☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

「4月18日 船は安芸の御手洗と申す所に」

2020-04-18 23:51:49 | 『都見物日記』

『都見物日記』(一)‥‥ ②  

さて、鹿児島を出帆して2日目、未だ船上の人で昨日の船酔いの余韻か、食欲は無く、気晴らしに甲板に出て景色を眺めてはみるものの、船旅は時間が掛かるので難儀をしている様子がうかがえます。

 

 四・一八 今日も何事もなく目覚め候得(ソウラエ)共 飯食べる事はいかず、矢張矢張ごろごろ休み、九時過ぎ初めて用足しに出で、其から上に顔洗いに行き 茶ども飲み 少しは気分宜敷(ヨロシク)、デッキより眺め 片脇は少々島が見え、かたわきは何もなく 地知れずして呆れて眺めおり候 

 

又今日は矢張りごろごろ枕様と日暮し 一時頃にひるめし、粥をたべ申事。 其より又休み居候、御尊母様は少し 昨夜御吐き遊(ば)され御気分あしく、今日はよろしく 私と同敷(オナジク) 昼飯より御めし上がりなされ、カンバン辺には 私よりも おのり遊ばされ候事、私乃事は只々あきるる計り也。

四時頃に又夜食、それと酒瓶一ツ舟より差出し、三人にて飲み、腹ならしに又かんばんへ 母上様とけんぶん(見聞)いたし、五時過には舟とめられて 安芸乃御手洗(ミタラシ)と申所に於て 夜を明かし候事也

 

 時間つぶしにごろごろして「枕様と日暮し」というのが茶目っ気ありますね、イサさん 

ところで、「安芸乃御手洗」って広島?どの辺りでしょうね?

「御手洗港」、後日、地図で確認できました。画像を貼っておきます(追記:'20. 5.7)

(画面中央「大崎下島」にあります)

明日は讃岐・多度津へ参ります

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「ゆきのおと」は、飽く迄も個人的なブログです

2020-04-18 17:47:07 | 初めて読む方へ

 いつもお読み下さり、ありがとうございます。

 

さて、当ブログですが、タイトル通り、あくまでも個人的なブログです。

 

母が亡くなって数年後、以前から聞かされていた祖先のことを知りたくて、母が残してくれたメモ書きや書籍、戸籍や除籍謄本など家族の情報を頼りに、現在から祖父、曽祖父と辿って、知り得たことを記録に止めることで、県外に暮らす兄弟にも共有してもらえることを期待して書き始めたものです。

我が家は台湾から引き揚げて来た家族であり、

あちらではもしかすると祖父が持っていたかも知れませんが、家系図も残っておりませんし、

歴史に詳しいわけでも、ましてや専門的知識があるわけでもありません。

ご質問を頂いても分りかねることが多々あります。

コメント返しがない場合は、当方では分らないことであると、どうぞご承知おきください。

 

 2年前(2018年)にも『数年越しでのコメント返信』で書きましたが、再度、以下の通りお伝えいたします

 ご一読頂けると有難く存じます。

 

《 以下、再掲示 》

   ☆☆☆

これまでコメントを頂きながらも自分でも分からない事・捉えきれていない事については
コメント返しもせずに失礼とは思いつつもそのままにしておりました。

 

公開にしているコメントの他にも数通のコメントを頂いていましたが、何しろ当方の知識も乏しく、またお寄せいただいた内容についての確認も出来ない状態でしたので公表は控えさせて頂きました。

 

当方としては、私自身の祖父、曾祖父から遡ったことしか分からない上に、除籍謄本などは役所では曾祖父以降(昭和24年以降だったか?)の書類しか残っていないので、それ以前は辿れないそうでお手上げ状態のまま、それ以上はわかりません。
曾祖父の兄・名越時成さんについても、そのご子孫であり最初に我が家に曾祖父・轟について訪ねてこられた内村八紘氏から頂いたレポートからしか分かりませんので、今後ご質問頂いてもお答え出来ることは特にございませんので、ご了承ください。

 

カテゴリーの「初めて読む方へ」 もご覧下さると、お分り頂けるかと思います。

 2010年10月の『『墓標を縫って 南洲墓地にて』の作者、湯場崎末次郎様へ。』なども、先祖を辿る当時の活動が記録されています。自分で読み返しても懐かしいです。(※ 2020. 4.19 追記)

 2009年2月の『ブログに込めた想い-5(一部追記あり)』を読み返していたら、自分でも忘れていたこのブログを書く動機が記されていました。(※ 同上 同日追記)

 

以上、何卒ご了承いただきたく、今後とも当ブログを宜しくお願いいたします。

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「4月17日 鹿児島を出帆」

2020-04-17 23:19:50 | 『都見物日記』

 いつもお読みいただき、ありがとうございます

さて、今日から『都見物日記』について綴ってみようと思います。

というのも、4月17日は川上イサさんと川上のお姑さん、それに弟の轟との三人で東京見物のために鹿児島を船で出発した日なのです

明治23年のことです。

先日テレビを観ていて知ったのですが (→ 「歌舞伎のおなまえ」)この年東京に「歌舞伎座」が誕生したそうで、

五月三日の日記にも初めての東京で歌舞伎を楽しんだ様子が生き生きと綴られています。

 

昨年9月6日の『【第4話】紹介者は、寺師若法師さん』で少し触れていますが、『都見物日記』は川上イサさんの次男、橋口精一氏によってまとめられたもので、地元の月刊誌『さんぎし』に連載で紹介されたものだったようです。

せっかくなので、寺師若法師さんが書かれた前書きから、そのまま記していこうと思います。

 

  都見物日記(一)

        川上いさ(記)

 

 母の鏡(鑑)の丹下幸代おばさんといえば人よく知るところ。もう昨年(※昭和33年か)のこと、若法師庵をお訪ね下さって、赤表紙の和綴ものをお見せになった。祖母にあたる川上いさ刀自の「都見物日記」である。川上ドンは新屋敷と武之橋にあり、新屋敷の方は関ヶ原で勇名をとどろかした川上四郎兵衛忠兄、いわゆる川上シロンペロンの方で、当主は谷山市山田町谷におられる矢吉氏。武之橋の方は四郎兵衛の兄、左京亮忠堅の方で、天正十二年春に竜造寺隆信を討った智勇の士。筆者いさ刀自の夫君は久達氏、その子息が兄 久良氏、弟 橋口精一氏、丹下さんはその久良さんの娘さん。こういうことになっている。(※ ゆき註釈)

 文中にもあるように、明治二十三年国会開設の年、全国からやんやと東京見物に出掛けたもので、いさ刀自も姑さん、令弟の栗川轟さんの三人連れでお江戸上りをやられた、その旅日記である。この日記は、これを整理された精一氏の「後記」があるから、それを前書き代わりに持って来るとよく解るようである。(若)

 後記(一部分)この日記はお母様のおしるし成され候もの故、時には前後まちがいあるべし。別に予は修正せず成るべく有りの儘をうつし、時にあまり分らぬ処を直せしのみなれば、原文と少しもちがいし所なしというて差閊(さしつか)えなし。母様のこれ丈おしるし成さるる処がなかなか値打の有る所なり。

  川上久達二男 橋口精一 かく

 

原 文

 左に記するは明治二十三年国会解説之時、御尊母様(外祖母様)栗川轟様(弟)之三人連れ、大坂、西京、東京、日光、金比羅参詣など被成候節の御母上殿の御手記なり(精一)

 

 四・一七 九時過より出立、程無く舟に乗り付(つけ)、二時前出帆、風無く舟上より方々眺め、チリン島、山川眺め、其れよりチンチン燈明台近くなるより皆住い所(すまいどころ)に引入り、夕方より少々気分悪敷(アシク)候得共(ソウラエドモ) 吐き方これなく、昼飯はおいしく夕飯はトントトントいけず残念に候、是れより寝続き はばかりにも行かず、つるつる休みつづき也

 

 初日は船酔いで大変だったようですね。

明日も続きます〜

  

追記:地図画像を貼っておきましたので、お楽しみ下さい。('20. 5.7 記)

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曽祖父・轟は、篤姫の従弟ってことね!?

2020-04-17 22:32:47 | 曾祖父・轟のこと

昨年1月に『今和泉島津家と永吉島津家と』で、

曽祖父・轟が養子に入った先の養母は『島津對馬の長女・スガ』だと書いていますが、

そのスガの父・島津忠喬は、篤姫の父君・島津忠剛の養父、

島津忠剛様は島津斉興様の弟で、お二人の父君は斉宣様、

島津忠喬様の父君は斉宣様の弟で今泉島津家・忠厚様‥‥‥ 、

いや、早い話が忠喬様と忠剛様、お二人は従兄弟同士なのですよね。

忠剛様が従兄弟である今泉島津家の忠喬様を嗣いだということで、

忠剛様はスガの兄、ということになります。

で、忠剛様の子・篤姫様は、スガの養子となった轟の‥‥従姉!と今日になって気づいたという話です。

(※ 但し、系図上は、ということですので、、、。)

 

今日、父に「忠喬」のことを説明できなかったので、

もう一度ちゃんと把握しておかなくてはと調べ直したのでした。

※以上、 もし間違いがあれば、どうぞお気軽にご指摘くださいませ

 

 篤姫の従弟などとは恐れ多いことでしたので、多少修正いたしました。(2020. 4 20 追記・修正)

島津忠喬・長女、スガは、栗川用行の室となっている時点で実家から離れているので、見当違いな話ですね(苦笑)

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父方祖母の育ての親・平山チカの命日でした

2020-04-12 23:52:43 | 曾祖父・寺山用之と後添いさん

さて、寝る前に日記書いておこうかな、と思って3年ダイアリーをめくっていたら、

今日の日付に「平山チカさんの命日」と書いていました!

忘れてました〜

☆ 関連日記:『祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に)

この中で、祖母・ふくの育ての親である、平山チカについて少し書いていますが、

昭和16年4月12日に台南・麻豆で亡くなりました。享年75。

 

さらに遡ると、今月7日は曽祖母・ツタの命日でした!

(ツタは夫・轟が亡くなった翌年、大正12年4月に台湾・高雄州の屏東で亡くなっています。)

☆ 関連日記:『曾祖父が養子となった先は‥‥

 

昨日も今日も、例の石塔(→『倉山作太夫久籌?』)に刻んである名前の更なる事実を書き出すことに没頭しておりましたので、ついつい他のことが疎かになります。

 

あ!でも最近体力増進のために始めた父との「ちょこっと散歩」は続けています。

 

命日のことは日記としてここに書いて、もう寝ることにします。お休みなさい

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ブログ再開、 コメント欄も復活

2020-04-08 23:39:41 | 日記

いつもお読み下さってありがとうございます。

さて、しばらくぶりのブログ更新となりました。 実は昨年暮れに亡母の弟が急死致しまして、その関係でブログ更新の時間も取り辛い状況だったことから、コメント欄も閉じた状態でありました。

☆ 画像は亡母の家族写真(於:旧満州・新京)

 

まだ後処理等雑事が続くのですが、とりあえずブログ再開させてみようと思います。

 

『島津家家臣団系図集』、一通り目を通したつもりでしたが、ふと思い出して眺めては意外な繋がりを見つけたり、相変わらず気ままに興味の赴くまま過ごしております。

☆関連記事: 

「島津家家臣団系図集」で曾祖父・轟の新事実??

 

 

 

 

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