真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本の戦後三大事件が示すアメリカの野蛮

2023年04月02日 | 国際・政治

 日本の戦後三大事件は、日本に転機をもたらした重大な謀略事件だと思います。
 戦後の日本が、事実上アメリカの植民地のごとき状況に置かれことになったのは、アメリカの占領政策の転換、いわゆる「
逆コース」の結果であることを、私は、いろいろな著書で学んでいますが、今回取り上げるのは、「松川事件・真実の証明」高田光子(八朔社)のなかの、「第七章 真犯人を追う」です。

 著者は、「
はじめに」で、”戦後50年、敗戦から曲折をへて現代へ…。いま、私たちはこの松川事件の闘いの足跡から、人間の真実と正義の叫びを多くの若者に引き継いでいくべきではないだろうか”と書いています。
 戦後三大事件といわれる
下山事件、三鷹事件、松川事件(その他にもいくつかの事件があったようですが)は、日本の戦争指導層を抱き込んだアメリカが、日本を共産主義の防波堤「反共の砦」にするために画策した事件であったということを、忘れてはならないというです。 

 戦後、日本を占領したGHQは、決して一枚岩ではなく、占領初期から二つの勢力が対立していたといいます。その一つは、日本を民主国家に再生させようとする勢力で、その中心は占領政策を担当したケーディス大佐を中心とする
民政局(GS)です。彼らは戦争指導層を一掃し、日本を民主化するために公職追放などの政策を進めたのです。

 でも、ソ連をはじめとする社会主義勢力の拡大を恐れる
参謀部(G2)は、民政局の非軍事化・民主化政策が日本を弱体化させ、ソ連の介入を招くとして反対していたといいます。そして、戦後の日本を左右する重大な決断が下され、結局、アメリカは占領政策を転換し、「公職追放を解除」して「逆コース」といわれる政策を進めたのです。
 でも、「
逆コース」の政策を進めるのは簡単ではなく、そのために必要だったのが、戦後三大事件をはじめとする、残虐事件だったということです。
 それは、下記の抜粋文に出てくるいろいろな事実が示していると思います。

 先月末、アメリカの
バイデン大統領は、およそ120の国や地域の首脳を招いて「民主主義サミット」を開き、結束を呼びかけました。でも、それは、中国やロシアを専制主義として敵視するもので、民主主義の基本である「話し合い」を呼びかけるものではありませんでした。
 だから、国際社会におけるアメリカの政策は、いつもアメリカの覇権と利益を守るためのものであり、敵対的であって、民主的でないことを知る必要があると思います。実態は「 非民主主義サミット」と言ってもいいのではないかと思います。
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                      第七章 真犯人を追う

1 その夜口笛を聞いた──平田福太郎老人

 作家の松本清張は、真犯人追及の大胆な推論を『文藝春秋』(昭和3510月号)に発表した。この推論のなかで「松川事件関係者は、単なる想像が裁判に悪い影響を与えてはならないという用心深さから、そのことを云っても単にアメリカ軍関係者を暗示する程度に表現している」と、第三者としての率直な意見を投げかけた。

 最高裁は差戻しの判決なのだから、真犯人の追及はまぬがれない。真犯人はどこかにいる……。そのとき、松本清張は世評を先どりするかたちで推論を投げかけたのであろう。

 私は調査のとき法政大学大原社会問題研究所で次の資料をみつけた。もう一度、ここで昭和24817日午前39分(当時夏時間によるもの、実際は29分)金谷川~松川間で機関車が脱線転覆し、続く数車輛も脱線し機関士石田正三ほか機関助手2名が惨死したという、あの松川事件の発端となった、あの日のときにタイム・スリップしてみよう。

 事件当夜より13日後に『朝日新聞』は、次のような証言を報じている。

口笛を聞けども姿は見ず”

 物乞い老人から情報を提供──

「東北線事件(註 当時はこう呼んでいた)の捜査は持久態勢に入り基本的調査の範囲を出ないが、27日犯人の足取りを裏づける有力な情報提供があり、捜査本部でもこれを確認した。提供者は現場近く金谷川村薬師堂に住む物ごいの老人平田福太郎(72)。

 その話では、事件当夜用便に外へ出ると薬師堂から30メートルぐらい下の線路近くで鋭い口笛の音を二回聞いた。間もなく412列車が通りすぎ尾燈を見送っているうち、突然大きな音と地響きを感じ、ランプが見えなくなった。おかしいと思ったが、その後何の音もしなかったので寝てしまった。口笛は夜遊びの青年たちと思って気にもしなかったが、あとで考えると仲間を呼ぶときとか注意するときの合図のような感じだった。足音も聞かず姿も見なかった。なお犯人の足取りを追っている捜査官は平田の情報より先に捜査はのびていないと語っている」(『朝日新聞』1949830日付)

 このことは、二人の巡査、倉持敏雄、三村秀雄巡査によって捜査復命書がより詳しく報告されていた。

 それによると「その口笛は村の若い連中が夜遊びに行ってニ、三人で帰るところで遅れた者でも呼ぶような感じがしたが、別に不思議にも思わなかったです。……その口笛を聞いてから約10分か15分位して上りの列車が来たのです。……この前の細道は山を越えて松川の裏道に出るのですが、この辺に畑を作っている農家の人以外は誰も通らないところです。橋を渡って右に行くと踏切りより松川町の方へ約百メートル行った籠屋(金谷川村大字浅川字辻、石川政蔵)の前に出るが、その口笛を吹いた人はその道を行ったか、鉄道の沿線にそって踏切の方へ出たかは見たのではないからわかりません。

 さらに石川政蔵外四、五軒も捜査したが、いづれも半鐘によって事件を知ったので、人が通ったかどうかは全然わかりません」(筆者要約)

 と報告している。(吉原公一郎著『松川事件の真犯人ジョージ・クレーと九人の男』)

 

 その後、薬師堂は昼間の火事で焼失。その後平田老人は阿武隈川河畔の笹小屋に住んでいたが、1951年(昭和26年)9月に郡山養老院に入り、1953年(昭和28年)に死亡した、と書かれている。

 作家の吉原公一郎は、鋭い口笛について、占領軍が親指と人さし指で輪をつくり、口にくわえて鳴らす鋭い口笛をよく見かけたものだ。口笛の音はまさにそんな音であったという。それは真犯人たちが転覆確認、引揚げの合図に鳴らしたものであったかもしれない、と結んでいる。

 この推論はうなづける。

 一人、または二人、三人ぐらいの破壊工作人であったら、口笛の必要はなかった。口笛を二回聞いたのは確かなのだから、それからすると数名の人たちがしらばって作業をしていたのではないか、と素人なりの推理はできる。また鋭い口笛が二回、ということは、通過する列車時刻が迫っているため、”さあ引揚げるぞ、もたもたするな!”の心理的なあせりがあったかもしれない。平田老人は口笛の音を遅れた人を呼ぶような感じがした、と証言している。いずれにせよ、真夜中の口笛だけが老人の耳に残された確かな証拠なのであった。

 平田老人は、これ以上のことは何も残していない。

事件よりはや50年になるいま、改めてそこから話が展開するとしたら、それは、真犯人の証言にゆだねることになるだろう。

 松川事件の陰の疑惑は、さらに深まる。

 もう一つの巷のうわさ、松川在(安達郡渋川村──現安達町)の斎藤金作は、松川事件の線路破壊を目撃した、と英文怪文書が各方面におくられ大きな話題をまいたのである。

 

   2 英文書「MUDER WILL OUT(殺人はばれる)」

 

1) 第一の英文書──1人寝の恐怖ドア─の陰の声 斎藤金作

「お手紙によりますと、あなたはK君の溺死について、それが過失だろうか、自殺だろうか、自殺ならば、それが何に原因しているだろう……と様々に思い悩んでいられるようであります……。」という書き出しで、K君の死因を、彼の日頃の言動と、死の時間を暦によって推し測りながら解説してゆくという風の短編を、若くして逝った梶井基次郎は残している。

 哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる そのような失敗を幾回となく繰り返したのち、ついに或る満月の夜、月の光にあふれた浜辺を、自分の足にまつわりつく影を追いながらさまよって歩き、月光の流れにさからいつつ、目指す月の方向へ昇って消えた『K君の昇天』のことである。

  (「 」は作家、梶井基次郎著「K君の昇天」『檸檬』──引用者熊谷達雄)

 

 この梶井基次郎は1925年(大正141月、小説『檸檬』を発表した若き作家であったが、この作家の作品のひとつを熊谷達雄は彼の著作「消えた人」(広津和郎編『松川事件のうちとそと』)の冒頭にもってきている。それはなぜだろうか。

 松川事件の裁判の闘争中に、福島県松川在の斎藤金作なる男の溺死体が横浜のクリーク(入江の支流)に浮いているのがみつかった。……上京して2ヶ月後、行方がわからなくなって、40日後に見つかったのである。検屍の結果、「心臓麻痺」と弟は聞かされた。……果たして、そうだったのだろうか。「この溺死は、過失か、自殺か、それとも他殺なのか、自殺ならばその原因は? 他殺ならばその要因は?」と、恐ろしい疑問をくりかえさなければならないことがおこった。

 すなわち、梶井基次郎の小説にあるような一人の男の死が、救援活動家の熊谷達雄の傍らにおきていたからであった。それは……

 1952年(昭和27611日消印、東京京橋局発送の英文タイプ三枚の文書が、東京都内の有識者、新聞社、主要な労働組合に配達されたときから始まった。(英文タイプの原文は、今や福島大学資料室にもなく松川事件対策委員会発行の『世にも不思議な松川事件』の小パンフレットに写真入りで載っているだけである。)

 

 そこで私は、この英文の概要を熊谷達雄の「消えた人」より引いてみることにする。

 この英文の大要によって、戦後日本の社会に起った数々の事件をあからさまに知ることができるからである。今より50年前のこと、戦争と占領の傷口が深くえぐられていた時代があったこと、その歴史的事件の陰にどす黒い陰謀があったことも、今を生きる人々は、その事実を知っておく必要があると思う。

 その意味で、ここにあえて英文の概要を載せることにした。

 それは、次の文章より始められている 

 

平沢貞通は帝国銀行椎名町支店の銀行員に伝染病予防ワクチンと称して得体のしれない毒薬をのませ、これを殺害した疑によって現在裁判に付されている。しかしこの事件の捜査にあたっていた警官、および高木検事や当時事件の報道に従事していた新聞記者の多くはこの兇悪な犯罪が、あるアメリカ人によって行われたことを知っている。

 銀行員中の唯一人の生存者田村マサ子は、最初、犯人が苦しみもがいている犠牲者の頭をこづきながら「ノ・スピーキング」といっているのを見たと証言した。

 警視庁は検屍の後、ある種の細菌がこの殺人に用いられたことを知り、軍医中将石井四郎が組織した有名な「細菌部隊」の全スタッフの捜査に乗り出した。この捜査が完了しないまま、突然中止されたけれども、細菌学者である一米軍中尉が真犯人であることがわかった。この中尉は犯行後ただちに本国に帰った。

 唯一の生存者田村マサ子は多額の「口止め料」をもらい、この事件を追及していた読売新聞の一記者と大急ぎで結婚した。

 元国鉄総裁下山氏の未亡人および子息は、下山氏がアメリカの手にかかって殺されたと確信している。(中略)……さらにまた他殺の事実を確証した法医学権威者の発表に対処するため、警察は小宮博士をはるばる名古屋からよんで、国鉄総裁の死は自殺によると発表せしめた。

 世人の頭はこれらの矛盾した発表によってまったく混乱に陥ち入った。アメリカ当局が日本の警察に向って捜査を打切るように命じたため、その後はなんらの本腰の捜査は行なわれなかった。

 さらにまた一般に松川事件と呼ばれている有名な列車顚覆事件についてもアメリカ人が責任者であることは疑うべくもない。

 これには目撃者が一人いた。彼はたまたま脱線の現場付近を通りかかったとき、約12人程の米兵が枕木からレールをはずしているのを見た。彼はそれを見て、一体何をしているのだろうかとちょっと不審を抱いたが、多分レールの検査か修理をやっているのだろうと自ら納得し、大して驚きもしなかった。

 ところが、この仲間に加わっていた一人の日本人が彼の跡をつけて来て、わが家の戸を開けようとするところを、うしろから日本語で呼びとめた。

 この男は彼に向ってその夜見たことを他人に口外しないように告げた。「口外するとアメリカの軍事裁判にかけられる」とその男は警告した。もちろん彼はそれが何のことだかまったく理由がわからなかったが、ただ「言いません」と答えた。

 翌朝になって始めてわかった。彼はこの顚覆事件について不安を感じ、胸がしずまらなかった。とくに、労働組合の指導者が嫌疑をかけられていることを新聞で読んだときますます怖くなった。

 それから5日後、一人の見知らぬ男がやってきて、彼に福島市のCICの事務所の位置を示した地図をみせ、「明日此処へ出頭して下さい。話したいことがあるそうですから」と告げた。

 この目撃者の名は渋川村の斎藤金作といった。彼は本能的に投獄されるかも知れないと感じ、その恐怖はさらに増した。そこで彼は自分の家を逃げ出し、横浜で三輪車の運転をやっている弟のもとへ身を寄せた。そして彼自身も三輪車の運転手となった。

 しかし、彼が三輪車の運転手になって2ヶ月後、1950112日彼の行方はわからなくなった。彼が姿を消してから5日後、三輪車を見つけた警官が弟のヒロシのもとに三輪車をとどけて来た。車体にペンキで描かれた住所によってわかったのであった。失踪して40日あまりの後、3月になって、ヒロシは彼の兄の死体が入江に浮いているのが見つかったと聞かされた。ヒロシと金作の家族は屍体を確かめに行ったが、そのときはすでに火葬されていた。金作の家族は検死の結果を次のように知らされた。「傷を負ってはいなかった。右手は手袋をはめずに外套のポケットに突っ込んでいた。胃の中にはアルコール飲料が残っていた。腕時計をはめていた。金は持っていなかった」と。また、泥棒に襲われたのではないかだろう。死ぬときは大してもがいていないことが検屍の結果でわかる。「多分酒に酔って、入江に落ち込み、心臓麻痺で死んだのだろう」と、このように彼らは聞かされた。彼の死体が発見された場所は三輪車が発見された位置からはるか遠く隔たっていた。検屍はクリークに40日浮かんでいた場合にあり得る状態とはまったく相違する状態を告げている。

 数日後、見知らぬ男がヒロシを訪ねて、名前も言わずに金十万円を置いていった。彼はただ一言「兄さんの御不幸については何も言わない方がいいですよ」と告げた。

 ヒロシは悩み苦しんだ。何者かに追われるように、横浜市磯子区森町から同市南区中村町に引越し、やがておしまいには故郷の田舎に帰ってしまった。彼は現在そこで暮らしているのだが、不安と恐怖にせめられて悪夢のような日々を送っている。

(熊谷達雄「消えた人」広津和郎編『松川事件のうちそと』所収)

 

 

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