真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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河本大作 「私が張作霖を殺した」

2017年02月19日 | 国際・政治

 再び、日本の歴史修正主義の動きが国際的な問題に発展してしまいました。アパグループ元谷外志雄代表の著書「本当の日本の歴史『理論近現代史学II』」アパホテルの客室に置かれており、近隣国で問題視する声が急速に広がったようです。

 札幌冬季アジア大会で韓国選手団が泊まる公式宿泊所になっている関係もあり、大韓体育会は大会組織委員会と日本オリンピック委員会(JOC)に撤去を求める文書を送付したといいます。そして、大会組織委員会は大韓体育会に対して書籍を撤去する方針である旨の回答したとの報道がありました。
 同書は「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」の存在を否定するような内容の記述があるのみならず、「張作霖爆殺事件」は「ソ連の特務機関による謀略であった」などと書かれているといいます。
 2008年に自衛隊の航空幕僚長・田母神俊雄氏が解任されることにつながった政府見解に反するアパグループ懸賞論文受賞作と似通った内容のようです。
 見逃すことができないのは、客室に本を置く目的が、知られていない学説を取り上げ、紹介するというようなことではなく、「事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたものです」として、日本で一般的に共有されている歴史を、修正しようとしていることです。

 本の内容はもちろんですが、そういう主張が国際社会で通用しないことは、2015年3月、シカゴで開催されたアジア研究協会(AAS)定期年次大会における公開フォーラムがきっかけとなり、米国をはじめとする海外の歴史家や日本研究者ら187名が、連名で「日本の歴史家を支持する声明」を発表するに至ったことで明らかです。親日を代表するような関係者の名前がズラリとならんでいるのです。声明は、安倍首相が日本の総理として史上初となる米国議会の両議院総会での演説を行った一週間後に発表されました。
 その中には、
「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。
というような記述があります。
 安倍政権が、これまで日本軍の「従軍慰安婦」問題にきちんと向き合わず、逆にその史実を覆そうとする歴史修正主義的な動きを後押しする行動さえ見せていることに対する懸念が、深刻なものであることを物語っていると思います。 
 地道な調査や事実の検証、科学的分析などに基づいて築き上げられてきた史論を無視し、特定の団体や個人の考え方で、歴史を修正するような本をホテルの客室に置くことは、日本の信用失墜や近隣諸国との関係悪化につながることに思いを致してほしいと思います。
 
 『「文藝春秋」にみる昭和史』第一巻(文藝春秋)から一部省略して抜粋した下記の「私が張作霖を殺した」という河本大作の文章は、張作霖爆殺前に彼が周囲の人たちに語っていた内容と矛盾なく、また当時の満州の状況や関東軍の好戦的姿勢を正しく記述していると思います。当時を知る人たちの証言とも符合します。張作霖爆殺に関して言えば、ソ連の特務機関がわざわざ手の込んだ謀略など画策しなくても、関東軍は間違いなく戦いを仕掛ける状況にあったのです。それは当時の軍の文書や石原莞爾の文章などからも明らかだと思います。

 抗日勢力を潰し、日本の満州利権を拡大して、満州全体の土地・資源を事実上日本のものにすることは、特に将来の対ソ・対米戦を考える政治家や軍人にとって、謀略をもってしてもやらなければならない死活問題でした。それに、「満州を取れば苦しい生活が解消される」という、不況下で苦しむ国民の感情も重なって、大きなうねりとなっていったのだと思います。
 そして、現実に関東軍の謀略による柳溝湖事件をきっかけとして、傀儡国家・満州国を建国させるに至った事実をしっかり見る必要があると思います。
 多くの歴史家や近隣諸国が受け入れない歴史を「本当の歴史」として広めようとすることが、日本の信用失墜や近隣諸国との関係悪化をもたらす悲劇、またそのために発生する損害には計り知れないものがあるのではないかと思います。
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                     私が張作霖を殺した 
                                               河本大作
 大正十五年三月、私は小倉聯隊附中佐から、黒田高級参謀の代りに関東軍に転出させられた。当時の関東軍司令官は白川義則大将であったが、参謀長も河田明治少将から支那通の斎藤恒少将に代った。 そこで、久しぶりに満州に来てみると、いまさらのごとく一驚した。
 張作霖が威を張ると同時に、一方、日支二十一ヶ条問題をめぐって、排日は到る処に行われ、全満に蔓(ハビコ)っている。日本人の居住、商祖権などの既得権すら有名無実に等しい。在満邦人二十万の生命、財産は危殆に瀕している。満鉄に対しては、幾多の競争線を計画してこれを圧迫せんとする。日清、日露の役で将兵の血で購われた満州が、今や奉天軍閥の許に一切を蹂躙されんとしているのであった。

 しかるに、その張作霖の周囲に、軍事顧問の名で、取り巻いて恬然としている者に、松井七夫中将を始め、町野武馬中佐などがあって、在満同胞二十万が、日に日に蝕まれていくのを冷然と眺めているばかりか、「みんな、日本人が悪いのだ」とさえ放言して顧みない。そして唯、張作霖の意を迎えるのにもっぱらである。
 自分はまったく呆然とした。支那の各地を遍歴してかなり排日の空気の濃厚な地方も歩いたが、それにしても、満州ほどのことはない。満人は、日本人と見ると、見縊(ミクビ)り蔑んで、北支辺りの支那人の日本人に対する態度の方が遙かに厚い。まさに顚倒である。日露戦役直後の満人の態度とまるで変っている。
 そこで、自分は、旅順にジッとしていることも許されず、変装して全満各地に情況を偵察する必要を痛感し、遠くチチハル、満州里、東寧、ポクラニチア等、北満の南北にわたって辺境の地をつぶさに観察したが、東寧辺りでは、街路上で、邦人が、満人から鞭うたれるのを目撃し、チチハルでは、日本人の娘子群が、満人から極端に侮辱されているのを視るなど、まことに切歯扼腕せざるを得なかった。旅順に帰っていても、そうした情報が頻々として来る。奉天に近い新民府では、白昼日本人が強盗に襲われたが、しかもその強盗たるや、正規の軍人であった。邦人商戸は空屋同然となって、日夜怯々として暮らしているというのであった。
 自分自身、つぶさにその暴状を目撃して来たのである。日本人軍事顧問や、奉天にある外交官が、「日本人が悪い」と断言するに足るものが、どこに発見されたか。
 いずれも意識的、計画的に、奉天軍閥が邦人に対し明らかに圧迫せんとしている意図は瞭然たるものがあった。
 しかもその圧迫は、独りそういった暴虐に留らない、経済的にも、満鉄線に対する包囲態勢、関税問題、英米資本の導入など、ことごとくが日本の経済施設、大陸資源開発に対しての邪魔立てである。撫順で出炭する石炭にたいしては不買を強いている。これでは、日本の大陸経営はいっさい骨抜きとされている。
 郭松齢事件で、もしも日本からの、弾薬補給から、作戦的指導に到るまで、少なからぬ援助がなかったら、奉天軍の今日の武威はなかったのである。いわば大恩返しとして、商祖権のごときは、奉天軍が進んで提供した権益である。
 勢いに乗った張作霖は、ソロソロといつもの癖が出て、関外に出て、北京に入り、大元帥の称号を自ら宣して、多年の野望を遂げんとして得々としていた。その股肱、楊宇霆はまた、日本の恩を忘れて、米国に媚態を見せて大借款を起さんといている。
 その忘恩的行動は枚挙にいとまがない。
・・・
 かかる奉天軍の排日は、もっぱら張作霖の意図に出たところで、真に民衆が日本を敵とするという底のものではない。ただ、欧米に依存して日本の力を駆逐して、自己一個の軍閥的勢力の伸張を計り、私腹を肥やさんとするのみで、真に東洋永遠の平和を計るというふうな信念に基いていないことは明らかであった。一人の張作霖が倒れれば、あとの奉天派諸将といわれるものは、バラバラになる。今日までは、張作霖一個によって、満州に君臨させれば、治安が保たれると信じたのが間違いである。ひっきょう彼は一個の軍閥者流に過ぎず、眼中国家もなければ、民衆の福利もない。他の諸将に至っては、ただ親分乾分の関係に結ばれた私党の集合である。
 ことこうした集合の常として、その巨頭さえ斃れれば、彼らはただちに四散し、再び第二の張作霖たるまでは、手も足もでないような存在である。匪賊の巨頭と何ら変わることがない。
 巨頭を斃す。これ以外に満州問題解決の鍵はないと観じた。一個の張作霖を抹殺すれば足るのである。
 村岡将軍も、ついにここに到着した。張作霖を抹殺するには、何も在満の我が兵力をもってする必要はない。これを謀略によって行えば、さほど困難なことでもない。
 当の張作霖は、まだ北支でウロウロして、逃げ支度をしている。我が北支派遣軍の手で、これを簡単に抹殺せしむれば足る--と考えられた。
 竹下参謀が、その内命を受けて、密使として、北支へ赴くことになった。
 それを察したので、自分は竹下参謀に、
『つまらぬ事は止したが好い。万一仕損じた場合はどうする。北支方面に、こうした大胆な謀略を敢行出来得ると信ずべき人が、はたしてあるかどうか、はなはだ心もとない。万一の場合、軍、国家に対して責任を持たしめず、一個人だけの責任で済ませるようにしなければ、それこそ虎視眈々の列国が、得たりといかに突っ込んでくるかわからない。俺がやろう。それより外にない。君は北支へ行ったら、北京に直行して、張作霖の行動をつぶさに偵察し、何月何日、汽車に乗って関外へ逃れるか、それだけを的確に探知して、この俺に知らせてくれ』と言った。北京には建川義次少将が大使館付武官としておった。
 
 竹下参謀からやがて、暗号電報が達した。張作霖がいよいよ関外へ逃れて、奉天へ帰るというのであった。その乗車の予定を知らせて来たのである。そこで、さらに、山海関、錦州、新民府と、京奉線の要所に出した偵察者にも、その正確な通過地点を監視せしめて、的確に通過したか否かを速報せしめる手筈をとった。
 さて奉天では、どこの地点が好いか、種々研究した結果、巨流河にかかった鉄橋こそは絶好の地点であると決した。
 そこで、某工兵中隊長をして、詳細にその付近の状況を偵察せしめると、奉天軍の警備はすこぶる厳重である。少なくとも、一週間くらいはそこに待ち構えていなければならない。厳重なる奉天軍の警備の眼を逃れて、そんなことは到底不可能である。常に替え玉を使ったり、影武者を使うといわれている本尊を捉えるには、ただ一回だけのチャンスでは取り逃がす憂いがある。充分な手配が要る。
 それにはこちらの監視が、比較的自由に行える地点を選ばねばならない。それには、満鉄線と、京奉線とがクロスしている地点、媓古屯、ここなれば満鉄線が下を通り、京奉線はその上を通過しているから、日本人が少々ウロついても目立たない。ここに限ると結論を得た。
 では、今度は如何なる手段に出るかが、次の問題となる。
 一、列車を襲撃するか、
 二、爆薬を用いて列車を爆破するか、
 手段はこの二途しかない。第一の方法によれば、日本軍が襲撃したという証拠が歴然と残る。
 第二の方法によれば痕跡を残さずに敢行することが出来ないでもない。
 そこで第二の方法を選ぶことにした。そして、万一この爆破計画が、失敗に終わた場合は、ただちに第二段の手筈として、列車を脱線転覆せしめるという計画をめぐらせた。そして時を移さずその混乱に乗じて、抜刀隊を踏み込ませて、斬り込む。
 万端周到な用意はできた。
 第一報によれば、六月一日に来る予定が来ない。二日も来ぬ。三日も来ぬ。ようやく四日目になって、確かに張作霖が乗ったとの情報が入った。

 クロス地点を通過するのは、午前六時頃である。かねて用意の爆破装置を取り付け、予備の装置も施した。第一が仕損じた場合、ただちに第二の爆破が続けられることにした。しかし完全にその場で、本尊を抹殺するには、相当の爆薬量が要る。量を少なくすれば、仕損じる懼れがある。分量が多ければ効果は大きいが、騒ぎが大きくなる。これには大分頭を悩ました。
 それから一方、満鉄線の方である。万一この時間に、列車が来ては事だ。そこであらかじめ満鉄に知らせておけば好いが、絶対に最小限の当事者のみが当たっていて秘密裏に敢行するのだから、それは出来ない。万一の場合のために、発電信号を装置して、満鉄線の危害は防止する用意をした。
 来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車はクロス地点にさしかかった。
 轟然たる爆音とともに、黒煙は二百米も空へ舞い上がった。張作霖の骨も、この空に舞い上がったかと思えたが、この凄まじい爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。薬が利きすぎるとはまったくこのことだ。
 第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも今は不必要となった。・・・
 ・・・
 張作霖爆死の翌年四月、学良は、奉天督軍公署に楊宇霆霆を招いた。そしてかねて謀っておき、衛兵長の某をして、その場に楊をピストルで射殺させてしまった。
 これを知って、かねて学良擁立を考えていた秦少将、奉天軍に入っていた黄慕(荒木五郎)等は、すかさずこの機会を捉えて、張学良を主権者に推し、学良を親日に導かんと画策した。しかし当時すでに学良周囲の若い要人達は、欧米に心酔して、自由主義的立場にあって、学良もまたこれらの者をブレインとして重く用いたので、学良の恐日は、漸々排日に変移し、ついには侮日とまで進んでいった。

 その現れは、満鉄線の包囲路線となり、万宝山となり、あるいは憑庸大学の排日教育となり、排日、抗日
はむしろ張作霖時代よりもいっそう濃厚となり、日に日にその気勢を高めるに至り、秦少将らの企図した学良懐柔策はまったく画餅に帰したのであった
 こんな次第で、梟雄(キョウユウ)張作霖が亡んで学良と変わっても、何ら満州の対日関係は好転せず、かえって反対の傾向をたどり、学良政権を再び武力によって倒壊しなければ、ついに満州問題を永遠に解決する道のないことが瞭然となった。
 他方、日本の政界では満蒙問題解決に邁進する誠意を欠き、張作霖爆死事件をめぐって、これを善処するどころか、かえってこれを倒閣の具に供さんとさえする一派が出て、中野正剛、伊沢多喜男らはそれに狂奔するありさまであった。
 時の陸相白川義則大将は、いたずらに愚直で、事件に対する答弁は拙劣を極め、ますます中野、伊沢らに乗ずる隙を与え、ついに田中義一内閣はこのため倒壊するに至った。
 さらに、この事件に参画した私は停職処分を受け、村岡軍司令官、斎藤参謀長、永町袈裟六独立守備隊司令官らも相次いで、それぞれ行政処分を受けるに至った。
 政争は国策を誤って憚らない。政党政治の弊はここに極まり、もっとも顕著な悪例を我が憲政史上に残したのはこの時であった。
 かくて私は、昭和四年七月、いったん第九師団司令部附となり金沢に謫(タク)せられ、同年八月停職処分を受けて軍職を退くことになった。そこで旧伏見聯隊時代の縁故をたどって、京都伏見深草願成に仮りの寓居を定め、もっぱら謹慎の意を表した。
 ・・・
 この謹慎生活の裏にあって、私は、つらつらと沈思するの時を掴んだ。世は滔々として自由主義に傾き、彼らは、満蒙問題の武力的解決に対しては、非難攻撃を集中し、甚だしい論者中には、満蒙放棄論をさえ唱えだす外交官を見るのであった。
 ・・・
 その結果は、日本の将来に直面しているものは、満蒙問題可解決に外ならないことは、不動の事実であることに間違いのないことを確かめた。新しい構想の下に、あくまでも満州問題を解決すべきであるという強固な決意を深めるばかりであった。
 ・・・ 

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