真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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二・二六事件 蹶起将校の陳述(村中孝次、磯部浅一)と判決主文

2018年12月22日 | 国際・政治

 昭和十一年二月二六日の蹶起事件は、陸軍省や司法省などによって、一般の報道が禁じられ、長く記事の差し止めや発禁処分などが続いたこともあって、その後も事件の裁判記録が注目されることはなく、東京大空襲によって焼失してしまったなどと思われていたようです。

 でも、北博昭教授による東京地裁に対する開示請求によって、東京地方検察庁に保存されていた厖大な裁判記録が公にされることになったといいます。
 それを知った蹶起将校の一人、池田俊彦氏が、毛筆草書体の録事による記録を書き写して「二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷」池田俊彦(編)高橋正衛(解説)(原書房)として、世に出されたということです。生き残った自分がやらなければならないという、強い思いが伝わってくるような気がします。

 戒厳令下に於ける蹶起将校の公判は、「弁護人の選任を許さず、審判を公開せず、判決は即時確定し上告を許さず」というものであったので、一般国民は、事件については何も知ることができず、したがって、日本の国が抱えていた大きな問題に気づくことはなかったといえます。きちんと情報が公開されていれば、いろいろな議論がなされ、日本の歴史は違っていたのではないかと想像されます。

 蹶起将校は、みんな当時の農村や労働者の窮状に寄り添う気持ちを持っていました。だから、政治家や官僚、財閥や軍閥が、農村や労働者の窮状を放置し、適切に対応していないことに強い怒りを感じて、腐敗堕落を許すまいと蹶起したことが、公判の陳述でよくわかります。真面目に日本の将来を考えていたのだと思います。
 しかし、残念ながら彼等は、明治維新を成し遂げた尊王攘夷急進派の思想を一歩も越えてはいないこともわかります。下記の文章に名前が出てきますが、彼等は、幕末に尊王攘夷の運動を主導した「吉田松陰」や「藤田東湖」などに学んで行動しており、自らの考えを通すために、躊躇することなく関係者を殺すのです。西洋における人権思想や人命尊重意識の進歩とは全く無縁で、幕末志士の野蛮性をそのまま受け継いでいたのだと思います。

 そして、それは、帝国憲法がその第1条で 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定めた上に、下記の条項を設けたことが深く影響したものであると思います。
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

 上記の二つの条文は、草案では

第十二条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

     陸海ノ編成ハ勅命ヲ以テ之ヲ定ム

となっていたといいます。でも、それを大山巌陸相山県有朋内相が「勅命」を「勅裁」にすべきであると主張し、その主張を生かすために第十二条を、二つの条に分割しのだといいます。その理由は「勅命は内閣に於て自由に決定することを得るものなれども、陸海軍の編制は天皇の大権に属し、帷幄上奏の策案を親裁に依り決定すべきものなり」ということであったというのです。内閣で議論し案を作ることも許さないということではないかと思います。
そして、

第十二条 天皇ハ陸海軍ノ編制ヲ定ム

と改めましたが、伊藤博文はこの件について、十二条を二つに分けても、なお不備があると指摘したといいます。なぜなら、憲法十二条が軍の「編制」についてのみで、「兵力量」について明記しなければ、諸外国の過ちを繰り返すというわけです。そして、プロイセンが軍備拡張案を議会で否認されたこと、米国議会が兵卒の給料を否決したために支払い不能に陥ったこと、イギリスでは兵力量の決定権が皇帝になく議会にあったために、政府存廃の権力は議会が握っていたことなどを例にあげたといいます。 伊藤博文の「古来兵馬の権は天皇大権にに属するものなれば、之を議院に附与すべきものにあらず、依てここに本条に常備兵額を明記する所以なり。」という主張によって、第十二条は

第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

と決定することになったというわけです。池田俊彦氏が補遺で取り上げているこの問題は、見逃すことの出来ない重大問題だと思います。
 
 この帝国憲法第十二条の条文こそが、二・二六事件その他で繰り返し主張された軍人による「統帥権干犯」問題の根源だと思うからです。
 天皇の統帥権については、誰も口出し出来ない定めになっており、「倫敦条約」についても、関わった人たちが統帥権を干犯したとして、襲撃の対象になりました。
 たしかに、大日本帝国憲法第11条と第12条に従えば、枢密院や政府が、兵力量に関わる倫敦条約締結を、天皇(=統帥部)の承諾無しに進め、批准したことは、蹶起将校の主張する通り”憲法違反”だと思います。
 したがって、二・二六事件は、明治維新以後の日本が抱える大問題であったにもかかわらず、時の政権は、下記「主文」の被告人である蹶起将校中心メンバーを「反乱の罪」で処刑して、事件の詳細を明らかにすることを許しませんでした。だからその後、軍の暴走を止める手段を失ってしまったのだと思います。
 二・二六事件にも、大山巌や山県有朋、伊藤博文など薩長閥の政治家の悪影響があらわれているように思います。蹶起将校による関係者の殺害は、極めて野蛮だと思いますが、時の政権による蹶起将校の処刑と事件の詳細の隠蔽は、それ以上に野蛮であり、悪質ではないかという気がします。
 天皇を利用して、あらゆる反発・抵抗を封じ、自分たちがやりたいように出来る国として薩長閥がつくり上げた明治の日本は、その後破滅に向かう必然性を孕んでいたのではないかと思います。

下記は分掌は、すべて「二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷」池田俊彦(編)高橋正衛(解説)(原書房)から抜粋しました。
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                         第二回公判調書
<村中孝次の部)>
・・・
問 襲撃目標人物の選定に付ての理由は如何
答 国体破壊の元凶統帥権干犯の不義を討取るにありまして、
西園寺公望は内閣首班に関す奏請当を得なかつた為国政を非に導いたこと。特に斎藤、岡田を共に首相に奏請したるは同人等が倫敦条約当時の統帥権干犯に関係あるものなるを以て其の責を負わねばならぬこと。牧野伸顕は倫敦条約当時に於ける統帥権干犯に直接関係を持ち当時伏見宮殿下の奏上を阻止したること。
斎藤実は倫敦条約当時宮城に立寄りたる財部大将と通牒し該条約派の巨頭と見らるること又真崎大将教育総監更迭当時林大将を鞭撻して軍統帥に容喙したりと認めらるること。牧野伸顕と結託して重臣ブロックの中心を為し国政を誤つて居ること。
鈴木貫太郎は海軍条約派の巨頭であつて君側に在りて聖明を蔽ひ奉つて居ること。
岡田啓介は海軍条約派の一人であり無為無策にして国政を誤り居ること。特に天皇機関説問題に関する国体明徴に於てその処置の極めて不当なりしこと。
高橋是清は政党の巨頭として参謀本部廃止論を唱え皇軍親率の基礎を危くしたること 。又現下の経済機構を維持せむとして経済を危殆に頻せしめ窮民救済を不能に陥らしめたること。
渡辺錠太郎は天皇機関説信奉者であつて教育総監たるに不適任なるに不拘容易に引責辞任しなかったこと。
之を要するに之等の人は重臣、財閥、君側の奸臣として一連の結託関係にあつて聖明を蔽ひ奉り国運の進展を阻止して来たものであり特に統帥権干犯の不祥事を惹起するに至らしめたるものであります。
之等が今日の如く日本を萎靡沈衰せしめたる中心であるからであります。
・・・
問 之等のものを斬殺すべき理由は如何。
答 夫等の人々は孰も統帥権干犯に関係のある人々であります。
林銑十郎大将
この人は真鍋教育総監更迭問題に付て統帥権干犯を為したること。
渡辺錠太郎
この人は天皇機関説を信奉すること。
根本博大佐、武藤章中佐、片倉衷少佐
此の人達は永田中将の策動に依つて其の意図の下に従来から軍の私兵化を行つたこと。
石原莞爾大佐
この人は統帥権干犯には直接関係はありませんが夫等の人達と密接な関係があり又大参謀本部即ち参謀本部軍令部を合したものを作ると云ひ兎に角「フォッショ」的傾向を有すること等であります。
・・・
問 被告等の要望事項に付て陸相は何と云つたか
答 陸相は今回の蹶起将校の氏名及襲撃部署の大要に付て尋ねましたので、私は之を筆記して陸相に差出しました。陸相は私に対し要望事項は陸相として出来ることもないではないが大部分は上奏して大命を仰がねば出来ぬことであると云はれましたので、私は時局極めて重大なれば速に参内して実状を奏上し御裁断を仰がれ度き旨を述べました。
問 陸相は被告等の行動に付ては何か叱責したか。
答 云ひません。只斯くまで思い詰めて居たならば何故早く云つて呉れなかつたかと云はれましたので、香田大尉から私共は是迄口頭又は文書を以て上司に意見を述べ尽くすべきことは尽くしましたが一つとして容れられません。却つてこれが為青年将校には処罰されたものもありましたと云ひました。併し陸相は私共の行動が悪いとは云はれず私共の精神を認められた様でありました。
・・・
問 本件に対して他に陳述したいことがあるか。
答 私共は今回蹶起するに付て如何に国情を患へて居たかを明瞭にする為少しく述べます。
我国民生活の窮乏は非常なものでありまして、私共にも勿論十分解つて居りませんが、維新運動を志して来ましたので色々と考察し注意して其の概況を知ることが出来ました。
・・・
神武天皇の肇国の大詔中に、
夫レ大人ノ制ヲ立ツル、義心時ニ随フ、苟モ民ニ利アラハ何ソ聖ノ造ニ妨ハム
とあります。又仁徳天皇は民の豊かなるを見て朕富めりと仰せられて居ります。
歴朝陛下皆この御考へにて国を治められて居ります。
有識者はこの大御心を体して国民生活の窮乏を救ふことに力を致さねばなりません。
・・・
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                        第四回公判調書
<磯部浅一の部>
 ・・・ 
問 本件に付いて陳述することありや
答 公判事実は全体として私共青年将校の真精神を蹂躙埋没して居ります。此点を蹂躙しては公判を開廷されることは奇怪至極であります。二月二十八日以後の行動を反乱行為として事実を審理せむとするにあるや単に私共の行動のみを以て審理されることは間違であります。私共の真精神を埋没蹂躙すれば兇悪なる強盗乃至は獰猛なる殺人となります。公訴事実中私の意見ある点は第一、国権に反抗したること。
 私共は国権に反抗したものにあらず、元老、重臣、官僚、軍閥、政党、財閥が国権を紊るを以て、之等特権階級、支配階級を艾除する為已むを得ず剣を持って起つたのであります。剣を持つて起つたことを已むを得ずとなしたる私共の高き愛国精神からであります。倫敦条約其他に於て統帥権干犯をなしたる重臣を襲撃殺害し、総理大臣官邸及三宅坂地区一帯の占拠を為したる私共の行動のみを以て反乱罪なりと云はるることは承服出来ません。

第二、奉勅命令に抗したること、
私共は決して奉勅命令に抗したるものにあらず、此の点は私共の一番遺憾に考へる所であります。日本臣民として生まれ、陛下の赤子股肱を以て任せる私共に賊名を被せられることは承服出来ません。何故青年将校が夫れ程憎いのか。
 私共は決して陛下に弓を引くものではありません。此の点は事実審理の際詳しく述べたいと思ひますから此処では簡単に申述べます。私は手記中にも書いて置いた通り長州萩の近くに生れ郷土的関係から其地の志士仁人に付て傾倒し、其の感化を受け幼年学校に入り尓来今日まで尊王愛国の精神で一貫して来て居ります。この精神を蹂躙されては私の命がなくなります。

第三、兵力使用のこと、下士官兵に対して靖国神社又は明治神宮参拝と称し、之等を欺いて参加させた様になって居りますが、之等は下士官兵を欺く為にあらず、之等の者以外のものに対して出動の便法として用ひたるに過ぎません。
 下士官兵と雖も将校と同様維新実現を要望して居り強固なる同志的団結であったと断言して憚りません。

第四、私共の襲撃目標人物が統帥権干犯、国体破壊の元凶なることが公訴事実に明瞭になつて居りません。私共は単に行路の人を襲撃殺害したるものにあらず。此点が明瞭にされて居ないのは遺憾であります。

 第五、蹶起部隊が戦時警備令下、爾後警備部隊に編入されて、続いて戒厳令布告に依り戒厳部隊となつたことが公訴事実に明瞭となつて居りません。従つて私共の行動の真意が不明であります。

以上述べた通り公訴事実は私共の新精神を埋没蹂躙して居ります。此の侭にて審理を続行せられんか、私共が反乱罪として処断されることは明瞭であります。故に以上五点に付いては特に私共に御訊問を願ひ度いと思ひます。私共の行動を義軍の義挙と見るや否や本公判の重大なる使命であると考へます。  
法務官は本日の審理は此の程度に停める旨告げたり。裁判長は次回期日を明五日午前九時に指定し訴訟関係人に同時刻に出頭すべき旨を命じ閉廷す。
          昭和十一年五月四日
            東京陸軍軍法会議
              陸軍録事      加藤七兵衛   印
              裁判官陸軍法務官  藤井喜一    印 
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                         第五回公判調書

・・・
現在においては一国民と雖も大臣に立会ふことが出来ます。或る意味に於て民主国であるとも云へます。もしこの思想が悪いと云ふのならば今の世を再び中世の如き封建社会に引き戻さなければなりません。
大日本帝国憲法第一条に
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあります。
日本帝国は統治者と被統治者とになつております。即ち一君万民でなければなりません。

次に北一輝氏の経済機構に対する思想に付いて、我国の経済機構に就いて改革を研究して居るものは経済機構を日本精神の上に具体化した場合如何になるかと云ふことを考へて居ないと思ひます。陸軍省の調査班あたりで研究して居るものは大体に於て露西亜の共産思想を持つて来てつぎはぎしたものであります。私は日本精神を経済機構に現はした場合が如何なるかと云ふことを非常に考へました。統制経済にすべきか私有財産制を承認すべきかと云ふことは問題でありました。私有財産制否認は日本の国情に合致せず、私有財産制の放任は三井三菱の如き大財閥を押へることが出来ません。結局私有財制限度制に依る外なしと考へました。私有財産制を確認して其の限度制を採ることは日本改造法案大綱を是認するものであります。

次に国際問題に付ては、日本改造法案大綱は、欧州大戦後の日本は印度の独立、支那本土の保全、豪洲の領有にあります。これは八紘一宇を完ふすべき我が国体に在ります。今支那ががちゃがちゃやつて居る様では駄目であります。北支那の問題にしろ露西亜の問題にしても私は外務省あたりの方策とは全く相容れません。日露協調と云ひますが之は我国体とは全く相容れないものでありますが、元老、重臣、軍閥の一部及財閥が之と結託して露西亜と協調せむとして居ります。八紘一宇の国体顕現の外交方針を樹立し、外国の大小国家に君臨しなければなりません。この国体より発したる外交方針から見て、現在の我国の軍備は極めて不定であります。海に陸に巨大なる軍備を要すると思ひます。或る兵が露西亜には沢山の機関銃があるのに我国は其数が少ないと云ふが之を如何にして補ひますかと云つて質問されたことがありました。私は其時日本精神に依つて之を補ふと答へましたが、事実は之を如何にして補ふかと云ふことは将校下士官の心配の種であります。

我が国はこの兵備上の欠陥を早く充実して大きく歩み出さねばなりません。北一輝の日本改造法案大綱に日本は極東を保全する為豪州を領有し印度の独立を図らねばならぬ。其の為には陸海軍の巨大なるを要するとあります。此の点も亦私の考へと一致して居ります。以上述べた通り日本改造法案大綱が間違って居ないと云ふことを明言して置きます。
・・・

問 又其頃国体明徴問題が喧しくなつて来たが、被告等同志は之に関して如何なる運動をしたか。
答 国体の真姿顕現と云ふことは私共の精神であります。国体明徴問題に付いても統帥権干犯問題と同様、私共が努力しなければならぬ問題でありますので、之に付いて同志に檄文を書いて配布致しました。又会合を催し意見の交換一般の啓蒙に力を致したのであります。

問 被告は高橋蔵相の国防予算問題に付ては如何に考へたか。
答 私は高橋蔵相の財政経済方針は維新を阻害するものであると思つて居りました。高橋蔵相の公債逓減の方針と云ふのは維新的な財政方針と相容れません。維新の財政方針は寧ろ公債を増発して財閥を破壊して行くものでなければなりません。特に昨年十一月予算閣議の席上に於て高橋蔵相は健全財政の名の下に軍部に重大警告として皇軍を誹謗しております。

問 昨年八月起つた相沢中佐の事件に付ては如何かんがへたか。
答 昨年七月の真崎教育総監更迭に付て統帥権干犯あり、何んとか処置しなければ血を見るに至ると考へて居りました。私は明瞭な証拠を握つたならば林大将を討取つて仕舞ふと思つて居りました。
処が軍司法は此の点に付て手を付ける風がありません。林大将も真崎大将も調べられる風がないので不審に思つて居りました。其の中に相沢三郎中佐が立つて策源地たる永田鉄山中将を討取つたのであります。私は相沢中佐とは昭和八年頃からの知合で時々会つて居ります。私は相沢中佐に関し証人として予審で取調を受けたとき真崎大将の更迭は統帥権干犯であると強調して置きました。私は兵馬大権干犯者を討取ることに依つて藤田東湖の詩中にある
  苟明大義正人心
  皇道奚患不興起
が実現するものと考へます。
相沢中佐の義挙は国体破壊の元兇たる特権階級の陣地に対し破壊孔を作つたものと思ひます。

問 同志が蹶起しなければならぬと云ふことは昨年十二月第一師団の満州派遣の報か伝つてからか
答 左様であります。昨年相沢中佐が起つたとき統帥権干犯の不義を討取らねばならないと考へて居たが一般の空気が維新的に目覚めて居るかどうか考へた末、今の時期に於て全国の同志が一斉に蹶起して維新を断行すると云ふ様な空気になつて居ない。一部同志の蹶起に依つて統帥権干犯者を討取るより外はないと思ひました。私は其の一人にならうと思つて居りました処、昨年十二月第一師団が渡満すると云ふことを知り、渡満前に蹶起しなければならぬと考へました。
・・・
問 二月二十二日夜栗原中尉宅に村中、河野大尉、栗原中尉及被告の四名が会合したか。
答 左様であります。
問 其時如何なることを協議決定したか。
答 蹶起の日時及襲撃部署等に付て協議しまして其の結果蹶起日時を安藤大尉が歩兵第三連隊歩兵第三連隊、同志山口一太郎大尉が歩兵第一聯隊の各週番司令として服務なること等、兵力出動上の便宜を考慮し、二月二十六日午前五時を期して同志一斉に蹶起蹶起するすること。
一、栗原中尉は一隊を指揮して内閣総理大臣官邸を襲撃して総理大臣岡田啓介に天誅を下す。
一、中橋中尉は一隊を指揮して大蔵大臣高橋是清私邸を襲撃し同人に天誅を下し、次で為し得れば宮城坂下門の於て奸臣と目する重臣の参内を阻止すること。
一、坂井中尉は一隊を指揮して内大臣斎藤実私邸を襲撃同人に天誅を下すこと
一、安藤大尉は一隊を指揮して侍従長官邸を襲撃して侍従長鈴木貫太郎に天誅を下すこ。
一、河野大尉は一隊を指揮して神奈川県湯河原滞在中の牧野伸顕を襲撃し天誅を下すこと。
一、対馬中尉は一隊を指揮して静岡県興津町西園寺公望別邸を襲撃し同人に天誅を下すこと。
一、野中大尉は一隊を指揮して警視庁を襲ひ之を占拠し警察権の発動を阻止すること。
一、丹生中尉は一隊を指揮して陸軍省参謀本部陸軍大臣官邸を占拠し、村中孝次、磯部浅一、香田大尉は陸軍大臣に面接して事態収拾に付善処方を要望すること。
一、田中中尉は一隊を指揮して野戦重砲兵第七連隊の自動車数台を以て輸送業務を担当すること。
等を決定し尚同志の合言葉として尊王討奸、下士官以上の同志の標識として三銭郵便切手を各自適宜の場所に貼付すること等を決定しました。

 私共の蹶起が第一師団渡満前に決行されると云ふので、満州に行くのが嫌でやるのだと云ふ様に誤解されては私共の従来からの国体観念を無視するものであります。
吉田松陰が閣老真鍋を大津に要撃せんとしたのは彼が大命を奉じながら直に之に従わなかつたことを怒つてでありまして、松陰が山口に居て高杉、久坂等の蹶起を促しる処、久坂が先生は大変焦つて居られると云つたのに対し松陰は不義を討つのに時期はないと云つて破門を申付けたと云ふことであります。私共の今回の蹶起も之と同様で、元老、重臣等の国体破壊の不義に対する怒りに燃えて起つたのでありまして決して第一師団渡満の事実が蹶起の時機を定めたものではありません。
合言葉を尊王討奸と定めたことは栗原中尉の説に依つたものであります。又同志の標識を定めると云ふことも栗原中尉の説でありました。そして三銭切手を用ふることは高杉晋作が藩論統一の為奇兵隊を率ひて行つたとき詩の中に「値三銭」と云ふことがあつたことを想い出して斯く定めたのであります。襲撃目標人物の選定理由は村中氏が当公廷於て述べた通りであります。 
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               判決主文                
被告人村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀、竹島継夫、対馬勝雄、渋川善助、
中橋基明、丹生誠忠、坂井直、田中勝、中島莞爾、安田優、高橋太郎、林八郎を各死刑に処す。
被告人麦屋清済、常盤稔、鈴木金次郎、清原康平、池田俊彦を各無期禁錮に処す。
被告人山本又を禁錮十年に処す。
被告人今泉義道を禁錮四年に処す。

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