真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカの謀略による日本支配や朝鮮支配

2023年04月27日 | 国際・政治

 事件や戦争、あるいは事実を歪曲したプロパガンダで、巧みに他国を支配下に置いてきたアメリカの戦略は、戦後の日本や朝鮮で、アメリカが何をしたかをふり返ればよくわかると思います。

 日本では、当初、連合国軍最高司令官総司令部の民政局(Government Section、通称:GS)が日本の非軍事化・民主化を進めていました。しかしながら、共産主義的勢力圏が極東で拡大することを恐れたチャールズ・ウィロビー 率いる参謀第2部が、その後GHQ内で主導権を握り、戦前復帰ともいえるいわゆる「逆コース」の政策を進めるようになりました。
 それは、1947年(昭和22年)、日本共産党主導の二・一ゼネストに対し、GHQが中止命令を出したのがきっかけだといいます。その「逆コース」の政策の象徴的ものは、戦犯の公職追放解除や、レッド・パージですが、そうした政策を正当化するために、アメリカは、戦後三大事件と言われる下山事件、三鷹事件、松川事件その他の事件を起し、無実の労働組合員や共産党員に罪を着せるという「謀略」を実行したのだと思います。大事なことは、日本を共産主義の防波堤(防共の砦)にしようとする「逆コース」へのアメリカの対日方針の転換は、「謀略」なしでは成し得なかっただろうということです。特に、公職追放解除で、かつて鬼畜米英を日本国民に強いた軍人や政治家のみならず、特高警察官などまで復帰させたことによって、戦後の日本が、本質的な部分で、戦前とかわらない日本になってしまったと思います。
 したがってアメリカは、謀略で日本の非軍事化・民主化を阻止し、公職追放を解除して復帰した戦争指導層と手を結ぶことによって、日本を支配下に置くことに成功したといえると思います。その結果、日本はいまだに主権国家ではなく、真の民主主義国家でもないといえるように思います。

 またアメリカは、朝鮮の人たちが、日本の降伏後直ちに準備を進め、南北合一の「朝鮮民主共和国」を成立させていたにも拘らず、朝鮮半島を一方的に38度線で分断する案を、戦後処理の「一般命令第一号」に盛り込み、関係国に通告しました。国連その他の国際会議で話し合って、38度線で分断することを決めたのではないのです。
 おまけに、発令者が日本国大本営とするかたちで、38度線での分断を現実のものにしました。
 それは、隷下日本軍各部隊に対して、現地連合軍司令官への降伏を指令する形をとり、
満洲、北緯38度線以北の朝鮮および樺太にある日本軍は、ソ連極東軍司令官に降伏すべし
とし、
北緯38度線以南の朝鮮にある日本軍は、合衆国朝鮮派遣軍司令官に降伏すべし
 としたのです。その結果、すべてが38度線で分断されることになってしまったのです。実に狡賢い策略だと思います。
 当然、南北合一の「朝鮮民主共和国」で合意していた朝鮮の人たちは、左右を問わず、この分断を中心とするアメリカの朝鮮政策に強く反対しました。だから、アメリカ軍政庁は、反共主義者の李承晩と手を結んで、南北合一の「朝鮮民主共和国」を潰し、韓国を支配下に置くために、多くの関係者や左派的な人たちを殺害し、弾圧したのだと思います。
 「日本の黒い霧」松本清張(文春文庫)の下記の文章が、”朝鮮戦争は、北朝鮮軍が38度線を越え、韓国に侵略戦争を仕掛けたので始まった”というような単純なものではないことを明かにしていると思います。著者の松本清張が、「謀略」という言葉を添えて「朝鮮戦争」を論じていることは、そのことを示していると思います。「謀略」がなければ、朝鮮戦争はなく、したがって、朝鮮が分断されることもなく、アメリカが朝鮮を事実上支配下に置くような現実もなかったと思います。

 だから、アメリカが主導するウクライナ戦争も、”ロシアの一方的な侵略によって始まった”というような単純なものではないことを、考えるべきだと思います。諸情報を総合的に考えると、ウクライナ戦争も間違いなく「謀略」がらみだと思います。

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                        謀略朝鮮戦争

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 マッカーサーは、韓国軍の38度線の防衛が脆くも破れたことについて、のちに証言している。「韓国軍は北朝鮮軍には全然抵抗できませんでした。そして、韓国軍の補給力の配備が途方もなく貧弱だったのです。韓国軍は、その物資や装備を38度線のすぐ傍に置いていました。彼らは縦深陣地を造っていなかったのです。38度線と京城の至る所が韓国軍の物資集積地域だったのです」
 要するに、これで見ると、韓国軍は敗走の際、兵器や軍事物資(多分、それはアメリカ製や日本製であったであろう)を集積したまま敗走したので、あとに入り込んだ北朝鮮軍がそれを自分の武器に使ったということになる。これだと、戦闘初期に北朝鮮軍の主力が38度線から遥かに遠い所に配置されていたにも拘らず、緒戦の際の勝利の説明がつくのだ。
 資料の潤沢なせいか、南朝鮮側の戦争勃発の予見は、恰も地震計のように頻繁に記録されている。50年5月に入ってから、38度線付近に北朝鮮軍の大部隊が集中していることが韓国側によって伝えられている。即ち、申性模国防長官は、5月10日、外人記者団との特別会見を行ない、「10日以内に、全面的な内戦が勃発しそうである」と語り、李大統領は、同じく12日に、「5、6月は危険な時で、何事が起るかしれない」と言明している。また、蔡参謀長も、「北朝鮮側は、5月20日の韓国総選挙を機会に、大規模な攻勢を展開するおそれがあり、韓国軍は兵力を配備して警戒している」との談話を発表している。
 しかし、南朝鮮側がこれらの警告を公然と訴えたのは、なぜか、これが最後になった。
「何故、その日から沈黙を守ったのであろうか? それからというものは、京城で何の声明も発表されず、東京から官辺の意向を反映した新聞電報も打たれず、米国議会での演説もなかった」(I・E・ストーン)
 ところが、この頃、アメリカ国防長官ジョンソン、元アメリカ参謀総長ブラッドレー、国務省顧問ダレスが極東を訪問して、塹壕に入って視察したのである。ダレスは何のために前線を視察したのか。「彼は塹壕に入ってスミレを摘んだのではあるまい」とソ連外相のヴィシンスキーが皮肉るところだ。そこでまたダレスは韓国国会で演説して、アメリカは共産主義と戦う南朝鮮に必要な精神的・物質的援助を与える用意がある、と言明した。また、戦争勃発の5日前、ダレスは李承晩に書簡を送って、「私は貴国が今度の大ドラマで演じうる大きな役割に非常に期待をかけている」とも書いている。
 李承晩政府の元内務長官金考錫は北朝鮮側に捕われて、その「告白」で書いているが、それによると、1950年1月、ロバーツ将軍が李承晩閣僚に訓令して「北伐計画はすでに決定済である。たとえ、「われわれが攻撃を始めるにしても、やはり正当と見られる口実を作る必要がある。このため、まず大事なのは、国連委員会の報告だ。国連委員会がアメリカに都合のいい報告を出すのは当然であるが、それと同時に、諸君もこの問題に注意を払い国連委員会の同情を買うように努めなければならない、と通告した」と云っている。北朝鮮側の捕虜の「自白」だから相当割引くとしても、このような訓示があったかもしれないという可能性は考えられるのである。
 このような資料からみると、南朝鮮側が38度線で先に火蓋を切った、という強い印象は免れない。しかし、もう一度繰返すが、南朝鮮側に比して北朝鮮側の資料は極めて手薄である。比重は南朝鮮側に遥かに重い。従って、この資料からは韓国やアメリカ側に歩の悪い結論の引出しとなった。もし、同量くらいの資料が北朝鮮側から発表されていたら、この比較はもっと明瞭になり、公平になるだろう。何故なら、南朝鮮が、「侵入」するや、北朝鮮側は忽ち「追い返した」だけでなく、破竹の勢いで京城を葬り、大田(テジョン)北方に進出し、別働隊はまた日本海側の江原道(カンウォンド)を快走で進撃した事実を知っているし、開戦数日にして、韓国軍に代わったアメリカ軍を相手にしてそれを南朝鮮の一隅に追い込んだ実力にわれわれは驚歎しているからである。
 もとより、それは北朝鮮側が云うように、アメリカ占領地の民族解放に燃えた熱意や、「38度線より遥かに離れた後方」で受けた訓練の成果もモノを云ったに違いないが、優秀な近代的作戦の起源も知りたいからである。
 率直に云えば、38度線をどちらが先に越したかということは、時間の問題であったように思う。李承晩は「北伐」を叫んでしたし、金日成もまた南朝鮮側の「解放」を呼号し、南朝鮮側の民衆に向ってその以前からたびたび呼びかけを行っていたからだ。李承晩は全朝鮮が自分の「領土」だと心得ていたし、金日成も同じように李政権をカイライ政権として、南朝鮮側はアメリカ軍の侵略地帯だと思っていた。つまり、両者とも、38度線という境界線をひいた二つの国は存在しなかったのである。戦争勃発前に、この境界線に沿って千回もの小戦闘が起こっていたのは、そのことを証明する。
 さて、戦争ははじまった。
「国際連合視察員たちは、6月24日に帰って(38度線視察)報告を提出した。その晩、彼らの居ないところで戦争が始まった。李承晩は、それが北朝鮮による挑発されざる侵略によって始まった、と発表した。これに反し北朝鮮政府は、韓国軍が3ケ所で38度線を越境して撃退されたのち北朝鮮軍が攻撃に移ったのだ、と報告した」(I・F・ストーン)

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 朝鮮戦争の経過を略述する前に、何故それが起らねばならなかったかを当時の国際情勢について眼を走らせてみる。
 世界大戦は終ったが、実際の平和は到来せず、米・ソ両国の冷たい戦争が始まった。47年3月のトルーマ声明、6月のマーシャル・プラン などでアメリカの政策は表面化し、49年4月の北大西洋条約(NATO)の調印でアメリカの対ソ包囲体制が完了した。ソ連を在外軍事基地の網で包囲するという、いわゆる「封じ込め」が一応出来上ったのである。この背後には、アメリカが原子爆弾を独占したという軍事技術上の優位があった。
 当時、アメリカは原爆の所蔵を自負していて、ソ連は今後15年以上は保有できぬ、という見通しがあった。これを運搬するB36、B50などの長距離無着陸爆撃機があり、これもソ連は技術的に及ばぬと思っていた。この戦略から、46年3月に戦略空軍(SAC)が大統領命令によって編成された。
 この戦略の目的は、破壊力の時間的集中と攻撃力の組織的集中、並びに戦闘力の地域手的集中である。つまりB29が延べ3万2000機で14ヶ月をもって日本を破壊したと同じ効果が、原爆によればタダの8発で、しかも最小の人員でまとめて出来ること、各機には予め攻撃する場所が分かっていて、普段からその状況下に訓練を積み、命令が出てから攻撃するのではなく、最初から攻撃目標を決めていること、さらに、このような態勢から戦略爆撃機1500をしてソ連を包囲する。この爆撃機は150乃至160の基地に置き、ソ連を目標に円の照準の中に入れる。こうして、いざという場合一挙にソ連を叩くことが出来る戦略態勢整えた。47年9月には空軍省が独立して、この対ソ戦略は完成した。
 NATOの成立がこの直後であったことを思い合わせると、アメリカの計画がよく分かるのである。
 しかし、事態は変った。中国は赤軍によって完全に制圧され、ソ連はまた原爆保有を声明した。49年11月の革命記念日には、アメリカが原爆奇襲攻撃を行なえば、ソ連も原子兵器で報復することが出来る、というマカレンコフ声明となった。封じ込め作戦は、この新しい情勢のために完全に破綻したのである。アメリカは焦燥にかり立てられた。このままだとジリ貧は免れない。世界にばらまいた膨大な資本はどうなる。アメリカが次にとる手段は、朝鮮を足がかりにして、ソ連と中国との分断作戦以外には取る途は無かったといっていい。
 なお、アメリカが朝鮮作戦を遂行する都合のよかったことは、この前年の10月からソ連が中共の国連加盟を主張して容れられず、国連をボイコットしていたことだ。  
 もしソ連が国連に出席していたら、アメリカの主張する「国連軍の介入」は、ソ連の拒否権に遇って成立しなかったであろう。朝鮮における国連軍の構成は、もちろんアメリカが主力であり、その統帥権からいってもアメリカ軍単独であった。このことから、朝鮮への介入にはソ連の国連ボイコットはアメリカにとって極めて都合が好かったのだ。
 ストーンは書いている。「実際、攻撃開始に選ばれた時期は、北朝鮮側の見地からいって非常に不適当な時期のように思われた。ソ連は、その年の1月、中共の国連加盟不承認に抗議して国連をボイコットを開始して以来、安全保障理事会に出席していなかった。安全保障理事会のもう一つの『東欧』側の椅子は、ソ連と意見が合わないユーゴによって占められていた。国連の北朝鮮反対に動員する試みが行われるとしたら、拒否権でそれを葬り去る友邦が安全保障理事会内に一国も居ないわけだった」

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 この国際情勢を背景とした戦争前の朝鮮の情勢をざっと振返ってみよう。
 1945年8月15日、日本軍が降伏して、3週間後の9月8日、ホッジ中将の率いるアメリカ第十四軍団が沖縄から仁川(インチョン)に上陸した。空から撒かれたアメリカ軍の最初の声は南朝鮮に軍政を施行すること、曾ての日本の各種機関および職員を存続させること、治安を乱し占領軍に反抗する者は厳罰に処すること、公用語は英語をもってすることなどをうたったマッカーサーの布告第一号であった。この日、韓国民主党が結成された。アメリカ軍政はこの系列の者によって9名の諮問機関を構成した。李承晩がアメリカから帰国して右翼の頭領となった。10月17日、ホッジ中将は軍政府は南朝鮮の唯一の政府である、と言明して、南朝鮮各地に組織された各人民委員会を弾圧し始めた。朝鮮問題の具体的な解決案は、1945年12月の米・英・ソ三国外相によるモスクワ会議で決定されることになった。
 だが、その要旨は、朝鮮民主主義臨時政府を樹立して、長期に亙る日本帝国主義の有害な結果を急速に取除く条件を作る。この臨時政府の組織に関する法案は米・ソ共同委員会を組織して作成すること、委員会は朝鮮の民主的諸政党と協議すること、さらに共同委員会は朝鮮臨時政府を国家的独立に導くため、その援助に四カ国(米・ソ・英・中)による後見制を実施することなどを決定した。この決定は、間もなくアメリカ自身がボイコットすることになる。
 李承晩と金性洙(韓国民主党党首)などは、モスクワ会議の決定を信託統治だといって反対運動を起した。一部の民族主義者がこれに同調した。ホッジは「反対の自由」を宣言して彼らを援助し、その集団(民主議員)を中核とした臨時政府の樹立を図り、三国外相決定の路線を骨抜きにしようとした。臨時政府樹立のための協議対象に「多数」を登場させるため無数の団体が創作され、119を数えたほどだった。
 ソヴェトはこれに反対し、二回に亙る共同委員会は、遂に、意見の一致を見出せないままに終った。
 南朝鮮では、アメリカ軍政の諮問機関として「立法議員」の選挙が行われた。90名の議員のうち45名は、アメリカの軍政の任命による官選議員であった。これは南朝鮮独立政府への原型だった。
 47年9月、アメリカは朝鮮問題の審議を第二回国連総会に持込み、北朝鮮に進駐しているソ連との話合いを一切拒否した。国連側はソ連の反対を無視して、「国連調整委員団」を派遣し、その監視下に総選挙を行うというアメリカ案を可決させた。
 47年9月、アメリカは朝鮮問題の審議を第2回国連総会に持込み、北朝鮮に進駐しているソ連との話合いを一切拒否した。国連側はソ連の反対を無視して、「国連調整委員会団」を派遣し、その監視下に総選挙を行なうというアメリカ案を可決させた。
 一方北朝鮮にでは、朝鮮労働党中央局が全朝鮮の平和的統一を具現するための組織的な主体となった。党の中央は、南朝鮮の特殊な条件に照らして北朝鮮に置かれた。さらに、これは他の人民委員会を集めて「北朝鮮臨時人民委員会」となり金日成が委員長に就任した。48年2月には、北朝鮮人民会議は人民軍の創設を決定した。
 南朝鮮では、一切の批判、一切の抵抗は許されなかった。46年10月、大邱を中心として南朝鮮全域に巻き起こった大規模な人民抗争は、200万余りの人員が抗議に参加し、アメリカ空軍、機動部隊がこの弾圧に動員された、この時、殺された者300名、行方不明3600、逮捕、投獄されたもの1万5000名に及んだ。
 46年12月に、李承晩はアメリカに渡り、南朝鮮における単独政府樹立の打合せをした。この時も、アメリカ軍政に反対する団体は大量に検挙され、南朝鮮刑務所に収監された受刑者は26400名に達した。
 48年8月15日、ソウルでは李承晩を大統領とする「大韓民国」の建国式典が行なわれマッカーサーがこれに出席した。その前の4月には、国連調整委員会が南朝鮮の単独選挙の監視を決定した。この単独選挙に反対して激しい人民抵抗が行なわれ、2月7日には、南朝鮮の全産別労働者のゼネストが断行され、200万もの大規模な闘争が3日間つづいた。3月20日から有権者の登録は開始されたが、それを拒否する者に対して警察とテロリストの殴り込みが行なわれ、リンチ、放火などの事件が繰り返された。済州島では弾圧に抵抗して2万島民の蜂起が起り、人民武装隊によって15ケ所の警察署のうち14ケ所が襲撃された。「南朝鮮の丘という丘、峰という峰にはパルチザンの活動が始まり、夜ごとに狼煙(ノロシ)のデモが行われた」。8月24日、韓米暫定的軍事協定が結ばれ、10月1日に更に調印された韓米財政協定の実質は、日米行政協定と同じものだった。内容は、アメリカは韓国軍の指導権を持ち、米軍は不必要と認めるまで駐留する、共同防衛上必要と思われる全地域を利用する、というものだった。
 李承晩政府は、国家保安法を48年11月に制定した。日本の治安維持法に当るもので、それを上回るほど苛酷なものだった。一方、「暴動」は相変わらず熄(ヤ)まず、済州島鎮圧を指令された第十四連隊の軍隊は麗水(ヨス)、順天(スンチョン)方面で叛乱を起し、山岳地帯を中心にパルチザンの活動を拡大した。その範囲は、49年3月に、南朝鮮の8道12市131郡のうち8道3市78郡に及んだ。
 1950年5月30日に第二次選挙が行なわれたが、李承晩は反李承晩派の66名の立候補者を辞退させ、
その選挙員220名を国家保安法によって検挙した。 しかし、それにも拘らず、議員数210名のうち李承晩派の当選者は48名にすぎなかった。李承晩独裁によるその政権の危機は、決定的な運命に直面した。間もなく38度線に戦争が起った。「彼らは戦争の挑発によって延命を図ったのである」(『朝鮮の歴史』朴慶植・姜在彦著)
 この南朝鮮側の記録に対して北朝鮮側は、着々と金日成の指導によって基礎が固まり、工業生産力の建設となった。これは北朝鮮の記録にはもっと讃美的な修辞で書かれているが、公平を考えてあまり間違いはないように思える。何となれば、北朝鮮では南朝鮮のようなストライキや暴動や暗殺などが見られなかったからである。重工業建設のために一般の農民の「不平」が宣伝されているくらいなもので、南朝鮮側のような暗黒的な印象は、北朝鮮側からは受けないのだ。
 以上は、紙数の関係で、南朝鮮の状態をざっと走り書きしたにすぎないが、要するに、朝鮮戦争が勃発する直前の李承晩政府は壁の前に行詰っていて、何か奇蹟的な活路を求めなければならない状態だったことは否めないのである。

 

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