昨年、あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」が展示中止となり、様々な議論がありました。
世界85ヶ国の近現代美術館に関わる560人以上の専門家によって組織された、CIMAM(国際美術館会議)も懸念を表明し、展示中止の一因に芸術祭実行委員会で会長代行を務める河村たかし名古屋市長の政治的要望があったことをあげたといいます。
現実に、あいちトリエンナーレ実行委員会会長代理を務める河村たかし名古屋市長は、『平和の少女像』だけではなく皇室関連の展示についても問題視し、実行委員長の大村知事に対して『表現の不自由展』の中止を含めた適切な対応を求める抗議文を発したといいます。また、文化庁も補助金約7800万円の全額不交付を決定するに至りました。
企画展の関係者は、最近公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、どうしして「排除」されたり、展示不許可になったのかという理由をからめて、作品を展示する意図であったと語っています。現状に批判的ではあっても、日本人を侮蔑する意図はないということだと思います。
私は、あいちトリエンナーレ2019の企画展を中止に追い込んだ人たちに、問答無用の姿勢を感じました。だから、そうした姿勢が、抗議を超えた脅迫等の犯罪行為を生んだのではないかと思います。
歴史の事実を踏まえ、「表現の不自由展・その後」の展示をしっかり受け止める姿勢がないと、日本は国際社会の信頼を得ることが、ますます難しくなるのではないかと思います。
敗戦後、日本人戦争被害者のみならず、日本が進出した中国やアジア諸国の被害者、さらには、日本の戦争で犠牲になった欧米諸国の軍人やその関係者および捕虜として苦難を強いられた人々も、大日本帝国憲法で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定められ、日本軍の最高責任者であり続けた昭和天皇を東京裁判で裁くべきだと主張したといいます。当然だろうと思います。でも、アメリカの対日政策によって天皇が免責され、いつの間にか日本では、昭和天皇の戦争責任を追及することはタブー視されようになりました。そして、戦前・戦中、天皇がどういう存在であったのかということは、ほとんど考慮されることがなくなってしまったように思います。
そうしたことを踏まえ、今回は「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)から「御真影」に関する文章の一部を抜粋しました。
戦前の学校は、「御真影」の「下賜」願い出が求められ、「御真影」の「奉護」を直接の目的として、学校に日直および宿直の制度が導入された事実、「奉安殿」の設置が義務づけられて「御真影」拝礼の学校儀式が行われるようになった事実、さらに天皇自身ではなく「御真影」の「奉護」のために、命を投げ出さざるを得なかった教師がいた事実なども忘れられてはならないことだと思います。
同書には、
兵庫県養父郡小佐尋常高等小学校訓導
昭和二年ニ月一日 井村 毅
明治三十九年三月二十八日生
学校火災ニ際シ御真影ヲ奉持セシママ火中ニ殉職ス
大阪府豊能郡熊野田尋常小学校長
昭和九年九月二十一日 稲久保 正夫
明治二十七年十二月一日生
颱風襲来ニ際シ危険ヲ冒シテ御真影ヲ奉遷シ児童ヲ避難セシムルニ奮闘中講堂倒壊、数名ノ児童ヲ抱キタルママ殉職ス
というような事実が、いくつか掲載されています。
したがって、そういう事実をふり返れば、昭和天皇の「御真影」焼却映像が、日本人を侮蔑するものだというとらえ方は、歴史を無視した一方的なものだと思います。昭和天皇に対する思いは、様々なのです。それを無理矢理、”日本人を侮蔑する”と一つにして、表現の自由を圧殺してはならないと思います。
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解説 佐藤秀夫
一 「御真影」と「教育勅語」
(一)「御真影」について
「御真影」とは
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「御真影」とは、明治天皇以後の天皇及び皇后以下皇族の公式肖像写真に対する尊称的な通称である。天皇はじめ皇族の個々の独立写真のほか、ヨーロッパの王族の例に模して、天皇と皇后のセット写真もあった(ただし戦前では各「独立写真」の併置に過ぎなかったのだが)。学校に「下賜」された「御真影」には、このセットのものが多くを占めていた。
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ところで、「御真影」は、公式名称ではない。宮内庁(省)は戦前・戦後を通じて、公式には「御写真」(おしゃしん)と呼称している。明治初年からの「御真影」の「下賜」記録文書綴は、「御写真録」の名称をもって、現在宮内庁書稜部に保存されている。それらの例によって、「御写真」が宮内庁(省)の用いる公式名称であると確認される。しかし、本書にみるように、文部省の法規では1900年頃まで「聖影」「御影(ギョエイ・ミカゲ)」などが用いられ、比較的のちになって「御真影」が一般化されるようになるのだが、そうなってのち戦前を通じて教育界では「御写真」という公式名称はほとんど使われずに、「御真影」が専ら用いられた。つまり、「御真影」とは、教育界をはじめ社会的に慣用された天皇・皇后の公式肖像写真であるということになる。
ところで、通称に過ぎない「御真影」という表現が、あたかも正式名称であるかのように、教育界をはじめ広く「世間」で慣用されるに至ったのには、近現代天皇制のすぐれて特殊な性格が色濃く影を落としていると考えられる。「聖影」「御影」などと同じく「御真影」とは、元来仏教界において、仏舎利・仏像と並ぶ仏陀の画像または宗派・本山などの開祖・始祖等の公的肖像画を意味しており、それらは、宗派全体若しくは本山にとって「本尊」風の偶像として拝礼対象とされ、きわめて大切に護持されている。しばしばそれは、特定の日限に一定の資格ある信者に対してのみ限定的に「御開帳」が許されるような「秘宝」でもあった。天皇の公式肖像写真が、国家祝祭日学校儀式において拝礼対象として「偶像化」されるのに照応して右のような仏教での伝統的な慣用例に準拠して「御影」「御真影」などと通称されるようになったのではないかと推測される。そうだとすれば、「御真影」という通称は、まさに「体」を表した「名」ということになり、またそのような通称を生じさせた近現代天皇制の独特な性格を表示しているといえる。近現代天皇の肖像は、それが模倣したヨーロッパ近代王政下の君主たちの肖像と異なって、通貨や切手への印刷は禁じられていたし、新聞・雑誌・図書などへの印刷・掲示も厳重に制限されていた。国定教科書の挿し絵に天皇の容姿や肖像が歴然と掲載されることすら、ほとんど稀であった。まさに民衆に対しては「御真影」に他ならなかったのである。
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学校と「御真影」との出会い
この「御真影」は、幕藩権力にかわる天皇制権力による統治体制成立の表象として、1870年代以後、府県庁など地方官庁、及び師団本部・軍艦など軍施設を皮切りに、政府関係諸機関に交付されていった。これは、新政府が天皇を頂点にいただく政府であることの証左を示すとともに、その新統治体制の発足を下僚及び国民に視覚を通して確認させる、「文明」的手段であったと考えられる。また外国からの使臣に対しヨーロッパ王制国家の例に倣って頒賜(ハンシ・ワカチタマウ)されることもあった。学校への下付の最初は、1874(明治七)年六月、ようやく専門教育機関としての体裁を整えつつあった東京開成学校に対してであったが、それは、上述の政府諸機関への交付と同質な意味をもつ措置であって、特定の「教育」目的を帯びての学校交付ではなかったとみるべきであろう。
すでに70年代地方官に交付された「御真影」が、日時を限り府県庁楼上に掲げられ、地方民の拝礼を受ける事例が見られたが、立憲制樹立直前の80年代後半、「君臣接近」実現の手段として、従前とは異なった「教育」目的を帯びた、「御真影」の学校への導入が実施されるようになった。天皇の「地方行幸」が一段落をみた時期に、今度は学校を通じてその存在を若い世代に周知させようと企図されたのである。
琉球処分により新領土に編入されてほどない沖縄県の、しかも「普通教育の本山」とされた師範学校に対して、1886(明治19)年九月天皇・皇后の「御真影」が「下賜」された。これを最初にして、「御真影」は、全国の同府県立師範学校・尋常中学校に対して文部省の仲介により宮内省から同府県を経由して、翌年末までにひとしなみに「下賜」されるに至った。官立学校への下付はすでに終わっていたから、同府県立校をさきがけとして今回は公立学校へも「御真影」が「下賜」されるようになったのである。これは、国の機関以外の公立機関への「御真影」一律「下賜」の、ほとんど最初の事例として特徴的であった(当時の府県庁は国の機関であった)。その立案者及び推進者は、内閣制度発足に伴い、初代文部大臣に任用された森有礼である。
文相森は、大日本帝国憲法発布が日程に上り始めた1888(明治21)年一・二月ごろ、今後国家祝日(紀元節と天長節)には、学校に教員・生徒たちが集合し、祝日唱歌の斉唱および校長訓話などからなる学校祝賀儀式を施行し、「忠君愛国の志気」を生徒たちの内面に育成させるよう示唆した。そのための条件設定として、文部省は同年二月に「紀元節歌」(高崎正風作詞・伊沢修二作曲)、十月に「天長節歌」(黒川真頼作詞・奥好義作曲)の楽譜を「学校唱歌用」に府県へ送付する一方(ただし一府県当り十五部程度の少数部数に過ぎなかった)、府県立学校関係者に対し天皇・皇后の「御真影」の「下賜」方を願い出るように求めた。森は、幕藩的忠誠関係意識や封建共同体的帰属意識に替わる近代的集団意識の育成を通じて子どもたちへの国家帰属意識形成ををめざして、かねてより学校のもつ集団性訓練機能に着目していたが(尋常小学校を除く中等レベルの学校の男子生徒に兵式訓練を導入し、とりわけ普通教育のあり方を左右するものとして重視した師範学校には軍隊風の生活管理や寄宿舎生活を組織させた)、ナショナリズムまたはパトリオティズムの直接的な育成には、とくに唱歌を伴う儀式が効果をもつものと判断していた。…
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また、本来は「アンシャンレジームから解放された」「市民」の自発性に立脚しているが故に強固とされる、欧米ナショナリズムやパトリオティズムへの「類似」を求める見地から、儀式施行の前掲条件となる「御真影」の交付に当たって、学校関係者からの自発的な願い出に対する天皇制の「特別」な「思し召し」に基づく「下賜」という手続きを必須とした。この手続きは、後述する教育勅語謄本の強制的交付とは対照的に、以後学校への「御真影」下付が廃止される日まで一貫して維持されることになるのであった。
学校への「御真影」の普及
「差別の体系」に他ならない君主制に依拠するものであるからには当然に、「御真影」の交付は、学校制度体系上での「高き」から「卑き」へ、国家機構上での「近き」から「遠き」へと位階的に推移していく。「御真影」が「下賜」され得る学校の範囲は、近代教育制度の展開過程に応じて次第に拡散されていく結果になるのだが、その実現は決して一挙にではなく序列的な「漸進」の過程をとった。
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とはいうものの、市町村立小学校の圧倒的多数を占める尋常科・簡易科等への「下賜」は、容易に進まなかった。教育勅語(当時は「徳育ニ関スル勅諭」案)起案が極秘裏に進行中だった1890(明治23)年八月当時、文部省は宮内省に対し「自今高等小学校ノミニ限ラス市町村立各小学校幼稚園等ニ至ルマテ御真影拝戴願出候向ヘハ下賜セラレ職員商都ヲシテ崇拝セシメ忠君愛国ノ志気ヲ涵養セシメ候様致度」と照会したが、同年十月宮内省は次のように回答した。
”即今公立各小学校一般ヘ下賜之儀ハ難相整候ヘ共御来意之趣教育上必要之儀ニ付特別ヲ以テ市町村立尋常小学校幼稚園ニ限リ其校園等ノ費用ヲ以テ近傍ノ学校ヘ下賜セラレタル御真影ヲ複写シ奉掲候儀ハ被差許候条此段及回答候也(「宮内庁書陵部所蔵」)”
すなわち、すべての公立小学校・幼稚園への正規の「御真影」の「下賜」は「難相整候」としたが、「御真影拝戴」方自体は「教育上必要之儀」なので、近くの学校に「下賜」された「御真影」を各校園の経費負担により複写して、式日等に「奉掲」することは「差許」としたのである。
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「御真影」「下賜」のシステム
先述のように、官立学校や天皇との「特別ノ由緒」ある場合を除いて「御真影」の学校「下賜」には、「基礎鞏固」「設備整頓」「成績優良」な学校からの、自主的で「熱意」あふれる願い出を必須の前提とし、その「熱意」に対し当該校の「優等」さを「御嘉納」遊ばされた天皇の「優渥ナル思召」を以て、同校とくに「下賜」されるという仕組みが、ほぼ例外なく採用されていた。強制性の外貌をとらないという点において、「御真影」は、後述の教育勅語とははっきりと異なっていた。「御真影」には、「下賜」のみがあって、「下付」はそもそもありえなかったのである。
「成績優良」校への「表旌(ヒョウセイ)」および「恩賞」であるからには、その「表旌」は一律平等であっては効果に乏しいばかりでなく逆効果を生じかねない。申請資格に「一視同仁」の平等化を招来したといっても、「下賜」自体には「表旌」と「恩賞」という限定的な「慈恵」性が不可欠とされた。かくして、1930年代以降には各種学校や夜間中学校・小学校併設青年学校などを除く、他のほとんど全ての学校に「御真影」が行き亘って、いずれの学校もひとしなみに「成績優良」の「表旌」を蒙るという、「おめでたい」境地を享受することになった。
でもこの自発的願い出を必須としたことは、学校側に深刻な対応を迫る場合があった。「下賜」申請の資格を認められながら申請しないこと、それは天皇からの「表旌」や「恩賞」の機会を自ら「放棄」することを意味し、その「放棄」は「拒否」を含意するものと教育行政当局から判断される危険を伴いかねなくなったからである。
「御真影」「下賜」が官公立校に限定されている間は、右の問題は顕在化しなかったのだが、私立学校一般に「下賜」対象が拡大されるに伴って、偶像崇拝を教義上否定するキリスト教学校、とりわけ国家主義的教育体制のもとでとかく胡散臭く見られがちな外国ミッション系統のキリスト教主義学校にとって、「御真影」への対応如何は、当該学校の存亡に関わる重大事と意識されざるをえなくなった。
学校への「御真影」下付は、学校の設備や運営・管理体制に少なくない影響を与えた。
第一は、その安全な保管、当時のことばでいえば「奉安」のための施設の設備である。その概略については後述することとしたいが、「校内ノ一定ノ場所ヲ撰ヒ最モ尊重ニ奉置セシムヘシ」とされた「奉安」体制の主眼点は、コピー(謄本)にすぎない教育勅語謄本もさることながら、天皇・皇后の「分身」とみなされていた「御真影」(しかも「複写」ではない正規の「御真影」)におかれていたとみるべきであろう。本書四の(八)に掲げた資料が語るように、「奉護」の犠牲となった教職員の多くは、どちらかといえば教育勅語謄本よりも、「御真影」を念頭に置いて行動していたと考えられるのである。
第二は第一と関連するが、「御真影」の「奉護」を直接の目的として学校に日直および宿直の制度が導入されたことである。「御真影」を不時の災厄から安全に守るために、昼間は女性を含む教職員、夜間は男性教職員が、それぞれ交替して学校に当番することが求められた。教職員の宿日直制については、「御御真影」が学校から姿を消した第二次大戦後もしばらくの間は、校舎や記録の警備、不時の連絡、時間外文書の授受などの理由を付して慣習的に施行されていたのだが、その創設の第一次的な理由は、「御真影」および教育勅語謄本の「奉護」にあったのである。それらが消えたのち、教職員組合の教職員勤務条件改善の要求に沿って、1960年代以降教職員による宿日直制は全国的に廃止の方向をたどった。
以上の普遍的で直接的な影響と並んで、公立の初等教育学校における「御真影」の存在が果たした「陰」の役割も無視できない。…何らかの紛争が発生しかけたとき、「畏れ多くも御真影を奉安する学校に対して、云々」の発言がことを収めてしまう場合があり、その点をさして戦前のしたたかな学校運営当事者の中には、「御真影」や勅語謄本をして(畏れ多くも!)「濡れ雑巾」(燃え上がらないうちに危険な火の手を消してしまう、「初期消火」に役立つ)と隠語するものさえいたといわれる。 一方、それが、そのような「したたかさ」を身につけていない「真面目な」教育者たちをして「天皇制教育」に挺身させる結果を生みだしたことも無視できないだろう。貧しい物的条件のもとで教育の実践に努力する教員たちに、「御真影」「下賜」のもつ「表旌」が「心の支え」となる場合があったからである。最も「権威」あるが故に最も「安上り」のキャナライジング装置として、それは機能していった。
このように学校の「本尊」であったということは、同時に学校内外での紛争の発生に伴い、それがしばしば抗争の手段として「利用」されることをも意味していた。校長または学校当局を窮地に追い込むために、また金銭略取などの脅迫手段としての、「御真影」教育勅語謄本などの紛失、盗難事件は、戦前を通じてしばしば発生した。尤も、紛失や窃盗、その結果としての焼却や破棄などの「荒っぽい」手段は、単に管理責任者を窮地に追い込むだけでなく、実行行為者にも刑事罰の追及が及ぶ危険性を含んでいる。
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文部省や道府県当局は、当然に「御真影」教育勅語謄本の「奉安」方を厳重に督励した。その結果として、「奉安」失態への「恐怖」=「不敬」への強迫観念から、災害時での過剰「奉安」=教職員の殉職が、ニ十件以上にもわたって生起することになった。〔本書四の(八)〕。それらの悲劇性は、その行動が「教育者精神」の発露として「表旌」されることにより、一層増幅される結果をもたらした。なかには、「御真影」教育勅語謄本に直接関わらない単なる殉職であったにもかかわらず、学校・行政当局・肉親などによって、「御真影」勅語謄本警衛と結び付けて「美談」化する事例もあった。そこには、本人の人柄の「顕彰」という単純な意図の他に、遺族への援助もしくは補償をより「容易」に調達し得るとの「計算」「教育者精神」「忠君」「自己犠牲」などの教材化政策などが複雑に作用していた。(例えば、岩本努『「御真影」に殉じた教師たち、』)。
学校からの「御真影」の撤去
第二次大戦の敗戦は、近代天皇制にとっての最大の危機を意味した。「国体護持」を目的としたポツダム宣言の受諾を決断した日本政府にとって、天皇制の戦争責任を連合国側がどのように追及するかは最大の関心事であった。
学校の「御真影」に関していえば、陸軍大元帥大礼服を着用した天皇の写真が、無条件降伏下で軍が全面武装解除し解体してしまった状況にふさわしくないばかりか、まさに大元帥としての責任問題を想起させる危険性を帯びていた。加えて、国家神道解体についてのGHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)指令(1945年12月)により、宗教儀式性をもっていた「御真影」拝礼の学校儀式の施行が、多く神社形式(神明造)をとっていた上にそれ自体が厳重な拝礼対象とされていた「奉安殿」の存在と同様に問題視されるのは必至となった。宮内庁省は45年11月、天皇服制の改正に伴い、新服制による写真に取り替えるためを理由として、従前の大元帥大礼服「御写真」を回収するとの次官通牒を発し、これを受けて十二月文部省は学校に「御真影」「奉遷」と、来る一月一日学校儀式での旧「御真影」の「奉掲」を禁じる旨とを、地方長官に通知した。
こうして、1874(明治7)年以来約七十年に及ぶ学校における「御真影」存在の歴史に終止符が打たれることになった。学校「御真影」の回収(「奉遷」)は、45年12月後半から翌6年2月頃までにかけて、ほぼ全国一斉に施行された。回収された「御真影」は、公立校分は道府県の責任により、官立校分は文部省の責任をもって、それぞれ「奉焼」された。「奉焼」に際しては、「現下ノ国内ノ情勢ニ鑑ミ努メテ内密ニ執行ハシムルベキハ勿論ナルモ之ガ実施ニ当タリテハ尊厳鄭重苟モ軽ニ失スルガ如キコト無キ様」にと指示された(46年1月宮内次官通牒)。そこで例えば、府県庁裏手の空き地に深い穴を掘りその穴の中で密かに焼却するなど、なるべく人目に付かないよう配慮して実施された。
・・・以下略