田中隆吉という人物は、関東軍参謀や陸軍省兵務課長・同局長など、長く軍の要職にあり、自身様々な謀略工作に直接関わった軍人である。そのため、極秘情報も含めて、重要な日本軍の情報の多くをつかんでいた。その田中隆吉が、東京裁判の法廷では、検察側証人として、大勢の戦争責任者を告発し、検察活動に協力したのである。「日本のユダ」といわれる所以である。
しかしながら、彼の陳述は、戦争の事実を解明するためにきわめて貴重であり、歴史的資料として価値あるものであると思う。
彼は自身の著書「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)の中で、「元来機密費なるものは、その使途には、何らの制限がないのみならず、会計検査の適用も受けない。従ってもし責任者がその用途を誤るときはいかなる罪悪をも犯し得るのである。満州事変以来陸軍の機密費が、軍閥政治を謳歌しこれに迎合する政治家、思想団体などにバラ撒かれたのは、私の知れる範囲だけでも相当の額に上る。近衛、平沼、阿部内閣等でも、内閣機密費の相当額を陸軍が負担していたことも事実である。これらの内閣が陸軍の横車に対し、敢然と戦い得なかったのは私は全くこの機密費に原因していると信じている。これらの内閣は陸軍の支持を失えば直ちに倒壊した。また陸軍の支持を受くる間は陸軍と一体であったから、この機密費の力は間接的に陸軍を支持する結果を生んでいた。軍閥政治が実現した素因の一として、私はこの機密費の撒布が極めて大なる効果を挙げたことを拒み得ない。東条内閣に至っては半ば公然とこの機密費をバラ撒いた。東条氏が総理大臣と陸軍大臣と内務大臣を兼ねたとき、土産として内務省に持参した機密費は百万円であった。…」などと、軍の機密費が日本の針路を左右した事実を明らかにしている。そして、その多額の機密費が阿片・麻薬売買から生み出されたことを、下記の陳述は物語っているのである。「東京裁判資料 田中隆吉尋問調書」粟屋憲太郎・安達宏昭・小林元裕編 岡田良之助訳(大月書店)の阿片・麻薬問題にかかわる尋問部分の一部抜粋である。
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田中隆吉に対する尋問(第3回)
日 時 1946年2月25日10時30分~12時 13時45分~17時20分
場 所 日本 東京 明治ビル
出席者 田中隆吉
ウイリアム・T・ホーナディ中佐 尋問官 J・K・サノ 通訳 インジバー
グ・ナイデン 速記者
・・・
問 戦闘が終わったのちに、占領地域で麻薬の使用を拡大しようとしたのは、どのような目的からでしょうか。私の質問の意味は、それが、攻撃前に進出のための武器として使用されたということではなく、中国側代表が国際聯盟に告発したこと、つまり、日本軍が占領地域において中国人民の心身を弱らせ、彼らをより柔順にし、抵抗をやめさせたうえで、占領地域の人民を撲滅するために麻薬の使用を奨励していたという意味です。そのことをどう思いますか。
答 支那側によるその見解は、正しいものであります。と言うのは、日本軍がそのような結果を得ることを意図したかどうかはともかく、彼らは、占領地域ではかなり自由に麻薬売買にかかわってきたのであり、その結果だったからです。われわれは、占領地域における日本人の麻薬売買の結果から判断して、支那側がそういう見方をするのを非難するわけにはいきません。あなたが言及された支那人の撲滅は、人びとがその売買に携わるかぎりでは、実際のところ、二次的に考えられたことでした。彼らが真っ先に考えたことは、金を儲けることでした。それだけのことであります。大東亜戦争の終結近くになって、日本政府は麻薬売買による収益のありがたさを評価しだしたように思われます。そのようなことは、私が兵務局の職を退いたのちに起こったのであり、私は、それについて、それこそ徹底的に調査すべきであると真剣に主張します。
問 それでは、1942年以後、中国における阿片売買ならびに、それによる収益については、東京の政府から以前にもまして直接の指揮監督があったという意味でしょうか。
答 そうであります。私が職を辞したあと、東条内閣は、南京政府に対して3億円の借款、つまり、汪精衛政府に対して借款を与えましたが、その金は実際には、彼らのもとには届けられませんでした。その代わりに、私の推察によれば、里見体制の時期に麻薬売買によってその組織の手中に蓄積された利益が、前述の借款を与えるために使用されたのであります。児玉誉士夫は、まだ権力を握っていなかったと思います。借款に充当されたといわれる3億円は、確か、いずれも戦犯容疑者である青木一男と阿部信行との間で分配されました。たぶん、阿部は、病気のため、巣鴨プリズンに入っていません。(ホーナディ大佐のメモーこれら両人はプリズンに収監されている。)それから、石渡荘太郎。これらが、前述の金を分け合った人物として私のもとに報告された名前であります。実を言えば、青木は、われわれが無条件降伏した当時、横浜正金銀行から多額の預金を引き出しました。そのような次第で、今次戦争の終結間近に、阿片がらみの金がどのような役割を果たしたかがご想像いただけます。
問 その3億円は中国における阿片売買によるものであったという意味ですか。
答 それが結論です。
問 将軍、その情報源はどこか、教えていただけますか。
答 私個人の情報提供者から聞きました。そのうちいつかまた私が来たとき、その人物をあたなに紹介しましょう。彼は、その話をしてくれるでしょう。
問 それはありがたい。将軍、中国における阿片・麻薬売買による利益が、定期的に横浜正金銀行に預け入れられていたかどうか知っていますか。
答 そのような資金は、いくつかの銀行、例えば台湾銀行や横浜正金銀行に分散されたものと思いますが、しかし、それは、私の憶測であります。かつて東条が陸軍大臣であった当時、天皇裕仁は、多数の日本軍人がなぜ上海の銀行にこれほど預金をもっているのか、という質問をされました。東条は、事情調査のため、直接に日本から憲兵を派遣しました。調査の結果、それらは、個々の官吏がもっている預金ではなく、支那政府に引き渡されたと推測される資金ではあるが、特務機関の名義で保有されていることが判明しました。そのようなわけで、それらの資金も、麻薬売買の結果として蓄えられた金であるというのが、私の推論です。東条はこれについてすべてのことを知っているはずです。この事件は、私が兵務局を退職する直前に起こりました。
問 あなたが兵務局の職から退かれたのは、昭和何年でしたか。
答 昭和15年、つまり、1940年の終わりに近いころ〔1942年9月〕でした。私は、この問題を追及しませんでした。前述の行為は、官吏個人の利己的動機のために行なわれたものではなかったからであります。
問 それは、特務機関の機密費を得るためだったのですか。
答 私は、必要に応じて彼らが支那政府に金を引き渡すことができるようにするため、前述の方法で金が蓄えられたのだと、むしろそう考えています。
問 先日、あなたは、里見の名は甫(ハジメ)であると言いました。それで間違いありませんか。
答 はい。
問 ところで、私は、ウールワース大佐が、彼の名前に関連して京都のほか、内務省についてもメモを作成したことを知っています。それが何についてであったか、覚えていますか。
答 彼は軍人ではないので、〔彼のことを〕知るのに最も手っ取り早い方法は、内務省を利用することだ、とたぶん申したのであります。
問 そこに行けば、彼の所在と、彼の活動がどのようなものであったかを突き止めれらるということですか。
答 住所に関するかぎりは、内務省で教えてもらえます。
問 さらにまた、阿片売買に関連して、あなたは、北京に駐在した塩沢〔清宣〕将軍に言及しました。先日、あなたが供述したその所見は、どのようなものだったのですか。
答 北支での麻薬売買に関する政策は大東亜省連絡事務所〔大使館事務所〕の前身である北京の興亜院〔華北〕連絡部によって統制されていました。その部局の長官〔心得〕が、この塩沢でした。彼は、東条大将の一番のお気に入りの子分でした。彼は里見の大の親友でもありました。塩沢は、北京から東条へしばしば資金を送っていました。戦争中であったため、上海地域で使用された阿片は、その量のすべてが北支から供給され、そのようにして、当然、多額の金が塩沢の手元に蓄えられました。塩沢のもとで、専田盛寿少将という私の友人が働いていました。彼は私に、塩沢は、しばしば飛行機を使って東条のもとに金を送った、と語り、そのことでひどく腹を立てていました。それが原因で専田は、興亜院の職を辞することを余儀なくされました。昨年9月に大阪で私が専田に会ったとき、彼は私に再び同じ話をして不満を表明しました。そのようなわけで、私は、里見と塩沢は、阿片売買において互いに協力していたとの結論に達したのであります。東条内閣が倒壊したさいに塩沢もまた、興亜院から追い出され、どこかの師団長〔第119師団長〕に任ぜられました。復員省を通じて探せば、彼の現在の所在を突き止めることができるはずであります。
問 それから、専田の所在もですか。
答 専田盛寿も、復員省を通じて追跡できるでしょう。
問 それで、彼の陸軍での階級は少将でしたか。
答 現在は少将で、当時は大佐でした。
問 塩沢の名のほうは何といいましたか。
答 塩沢清宣、現在は中将です。当時は少将でした。大東亜戦争が勃発すると、ペルシャおよびトルコからの阿片の海上輸送が止まってしまったため、北支からの阿片がきわめて重要な要因となり、その結果、北支からの阿片の価格が上昇しました。トルコ産およびペルシャ産の阿片が入って来なくなると、上海地域への阿片供給のほとんどすべてが、北支からのものになりました。終戦に近いころは、里見が売買〔部門〕の最高の地位にあったのではなく、児玉誉士夫という人物が担当していました。したがって、里見と並行してこの児玉誉士夫を調べなければ、阿片売買の全容を明らかにすることはできません。私は、私が聞いたことをあなたにお話しているにすぎません。
問 どのような情報筋からですか。
答 その情報は、どちらかと言えば風聞として私の耳に入ったものであります。児玉の数百万円は、そのような筋からのものです。
問 さてそれでは、退出する前に、時刻が遅くなりましたが、今夜お尋ねしておくべき質問が一つあります。先日、あなたは、興亜院が阿片組織についての情報をたくさんもっているであろう、と供述されました。ここに楠本〔実隆〕少将に関するカードがありますが、それには、アメリカ総領事バトリックからの1940年の報告に基づき、興亜院の楠本と津田〔静枝〕提督が、実際に宏済善堂ならびに上海の専売組織全体を指揮監督していたと書かれています。それは長い話になりますか。そうであれば、後日、それを取り上げることにしましょう。
答 わたしはその事情を詳しく知っております。
答 話が長くなりますか。そうであれば、後日に回しましょう。
答 それに関しては、すでに退役(ママ)していた楠本中将と津田提督が麻薬売買について、里見に全面的な援助を与えたということ以外は、あまりお話しすることはありません。そのお陰で彼は大成功したのです。彼らがどのような方法で彼を援助したかは知りません。津田提督の所在については、海軍復員省〔第2復員省〕をつうじて知ることができます。楠本の所在は、陸軍復員省〔第1復員省〕をつうじて知ることができるでしょう。楠本は、おそらく、今も外地にいるでしょう。津田静枝提督は、東京にいると思います。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。
しかしながら、彼の陳述は、戦争の事実を解明するためにきわめて貴重であり、歴史的資料として価値あるものであると思う。
彼は自身の著書「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)の中で、「元来機密費なるものは、その使途には、何らの制限がないのみならず、会計検査の適用も受けない。従ってもし責任者がその用途を誤るときはいかなる罪悪をも犯し得るのである。満州事変以来陸軍の機密費が、軍閥政治を謳歌しこれに迎合する政治家、思想団体などにバラ撒かれたのは、私の知れる範囲だけでも相当の額に上る。近衛、平沼、阿部内閣等でも、内閣機密費の相当額を陸軍が負担していたことも事実である。これらの内閣が陸軍の横車に対し、敢然と戦い得なかったのは私は全くこの機密費に原因していると信じている。これらの内閣は陸軍の支持を失えば直ちに倒壊した。また陸軍の支持を受くる間は陸軍と一体であったから、この機密費の力は間接的に陸軍を支持する結果を生んでいた。軍閥政治が実現した素因の一として、私はこの機密費の撒布が極めて大なる効果を挙げたことを拒み得ない。東条内閣に至っては半ば公然とこの機密費をバラ撒いた。東条氏が総理大臣と陸軍大臣と内務大臣を兼ねたとき、土産として内務省に持参した機密費は百万円であった。…」などと、軍の機密費が日本の針路を左右した事実を明らかにしている。そして、その多額の機密費が阿片・麻薬売買から生み出されたことを、下記の陳述は物語っているのである。「東京裁判資料 田中隆吉尋問調書」粟屋憲太郎・安達宏昭・小林元裕編 岡田良之助訳(大月書店)の阿片・麻薬問題にかかわる尋問部分の一部抜粋である。
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田中隆吉に対する尋問(第3回)
日 時 1946年2月25日10時30分~12時 13時45分~17時20分
場 所 日本 東京 明治ビル
出席者 田中隆吉
ウイリアム・T・ホーナディ中佐 尋問官 J・K・サノ 通訳 インジバー
グ・ナイデン 速記者
・・・
問 戦闘が終わったのちに、占領地域で麻薬の使用を拡大しようとしたのは、どのような目的からでしょうか。私の質問の意味は、それが、攻撃前に進出のための武器として使用されたということではなく、中国側代表が国際聯盟に告発したこと、つまり、日本軍が占領地域において中国人民の心身を弱らせ、彼らをより柔順にし、抵抗をやめさせたうえで、占領地域の人民を撲滅するために麻薬の使用を奨励していたという意味です。そのことをどう思いますか。
答 支那側によるその見解は、正しいものであります。と言うのは、日本軍がそのような結果を得ることを意図したかどうかはともかく、彼らは、占領地域ではかなり自由に麻薬売買にかかわってきたのであり、その結果だったからです。われわれは、占領地域における日本人の麻薬売買の結果から判断して、支那側がそういう見方をするのを非難するわけにはいきません。あなたが言及された支那人の撲滅は、人びとがその売買に携わるかぎりでは、実際のところ、二次的に考えられたことでした。彼らが真っ先に考えたことは、金を儲けることでした。それだけのことであります。大東亜戦争の終結近くになって、日本政府は麻薬売買による収益のありがたさを評価しだしたように思われます。そのようなことは、私が兵務局の職を退いたのちに起こったのであり、私は、それについて、それこそ徹底的に調査すべきであると真剣に主張します。
問 それでは、1942年以後、中国における阿片売買ならびに、それによる収益については、東京の政府から以前にもまして直接の指揮監督があったという意味でしょうか。
答 そうであります。私が職を辞したあと、東条内閣は、南京政府に対して3億円の借款、つまり、汪精衛政府に対して借款を与えましたが、その金は実際には、彼らのもとには届けられませんでした。その代わりに、私の推察によれば、里見体制の時期に麻薬売買によってその組織の手中に蓄積された利益が、前述の借款を与えるために使用されたのであります。児玉誉士夫は、まだ権力を握っていなかったと思います。借款に充当されたといわれる3億円は、確か、いずれも戦犯容疑者である青木一男と阿部信行との間で分配されました。たぶん、阿部は、病気のため、巣鴨プリズンに入っていません。(ホーナディ大佐のメモーこれら両人はプリズンに収監されている。)それから、石渡荘太郎。これらが、前述の金を分け合った人物として私のもとに報告された名前であります。実を言えば、青木は、われわれが無条件降伏した当時、横浜正金銀行から多額の預金を引き出しました。そのような次第で、今次戦争の終結間近に、阿片がらみの金がどのような役割を果たしたかがご想像いただけます。
問 その3億円は中国における阿片売買によるものであったという意味ですか。
答 それが結論です。
問 将軍、その情報源はどこか、教えていただけますか。
答 私個人の情報提供者から聞きました。そのうちいつかまた私が来たとき、その人物をあたなに紹介しましょう。彼は、その話をしてくれるでしょう。
問 それはありがたい。将軍、中国における阿片・麻薬売買による利益が、定期的に横浜正金銀行に預け入れられていたかどうか知っていますか。
答 そのような資金は、いくつかの銀行、例えば台湾銀行や横浜正金銀行に分散されたものと思いますが、しかし、それは、私の憶測であります。かつて東条が陸軍大臣であった当時、天皇裕仁は、多数の日本軍人がなぜ上海の銀行にこれほど預金をもっているのか、という質問をされました。東条は、事情調査のため、直接に日本から憲兵を派遣しました。調査の結果、それらは、個々の官吏がもっている預金ではなく、支那政府に引き渡されたと推測される資金ではあるが、特務機関の名義で保有されていることが判明しました。そのようなわけで、それらの資金も、麻薬売買の結果として蓄えられた金であるというのが、私の推論です。東条はこれについてすべてのことを知っているはずです。この事件は、私が兵務局を退職する直前に起こりました。
問 あなたが兵務局の職から退かれたのは、昭和何年でしたか。
答 昭和15年、つまり、1940年の終わりに近いころ〔1942年9月〕でした。私は、この問題を追及しませんでした。前述の行為は、官吏個人の利己的動機のために行なわれたものではなかったからであります。
問 それは、特務機関の機密費を得るためだったのですか。
答 私は、必要に応じて彼らが支那政府に金を引き渡すことができるようにするため、前述の方法で金が蓄えられたのだと、むしろそう考えています。
問 先日、あなたは、里見の名は甫(ハジメ)であると言いました。それで間違いありませんか。
答 はい。
問 ところで、私は、ウールワース大佐が、彼の名前に関連して京都のほか、内務省についてもメモを作成したことを知っています。それが何についてであったか、覚えていますか。
答 彼は軍人ではないので、〔彼のことを〕知るのに最も手っ取り早い方法は、内務省を利用することだ、とたぶん申したのであります。
問 そこに行けば、彼の所在と、彼の活動がどのようなものであったかを突き止めれらるということですか。
答 住所に関するかぎりは、内務省で教えてもらえます。
問 さらにまた、阿片売買に関連して、あなたは、北京に駐在した塩沢〔清宣〕将軍に言及しました。先日、あなたが供述したその所見は、どのようなものだったのですか。
答 北支での麻薬売買に関する政策は大東亜省連絡事務所〔大使館事務所〕の前身である北京の興亜院〔華北〕連絡部によって統制されていました。その部局の長官〔心得〕が、この塩沢でした。彼は、東条大将の一番のお気に入りの子分でした。彼は里見の大の親友でもありました。塩沢は、北京から東条へしばしば資金を送っていました。戦争中であったため、上海地域で使用された阿片は、その量のすべてが北支から供給され、そのようにして、当然、多額の金が塩沢の手元に蓄えられました。塩沢のもとで、専田盛寿少将という私の友人が働いていました。彼は私に、塩沢は、しばしば飛行機を使って東条のもとに金を送った、と語り、そのことでひどく腹を立てていました。それが原因で専田は、興亜院の職を辞することを余儀なくされました。昨年9月に大阪で私が専田に会ったとき、彼は私に再び同じ話をして不満を表明しました。そのようなわけで、私は、里見と塩沢は、阿片売買において互いに協力していたとの結論に達したのであります。東条内閣が倒壊したさいに塩沢もまた、興亜院から追い出され、どこかの師団長〔第119師団長〕に任ぜられました。復員省を通じて探せば、彼の現在の所在を突き止めることができるはずであります。
問 それから、専田の所在もですか。
答 専田盛寿も、復員省を通じて追跡できるでしょう。
問 それで、彼の陸軍での階級は少将でしたか。
答 現在は少将で、当時は大佐でした。
問 塩沢の名のほうは何といいましたか。
答 塩沢清宣、現在は中将です。当時は少将でした。大東亜戦争が勃発すると、ペルシャおよびトルコからの阿片の海上輸送が止まってしまったため、北支からの阿片がきわめて重要な要因となり、その結果、北支からの阿片の価格が上昇しました。トルコ産およびペルシャ産の阿片が入って来なくなると、上海地域への阿片供給のほとんどすべてが、北支からのものになりました。終戦に近いころは、里見が売買〔部門〕の最高の地位にあったのではなく、児玉誉士夫という人物が担当していました。したがって、里見と並行してこの児玉誉士夫を調べなければ、阿片売買の全容を明らかにすることはできません。私は、私が聞いたことをあなたにお話しているにすぎません。
問 どのような情報筋からですか。
答 その情報は、どちらかと言えば風聞として私の耳に入ったものであります。児玉の数百万円は、そのような筋からのものです。
問 さてそれでは、退出する前に、時刻が遅くなりましたが、今夜お尋ねしておくべき質問が一つあります。先日、あなたは、興亜院が阿片組織についての情報をたくさんもっているであろう、と供述されました。ここに楠本〔実隆〕少将に関するカードがありますが、それには、アメリカ総領事バトリックからの1940年の報告に基づき、興亜院の楠本と津田〔静枝〕提督が、実際に宏済善堂ならびに上海の専売組織全体を指揮監督していたと書かれています。それは長い話になりますか。そうであれば、後日、それを取り上げることにしましょう。
答 わたしはその事情を詳しく知っております。
答 話が長くなりますか。そうであれば、後日に回しましょう。
答 それに関しては、すでに退役(ママ)していた楠本中将と津田提督が麻薬売買について、里見に全面的な援助を与えたということ以外は、あまりお話しすることはありません。そのお陰で彼は大成功したのです。彼らがどのような方法で彼を援助したかは知りません。津田提督の所在については、海軍復員省〔第2復員省〕をつうじて知ることができます。楠本の所在は、陸軍復員省〔第1復員省〕をつうじて知ることができるでしょう。楠本は、おそらく、今も外地にいるでしょう。津田静枝提督は、東京にいると思います。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。