明治維新以降の日本の戦争を、天皇と靖国神社の存在抜きに語ることはできない、と私は思っているのですが、その靖国神社は、当初、東京招魂社として、戊辰戦争で命を落とした薩摩・長州の倒幕軍兵士を慰霊・顕彰するために建設されたといいます。建設に尽力したのは日本陸軍の創始者として知られる長州の兵学者大村益次郎です。以後、東京招魂社は、明治天皇の意向により、国家=天皇のために殉じた死者を「英霊」と呼んで合祀するようになります。「英霊」という言葉は、幕末の尊王攘夷急進派に大きな影響を与えた水戸学の学者、藤田東湖だということです。だから、当然、幕府側の新選組や白虎隊などの死没者、また西郷隆盛や江藤新平は祀られなかったのです。
気になるのは、現在もなお、そうした考え方が組織的に受け継がれているのみならず、首相や閣僚の靖国神社参拝が、毎年のように政治問題として取り上げられ、近隣諸国との関係悪化の原因ともなっていることです。
下記は、國學院大學の神道科で学び、神社本庁や靖国神社に勤務したという宮澤佳廣氏の「靖国神社が消える日」(小学館)から抜粋したのですが、靖国神社に関連して議論になっていることをいろいろ取り上げています。
同書には、戦後占領軍の圧力を待避しながら神社の大同団結を図り、その存続を期して結成されたのが「神社本庁」という組織であるということ、また、「神道精神を国政の基礎に」のスローガンのもと、政治的な解決を要する神社界の課題に取り組むため、神社本庁の政治組織として結成されたのが、「神道政治連盟(神政連)」という組織であるということ、そして、安倍晋三首相が、かつてその事務局長であったということなども書かれています。
さらには、戦後GHQの「神道指令」によって、一宗教法人となった靖国神社を、再び「国家護持」(国家管理)のもとにもどそうとする運動があり、麻生太郎現財務大臣・副総理は、「山積する問題解決のためにまず必要となるのが、宗教法人ではない靖国になること」ということで、「特殊法人化論」を公表しているという事実も記されています。
また、第五章で、著者自らが、”「戦没者追悼新施設」を阻止せよ”と題して、「21世紀を迎えた今日、国を挙げて追悼・平和祈念をおこなうための国立の無宗教の恒久的施設が必要であると考えるに至った」と新施設の必要性を提言した「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(「追悼懇」)の報告書を批判しています。
「鎮霊社は附属施設にすぎない」と題して記された文章も見逃すことができないと思います。
”鎮霊社に鎮斎さてたのは「祭神」ではなく「非命に斃れた哀しむべき御霊」であり、(祭神)とは、「尋常(ヨノツネ)ならず、すぐれたる徳のありて畏(カシコ)きもの」(本居宣長)であって、「日本に生まれ出でにし益人は神より出でて神に入るなり」(中西直方)といった日本人の死生観・霊魂観によるところの神ではありません”
というところに、私は、神道のもつ差別性を感じるのです。そして、神道はその成り立ちからして、この差別性を払拭することが難しいのではないか、とも思います。
なぜなら、神道が天皇を「現御神(アキツミカミ)」としているからです。天皇はもちろん、天皇の側にある者に弓を引いた人間や天皇の命に従わなかった人間が、「祭神」として祀られることはあり得ないということです。
さらにいえば、記紀神話と深く結びついている神道は、天皇を中心とする部族(豪族)が戦いに勝ち抜き、自らの支配権を絶対化するため、天皇を「現御神(アキツミカミ)」とするという政治的要求や意図と伝統的な民俗信仰・自然信仰がからんで形成された宗教(思想)であり、根本的的に差別的体質を持っているのではないかということです。
神道がいわゆる「教祖」や「創始者」がおらず、また、キリスト教の「聖書」やイスラム教の「コーラン」にあたるような「正典」も存在しないということも、そうしたことと関わるのではないかと思います。
周辺の諸民族を「夷狄」として卑しんだり、外国人を穢れた存在と見なしたりしていた歴史や、日本を「神州」として、天皇を戴く日本に敵対することを許さなかった歴史が、神道の差別的体質によるものだったのではないか、とも思います。
下記は、すべて「靖国神社が消える日」宮澤佳廣(小学館)から、注目したい部分を抜き書き的に抜粋しました。
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第一章 遊就館「歴史記述」見直しの攻防
「神社本庁」と「神道政治連盟」
ここで、靖国神社と、私が以前勤めていた神社本庁の関係、そして神社本庁の関連団体である「神道政治連盟」について触れておきましょう。
最近では「日本会議」が注目を集め、その構成団体でもある神社本庁や神道政治連盟がしばしば取りあげられているので、その名前を耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。
戦前、「国家の宗祠」(国家の礼典のための施設)とされた神社は、他の宗教団体のように宗教行政の対象とされず、国家により管理されていました。しかし、国家と神社・神道のそのような関係(一般的に「国家神道」と呼ばれる)を危険視した占領軍(GHQ)は、戦後、神社に対する国家管理の諸制度の全廃を命じたのです。
しかも、GHQの方針により、神社は私的な一宗教としてのみ存続することを余儀なくされました。神社の行く末がまったくもって見えない、まさに「非常事態」のなかに突如として置かれることになったのです。そこで全国の神社は、占領軍の圧力を待避しながら大同団結を図り、神社の存続を期して連名組織を結成するに至りました。それが神社本庁という組織です。
私が入庁した当時、神社本庁は渋谷の國學院大學に隣接していましたが、昭和62年に明治神宮の北参道口へ移転しました。原宿駅から代々木駅に向かう山手線の車窓から明治神宮の杜を眺めると、突然、黒い貯金箱のような建物が眼に入ってきます。それが神社本庁の庁舎です。
神社本庁の活動は「神社運営の事務的指導と管理」、「神社のための対社会活動(教化運動)」に大別されますが、包括下にある神職の任命権をはじめ、神職に任命されるために不可欠な資格(階位)の授与などの権限を有しています。宗教法人ではありますが、神社の国家管理が廃止されて緊急措置的に設立されたという経緯から、戦前、国が行っていた神社に関する業務を代行する組織、と言ったほうがわかりやすいかもしれません。
現在、神社本庁の包括下にある神社は7万9千社、神職は2万2千人を数えます。しかし、靖国神社は神社本庁と包括関係のない単立の神社として存立しています。それは、靖国神社の「国家護持」という目標があるためです。ちなみに包「括」とは実質的な「所属」という意味合いで、この言葉が宗教法人法に用いられているのも占領政策の影響です。
一方、「神道政治連盟(神政連)」は、昭和44年に結成された神社本庁の政治組織です。当時は、靖国の国家護持運動が容易に進展せず、政治への積極的な関与の必要性が痛感されていた時代でもありました。神政連は「神道精神を国政の基礎に」のスローガンのもと、政治的な解決を要する神社界の課題に取り組む神社本庁と表裏一体の組織です。
もとより、法律改正などは国会に決定権があるわけですから、神社界の意思を国会に反映させるためには、神社界と志を同じくする国会議員の糾合が不可欠になります。そして神政連の活動を具体的に推進していくためには、そうした議員によって組織される「神道政治連盟国会議員懇談会」との連携が極めて重要になるのです。私が神政連の事務局長時代、この国会議員懇談会を再編することにしたのですが、その際には、会長が綿貫民輔先生、幹事長が伊吹文明先生、事務局長が安倍晋三先生という体制で再スタートしました。
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第三章 首相の公式参拝と「国家護持」の関係
靖国の「公共性」と「宗教法人性」
全国の神社が国家管理を廃され、宗教法人として存続することになったのは、GHQの占領下、昭和20年12月15日に発令された「神道指令」(「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の禁止に関する件」)によります。この指令は国家と神社神道の徹底分離を命じたもので、それは神道に関連するあらゆる祭式や慣例、儀式、礼式、信仰、教え、神話、伝説、哲学にまで及びました。そして、「神社神道は国家から分離せられ、その軍国主義的乃至過激なる国家主義的要素を剥奪せられたる後は若(モ)し、その信奉者が望む場合には一宗教として認められるであらう。而してそれが事実日本人個人の宗教なり或(アルイ)は哲学なりである限りに於て他の宗教同様の保護を許容せられるであらう」と、神社神道の将来をも拘束したのです。
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靖国の特殊法人化論
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平成18年、麻生太郎外務大臣が「靖国に弥栄(イヤサカ)あれ」と題する私案を公表し、靖国神社の特殊法人化を提言したのも、こうした過去の経緯があるからです。そのなかで、麻生氏は、靖国が宗教法人になったことを、「本来国家がなすべき戦死者慰霊という仕事を、戦後日本は靖国神社という1宗教法人に、いわば丸投げしてしまいました。宗教法人とはすなわち『民営化(プライバタイゼーション)』したのだと言うことができます。」と表現し、「山積する問題解決のためにまず必要となるのが、宗教法人ではない靖国になること」だと指摘しています。
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第四章 相次ぐ「靖国裁判」との戦い
中曽根首相と松平宮司の確執
この事実は、一見、首相秘書官が前例を踏襲して、つまり、参拝中断に合わせて奉納を取りやめるべきところ、誤って、奉納してしまった彼のような印象を与えます。しかし、真榊は参拝するから奉納できる、参拝しないから奉納できないというものではありません。そうであれば、昭和60年の秋から翌61年の春までの6か月間に、真榊奉納が途絶える何らかの出来事があったということになります。靖国神社第6代宮司・松平永芳氏の「誰が御霊を汚したのか靖國奉仕十四年の無念」(文芸春秋社)『諸君』平成4年12月号)には、その原因を暗示するような箇所があるので、摘記しておきます。
”それでも、その翌年も中曽根さんは公式参拝をしたいと思ったけれど、取り止めたんだという。そうしたら、中曽根さんに近い読売新聞から出ている『THIS IS』誌に「靖国神社宮司に警告」という一文がのった。それも巻頭言としてです。光栄の至りというべきでしょう(笑)。読んでみます。
「靖国神社当局は政府も知らぬああいだに勝手に(註・A級戦犯を)合祀し、国の内外の反発を呼んだ」--先ほど申しましたように、勝手にではなく、国会で決めた援護法の改正にしたがって合祀した。しかも、そのとき、中曽根さんはちゃんと議員になっているんです。続いて、「外交的配慮と靖国の合法的参拝の道を開くため、首相の意を受けた財界の有力者が松平宮司に対し、A級戦犯の移転を説得したが、頑迷な宮司は、これを聞き入れなかったので、首相は参拝中止を選択した」
頑迷固陋は自覚しております(笑)。が、A級戦犯という東京裁判史観をそのまま認めた、邪魔だから合祀された御祭神を移せという。とても容認できることではありません。参拝をやめたのも宮司が悪いからだと、ひとのせいにする。
「靖国神社は国家機関ではなく、一宗教法人であって、政府の干渉を排除できるというのも一理ある。だが、それなら、首相や閣僚に公式参拝を求めるのは越権、不遜である」
そんな人々には案内は出しませんよ(笑)。昔は権宮司が敬意を表して総理に案内状を持っていった。しかしある時期から、止めさせたんです。だからこの時点では、そんな案内状を出していません。”
前後の関係がいささかわかりにくいので、少々長めに紹介しましたが、「昔は権宮司が敬意を表して総理に案内状を持って行った」、「ある時期から、(案内状を出すのを)止めさせた」という言葉から、その案内が何を指しているのか容易に察しがつくでしょう。「この時点では、そんな案内状を出していません」という、”この時点”が首相の公式参拝の翌年であることも明らかですから、おそらく昭和61年以降、松平宮司の指示によって従来の案内形式に何らかの変更が加えられたことになります。それが中曽根首相と松平宮司との間に生じた確執によってのことだとしたら、宮司の首相に対する個人的な感情によって靖国神社のひとつの伝統が途絶えてしまったことになります。
政教分離規定とは何か
こうした経緯を持つ津地鎮祭訴訟は、昭和52年7月13日、最高裁が合憲の判断を下して結審しました。その際に、政教分離に関する 合憲性を判定する基準として示されたのが、この目的効果基準だったのです。そもそも憲法に定める政教分離原則については、「国家と宗教(団体)は一切関わってはならない」とする完全分離の考え方と、「宗教はそれぞれの国の社会的文化的な基盤ともなっており、ある程度の関わり合いを容認する必要がある」とする限定分離の考え方の対立がありました。
そこで最高裁は、まず、完全分離の立場で政教分離規定を解釈すると、かえって社会生活に不合理な事態を生じさせると指摘して、限定分離(相対的分離とも言う)の立場で解釈すべきことを示したのです。
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第五章 「戦没者追悼新施設」を阻止せよ
戦没者追悼のための新施設
やや話が前後しますが、平成13年8月13日、靖国神社に参拝した小泉首相が参拝後の記者会見で発表したのが「首相の談話」でした。当初、これが閣議決定を要する「総理談話」にあたるのか否かで議論もありましたが、この「首相の談話」は、総理のコメントとも違う、総理の個人的心情を正確に伝えるために印刷に付したものという位置づけでした。
そしてこの談話のなかには、「今後の問題として、靖国神社や千鳥ヶ淵戦没者墓苑に対する国民の思いを尊重しつつも、内外の人々がわだかまりなく追悼の誠を捧げるにはどのようにすればよいか、議論をする必要がある」とあり、これを受けてその年の平成13年12月14日福田康夫官房長官の私的諮問機関である「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(「追悼懇」と略称された)が設置されることになったのです。
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懇談会は一年にわたる議論を終え、平成14年12月24日報告書をとりまとめて解散しました。
報告書は「21世紀を迎えた今日、国を挙げて追悼・平和祈念をおこなうための国立の無宗教の恒久的施設が必要であると考えるに至った」と新施設の必要性を提言したものの、「施設の種類、名称、設置場所等の検討項目については、実際に施設をつくる場合にその詳細を検討すべき事柄であることから意見を取りまとめるのは時期尚早」と、その具体的内容までは言及しませんでした。
一体誰が、何に、わだかまっているのか?
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では、誰が「わだかまり」を抱いているのか?それは、首相が靖国神社に参拝するたびに執拗に内政干渉を繰り返す中国、韓国の両政府ということになります。中国外相が「首相の靖国参拝を止めるように厳命した」こともありました。
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しかし、諸国が他国の行う戦没者の追悼に何らかの「わだかまり」を持つのは当然のことで、かつての交戦国であればなおさらでしょう。先のイラク戦争を例にとれば、アメリカ兵の追悼行事にイラク国民が「わだかまり」を持つことを理由に、これを止めるようにフセイン大統領がブッシュ大統領に厳命するようなものです。
第六章 「鎮霊社放火事件」が投げかけたもの
なぜ鎮霊社が建立されたのか
鎮霊社が昭和40年の建立であることはすでに述べました。そしてその建立に筑波宮司の強い思い入れがあったことは、いくつかの書籍がしてきするところで、「世界の諸国がお互いにりかいを深め、本当に平和を望むなら、かつての敵味方が手を取り合って、神として我々を導かれることこそ一番大事な事だと思います。この意味から昨年は境内に鎮霊社を新たに創建し、…」(社報『靖国』昭和41年1月号の年頭挨拶)といった筑波宮司の言葉からも想像されます。
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…盆の時期に祖霊を迎えて祀り、祀り手のない霊を”施餓鬼”として別途に祭るという古俗にならって、盆のこの時期に、みたままつりで本殿に祀る神霊を慰め、併せて招魂祭で本殿に祀られることのない諸霊を慰めようとしたのでしょう。
昭和天皇の大御心
この招魂祭は、みたままつりと同様、占領下にあって靖国の平和希求の理念を示すところにその主眼は置かれていたのでしょうが、もう一つ、昭和天皇が終戦の詔勅に示された「今次戦争に際し戦陣に歿し職域に殉じ非命に斃れたる人々を思えば五内(ゴダイ)為に裂く」との大御心に副(ソ)うことをも意識されていたといいます。この招魂祭はその後、諸霊祭として毎年のみたままつりに先立って行われることになります。
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鎮霊社は附属施設にすぎない
しかし諸霊祭から鎮霊社への連続性を考慮すると、鎮霊社に鎮斎さてたのは「祭神」ではなく「非命に斃れた哀しむべき御霊」であったことは明らかでしょう。神社に奉斎され、人々の崇敬の対象とされる神(祭神)とは、「尋常(ヨノツネ)ならず、すぐれたる徳のありて畏(カシコ)きもの」(本居宣長)であって、「日本に生まれ出でにし益人は神より出でて神に入るなり」(中西直方)といった日本人の死生観・霊魂観によるところの神ではありません。鎮霊社の存在が理解しにくいのは、そういうところにあるのではないかと私は考えているのです。
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