尊王攘夷急進派が、明治維新によってつくった日本は、”大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス”という天皇親政の「皇国日本」でした。そして、江戸幕藩体制崩壊後、天皇によって”天壌無窮(テンジョウムキュウ)ノ宏謨(コウボ)ニ循(シタガ)ヒ惟神(カミナガラ)ノ宝祚(ホウソ)ヲ承継シ”てさなれる「皇国日本」の統治は、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”によって進めらることになったと言ってよいと思います。
だから、明治維新以来の日本の戦争は、徳富蘇峰が
”日清日露の戦争は、悉く皆維新の大改革に、淵源している。而して大東亜戦争は、即ちその延長である。”
と指摘した通り、皇国史観に基づけば自然な流れで、日本の戦争は全て”世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス”る国家の聖戦だったのだと思います。
徳富蘇峰の
”日本人が、日本の国史、せめて孝明天皇以後の、即ち癸丑甲寅(キチュウコウイン)、ペルリ来航以来の歴史を読んだならば、今日に於て大東亜戦争を見た事は、当然の事といわねばならぬ。ある者は、日清日露の戦争は、当然の事であるが、その以来の戦争は、軍閥財閥の製造したるものという。これ程間違った考えはない。彼等は全く、歴史の何物たるをも知らざる者の言である。日清日露の戦争は、悉く皆維新の大改革に、淵源している。而して大東亜戦争は、即ちその延長である。その必然の勢である”
という指摘は、そういう意味で当然であり、間違ってはいないと思います。特に、「大東亜戦争」を”軍閥財閥の製造したるもの”ではない、と「大日本言論報国会」の会長として、「皇国日本」の思想戦の一翼を担った徳富蘇峰が言うのですから、まさに必然であり、間違いであるはずはないと思います。
第二巻の「二十三 盗人猛々し侵略国呼ばわり」では、
”日本が、大東亜戦争を、起こしたとはいわぬが、余儀なく起つに至った所以のものは、決して一人一個の考えではない。いわば国民的運動であり、国家の大勢である。殆ど自然の力であるといっても宜(ヨ)い。風の吹く如く、水の流るる如く、潮の差す如く、石の転じる如く、勢い然らざるを得ずして然るものである。…”
と書いていましたが、皇国史観に基づけば、「大東亜戦争」も”軍閥財閥の製造したる”ようなものではなく、当然の流れだということです。
徳富蘇峰の、日本の侵略戦争に関わる理解が、客観性を欠いていることは明らかですが、それも、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族”とする皇国史観に基づくからだと思います。
徳富蘇峰は、第三巻の「四十八 『後此頃十首』と君側の姦」に ”前に『此頃十首』作る。余情未だ不尽(ツキズ)、更に『後十首』を作る”として、
”此頃ハ藤田東湖も松陰モ 説ク人モナク聴ク人モナシ”
と、戦後の日本を嘆く歌を載せていますが、藤田東湖も吉田松陰も、明治維新に大きな影響を与え、皇国史観の土台を築いたともいえる思想家だと思います。
二・二六事件蹶起将校の一人、磯部浅一の陳述の中に、
”兵馬大権干犯者を討取ることに依つて藤田東湖の「苟明大義正人心 皇道奚患不興起」(大義を明にし、人心を正さば、皇道なんぞ興起せざるを憂えん)が実現するものと考えます。<「二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷」池田俊彦(編)高橋正衛(解説)(原書房)、第五回公判調書>”
というような証言もありました。
また、吉田松陰の『幽囚録』には、自序に”皇国は四方に君臨し、天日の嗣の永く天壌と極りなきもの…”などあり、本文には、
”日升(ノボ)らざれば則ち昃(カタム)き、月盈(ミ)たざれば則ち虧(カ)け、国隆(サカ)んならざれば則ち替(オトロ)ふ。故に善く国を保つものは徒(タダ)に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり。今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礮(ホウ)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と比(ヒト)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾・呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし<「吉田松陰全集第一巻」(岩波書店)>”
という記述がありました。明治以後の日本の戦争は、吉田松陰の考えに基づいて進められたと言っても過言ではないような内容です。
徳富蘇峰の歌は、幕末の尊王攘夷急進派を代表する藤田東湖や吉田松陰の思想が、日本のアジア進出の侵略戦争、特に「大東亜戦争」にも大きな影響を与えたことを証明していると思います。
だから、徳富蘇峰がいうように”日清日露の戦争は、当然の事であるが、その以来の戦争は、軍閥財閥の製造したるもの”というのは間違いだと思うのです。
ところが、その「皇国日本」を支える「建国神話」が、『古事記』や『日本書紀』の巻頭ある「神代の巻」を、都合よく解釈して作り出されたものであることを、津田左右吉が明らかにしてるのです。津田左右吉の「神代史の研究方法」には、
”今日に伝わっている我が国の最古の史籍たる『古事記』と『日本書紀』の巻頭にはいわゆる神代の巻という部分がある。『古事記』は和銅五年(712A.D.)『日本書紀』は養老四年(720A.D.)に出来たもので、何れも八世紀に入ってからの編纂であるが、神代の巻などは、もっと古くから伝えられていた材料によったものである。”
とあります。ところが、明治時代に入って広く語られるようになった「建国神話」のような話は、”神代巻の本文を読むと、そんなことは少しも書いてない”と津田左右吉が指摘しているのです。そして、
” 他でもない。神代の巻の種々の物語に我々の日常経験とは適合しない不合理な話が多いからである。この不合理な物語を強いて合理的に解釈しようとするから、上記のような説が出るのである。天上に世界があったり、そこと往来したりするのは、事実としてあるべからざることである。海の底に人の住むところのあるのもまたあるべからざる話である。けれども神代の巻にそういう話がある以上は、それに何かの事実が含まれていなければならぬ。と、こう考えたために、表面の話は不合理であるが、裏面に合理的な事実があるものと億断し、神代の巻が我が国のはじめを説いているというところから、それを日本民族の由来を記したものと考え、あるいは国家の創業に関する政事的経路の事実を述べたものと説くようになったのである。そうしてこの思想の根底には一種の浅薄なRationalism が伏在する。すべて価値あるものは合理的なもの、事実を認められるものでなくてはならぬ。然らざるものは荒唐不稽の談である。世にはお伽噺(オトギバナシ)というものがある。猿や兎がものをいったり桃から子供が生まれたりする。事実としてあるべからざる虚偽の談である。それは愚人小児の喜ぶところであっても、大人君子の見て陋(ロウ)とするところのものである。然るに崇厳なる神典にはかかる荒唐不稽の談のあることを許さぬ。だから、それには不合理の語を以て蔽(オオ)われている合理的の事柄がなくてはならぬ。こういう論理が存在するのである”
と結論づけているのです。
また、「皇国日本」を支える「建国神話」は、『古事記』や『日本書紀』の巻頭にある「神代の巻」を都合よく解釈して、「神武肇国」の話として『日本書紀』の年代と辻褄があうように設定されているため、初期の天皇の年齢は百四十歳とか百二十歳というように引き延ばされているといいます。だから、「建国神話」は、はじめから、統治の手段として作られた側面があったのではないかと、私は思います。でも、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族”と思わせる内容であるためか、徳富蘇峰のように多くの日本人が、神武肇国の「建国神話」を頭から信じて、疑わなかったのではないでしょうか。
『古事記』や『日本書紀』を史料批判の観点から研究し、「神武肇国」の「建国神話」が、捏造されたに等しいものであることを明らかにした津田左右吉は、「皇室の尊厳を冒涜した」として、禁錮刑の判決を受け、その著書『古事記及び日本書紀の研究』や『神代史の研究』、『日本上代史研究』、『上代日本の社会及思想』を発禁処分とされたことは、忘れられてはならないことだと思います。
また、徳富蘇峰は”大東亜征戦を、軍閥や財閥が、製造したというのは、余りに人事を手軽に、考え過ごした言である”と書いていますが、”大東亜征戦を、軍閥や財閥が、製造した”と主張をする人たちは、一部の軍閥や財閥の人たちに戦争責任を押しつけつつ、明治維新以来の日本の「建国神話」を、狡賢く守ろうとする意図を持っていたのではないかと、私は思います。
そういう意味から、司馬遼太郎の
”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである<「この国のかたち 一」(文芸春秋)>”
という主張も、私は、受け入れることが出来ないのです。彼の「明るい明治」と「暗い昭和」の言葉で言えば、「暗い昭和」は、明らかに明治時代から始まっていたのだと思うのです。”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年”が、”異胎の時代”などとはとても思えません。
徳富蘇峰が嘆いたように、明治維新以来、敗戦に至るまでは、多くの日本人の中に、藤田東湖や吉田松陰は生きていたのです。
そして、今なお日本の首相が、150年以上も前に処刑された尊王攘夷急進派の吉田松陰を、平然と「先生」と呼び、佐久間象山や勝海舟、坂本龍馬などの幕末の指導者の中に、吉田松陰を含めて、”開明的な人々”と主張していることも見逃してはならないと思います。皇国史観は未だに乗り越えられてはいないのだと思います。
下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)から『頑蘇夢物語』第四巻の「六十四 日本人たるを恥じる」を抜粋しました。
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『頑蘇夢物語』 第四巻
六十四 日本人たるを恥じる
日本では、武士道といい、また日本精神といい、およそ節義という節義は、日本人固有の持物たるかの如く、信じたり誇ったりしていた。我等自身も亦たこれを以て、我が同胞に期していた。しかるに八月十五日以来の現状を見れば、全く日本人には、愛想が尽きている。我等の自身さえも、日本人たることを、愧(ハ)ずる程である。出来得べくんば、日本人を辞職したいような気持もする。およそ人間の持っているあらゆる醜態は、悉く我等の眼前に、展開せられている。これではとても戦争に勝つ可き筈はないと思う。ただこれ程迄に日本人が、堕落していたかと思えば、情けなくる程である。最近予は左の一首を作った。
皇都(ホウト)の鳳闕(ホウケツ) 荊榛(ケイシン)に化す
群小 紛々として 媚態新なり
衰朽(スイキュウ)の孤臣(コシン) 頑(カタク)ななること石に似たり
残生は 枉(マ)げて采微(サイビ)の人と作(ナ)らん (漢文部分略)
鳳闕 宮殿の門
荊榛 いばら・はしばみ 「肯(アエ)て衰朽を将(モツ)て残年を惜まんや」
采微人 伯夷・叔斉。周の武王が殷を滅ぼしたとき、周の穀物を食べるのを恥じて首陽山に隠れ、微(ワラビ)を採って食べ「采微の歌」を作って餓死した。
先ず当局政治家を初めとし、あらゆる政界の人々、また実業界の人々、また陸海軍人、更に学者、文学者、宗教家、技術芸術家などを、引括(ヒックル)めて見ても、如何にも歯の浮くような言動を、恥ずかしげもなく、やっている。放送に新聞に、見るもの聞くもの、実に驚き入た次第である。もっとも太平記を読めば、南北朝時代には、随分二股武士も多かったようだ。元亀天正(ゲンキテンショウ)から、慶長元和(ケイチョウゲンナ)に至っても、関ヶ原の役、大阪の役などでは、恰かも三井三菱が、政友会にも、民政党にも、それぞれ運動費を提供したる如く、徳川方にも、豊臣方にも、双方に掛、何れに転んでも、差支のないだけの事をした大名、及び武士は少なくなかった。維新の当時も、亦然りであった。しかしそれが、今日程太(ハナハ)だしきものはないように覚える。昨是今非(サクゼコンヒ)昨非今是という言葉があるが、今日は全くその通りである。変わるばかりでなく、ただその変わり方の迅速且つ巧妙なるに、驚くのみである。昨日迄異口同音に、大東亜聖戦と、大声疾呼したる者共が、今日は他国侵略戦とか、軍閥財閥の製造したる、不義無名の戦争とか、あらゆる悪名を付けて、呼ばわっている。人間の思想も、所謂る心は万境に随って転ずで、転ずることに不思議はないが、余りにその転じ方の急激なるに、驚ろくのみだ。我等は戦争のやり方については、頗る不満であり、不同意であるが、戦争そのものは、決して不義無名の戦争ではなかったと信ずる。我等は今日でも、昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔を、極めてこの戦争の意義を、明日に闡明(センメイ)したるものと信じている。勝敗は時の運である。勝ったから、その戦いが義戦であり、敗けたから、その戦が不義戦であるということは、畢竟強者の権に、随寄する者の言う言にして、天理人道を信ずる者の、口にす可き言ではない。
事の起るは、起る日に起るのではない。大東亜征戦を、軍閥や財閥が、製造したというのは、余りに人事を手軽に、考え過ごした言である。物には順序がある。時としては、積水を千仞(センジン)の谿(タニ)に決し、円石を山上より転がすが如き事もあるが、その勢いをそこ迄に持って来るには、決して一朝一夕の事ではない。若し日本人が、日本の国史、せめて孝明天皇以後の、即ち癸丑甲寅(キチュウコウイン)、ペルリ来航以来の歴史を読んだならば、今日に於て大東亜戦争を見た事は、当然の事といわねばならぬ。ある者は、日清日露の戦争は、当然の事であるが、その以来の戦争は、軍閥財閥の製造したるものという。これ程間違った考えはない。彼等は全く、歴史の何物たるをも知らざる者の言である。日清日露の戦争は、悉く皆維新の大改革に、淵源している。而して大東亜戦争は、即ちその延長である。その必然の勢である。但(タ)だ日清日露では我れが勝って、今回は我れが敗けた。勝ったから前者は正しく、敗けたから後者は不正というは、全く訳のわからぬ話である。不幸にして、今回の戦争は言葉正しく、名順ではあったが、戦争の方法が間違っていたのである。一歩を進んでいえば、その局に当たった者が、その器に非ざる者であった為めである。これは人の罪であって、道理の罪ではない。その人としては、前に近衛あり、後ろに東條ありといわねばならぬ。 (昭和二十年十一月十三日午後、晩晴草堂にて)