真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ボリビアの反米政権転覆未遂とリチウム、

2024年07月02日 | 国際・政治

 下記の画像のなかに、

04/24/2024 - #Bolivia hopes to join BRICS.

06/26/2024 - coup attempt.

Bolivia also has loads of lithium.

 とありますが、ブリックスに加盟することを希望していたボリビアのクーデター未遂事件に関わって、私は、「メキシコ革命物語」渡辺建夫(朝日選書285:朝日新聞社)の記述を思い出しました。
この強力な軍事独裁政権の出現をいちばん歓迎したのは、メキシコ駐在アメリカ大使ヘンリー・レーン・ウイルソンだった。彼はマデロ夫人(当時のマデロ大統領夫人)に夫の命を救うため援助してほしいと懇願されたとき、厚顔無恥にも内政干渉することはできないと答えてつっぱねている。が、彼ほどアメリカの巨大な国力を背景に最大限メキシコの内政に干渉しつづけた男もいなかった。


いまも昔も、ラテン・アメリカで頻発する政変、クーデター、反革命の背後には必ずアメリカ合衆国政府の黒く大きな影があったのである

 だから南米のボリビアは、CIAの工作に負けず、クーデターを阻止し、ボリビアの貴重な資源、リチウム(lithium)が収奪されることを防ぐことが

できたのだと思います。

 

 ウクライナ戦争以後、アメリカと手を結んでいるG7NATO諸国は疲弊し、政権の支持率は低下して、どこも極右の台頭が著しいようです。見通しが暗いからではないかと思います。

 そして、日本にはますます戦争の危機が迫っているように思います。先日、朝日新聞のトップ記事は、”自衛隊70年、加速する「日米一体」 中国念頭、「列島線防衛」訓練に初参加”、と題されていました。

 訓練は「中国」を敵とするものです。でも、日本が中国を敵視することは間違っている、と私は声を大にして言いたいと思います。

 日本政府は、防衛力強化を正当化するために、しばしば「自由で開かれたインド太平洋」(Free and Open Indo-Pacific)という言葉を使いますが、その言葉は、中国の勢力拡大を止めたいアメリカの戦略からくる言葉であって、なかみが曖昧であり、日本が同調すべき戦略ではないと思います。

 アメリカのインド太平洋軍司令官、ジョン・アキリーノ氏は、しばらく前、「中国人民解放軍が2027年までに台湾に侵攻しようとする習近平国家主席の目標を達成しつつある」などと語ったようですが、私は、根拠のない「作り話」のように思います。

 アメリカはいつもそうやって、事の「善悪を逆さに見せる」(イラン政府報道官ジャフロミー氏)情報を流し、自らの対応を正当化して、有利な立場に立とうとしてきたからです。

 でも、中国が主導するブリックス(BRICS)や上海協力機構(SCO)は年々拡大しているのです。 台湾に侵攻する必要性などまるでないと言えると思います。わざわざ、台湾や周辺国を敵にまわすような侵攻などするわけはないということです。

 一方、世界中でアメリカ離れが進んでいることは、誰にも否定できない事実だと思います。だから、アメリカは中国の拡大を阻止するために、何としても、中国を「悪の枢軸」に加え、習近平を「極悪人」にしたいのだと思います。

 メディアの報道を鵜呑みにせず、情勢の変化を注視していると、”中国の軍事的台頭を背景に2010年の「防衛計画の大綱」で部隊配備が明記された 九州南端から台湾へと連なる南西諸島で、自衛隊の体制を強化する”という「自衛隊南西シフト」の政府の方針は、実は、中国を挑発するのが目的のアメリカの戦略なのだろうと思います。また、自衛隊の島嶼防衛( Defense of remote islands)策は、現実にはあり得ないことを想定している愚策だと思います。だからそれは、中国を挑発するアメリカの戦略に基づくものだと思うのです。 

 

 そして、日航123便墜落事故の対応にも、「アメリカ合衆国政府の黒く大きな影」が見えるのです。  

 だから、アメリカとの同盟を強化すれば、日本独自の外交が出来ず、日本の労働者が真面目に働いて得た富を吸い取られ、日本の国土がアメリカの覇権と利益のために利用されるのみならず、アメリカの戦争に協力させられることになると思います。政治家や大手企業の不正が横行するのも、そうした流れと無関係ではない、と私は思っています。

 

 下記は、「日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」青山透子(河出書房新社)から、政府関係機関の圧力隔壁破壊説を覆す、目撃証言の部分を抜萃しました。

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            第二章 新たに浮かび上がるあの日の証言

               3 目撃者たちの証言

 ファントム二機と赤い物体の目撃者

 20159月、「青山さんに聞いてもらいたい目撃証言がある」ということで突然出版社を訪ねてきてくれた女性がいる。その人は、1985812日に目の前を異常なほど低空で飛ぶ日本航空123便を見た、とのことだった。担当編集者がたまたま在籍していたが、次の予定があって私の代わりに少し話を聞いて職場の名刺と連絡先を受け取り、そのままになってしまっていた。今回の出版が決まって連絡をすると快く対応してくださり、改めて話を聞く機会を得た。

 現在は東京にて福祉関係の仕事をしていらっしゃる小林美保子さんは1985年当時22歳で、実家から静岡県藤枝市にある運輸関係の会社まで車で通勤していた。812日のあの日は、お盆前で仕事が忙しく、いつも17時半で終わる予定が1830分頃になってしまった。

 タイムカードに打刻して階段を下りて外に出た瞬間、「キャーン、キャーン」と二度、凄まじい女性の金切り声のような音を聞いた。絶叫マシーンに乗った人の悲鳴のような凄い高音で、驚いて頭上を見上げると目の前を低く右斜めに傾きながら飛行しているジャンボジェット機が見えた。

 ちょうど会社の敷地内で前方に東名高速道路が見える位置だった。自分の背中側から飛んできたジャンボ機は白い塗装に日航のシンボルカラーである赤と紺色の線が入っていた。駿河湾の方向から富士山のある北の方角に向かって、ゆっくりと右旋回しながら飛行しており、はっきりと窓も見えるほど高度が低い状態だった。飛行そのものは安定している感じだった。それにしても、いつもの航空路でないこの場所で低空飛行のジャンボ機を見るとは思ってもいなかった。

 そして、その時あることに気づいたのである。

「それはですね。機体の左下のお腹です。飛行機の後ろの少し上がり気味の部分、おしりの手前ぐらいでしょうか。貨物室のドアがあるような場所、そこが真っ赤に抜けたように見えたんです。一瞬火事かな、と思ったけど、煙が出ている様子もない。ちょうど垂直尾翼のあたりがグレー色でギザギザのしっぽみたいだったので、それが煙に見えたけど、煙ならたなびくけど、それは動かなかった。今思うと、千切れたしっぽのギザギザが煙のように見えたんですね」

 真っ赤というと火事かと思いきやそうではないという。

 そのお腹の部分、つまり飛行機の左側のお腹の部分、45mぐらいになるのかなあ。貨物室のドア二枚分ぐらいの長さでしょうか。円筒形で真っ赤。だ円っぽい形でした。濃いオレンジ色、赤という色です。夕陽を浴びて赤い、という感じでもない。夕日は機体の背を照らしていたので、逆にお腹は薄暗く見えました。円筒形のべったりとした赤色がお腹に貼り付いているイメージ。言葉で伝えるのは難しいけど、絵に描くとこんな感じかなあ」

 次頁に飛行機の模型を使って、絵に描いてもらったものを再現してみる。

 機体に穴が開いているのでもなく、腹部にべっとり貼りついているように見える。

 赤色とは何だろうか。ずっと気になって疑問に思っていたという。

 その機体を見た後、いつもどうりの道を車に乗って帰宅途中、今度は目の前を飛ぶ二機のファントム(F─4EJ)を見た。時間は先ほどのジャンボジェット機を見て5分ぐらい過ぎてからだという。田舎なので高い建物はなく、突然視界に入ってきた。浜松の方向、西の位置から飛んできたと思われるファントム二機はジャンボジェットが飛び去った方向に向かい、それを追うようにして、今では新東名(第二東名)高速道路の方向、山の稜線ギリギリの低空飛行で飛び去っていった。時間は1835分頃である。まだこの時点で日航機墜落していない。しかも公式発表で195分に出動となっているファントムが、すでに実際に飛んでいたことになる。

 小林さんは子どもの頃から近くにある航空自衛隊第十一飛行教育団静浜基地のこどもの日イベントや航空祭で、よくブルーインパルスなどを見ていたという。航空祭の前日にはいついろいろな飛行機が飛んできていたし、ファントムの展示もあったのですぐわかった。ファントム二機が少し斜めぎみに頭を上げた状態で飛んで行った。

「場所は大洲中学校あたりの道路を西に向かって走行中に見えてきました。ずいぶん低い高度で北の方向に稜線ギリギリで飛んでいった。日航機の飛び去った方向でした。その後、家に着いたのが1850分より前だったので35分ごろに見たのは間違いない。きっとニュースで放送されるから見なくちゃって思いながら帰りました。そして家に着いたら、まだ7時のNHKニュースが始まっていなかったので、時間はよく覚えています」

 それではNHKの臨時ニュースで「あ、この飛行機を見た」と思いびっくりしたでしょうと話すと「いいえ、違う飛行機のことだと思っていました」という。その理由について尋ねると、

「だって私が見たジャンボジェットのほうはすぐにファントム二機が追いかけていったから。大きなトラブルではなかったからニュースにならなかったんだと思っていました。それよりも今日はとても大きな事故があったんだと思った」そうである。

 なるほど、ファントム二機がすぐに後を追っていたので助かったと思い込んでいたということだった。つまり、さっき自分が見た飛行機はまだ明るいうちにファントムが追尾してくれたので、当然のことながら何が起きたかわかるし、着陸地点もわかるので、報道された行方不明機ではないと思い込んだそうである。その後、いろいろな本や報道で特集されたものをみているうちに、もしかして自分が見たものは日航123便ではないかと気付いたが、何か見てはいけないものを見たような気がして、恐怖心が出てきたこともあり、記憶を遠ざけていたということであった。

 その後、何年か経って東京で暮らすようになり、「青山さんの本を手に取ってみて、身近な同僚を亡くされたということに、読んでいて同じ気持ちになって……、これはぜひわたしが目撃したことを青山さんに聞いて頂きたいと思いました。それに女性だと話しやすいし、勇気を振り絞って、いつか話しに行かなきゃって、思い切って会社に行ったのです」ということだった。確かにご遺族以外の女性がこの事件を書いた本は他に見当たらず、先輩を亡くした当事者意識が共感を呼ぶと言っていただいたことはうれしい一言だった。

 それにしてもべっとりと貼り付いたように見えた真っ赤な火事のように見えるオレンジ色のものはなんだろうか…。

 だ円や円筒形のような形で、まるで絆創膏を貼っているように見えたそうだ。そうなると、5分後に追尾していたファントム機の乗務員も、その物体をしっかり見たであろう。そしてそれをどのように理解し、どのように報告し、どのような命令を受けたのだろうか。

 ファントム機が追尾したならば、それによって墜落地点が早急にわかり、すぐに生存者を救出することが可能となろうが、小林さんが子どものころから身近に感じて信頼してきた自衛隊のお手柄。という結果にはつながらなかった。

 目撃者にとっては救助してくれたと思って安堵した存在であったファントム機が、なぜ公式記録には出てこないのかもいまだに不思議な話である。

 小林さんにとって、何年経ってもあの時の飛行機が発した悲鳴にも近い高音が忘れられないという。「キャーン、キャーン」と女性の悲鳴に似た甲高い音は、おそらく機体の音ではなく、機内の人たちの悲鳴だったのではないだろうかという思いが胸に残る。その時、123便からの「助けてほしい」という心の声を聞いた気がする、と語っていた。

 

 心の悲鳴が聞こえた……。機内の人たちはこの声を誰かに聞いてほしかったのだ。

 

 1830分頃というと遺書を書いた人たちも多かった時刻である。

 まだあの時点では、飛行にも支障がないように安定して見えたとのことで、着陸を予定して徐々に高度を下げて低空飛行をしていたのだろう。

 その時、垂直尾翼の部分がギザギザに壊れた状態であったことが目視できたということだが、事故調査で発表された静岡県焼津付近の高度は24,900フィート(7470m)である。その高度では、お腹も垂直尾翼も地上からはあまりに遠すぎてクリアに見えない。しかし、現実には他にも東名高速道路や新幹線の駅でも超低空飛行するジャンボ機が目撃されている。1985815日付毎日新聞には、当日、新幹線広島発東京行きひかり252号に乗っていた埼玉県大宮市の主婦SIさん(37歳)の証言として『午後6時半ごろにジャンボ機が超低空で山側へ向けて飛んで行った。やや右下がりの飛行であんな場所でジャンボ機を見たのは初めて』という記事がある。

 目撃者たちの見た高度は、群馬の山々の稜線から見て1000mちょっとの低さであろう。

 小林さんにはっきりと見えた超低空飛行中のジャンボ機、その左腹部にあった赤色の正体は何か。彼女が抱えてきた長年の疑問として、とにかくこれを誰かに解明してほしいというのが切実な願いであった。

 それが「心の悲鳴」を聞いてしまった人としての役割だということで話に来られたのだろう。

 一体何がそこにあったのだろうか……。

 しかも破壊された垂直尾翼でなく、胴体部分に位置する赤色の物体である。例えば、貨物室のドアが開いて室内にあった何か赤色のものがはみ出したとも考えられない。それならばドアオープンのサインが出て、すぐコックピットで分かったはずである。そうなると機体外側に付着していた、またはそのように見えた、と考える方が自然と筋が通る。これについて考えられる仮説を第四章で提示したい。

  もうひとつの疑問。ファントム二機についてであるが、これも墜落前の時刻に自衛隊員によって明確に記述された目撃証言がある。

 群馬県警察本部発行の昭和6010月号『上毛警友』という冊子は日航機墜落事故特集号として、警察関係者のみならず、救助や捜索に関係した、医師、日赤、報道、地元消防団、ボランティアなどあらゆる部署、現場の人々の手記が掲載されている。表紙が生々しい煙が立つ上野村の墜落現場の写真である。それぞれが経験した「あの日」のことが書いてあり、仕事や役割といえ、これほどまでに大変な思いをして任務に当たったのかと本当に頭が下がる思いで読んだ。

 その122ページに『日航大惨事災害派遣に参加して』というタイトルで、自衛隊第十二偵察隊(相馬原)の一等陸曹、MK 氏手記がある。その出だしを読んだとき、これは確実な目撃情報だと確信した。

812日私は、実家に不幸があり吾妻郡東村に帰省していた。午後640分頃、突如として、実家の上空を自衛隊のファントム二機が低空飛行していた。その飛行が通常とは違う感じがした。『何か事故でもあったのだろうか』と兄と話をした。午後720分頃、臨時ニュースで日航機の行方不明を知った。これは出動になると直感し、私は部隊に電話をしたが回線がパンク状態で連絡がつかない」(原文ママ、以下略)

 この後タクシーで向かったが、所属部隊はすでに20時半に第一次偵察隊として先遣されていたという。

 自衛隊がファントム機を見た、ということで見間違いはあり得えない。警察の編集する冊子に、当日自分が経験したままを書いたのだろう。この記述によって、群馬県吾妻郡上空を1840分頃ファントム機二機が飛行したていたことが明らかになった。そうなるとやはり、小林さんが語ってくれた。静岡県藤枝市上空を1830分頃にファントム二機が通過したという目撃情報と一致する。したがって、明確にしておかなければいけないことは、まだ明るい墜落前に、航空自衛隊では日航機を追尾して飛行状況を確認した。さらに墜落するその時までしっかりと見ていた、という事実である。もはや墜落場所は一晩中特定できなかったという言い訳は当然のことながら通用しない。

 問題なのは、なぜ墜落前に飛んでいたファントム二機の存在を隠し続けているのか、ということである。どうしてもそうしなければいけない理由があったとしか考えられず、それがこの事故を事件ではないかと感じた理由である。

 さらに目撃者を続く。墜落現場となった上野村では多くの人たちがあの日の晩、いろいろなものを目撃している。特に注目すべきは子どもたちの目である。子どもたちはその目で真実を見たのである。

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