真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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田中隆吉尋問調書と阿片・麻薬問題 NO2

2011年06月17日 | 国際・政治
 阿片・麻薬問題に関する田中隆吉の陳述は、第3回の尋問で集中的になされている。田中隆吉は、ホーナディ尋問官を驚かせるほど、阿片・麻薬問題に関する知識を有していた。それは、彼が関東軍参謀という立場にあったことや、内蒙工作の推進者であり、「綏遠省のアヘン収入を押さえること」を主たる目的とした綏遠事件の主謀者だったことなどによる。しかしながら、彼は自分自身の阿片・麻薬問題とのかかわりについてはまったく語っていない。事前にアメリカ側関係者と取り引きがあったのか、自分自身の阿片・麻薬問題との関わりについてはまったく触れることなく、他人のそれとの関わりについては、知り得た事実をすべて語ろうとするかのごとき姿勢で、問われていないことまで、いろいろな局面で進んで語っている。その一部を「東京裁判資料 田中隆吉尋問調書」粟屋憲太郎・安達宏昭・小林元裕編 岡田良之助訳(大月書店)から抜粋する。
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第1回尋問 1946年2月19日 
        尋問官 ウィリアム・T・ホーナディ中佐
 (p16~p17)

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  問 満州事変のことで土肥原将軍は、満州事変直前の2年間、自分は日本で歩兵〔第30〕連隊を指揮していて、中国にはいなかった、と私に言っていますが。

  答 そうです。と言うのは。土肥原将軍は宇垣大将の側近にいて、宇垣は彼を国内から出さなかったからです。宇垣大将は、常備軍兵力の削減による軍備制限を唱えましたが、土肥原将軍は、宇垣との結びつきゆえに、当時の現役軍人からは快く思われていませんでした。土肥原将軍が陸軍部内で信望を得ることができなかった別の理由は、彼が、いささか利己的かつ自己中心的だと思われ、その結果、大目に見てもらえなかったことにあります。さらに別の理由は、たぶん、彼が長年にわたり支那で暮らし、同地で豪奢な生活を送っていたということ、さらにまた特務機関には常に多額の資金があったので、当然ながら、ある程度の妬みを招いたということもあります。

  問 それは機密費だったのですね。

  答 そうです。

  問 それで、特務機関は、この資金の使途を、通常の経路、つまり大蔵省をつうじて明らかにしなくてもよかったのですね。

  答 彼は彼が適当と考えればどのような方法であろうと、その資金からどれほどの額でも使用することができました。彼に求められていたのは、明細の記載されていない簡単な領収書をもらっておくことだけで、しかも、そのような領収書も、しばしば偽造することが可能でした。過去にそのような事実があったゆえに、特務機関のほとんどすべての指導者は、厳しい批判を免れませんでした。


  問 特務機関がもっていたそのような機密費の主たる出所の一つは、阿片や麻薬の販売だったのですね。

  答 満州事変以前は、機密費は、主として政府から供給されていました。満州事変以後、とりわけ支那事変以後は、そして、それにもましてとくに大東亜戦争以後は、たった今あなたが言及されたような活動が実際に行われました。私は、兵務局長を務めていたころ、彼らのなかの何人かを、そのような活動をしたがゆえに処罰しなければなりませんでした。調書に書かれているいることは事実であると確信しております。私は、主として、あなたのお考えを裏付けるために以上の供述を行っていることになります。


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第7回尋問  1946年3月16日  
         尋問官 ジョン・F・ハメル少佐 
 (p85~p86)

  ・・・

  問 東条は、関東軍憲兵隊司令官在任中に、麻薬取引にかかわりましたか。

  答 彼は、何らのかかわりももっていませんでした。

  問 彼は、取引にかかわった人たちに保護を与えましたか。

  答 与えました。

  問 どのようにしてですか。

  答 最近、満州で自殺した甘粕正彦を支援することによってです。

  問 東条は、どのように彼を支援したのですか。


  答 甘粕は、苦力(クーリ)を満州に送り込む組織を動かしていました。また同時に、甘粕は、阿片を扱う満州専売局に密接な関係をもっていました。この満州専売局は、甘粕の団体ともきわめて密接でした。そのような理由で、甘粕は、終戦時まで東条の政治参謀長の役を務めました。また、彼〔東条〕を支援するために多額の金を提供することもしました。

  問 東条は、甘粕がこれらの活動にかかわっていることを、知っていたのですか。

  答 彼がそれを知るのを妨げるような事実は何も思いつきません。直接にであれ間接にであれ、彼が阿片売買にかかわるようになったのは、東条が陸軍大臣になったあとであります。東条夫人は、もって生まれた資質によりまるで政治家みたいでした。東条夫人は、甘粕に対して非常に好意的でした。甘粕が彼にどのような援助を与えているかについては、おそらく、東条夫人のほうがよく知っていました。


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第15回尋問  1946年3月23日  
          尋問官 ジョン・F・ハメル少佐
  (p165~p166)

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  問 彼(畑俊六)は、1938年2月に松井に代わって中支那派遣軍司令官になりましたか。

  答 はい、なりました。彼は、上海に行きました。

  問 彼は、その時以後、翌年〔1938年12月〕後任者に交代してもらうまで支那事変と戦争を続けてきたのですか。

  答 そうです。彼は、上海駐在中、原田熊吉中将の進言により上海で阿片専売制度を発足させました。

  問 どのような経緯でそれを発足させたのですか。

  答 当時、原田将軍は、畑大将の指揮下にあった特務部の政務〔特務〕部長でした。この阿片専売計画は、もともと里見甫によって発案されたものであります。


  問 里見は、その計画を実行したのですか。それとも、その発案者だったのですか。

  答 里見こそが原田に勧告を提示した人物であり、原田がこれに修正を加えたのち畑大将に提示し、次に畑大将を介して日本の内閣にそれを承認してもらい、最終的に内閣に計画を採択してもらったのであります。里見は、その専売計画を実行するよう、畑大将によって任命されたのです。


  問 阿片専売による収益はだれが受け取ったのですか。

  答 阿片専売の利益は、傀儡南京政府、日本陸軍および里見の間で三等分されました。

  問 日本陸軍とは、それは、畑の指揮下にある軍隊のことですか。それとも、日本陸軍全体のことですか。

  答 その金は、特務部が受け取ったのですから、畑の指揮下にある軍隊がそれを使ったものと考えるのが妥当であります。

  問 その金の一部は、東京の軍部に渡ったのですか。

  答 そうです。

  問 それは、日本政府が関東軍に対する資金調達のためにつかったのですか。

  答 事実として、阿片売買による利益は、満州国政府の国庫に入り、そのうえで今度は関東軍のために使われました。

  問 それは、満州での阿片取引のことですか。

  答 私としては、その点についてのはっきりした情報はもっていません。と言うのも、阿片取引に関する指揮監督はすべて、上海から行われていたからです。したがって、里見と難波を調べれば、必要な情報を得ることができます。


  ・・・

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第16回尋問  1946年3月25日  
          尋問官 ジョン・F・ハメル少佐 
 (p174~p175)

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  問 彼(有末精三)は、中国駐在中に阿片取引に従事しましたか。

  答 従事したと思います。

  問 彼は、それとどのような関係があったか知っていますか。

  答 彼は、北京で浪人たちを指揮監督しました。

  問 彼は、華北政府の日本人顧問だったのですか。

  答 彼は、あるいは日本政府代表であったかもしれません。しかし、彼は、北京地域を管理し、間違いなく、阿片の売人と多分関係がありました。

  問 彼について、ほかに何か知っていますか。


  答 東京に戻って来たあと、彼は、特別なことは何もしませんでした。彼は、ドイツが勝つものと、停戦の日までずっとそう信じていたと思います。彼の評判は大変悪くなり、有末の言うことの逆に考えておけば間違いなかろう、と言われるほどでした。

  問 彼の評判は、なぜそんなに悪かったのですか。

  答 彼は、余計なことをやたらに言いすぎるために、評判をすっかり落としたのです。

  問 ほかに何かありますか。

  答 例えば、彼は、イタリアとドイツが勝ものと信じていました。有末とムッソリーニは、とても親しい友人同士でした。


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第20回尋問  1946年4月1日  
       尋問官 ジョン・F・ハメル少佐
             ジェイムズ・J・ロビンソン(米海軍大尉) 
 (p199~p200)

  ・・・

  問 将軍、あなたは、設置の話が出ていた大東亜省の前身である大興亜院の職員がだれであったか知っていますか。

  答 設置の話が出ていた大東亜省の前身である大興亜院は、次の人物に率いられていました。

    初代総裁〔総務長官〕は柳川平助、第2代総裁は鈴木貞一、第3代総裁は及川源七でした。
    大東亜大臣は、就任順に青木一男、重光葵、東郷茂徳、でした。

  問 興亜院の職員のなかには、阿片取引にかかわった者がいましたか。

  答 興亜院の鈴木貞一のもとで働いていた毛利英於莵です。現在、そういった連中は結束を強めつつあり、彼らは、それはたんなる投機的事業であり、今次戦争の原因とは何の関係もなかった、と公言しています。それに答えて私は、満州および支那における阿片取引は、人道に対する犯罪であったと非難する記事を新聞に投稿しました。毛利英於莵は、東京にいるはずで、彼から、支那における阿片取引に関する内部の実行計画についてさらに詳しく話してもらえます。この人物は、阿片売買についてだれよりも多くの情報を提供できるはずです。彼は里見と難波のごく親しい友人です。


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