真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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一億玉砕し、民族の名を青史に止むることこそ本懐(阿南陸相)

2020年05月19日 | 国際・政治

 ポツダム宣言の発表を受けた日本政府は、1945年7月27日、その内容を論評なしに公表しました。その受諾をめぐって、宮中「望岳台」近くの地下壕「吹上御文庫付属室」で、8月9日と14日の二回、御前会議が開かれています。そして、いわゆる受諾の「聖断」が下されたわけですが、「終戦秘史」下村海南(講談社学術文庫)に、その時の天皇の発言が「御錠(ゴジョウ)」として、掲載されています。
 その内容は、日本の戦争がいかなるものであったかを示しているように思います。特に、

一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合動揺も甚だしかろう。陸海軍将兵にはさらに動揺も大きいであろう。この気持ちをなだめることは相当困難なことであろうが…”

 という部分を見逃すことが出来ません。この天皇の発言通り、戦況の詳細をほとんど知らなかった国民に対する当時の新聞報道は、「聖戦完遂」を主張したり、「笑止、対日降伏条件」などという、ポツダム宣言受諾拒否を主張するものであったようです。

 また、天皇が心配した通り、ポツダム宣言受諾の動きを察知した陸海軍将兵の一部が、二・二六事件をくり返すかのように決起します。大日本帝国憲法や教育勅語の方針に基づく教育を受け、軍人勅諭や戦陣訓をたたき込まれた将兵にとっては、降伏はあり得ず、「皇軍の辞書に降伏の二字なし」というような思いを持って決起したのです。

 御前会議で、ポツダム宣言の受諾に反対した阿南陸相は”
”…今日と言えども、必勝は期し難しとするも必敗ときまってはいない、本土を最後の決戦場として戦うに於いては、地の利あり人の和あり死中活を求め得べく、若し事志と違う(コトココロザシトタガウ)ときは日本民族は一億玉砕し、その民族の名を青史に止むることこそ本懐であると存じます

 と主張したとのことですが、この”日本民族は一億玉砕”しても、歴史書に書き残されれば”本懐”であるという主張が、明治維新以来の皇国日本の考え方なのだと思います。

 『國民新聞』を主宰した徳富蘇峰も、敗戦直後『頑蘇夢物語』」(講談社)に
敵が原子爆弾を濫用したとしても、その為めに大和民族が一人も残らず滅亡する心配はない。・・・日本国民が仮にその半数である四千万となっても、皇室は厳として国民の上に、君臨し給う事は確実である
 などと書いて、降伏を非難し、
此頃ハ藤田東湖も松陰モ 説ク人モナク聴ク人モナシ
と嘆いたのですが、こうした阿南陸相や徳富蘇峰の考え方が、藤田東湖や吉田松陰などが主導した尊王攘夷急進派による明治維新以来の皇国日本の考え方であり、思想なのだということです。神の国、皇国日本に、降伏はあり得ないのです。

 だから、宮城事件の決起将校も、二・二六事件の決起将校同様、自らが学んだ皇国日本の軍人教育と相反する動きを受け入れることが出来なかったのだと思います。
 前述の天皇の”陸海軍将兵にはさらに動揺も大きいであろう”という言葉は、そのことを踏まえたものではないかと思います。


 言い換えれば、いわゆる「聖断」に基づくポツダム宣言の受諾は、戦地で命がけで戦った陸海軍将兵や”生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ”という戦陣訓の教えに従って命を投げ出した、将兵に対する重大な裏切り行為であり、説得は困難だったということです。

  だから、天皇の判断に基づくポツダム宣言の受諾は、現実的で常識的な判断であり、さらに犠牲者を増やすことを止められたということで否定されてはならないと思いますが、戦時中、人命を軽視し、人権を無視して、侵略戦争を継続した政治家や軍人のポツダム宣言受諾の裏切りは許されることではなく、きちんとした反省や謝罪が、受諾決定の前になされなければならなかったのではないかと思います。

 そういう意味で、阿南陸相の自決は、人命軽視の流れの中にありますが、筋が通っていると思います。

 戦後の日本は、そうしたことが有耶無耶 で、徳富蘇峰が指摘したように、戦時中の指導者が、戦後も平然と活躍しているのです。 

 下記は、「終戦秘史」下村海南(講談社学術文庫)から抜粋しました。
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                   第二十五章 終戦の聖断

 吹上御苑のの大奥、六日以前に親しく咫尺(シセキ)して二時間にわたり単独拝謁したる生々しき思い出の御所、といっても見るからささやかなる建物の玄関先に近く防空壕の入口がある。降りて隧道はかなり長い。ややありて右に折れ会議室に入る。御席に面し二列の椅子がならんでいる。右端から鈴木首相、平沼枢府議長、つづいて阿南陸相等閣僚五六、左のはしが梅津参謀総長と豊田軍令部総長にてとまり、後列は我等残りの閣僚たち、そのうしろに池田綜合計画局長官、迫水翰長、吉積陸軍、保科海軍両軍務局長が着席し、出御をお待ちしている。臨御直前の静けさ、しわぶきの声が折々に静寂なる空気を破っているだけである。ほどなく蓮沼侍従武官長の先導にて出御せられる。一同長揖(チョウユウ)の後鈴木首相はうやうやしく、その後の経過を漏れなく要約して言上した。閣議には約八分が原案に賛成せるも全員一致を見るに至らず、ここに重ねて叡慮を煩わし奉るの罪軽からざることを陳謝し、この席上にあらためて反対の意見ある者より親しく御聞取りの上、重ねて何分かの御聖断を仰ぎたき旨具状したのであった。
 首相の具状終わりて両総長および陸相は相次いで立ち、声涙ならび下りつつ、このまま受諾しては国体の護持が案じられるという観点から、るる切々条件を留保すべし、然らずんば死中活あるのみという意見が具陳された。その内容はあまりにもしばしば耳にしながら、さて記憶に残るような頼りになる耳新しい取りとめた何ものも期待できなかった。抗戦を続けてどこに勝算があるのか。死中活というが、千が一、万が一にも活がなくなった。いろいろと具陳する意見のすべてが抽象的な概念論、感情の悲鳴に外ならない。それよりも何故に今日の事態となりし現実の敗局を来たせる責を引きて、陛下へまた広く国民へ心ゆくまで陳謝しないのか、万策つきながらもかくのごとき対策ありと具体的な意見を述べないのか。ことに始めて聞いた豊田軍令部総長の全然予想だも及ばなかった雄弁宏辞(ユウベンコウジ)には驚きを禁じ能わなかったが、そこに私たちの聞かんとする一語すら見出でなかったのは遺憾の極みであった。こうした具状を耳にしながら胸にわきいずる感想は、鈴木首相の平時口にせし皇道と臣道ということであった。「君はずかしめらるれば臣死す」という古語がある。将軍たちはまさしくそうした心持であると察する。将軍たちは罪万死に当たる。一身はもともと捧げてある。しかしこのままでは君ははずかしめられる。国体の護持は覚束ない。懸念に堪えない。死中活あり、必ずしも絶望したものではないという心持は、いかにも軍人の面目として諒とせられるが、かりに原子爆弾なくとも、またソ連の参戦なくとも、果たして死中に活がありうるのであろうか。今や問題は君がずかしめられるという程度のものではない。さらにさらに深刻なのである。国土も失われ、民族もあげて日本そのものの破滅を招来せんとしている。本も子もなくならんとする時に、臣道よりも日本国と八千万の民族を念とする皇道のさらに重く且つ大なることを念とせざるを得ないのであった。
  地上より大和民族をうせよとか一億玉砕言何ぞやすき
  国をこぞり亡べよといふか死中より活をといふも言何ぞやすき
 阿南、梅津、豊田の反対論をうけて受諾論があるかと思ったが、この前の聖断によりもはやその要なしというのだろう。結論はすでに決まっている、今は一刻の時も惜しい、ゆるがせにできないのである。やがて陛下のおことばを拝することとなった。時十四日午前十一時ごろである。
 御錠はいい知れぬ感激のあとであって、そこには原稿もなく速記もない。まだ亢奮のさめやらぬ中に私は生々しき心覚えのままメモをとったが、この御錠こそ終戦の中核をなすものであるから、左近司国務相、太田文相、米内海相の三君の手記とも照らし合わし、さらに鈴木首相の校閲をへた。されだけに御錠としては最も真を写したものであることを明記しておく。
  
    御錠(ゴジョウ)
 外に別段意見のなければ私の考えを述べる。
 反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申したことに変わりはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。
 国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方には相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるいうのも一応もっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れを受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えてもらいたい。
 さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪え難いことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局我が邦がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としてじつに忍び難い。祖宗の霊にお応えできない。和平の手段によるにしても、素より先方の遣り方に全幅の信頼を措き難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。
 私は明治大帝が涙をのんで思いきられるたる三国干渉当時の御苦衷をしのび、この際耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち直りたいと思う。今日まで戦場に在って陣没し、あるいは殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思うとき悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に在りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合動揺も甚だしかろう。陸海軍将兵にはさらに動揺も大きいであろう。この気持ちをなだめることは相当困難なことであろうが、どうか私の心持をよく理解して陸海軍大臣はともに努力し、よく治まるようにして貰いたい。必要とあらば自分が親しく説き諭してもかまわない。この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。
 以上は私の考えである。

 御錠を承っているうちに頭は次第に下っておもてを上げる者もいない。忍び泣く声がここにかしこに聞こえてくる。御ことばのふしぶしに胸を打たれる。たとえ我が一身はいかにあろうとも、国は焦土と化し、国民を戦火に失い、何んとして祖宗の霊にこたえんやという御心を拝して、涕泣の声は次第に高まってくる。さらに為すべきことはいとわない、マイクの前に立ってもよいと仰せらるるに至り、忍び声を止めもあえず声をあげた。ここにもそこにもせき上げしゃくりあげる声が次第に高くなる。陛下の白い手袋の指はしばしば眼鏡を拭われ、ほおをなでられたが、私たちはとても正視するに堪えない、涙に眼鏡もくもってしまった。御錠が終りて満室ただすすり泣く声ばかりで有る、しゃくり上げる声ばかりである。やおら総理は立ち上がった。至急詔勅案奉仕の旨を拝承し、くり返して聖断を煩わしたる罪を謝しうやうやしく引き下がった。陛下は席をたたれた、一同は涙の中にお見送りした。泣きじゃくり泣きじゃくり一人一人椅子を離れた。長い長い地下壕をすぐる間も、車中の人となっても、首相官邸に引き上げても、たまりの間にも閣議の席にも、思い出してはしゃくり上げ、涙は止め処もなく流れる。記者団を前にしても私はせき上ぐる涙をとどめもあえず、問う者も答える者もついに声をのんで不覚の涙にくれたのであった。
 私のメモには「その夜もあくる日もあくる夜も、そのまたあくる日も夜も、思い出してはむせび思い出しては泣き、当時をしのびて胸迫り筆は進まなくなった。今宵はここに筆をとめる」と記してある。
 建国二千六百年やぶれたるためし知らざる国敗れたり 
 民草をあはれみたまふ大御心おもひあげまつり涙せきあへず
 今さらに何といらへんすべもなし面を伏してただ涙する 
 聞くがうちにまさ見にたへず頭下りすすり泣く声そこここに聞ゆ

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