真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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吉林総領事と万宝山事件

2011年07月13日 | 国際・政治
 満州事変には「前奏曲」といわれる2つの事件があった。中村大尉事件とこの万宝山事件である。その前には、墳墓発掘事件があり、吉林省政府の抗議によって吉林総領事館の長岡副領事が吉林を去っている。ここでは、「外交官の一生」石射猪太郎(中公文庫)から、万宝山事件の部分を抜粋するが、書き出しの「続いて起きたのが…」は、万宝山事件が、この墳墓発掘事件に続いたことをあらわしている。
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                  吉林総領事時代

万宝山事件──非はわれにあり

 続いて起きたのが万宝山事件である。長春の西北数里の万宝山に、長春在住の朝鮮人達が水田経営の目的で、中国人から広面積のの借地をしたのに端を発したのである。借地契約そのものの合法性にも疑問があったが、朝鮮人達がその開墾した水田に引水すべく伊通河に至る一里の間に無断で水溝を掘り、伊通河に勝手に堰を設けんとするにいたって、長春県長が干渉し、巡警隊を繰り出して現地を押え、朝鮮人を追い払おうとした。訴えを聞いた長春領事館は警察隊を派して現地保護と出たので両々対峙の形勢が出現された。長春田代領事と長春県長との間に折衝を重ねたが、折り合いがつかず、問題はついに吉林省政府と私とに移ってきた。


 長春領事館のとった現地保護的措置は、日本側新聞の指示を受け、なかんずく田代領事の朝鮮での名声は英雄的になった。現地では殺傷がなかったのに、朝鮮各地では在留中国人に対して報復的大虐殺が行われた。

 私の見るところでは、非は現地朝鮮人側にあった。無断で他人の所有地に水路を開設するさえあるのに、河流を勝手に堰止めるのは、どこの国の法律でも是認するはずがない。しかし、もう引っ込みがつかなくなった長春領事の立場を、覆すことは許されない。私はある日のごときは坐り込み戦術をとって、9時間もぶっ通しで交渉員に折衝したこともあったが、先方は飽くまで頑強だ。省政府側は借地権は否認しないが、河水の堰止めは認められないという態度を堅持した。

 だから伊通河からの引水を断念して、井戸掘さくに成功すれば問題は自然に片づくので、私はたびたび田代領事と協議して井戸掘さくと、貯水工事の計画を練ったが、実現の見込みが立たなかった。地下水の有無が疑問であり、仮にあったとしても水量が疑問であったからだ。

 一方万宝山現地では、双方の警察隊が日夜対峙を続けた。長くそのままにしてはおけない。私は省政府に交渉して、双方同時に警察隊を引き、問題の解決を後日の交渉に待つことにした。五分五分の引き分けとなって、現場の確執は解けたが、問題はその後の交渉においても未解決残り、やがて満州事変が来た。1931(昭和6)年夏の出来事であった。


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柳条溝事件直後の吉林省政府独立の真相

2011年07月13日 | 国際・政治
 柳条溝事件直後に、吉林省政府が国民政府からの独立を宣言する。それがどんなものであったのか、「外交官の一生」石射猪太郎(中公文庫)が明らかにしている。著者石射猪太郎は、当時吉林省総領事であり、職責上、懸命に筋を通そうと努力したことが分かる。また、その文章からは、日本軍の武力を背景とした理不尽な所業に対する怒りが伝わってくる。ピストル・ポイントの独立宣言だったというのである。
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                  吉林総領事時代

ピストル・ポイントの独立宣言

 9月22日の夜、熙参謀長が私を来訪した。日本軍が吉林軍の武装を解除すると言い出した。直接それを実行されると、屈辱を感じて吉林軍中には抵抗する部隊がでるかも知れない。ついては武装解除は、省政府自身の手で穏やかに実行したい。師団長に願ってみてほしいとの懇請である。

 私はすぐ師団長を往訪して熙参謀長の願意を伝えると、師団長は直接会って話をつけたいといい、会見の時日を翌日午後3時と指定した。
 翌23日定刻前に、熙参謀長が施交渉員と通訳をつれてまず私を来訪した。私は一行をつれて名古屋館に行き、師団副官の案内で2階の一室に通った。師団長と師団参謀長とを中心に、数人の参謀達が待ち受けていた。儀礼が済んで座が定まると、師団長が
この会談は軍事的なものであるから、外交官は席をはずしてもらいたいという。そこで私と施交渉員は別室に引き取った。

 会談が思ったより長びくので、様子を見に行ってみると、会談の室はドアが固く閉じられ、廊下に数人の将校が、銘々抜身の拳銃を提げて立っている。何故の物々しさか不思議に思いながら、私は別室に戻った。そのうちに話がついたと見えて熙参謀長と通訳官が降りて来て、あたふたと自動車で帰った。施交渉員がこれに続いた。話がついたものと思ってそのまま私も領事館に引き取った。

 間もなく張秘書から情報が届いた。今日の会談で、熙参謀長は吉林省の即時独立宣言を師団長から要求された。居並んだ参謀連から「独立宣言か死か」と拳銃を突き付けられての強要なので、熙参謀長は絶体絶命これを承諾した。ただし、吉林軍の武装解除は省政府の手に委ねられた、という情報である。会談中廊下の抜身の拳銃がピンと私の頭に来た。

 時すでに日本政府の事件不拡大方針が宣言され、その方針に則して対処せよ、との訓令が、私に達していた。私は、吉林省独立宣言の強要を看過できないと思った。
 その夜私は師団長を名古屋館に訪問した。師団長は日本間で和服に寛いで、師団参謀長の上野良丞大佐を相手に一杯やっていた。
 私はすぐに口を切った。吉林省を独立させる工作は中国への内政干渉として、由々しい問題を引き起こすであろう。内面の強要工作をいかに厳密にしようとも、間もなく世間に周知して、日本政府の対外的立場を不利ならしむるは必然である。事件を満鉄沿線に局限して、早急に局面を収拾せんとする政府の方針に破綻を来す因ともなるであろう。私の職責上この独立工作について再考を求めざるを得ない、と申し入れた。


 多門師団長は静かに耳を傾けた後、貴官のお話しはよく了解できるが、自分の関する限り再考の余地はない、すべて関東軍司令部の命令に出ずるところであるから、再考は軍司令部に向かって求められるより他ないであろう。しかし貴官は、独立工作は軍人どもがやったもので、自分は関知しなかったことだとして黙過されては如何といった。私は私の職責がそれを許さないと応酬したが、話は物別れにに終わった。
 事態を詳説した私の報告電が、その夜本省と奉天総領事とに走った。


 多門師団長は、チャップリンの名映画「担え銃(ショールダーアームス)」に出てくる小男のドイツ士官を思わせる矮人だった。この時以後たびたびの会談で得た私の印象では、物ごしが軟らかで智略に富む老練な将軍であった。将軍が一小隊長として日露戦争を戦った記録『弾雨をくぐりて』も、かつて私の愛読した好著であった。軍隊では実戦の経歴が重んじられるので、部下の連隊長達は将軍に推服しているという噂であった。多門師団長は、この後、馬占山軍と嫩江で戦った。
 吉林省政府は熙治氏を省長とし、9月28日、国民政府から独立を宣言した。いわゆる拳銃口(ピストルポイント)の独立で、
東三省独立の先駆をなしたのである。


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