真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本精神を消解せしむる「精神的武装解除」(徳富蘇峰NO7)

2020年05月09日 | 国際・政治

 敗戦後も自らの戦時中の考えを変えることのなかった徳富蘇峰は、下記の文章を書いた昭和20年10月11日の時点で、GHQの占領政策の本質を正しく見抜いていたように思います。それは、
皇室も神道も、彼等の眼中には、ここに日本精神の巣窟があり、本拠があり、根底があるものと認めて、一挙にそれを覆滅せんと考えているものであろう
 と書いているからです。
 裏を返せば、皇室や神道を国民に無理に押し付けなければ、「大東亜戦争」などのような侵略戦争は起きなかったということだろうと思います。

 でも、徳富蘇峰は、そういうGHQの占領政策を、日本人の「精神的武装解除」であり日本の心的去勢」を意図するものであると言って受け入れようとしませんでした。皇室や神道は「日本精神」と一体のもので、皇室や神道なくして「日本精神」はなく、また、日本はないということだと思います。私はそこに、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”を見ます。

 徳富蘇峰は、『頑蘇夢物語』二巻「二十八 看板の塗替」で
”…戦さして負けたから、償金を出せという事なら、一応理屈もあるが、戦さして負けたから、皇室中心主義をやめて民主主義になれ、国家至上主義をやめて、個人主義になれという事は、余りに辻褄の合わぬ事ではないか。元来日本とアメリカとは、処変われば品変わるで、人種も変われば言語も変わり、人情風俗も変わり、第一その歴史が全く異なった系統に於て、互いに歩いて来ている。しかるに三千年の歴史を持った日本に向って、遮二無二アメリカの国情、国体、国風、国俗の根本である民主制を押売せんとするのは、果たして何故である。それは判っている。日本が本来の国体を護持する時に於ては、必ず日本は再び旧(モ)との日本に、早いか晩(オソ)いかは姑(シバラ)く措いて、立戻る機会がある。さる場合には、日本は必ず米国に向って、復讐するであろう。その復讐が怖わい為めに、日本人を全く去勢せんが為めに、「デモクラシー」の押売りをする訳である。日本が三千年の国体を捨て、米国流のデモクラシーを模倣し、物質的ばかりでなく、精神的にも、アメリカの属国にとならぬ限りは、安心が出来ぬというのが、アメリカの底意である。

 と書いていますが、随分歪んだ受け止め方だと思います。人類が様々な対立や争いの歴史を経て、人権意識や法を発展させ、民主制に至ったことを評価せず、頑なに「日本精神」の重要性を主張するのは、”三千年の歴史を持った日本に向って”などという表現に見られるように、頭から日本中心の「建国神話」を歴史的事実として信じているからであり、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”にとらわれているからだと思います。徳富蘇峰は、「四十八 『後此頃十首』と君側の姦」に「前に『此頃十首』作る。余情未だ不尽(ツキズ)、更に『後十首』を作る」として


”此頃ノ役人共ハ哀れレナリ 毛唐奴等ニコキ使ハレテ


 という歌を載せていますが、「毛唐」という欧米人に対する差別用語を使っていることからも、そうした観念を持っていたことがわかるのではないかと思います。
 当時、民主制は、アメリカだけの政治形態ではなく、市民革命などを経て、すでに世界中で一般化しつつあった政治形態であり、”アメリカの国情、国体”云々や”「デモクラシー」の押売り”などというのは、世界の歴史を無視した的外れな指摘だろうと思うのです。
 
 また、
日本国民の官国幣諸神社に於けるのは、宗教的信仰ではなくして、日本臣民、日本国民の資格として、これを崇敬するするものである。しかるにこれを崇敬するから、日本が好戦国民であり、これを崇敬しないから、日本国民は平和愛好国民となるなぞという事のあろう筈もない。

 という指摘も受け入れ難いです。GHQが、「神道指令」により廃止を指令したのは、天照大神を皇祖神とする天皇が統治する日本のいわゆる「国家神道」です。明治政府は、全国の神社を伊勢神宮を本宗とする「皇室神道」の下に階層的に組織編成しました。そして「建国神話」に基づく「皇室神道」を仏教や神道諸教派、キリスト教等を超越するものとして位置づました。信教の自由も「国家神道」化した「皇室神道」と抵触しない限度内でしか認めませんでした。

 だから、明治維新以後の日本の神道は、生活のあらゆる領域で、日本人を天皇の政治的権力や宗教的権威、軍事大権のもとに置き、日常生活のみならず、精神面でも、強く権力的支配を行うために利用されたといえるのではないかと思います。皇室神道をベースとした「国家神道」を、日本の戦争と切り離すことができないことは、戦時中よく歌われたという「海ゆかば」の歌ひとつをとって見ても明らかだと思います。また、当然のことながら、天照大神を皇祖神とする天皇が統治する日本で、神社と神道を切り離すこともできないと思います。

 言い換えれば、尊王攘夷急進派によって明治維新が成し遂げられたために、日本人は維新以後も、欧米人のように自由と平等を得た自立的個人である「市民」となることができず、民主主義社会を形成することもできなかったということです。
 明治維新における「王政復古」よって、日本人は天皇の宗教的権威と政治的権力、軍事大権の下に置かれることになったばかりでなく、教育勅語や軍人勅諭の考え方によって、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”を持つこととなり、外国を見下して、戦争に突き進んで行くことになったのだと思うのです。だから、明治政権が「皇室神道」に基づく国家を構成したことが、その後の日本の歴史にとって、極めて大きなことだったということです。

 そういう意味で、以前に取り上げた「神々の明治維新」安丸良夫(岩波新書)は、貴重だと思います。同書は、「神祇官再興」や「祭政一致」、「神仏分離」や「廃仏毀釈」その他に関わる諸布告をとり上げていますが、「皇室神道」を国家神道化していったことがわかります。また、「日吉山社」襲撃の事件に象徴されるように、それまで地域住民の信仰を集めていた宗教施設に対する「破壊行為」があったことや、地域住民の信仰に強引な介入があったことも取り上げています。さらに、戦争神社といわれる「東京招魂社」(靖国神社)をはじめとする新たな神社の創建などについても取り上げていますが、それらが、GHQの「神道指令」につながっていったことをしっかり見る必要があると思います。それらは、”日本国民の官国幣諸神社に於けるのは、宗教的信仰ではなくして…”、などと言い抜けることができないことを示していると思います。

 もちろん、日本の神道には、徳富蘇峰の指摘するように、純然たる”宗教的信仰”としてではなく、日本人の生活に密着した風習として存在する面もあったと思いますが、明治維新以降の日本人の「神道」に関わる実態は、そんな生易しいものだけでは決してなかったと思うのです。

下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)から『頑蘇夢物語』三巻の「四十五 米国、神道の廃絶を期す」を抜粋しました。
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                     四十五 米国、神道の廃絶を期す
 神道の問題に関連して、最近頻りに米国方面から、日本神道の問題について彼是れ申込んで来ているようだ。十月七日ワシントンの特電によれば、アメリカ政府は、日本の国家宗教たる神道の廃絶を決定した旨公式発表した。これは日本人を、再び平和愛好国民たらしむる為めの、非常手段の一であるが、但し個人として、神道を信ずるのは妨げない。神道は今後国家の維持、学校その他で占める地位特典を失い、国民に対し、その信仰を、公然強制する事は、許されないであろうとある。これは前にも述べたる通り、先ず第一に神道の定義を確かめた上でなくては、問題にすることが出来ぬ。米国の考えでは、神道ではなく、恐らくは神社であろう。即ち伊勢大神宮、橿原神宮、明治神宮、熱田神宮などという、あらゆる神社を一括して、かくいうのであろう。しからざれば、天理教でも、金光教でも、黒住教でも、所謂る神道諸教派は、皆な下から盛り上がり、むしろある時代、ある政府では、迫害をした程であるからだ。それで予はむしろここに神道とあるのは、国家がこれを支配し、国家がその宮司を選任して、国家がこれを支持している官国弊社についてのことであろうと認める。しかし前にも言った通り、日本国民の官国幣諸神社に於けるのは、宗教的信仰ではなくして、日本臣民、日本国民の資格として、これを崇敬するするものである。しかるにこれを崇敬するから、日本が好戦国民であり、これを崇敬しないから、日本国民は平和愛好国民となるなぞという事のあろう筈もない。余りに無了解、没分暁漢(ワカラズヤ)の至りである。聞くところによれば、マッカーサー元帥は、九月二日絶対降伏調印の日、小閑(ショウカン)を偸(ヌス)んで、幕僚数輩と鶴岡八幡宮に参拝し、造矢を社務所から受けて帰ったという。日本の新聞は、これをマッカーサーの美徳の一に数えていたようだが、マッカーサー自身としても、日本人が神社を崇敬するのは、所謂る神道なるものとは、何等縁故の無い事が判るであろう。

 次にまたアメリカでは、皇室制度に頗る神経を悩ましているようだ。米国国務省極東問題部長ジョン・C・ヴィンセントは、最近ラジオ放送をして、「日本占領は、日本が武装を解除され、完全に軍閥が艾除(ガイジョ)され、民主主義革命への道が、立派に開かれるまで続くであろう」といい、また「日本国民は彼らが欲するならば、皇室制度を護持することが出来るが、それは大規模な修正を要するであろう」といっている。皇室制度の修正なるものは、如何なる意味であるか。即ち我々が天皇を、日本国民の頭首として、戴きつつあるを一変して、英国の如く、帽子として戴くものとなすを意味するであろうか。将(マ)た他に特別の方法あるか。それらの所は、今明白にこれを知ることは出来ぬが、要するに皇室も神道も、彼等の眼中には、ここに日本精神の巣窟があり、本拠があり、根底があるものと認めて、一挙にそれを覆滅せんと考えているものであろう。これは決して、予が見当違いでもなければ、邪推でもない。予は当初から、かくあるべき事と、予期していた。

 即ち先ず第一に、彼等は日本国の武装解除をなし、日本国が一国としての、自主独立の運動をなす事を得ざらしめ、宛(アタ)かも宿借虫が、他人の殻に宿を借るが如く、日本国民も未来永劫、他の恩恵によりて、生息するの外に、手段方法なからしむるようになす事が第一着である。第二着は即ち日本精神を消解せしむる事で、この精神存在する間は、武装解除したとして、精神的の武装をしているから、赤手空拳(セキシュクウケン)でも、如何なる事をやり出すか知れない。よって武装解除の目的を徹底せしむる為めには、精神的武装解除をやらねばならぬ。それには所謂る日本国民の、国体観念を打破せねばならぬ。国体観念の外廓(ガイカク)は、彼等が所謂る神道、即ち日本国民の国祖崇拝、偉人崇拝、祖先崇拝、歴史崇拝にして、即ち国体観念の外廓ともいうべき、彼等の所謂る神道、即ち神社撲滅をやらねばならぬ。これは彼等ばかりでなく、既に元亀天正の頃、日本に渡来したる西班牙(スペイン)、葡萄牙(ポルトガル)の宣教師共が、神社仏閣を放火し、若しくは破壊したる事によっても、その先例が見られている。しかしこれは外廓である。その内部は、即ち日本国民の、皇室に対する崇敬である。忠愛である。故に彼等はこの皇室制度を、眼の敵(メノカタキ)と思っている。出来れば彼等は、日本人の力によってこの皇室を廃したいと思っているであろう。さればこそ彼等は、社会党とか、共産党とか、三千人の政治犯者を、一度に釈放せよと、迫ったのであろう。しかし彼等自らが手を下して、日本の皇室制度を廃止するという事ならば、日本に必ず一大騒動が起こるであろう。彼等もこの位の事には、気が付いている。それで彼等は、その実を去り、その名を存し、皇室をして、有れども無きが如く、有名無実たらしむる如く、その制度を改正せんと目論むであろう。かくすれば、日本精神も、やがてはアメリカ精神となり、日本国体観も、やがてはアメリカ国体観、日本国体観念も、やがてはアメリカ国体観念となり、所謂る民主一点張りで、日本人も米国と同化し、所謂る第二第三の比律賓(フィリピン)、布哇(ハワイ)となるを得るであろうと、察せられる。

 若し常識ある日本人なら、今予が言うた通りの事を、必ずしも予が解説を俟たずに、直ちに了解すべきである。しかるに今日の世間を見れば、昨日まで国体一点張りであり、毎正月元旦には、伊勢の神宮に参拝して、十幾年とか、幾十年とか、未だ曾(カツ)て欠かしたことのないなどと、誇っている先生達が、相率いて民主主義民主主義と、真っ向うに民主主義を翳(カザ)して、民主以外何物もないかのように、振舞いつつあるは、果たして日本を、精神的に米国化しても、安心と思うているのであろうか。彼等の神社崇拝、彼等の国体観念、彼等の皇室中心は、今何処に逃げ去ったのであろうか。予は頗るこれを意外の事と考えている。

 その精神が心髄まで腐敗したる便乗主義者は、今更相手とする必要はないが、心にかかるは、今日の青年である。またこれからの青年である。今日の中堅所が軍部に於ても、官界に於ても、将(マ)た実業界に於ても、最も日本の国民層に於て薄弱であるのは、何故であるか。それは彼等が明治末期から大正にかけて、極めて放漫なる教育といわんよりも、むしろ「無教育」を受けたからである。固よりその中には、相当の除外例はあるが、この中堅階級は、聰明でもあり、悧発(リハツ)でもあり、物事の筋道もよく呑込み、一通りの役には立つが、所謂る以て六尺の孤を託す可し、以て百里の命を寄す可しという如き、凛然たる大節ある人は殆ど見出されない。これは決してその年齢の人に限らるる訳ではない。彼等の時代の教育が、悪しかったからである。而して却って最近の青年所に至れば、尚お真純にして、日本精神の全く発育したとはいわぬが、その萌芽がみとめられている。これは畢竟昭和中期以後、余り世の中の放漫なる教育に驚かされて、その発動の大勢の裡(ウチ)に出で来ったからといわねばならぬ。この事は特攻隊の年齢を調査して見れば、最もそれが明白にせられている。過去この通りでありとすれば、今後日本の教育が、所謂る民主化するという事は、日本とっては、何よりも大なる危険であり、禍害であり、呪咀(ジュソ)でありといわねばならぬ。
 所謂る民主化の教育とは如何なるものであるか。日本人をして、日本人たることを忘れしむるの教育である。日本国民をして、日本国民たることを忘れ、併せて日本国そのものを忘れしむるものである。せめて日本人をして、米国人が米国を愛する如く、日本を愛するように、教育せしむれば、尚お忍ぶべしと雖も、それはとても望まれない。恐らくは今後の所謂る民主主義化の教育は、自己本位の教育以外に、何物をも許さぬであろう。(中略)しかし今後民主教育を受けたる日本人は、果たして日本人たるの誇りを、世界に向って発揮しるだけの気魄あるか。また日本の旧慣例を堅持して、敢て渝(カワ)らない操守あるか。また一の宗教として、神道にもせよ、仏教にもせよ、何教にもせよ、団結する力あるか。今日でさえも、彼等は最早や日本人たるを愧(ハ)じているではないか。現に予が経過し来ったる、明治の中期頃には、多くの日本人は日本人たるを愧じていた。況んや今後丸裸の日本人たるに於てをやだ。(中略)日本人には、厳正なる訓練が必要である。厳師良友が必要である。しかるに、一切除却し去って、所謂る民主教育とするに於ては、如何なる無頼、放蕩、軽佻、浮薄の人間が出で来るべきか。これを思うだけにも、寒心せざるを得ない。
                                          (昭和20年10月11日 双宜荘にて)

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