山岡鉄太郎と知り合い懇意になった。
「西郷は、勇胆で陽気な益満を好んでよく遣い、彼もそれはそれはよく働いたそうです。益満はその時分江戸の八官町辺の旅宿に泊り、そこを常宿としているうちに、その家の娘が女房のようになって子供までできたそうです。金はたくさん持っていても、みんな気前よく子分たちにわけ与えたそうです」
という市来四郎(薩摩藩士・東京史談会中心人物)の話が残っている。
伊牟田尚平は、天保四年鹿児島の在で生まれた。彼の家は代々加持祈祷をこととする山伏であったが、彼はこれを嫌い、島津家の支族肝付(キモツキ)家の家来となり、やがて島津斉彬の侍医、東郷泰玄に医学をまなび医者になった。
その後脱藩して攘夷運動に加わり、万延元年十二月五日、清川八郎と共にアメリカ公使館の通訳ヒュースケンを斬った。これも市来四郎の話だが、
「伊牟田は、いまで申す壮士のようなものでございました。私もよく付き合ったので承知していますが、<彼は陪臣(マタモノ)なので>城下の者よりやや僕役され、刺客などにも遣われたものでございました。とはいえ、伊牟田は、義のためには一歩も引かぬところのある男でした」
といっている。誰がみても、乱世向きのこうした仕事にはぴったりの男で、そのうえ伊牟田は益満の子分ともみられていたので、西郷にはよけい適任者と映ったのだろう。
--小島四郎ら三人は、その夜深更、京を旅立った。
中村半次郎(のちの桐野利秋)の京在日記の慶応三年十月三日の項に、(益満休之助ほか二名、今日より江戸へ差立てられ候こと、尤(モット)もかの表において義挙賦(サズカ)り云々……その夜は、満天これ銀砂をばらまいたような星空であった)と記してある。
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