津田左右吉は「明治維新の研究」(毎日ワンズ)で、明治維新が、”種々の陰険なる権謀術数を弄することにより、または暴力をもって治安を撹乱することによって、断えず幕府の新国策の実行を妨害し”て、なされたものであることを明らかにしています。
また、”維新の変革は民衆の要望から出たものではなく、民衆の力なり行動なりによって実現せられたものでもなく、また民衆を背景にしたり基礎にしたりして行われたものでもない。一般の反幕府的空気が背景とも地盤ともなってはいるが、当面のしごとは、主として雄藩の諸侯の家臣のしわざであり、そうしてすべてが朝廷の政令の形において行われた。そこでこの朝政の主動者となっていたものが、皇室をどいう風に盛り立ててゆこうとしたか、ということが、この朝政の性質を知るについて大切な問題となる”と、明治維新以降の日本の歴史を理解するための手掛かりを示しています。
それらを踏まえれば、明治維新以後の反立憲的な藩閥政治の実態、すなわち、明治維新を担った薩長土肥とくに薩長両藩出身者が権力を独占した事実がよく理解できるのではないかと思います。だから、大正デモクラシーでは「打破閥族・擁護憲政」が合言葉となったのだと思います。
例えば、明治期の内閣(第一次伊藤内閣から第二次西園寺内閣まで)の閣僚経験者は延べ79名だということですが、出身藩別に見ると、薩摩藩が14名、長州藩も14名、土佐藩が9名、佐賀藩が5名だということです。また、元老とされた人たちやそれに準ずる者人たちは、公家出身の西園寺公望を除き、すべて、長州又は薩摩の出身者だということです。
さらに見逃せないのが、「薩の海軍、長の陸軍」などといわれた日本軍、また、警察の要職の独占です。歴代陸軍大臣や海軍大臣のみならず、警察関連を見ても、1874年(明治7年)から1901年(明治34年)までの警視長、大警視、警視総監等14人の内訳は、薩摩藩出身が12人、土佐藩出身が2人であるというのです。
また、司法省や大審院も薩長土肥からなる藩閥が握っていたといわれています。そこに、明治維新の意図が透けて見えるように思います。もちろん、時代が進むとともに、そうした要職の独占は、次第にそれほど極端ではなくなっていったのでしょうが、その体質や思想は、戦前はもちろん、敗戦後の現在に至ってもなお、受け継がれていると私は思います。
それは、「日本を取り戻す」という言葉に象徴されると思うのですが、敗戦後間もない頃からGHQの民主化政策に反するかたちで、始まっていると思います。その典型が「軍人恩給」の復活です。
日本の「戦後補償」は、戦時中の考え方がそのまま受け継がれている部分があるのです。例えば、日本の戦争被害者に対する補償は、ごく一部の例外を除けば、軍人・軍属が対象です。「戦傷病者戦没者遺族等援護法」は民間人戦争被害者を対象としていません。GHQが廃止を指令した「軍人恩給」が、日本の主権回復後間もなく復活したのみならず、その支給額が帝国軍隊当時の階級に基づいているのです。戦争責任のより大きな元軍人ほど、より多くの軍人恩給を給付されているということです。ドイツの戦後補償は、民間人戦争被害者も等しくその対象であり、軍人に対する補償に階級差などはないということですので、そこに、敗戦後の日本の問題がはっきり示されていると思います。
それだけではなく、自民党政権中枢は、初代天皇である神武天皇が即位したニ月十一日を「建国記念の日」としたり、「君が代」を国歌と定めたり、憲法改正草案に天皇の元首化をもり込んだり、第二十四条に”家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は互いに助け合わなければならない。”などという条文を挿入し、日本を天皇を戴く家族国家とした戦前の家族国家観を受け継ごうとしたりしているのです。
そして、そうした戦前の体質や思想が、現在日本の「選択的夫婦別姓問題」や「子ども家庭庁」の名称問題、さらに、外交問題発生の源になっているように思います。
先日、日本政府が、「佐渡金山」をユネスコ世界文化遺産に推薦する構想を見送る方向で調整していることが報道されました。日本の植民地時代における朝鮮人の強制労役現場であったことから、”韓国の反発などで、2023年のユネスコ世界遺産委員会で登録される見通しが立たないと判断した”ためということです。でも、戦前の体質や思想を受け継ぐ安部元総理や高市早苗現自民党政調会長は、”韓国の反発のせいで推薦をあきらめることはできない”とか、”日本の名誉の問題だ”などとして”政府には登録に向けて本気で頑張ってほしいと希望する”と語ったということです。
でも、こうした問題が続くのは、日韓間の戦後補償の問題が、少しも解決済みではないことのあらわれであり、日本が、戦前の体質や思想をきちんと改めない限り、延々と続くように思います。
それは、戦後のアメリカにも責任の一端があるとは思います。米ソ冷戦の激化や朝鮮戦争に対応するため、日本に再軍備を求めたJ.F.ダレスは、”日本は戦争賠償をしなければならないから再軍備する金がない”と答えた吉田首相に対し”戦争賠償はしなくてもいいから再軍備せよ”(古関彰一獨協大学教授の研究による)と言った といわれているからです。日本の戦争賠償や被害者補償は、戦争被害国や戦争被害者への賠償や補償を脇に置いて、アメリカのアジア戦略に沿うかたちになり、「経済協力方式」になってしまったことにあるのだろうと思います。
したがって、韓国に対する戦争賠償・被害者補償は、日韓基本条約締結時には、まったく取り上げられなかったいわゆる日本軍「慰安婦」問題はもちろん、「強制連行された朝鮮人労働者の問題」でも、実態調査などがきちんとなされず、さらに、植民地支配の問題もその詳細が究明されることなく、経済協力方式の戦争賠償・被害者補償となってしまったということです。戦争被害者個人に対する補償が、韓国に対する経済協力に置き換えられてしまったのです。戦争責任を免れ、経済的利益を追求したい日本の関係者と、米ソ冷戦の対応にせまられたアメリカの思惑が一致した結果の戦後処理が、現在に問題を引き摺る原因となったといえるように思います。だから、日韓関係改善のためには、日韓の政治家の間で決着させるのではなく、被害者自身を含めた関係者と、誠実に話し合い、根本的に解決する必要があると思います。それをしないで、「解決済み」にはできないと思うのです。
「ナヌムの家」を訪れた時、90歳をこえる高齢にもかかわらず、日本大使館前の水曜集会に意欲的に参加しているという李玉仙(イオクソン)さんは、慰安所における戦時中の「性奴隷」といわれる扱いをはっきり証言し、当時の安倍総理にきちんと責任を認めて謝ってほしいとくり返していました。だから、尊厳の回復のためには、個人的な謝罪や民間基金の補償ではなく、日本政府の公式の謝罪と、それをもとにした法的な補償や事実を継承する教育などが求められているのだと思います。戦時中の日本政府や軍の過ちを認めない限り、「解決済み」にはならないのだと思います。
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第二章 幕末における政府とそれに対する反動勢力
三
対外問題が起こってから、幕府は当時の世界情勢に対応して、日本の国家の使命を新たに認識するとともに、日本の政府としての幕府の責務を自覚し、それに基づいて開国の新国策を決定し、そうしてその実現に努力したが、一方ではそれに対する反動勢力が生じ、志士とか浪人とかいわれたものの幾群かと、それと何らかの関係を持っている諸藩士と、並びにそれに動かされている一部の宮廷人とによってそれが形勢せられ、そうして彼らは種々の陰険なる権謀術数を弄することにより、または暴力をもって治安を撹乱することによって、断えず幕府の新国策の実行を妨害した。これがこれまでいったきたところの大要であるが、ここで少しくそれを補足しておきたいことがある。
その第一は、反動勢力という語を用いたことであるが、これは幕府の国策が現実の情勢に対応して日本の国家の進んでゆくべき針路を見定め、それがために幕府の従来の政治を根本的に改めることによって成立したものであるとは反対に、現実を無視した空疎な臆断と一種の狂信とによって、この国策を破壊せんとせるものであったからである。知識人の間に歴史的感覚の発達していなかった当時においては、かかる呼称は用いられなかったけれども、事実としてそれが反動勢力であったことは明らかである(「反動」という観念そのものが本来歴史的感覚から生まれたものであるが、世を古の状態に立ち戻らせることができるとせられ、または一たび列国と通交を開きながら、それの開かれない前の状態に復帰することができるように思われていたのでも知られる如く、この頃の知識人には、反動という歴史的感覚はなかったのである)。
次には、反動勢力の活動の主なるものであった鎖国または攘夷の主張や行動は、上にいった如く全く敗亡し、幕府の開国の国策及びその国策の実現としての諸施政が一般に公認せられたが、反動勢力の活動としてはなお依然として行われているものがあった、ということである。それは封建の制度の上に立ち、そうしてそれを悪用し、戦国割拠の状態を再現することによって日本の国家を分裂に導き、また武士の制度の変態的現象ともいうべき暴徒化した志士や浪人の徒が日本の政治を撹乱し日本の社会を無秩序にすることによって、究極にはトクガワ氏の幕府の倒壊を誘致し、もしくは二、三の藩侯の力によってそれを急速に実現しようとしたことである。反動勢力の行動の根底には幕府倒壊の欲求の潜在していたことが、種々の資料によっても、またそれより前のいわゆる勤王論者の主張によっても知られるが、初期のうちはそれがまだ、反動勢力の主動者・参加者みずからにおいても、多くは明らかに意識せられなかった。しかるに安政の末年からはそれがかなり明らかにせられ、それから後には次第にその傾向が強められてきた。当時の時勢の動きは、幕府の国策とその実現とを除いて考えると、何らかの明確な思想が一世の指導精神となって、それが種々の困難を克服しつつ次第に実現せられてゆく、というようなものではなく、人によって互いに齟齬したり矛盾したりしている雑多の、また時によって変動常なき、いわば場当たりの思いつきと軽浮な行動欲とのおのずから重なり合いはたらき合いまたは排撃し合うところから、知らぬ間にある勢いが生じて、その勢いみずからが盲目的に動いてきたものに他ならぬ。反動勢力といったものもかかる動きを概観してのことであって、その活動に参加したものまたはある時期ある場合に主動者となったものとても、初めから一定の目的をもっていてその実現のために奮闘努力したのではなく、勢いに駆られて奔馳してきたに過ぎない。ただ幕府倒壊の方向だけについていうと、ほぼ上記の如き情勢となったのである。
ところが、こうなってからの反動勢力の主張は、幕府の政治・幕府の外交がよくあにというのではなくして、幕府が政治をすること外交をすることがよくない、即ち幕府というものの存在することがよくない、という考えであった。彼らが幕府を非難するに当たり、具体的に事実を挙げるよりも、国民を塗炭の苦に陥れたとか、幕吏に奸徒が多く正義が地に落ちたとか、国家傾覆して戎夷(ジュウイ)の管治を受ける日が遠くないとかいうような、甚だしく誇張せられたことばで抽象的ないい方をすることに重きを置いたのも、これがためである(文久二年の詔勅の語、慶應三年のトクガワ氏討伐の密勅もほぼ同様)。
これは、武家が政権を握ったために皇室の権が衰えた、頼朝以来の将軍は皇室の逆臣だ、という、歴史的事実を無視した勤王論者のほしいままな臆断に由来があるが、こういう考え方からいうと、攘夷や鎖国の主張は敗亡しても、幕府倒壊の主張はなくならないのが、自然である。鎖国思想・攘夷思想の敗亡したのは、幕府の定めた開国の国策が日本の国家の前途のために必要と認められたからであるが、従来志士や宮廷人によって宣伝せられていた如く、攘夷や鎖国が叡慮であり勅諚の示すところであったならば、これはかかる叡慮なり勅諚なりが日本の国家のために不利なものであったこと、従ってそれをそのまま遵奉しなかった幕府の処置は、叡慮勅諚に背くことによってこの不利を避け得たこと、少なくともそれを軽減したことを、明らかにしたものといわねばならぬ。しかし反動勢力に属するものは、そういうことを少しも考えなかった。もっとも既に述べた如く勅諚といっても叡慮といっても実は反動勢力の主動者たる志士や宮廷人の意向の仮託せられたものであったから、これもまた自然のことであろう。ただ開国の国策が公認せられた後となってはいうまでもなく、それより前とても現実の情勢と事態とを見るだけの明識のあるものからいえば、彼らがかかる仮託をしたことは、主上が不明(※無知)であられた如く世上に宣伝したことになるので、その点でも彼らの罪は甚だ大であるが、このことをもまた彼らは考えようとしなかった。それだけの良心のはたらきが彼らにはなかったのである。のみならず、主上を欺瞞して京畿の外に鳳輦(ホウレン=天皇の乗り物、即ち身柄)を移そうとしたことさえあっても、彼らは幕府を倒すためにはそれを当然の企図または行動と考えていた。それはあたかも彼らが人を殺しても世を欺しても幕府を倒すためには当然のことだと思っていたのと同じである。そうしてそれから後になっても、同じく勅命に名をかりまた宮廷及び京師の武力的占領を行って倒幕の兵を起こし、またしても幼冲の主上(※明治天皇)の京外移御をさえ計画したのである。
これらの事実は、トバ・フシミのトクガワ勢の敗戦の後に東帰した前将軍(※慶喜)のいわゆる「恭順」が、実はかかる反動勢力のほしいままに朝廷の名を利用した陰険な権謀と隠密の間に準備せられた武力との前に屈服したものであることを、示すものに他ならぬ。討幕の密勅のことは前将軍は知らなかったであろうが、薩長の徒が錦旗をかざして幕兵を圧し前将軍に賊名を負わせたことは、知っていたに違いない。その直前に、当時の事態をサツマ人の陰謀から出たものとし、その罪を数えて上奏しようとしたのとは、あまりにも甚だしい態度の変りようである。それは敗戦のときから諸侯の多くが次第に薩長政府に追従していったのと、その形跡において同じであった。
世に喧伝せられているカツ・アワの行動は、かかる際に行われたものである。