夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

稲荷百社詣その八

2007-12-17 22:23:00 | 稲荷百社詣

(17)津軽稲荷 (墨田区錦糸1)(写真)★

 長崎橋跡の交差点で信号の変るのを待つ。通りの向うは津軽稲荷。駅北側の再開発が行われた今となっては、場違いな存在にすら見える。その風景の中に荷を担いだ老人がそろりと入り込み、稲荷社の中にすうっと消えた。一瞬どうしようかと思ったが、緑に変った信号に急かされて、その後を追う。この辺りは弘前藩津軽家の中屋敷があったところで、ここの稲荷は屋敷内にあったものが残ったものだと言う。境内は稲荷としては中ぐらいで、外界とは隔絶した空間を形作っている。息を整え心を少しだけ落ち着かせてから、社殿に軽く頭を下げる。それから外に出ようとして、先程の老人の姿が見えない事に気が付いた。周りを見回すと、集会場らしい建物の入口が見えた。多分、町内の寄合いか何かがあるのだろう、そう思う事にした。

(18)千種稲荷  (墨田区錦糸4)

 錦糸公園の入り口近くに稲荷社がある。元は大名屋敷にあったというが、『史跡』とあるだけで子細は何も記されていない。ともかくお賽銭でもあげようかと中に入る。その途端、祠の後で人の動く気配がした。どうやら講中の人が時折掃除をしに来るらしい。声を掛けて史跡の由来でも聞こうかと思ったが、千種講に誘われても困るなと思い直して止めにした。余談だが、この時撮った写真は使い物にはならなかった。

(19)鎮守稲荷 (墨田区江東橋2)

 名前からすると、この辺の鎮守だったのだろうが、場所柄なのか時節柄なのか、その割には手入れも行き届いていないように見える。一応、頭を少しだけ下げて、そのまま通り過ぎる。

(20)田螺稲荷 (墨田区江東橋3)

 この地に大火があった時、無数の田螺が池から現れて類焼を免れた事が、この稲荷の由来という。田螺が火を防ぐ様子は想像しにくいが、詮索するような事ではないのだろう。常日頃、火を出さぬよう心がけるべく、一礼して通り過ぎる。

(21)清昌稲荷 (墨田区江東橋3)

 江東寺が、江東楽天地の中心として広壮な敷地と壮麗な本堂を持っていたなら、この清昌稲荷も、こんな狭い場所に押込められずに済んだかも知れない。この稲荷にとって、寺の脇はあまり居心地の良い場所ではなさそうだ。ざっと拝んで、賽銭の方は江東寺の賽銭箱に代理徴収をお願いすることにした。

コメント

稲荷百社詣その七

2007-12-15 15:19:00 | 稲荷百社詣

(14)千束神社 (台東区竜泉2)(写真) ★★

 「八月二十日は千束神社のまつりとて山車屋台に町々の見栄をはりて土手をのぼりて廓内まで入りこまんず勢ひ、若者が気組み思いやるべし....」

 樋口一葉の「たけくらべ」の世界はすっかり消え去ってしまったが、その微かな記憶が千束神社(千束稲荷)には残っているような気がする。賽銭をあげてから、暫くは、祭の音が聞こえてこないか耳を澄ましてみる。でも、聞こえるのは猫の鳴き声だけ。

(15)玉姫稲荷 (台東区清川2)★★

 この稲荷に行くのであれば、「こんこん靴市」の日がオススメである。普段は閑散としている稲荷神社も、この日ばかりは、近隣の靴メーカが所狭しと店を出し、境内は買い物客でごったがえしている。皮革関連商品を安く販売するのが、このイベントの主旨とはいえ、靴市だけ覗いて帰るわけにはいかない。最初に稲荷神社を参拝するのが礼儀だろう。その後、何か面白そうな靴がないかと見て回る。すると、ジャンピングシューズのような靴を見つけた。値段が折合わないのと、サイズが合わなかったので止めにしたが、買っておけば良かったかも知れない。

(16)真崎稲荷(荒川区南千住3)★

 江戸稲荷番付では関脇をつとめる繁盛した稲荷である。ここの名物は田楽で、茶屋が軒を並べていたという。場所的に吉原の連絡口としても便利だったらしい。今は石浜神社に間借りしているような有様で、当時の面影はなく、真崎稲荷としてより、浅草七福神の寿老人として参詣する人の方が多いのかも知れない。境内に招来稲荷という祠があったので、念のため、おいでおいでと唱えてみたが、狐は勿論、猫すら現れない。仕方なく外に出ると、それを待っていたかのように一台の車が急発進した。こちらを見張っていたのだろう。

コメント

稲荷百社詣その六

2007-12-10 20:13:26 | 稲荷百社詣

(10)石塚稲荷 (台東区柳橋1)(写真)

 総武線の車窓から小さな社を見つけたので浅草橋で下車して行ってみると、やはり稲荷社だった。この社に柳橋芸妓組合の名を見つけ、ひょっとして組合員でも来ないかと、しばらく待ったが、通るのは車だけ。三味の音すら聞こえないので、諦めて立ち去る。

(11)篠塚稲荷 (台東区柳橋1)

 浅草橋の駅から少し歩いたところに稲荷社があった。この稲荷を信仰していた篠塚伊賀守に因んで、篠塚稲荷の名がついたと言う。伊賀守のことは知らないが、手入れが行き届いているところをみると、この辺の人には相応のご利益があるらしい。一礼して賽銭の方は近隣の人任せ。

(12)草分稲荷 (千代田区神田佐久間町4)

 この稲荷は総武線の脇の小公園にあり、板倉主計頭の屋敷稲荷であったものを、町内会の手で復興した稲荷と言う。江戸時代は屋敷内の稲荷でも、町民の参詣が許される事があったが、この稲荷もそうだったのかも知れない。だから、町内会が引き継いでも、それはそれで構わないのだろう。ひとまず頭を下げて、近くのベンチで一休み。

(13)金綱稲荷 (千代田区神田和泉町)

 総武線からも見える稲荷だが、草分稲荷を出て近くのガードから向こうを見ると、金綱稲荷の赤い幟が見える。稲荷社の中には由緒書きが掲げられているが、長文なので読むのを諦め、外に出る。要は日通のお稲荷さんという事なのだろうな。

コメント

稲荷百社詣その五

2007-12-09 21:54:27 | 稲荷百社詣

(7)妻恋神社(文京区湯島3)★

 妻恋神社は、ヤマトタケルが入水したオトタチバナ姫の事を嘆いたという伝承にもとづいて創建され、その後、倉稲魂神を合祀して妻恋稲荷となる。この稲荷は関東総司を名乗っているが、それは寺社奉行裁定で妻恋稲荷が関東総社と認められた事に由来する。しかし、世間の見方はこれとは異なり、関東を束ねるのは王子稲荷と思われていたらしい。妻恋稲荷も江戸稲荷番付で行司の役をつとめる稲荷ではあったが、勧進元をつとめ江戸随一と称された王子稲荷に、人気の点では及ぶべくも無かったのだろう。妻恋稲荷も夢枕の専売など手を打ってはいたようだが、それでも王子稲荷には敵わず、今では関東総社を自称して多くの参詣客を集めている王子稲荷に比べて、妻恋神社の方は境内も狭く閑散としていて、稲荷の祠も分離されている。とりあえず型どおりの参拝を済ませたが、本当は、公認の関東総社であったこの稲荷を、稲荷詣の最初に参詣すべきだったかも知れない。

(8)神田明神の稲荷(千代田区外神田2)

 神田明神の裏に回ってみると、やはり稲荷があった。末広稲荷と言い、意外と立派な鳥居が建って居る。この稲荷は神田明神が創建される以前から、この地にあったらしい。近くには江戸城内にあったと言う浦安稲荷も鎮座している。また金毘羅社との合祀ながら三宿稲荷も祭られている。神田明神は表の顔で、裏の顔は稲荷だったかと思いつつ、礼を失しないよう参拝してから外に出る。

(9)講武稲荷 (千代田区外神田1)

 秋葉原の電気街の一角に小さいが存在感のある稲荷が祭られていた。講武稲荷の名は武道練習所として幕府が開いた講武所に因んだものらしい。詳しくは稲荷社の前にある由緒書におまかせ。賽銭の方も近くの電気店が出す筈なので、そちらに任せて通り過ぎる。

コメント

稲荷百社詣その四

2007-12-03 19:06:40 | 稲荷百社詣

(5)柳森神社 (千代田区神田須田町2)★

 秋葉原の電気街を抜けて神田川を人道橋で渡り、道路から一段低い所にある柳森神社に詣でる。この社は太田道灌が江戸城改修の折に鎮護の為に設けたもので、稲荷社ではあるが、福神としての狸も祭っている。今回は狸を横目に狐の方を参拝。やはり、お狸さまにも挨拶しておくべきだったかな。

(6)繁栄お玉稲荷(千代田区岩本町2)

 昔、この辺りに桜が池という池があり、お玉という茶屋の娘がこの池に身を投げたことから、鎮魂のため祠が建てられた。この祠がお玉稲荷で、池も何時しかお玉が池と呼ばれるようになった。その後、お玉が池は埋め立てられ、その土地に北辰一刀流の千葉周作が剣術道場を開いたこともあって、神田お玉が池の地名は広く知られるようになった。現在は、お玉が池の地名はなくなり、お玉稲荷も目的を繁栄に変えて、ビルの傍らに鎮座している。江戸の名残としての稲荷にちょっと頭をさげ、何事もなかったように通り過ぎる。

コメント

稲荷百社詣その三

2007-12-02 09:28:12 | 稲荷百社詣

 (2)三崎稲荷 (千代田区三崎町2)★★

 古くからの稲荷社で、この辺の地名から三崎と称したという。江戸時代以降、何度か移転させられ、ようやく現在地に落ち着いたという事だが、これも稲荷の宿命だろう。この稲荷、江戸稲荷番付では小結をつとめる人気の稲荷であり、旅の安全祈願のため参勤交代の大名も必ず立ち寄ったという。まずは、これから先の稲荷詣の安全を願って拝礼する。終わって外に出ると、入れ替わりに背広姿が三人。どこか長旅にでも行くのだろうか。

 (3)出世稲荷 (文京区本郷1)

 後楽園近くの、地下鉄が地上に出る辺りに、春日の局の拝領地に祭られていたという稲荷があった。この稲荷、春日の局の出世に因んで出世稲荷の名をつけているが、今はひっそりとして、幟がなければ気づかずに通り過ぎてしまうだろう。鳥居の前で写真を撮っていると、年配の紳士がすっとやってきて、何やらメモをとり始めた。邪魔にならぬよう横にどいて、社殿に向かって一礼、そっとその場を立ち去る。

 (4)沢蔵司(たくぞうす)稲荷(文京区小石川3)★★

 善光寺坂の途中にある稲荷で、江戸稲荷番付では行司役を務めている。むかし、伝通院の修行僧であった沢蔵司が、ある夜、伝通院廓山和尚の夢枕に立ち、自分は稲荷大明神であり、今からは当山を守護すると告げた事から、山内に稲荷神として祭ったという伝説がある。修行僧であったころの沢蔵司は、近くの店に時折そばを食べに来たが、帰ったあと代金の中に木の葉が混じっていたので、店の者が後を付けると祠の中に消えてしまったという話もある。境内は緑が多く、落ち着いた気分で参拝が出来る。参拝のついでに、社殿の右手を下って鳥居の列に潜りこみ、狐穴とおぼしき場所へ行ってみた。が、写真撮影の際のフラッシュがまずかったようで、上の方で話している声が聞こえた。

『近頃は賽銭を入れないし、頭も下げないし、マナーが悪くなりましたね。』
『それに、神仏にみだりにカメラを向けるべきじゃないのですよ。』

 そうは言っても写真を撮らないことには、と思ってはみたが、一応ばつが悪そうな顔をして速やかに退散。道路中央に鎮座する神木の脇をすり抜けて坂を上がる。帰りに伝通院近くの蕎麦屋に寄る積りだったが、それも取りやめ。写真はちゃんと撮れたのだろうか。

コメント

稲荷百社詣その二

2007-11-28 22:32:02 | 稲荷百社詣

(1)豊川稲荷 (港区元赤坂1)★★★

 赤坂見付で降りて、坂道を登りかけたところで、鉄の下駄を履いて来た事に気が付いた。坂の上の「とら屋」の喫茶室で一息入れなければと思いつつ、ゆっくり歩いていくと、坂も終わりかけた辺りで、横断歩道の信号が緑になった。そこで、「とら屋」はまた今度ということにして、ともかく渡ってしまう事にした。道路の向うが今日の目的地の豊川稲荷だったからである。

 豊川稲荷は豊川市の豊川稲荷の別院で、大岡越前ゆかりの稲荷がその前身だという。江戸時代には繁盛した稲荷のようだが、現在では特別な日でもなければ、参詣者が多いとは思えない。それにしても、ここの狐の風貌は獰猛である。この寺の本尊であるダキニ天が乗っているのは、狐ではなくてジャッカルだと云うのは本当なのだろう。ともかく賽銭をあげて、境内をうろついた。この寺は東伏見稲荷と違って異様な雰囲気だなと思いつつ、そのうち、ここでは自分だけが浮いた存在になっている事に思い当たった。早々に退散すべきなのだろう。

 寺の石段を降りようとして、もう少しで躓きそうになった。三毛の猫が石段の所に寝そべっていたのである。邪魔な猫めとぶつぶつ云いながら、坂を下っていくうち、何時の間にか鉄の下駄がいつものウオーキングシューズになっているのに気が付いた。足取りも軽く坂を真ん中あたり迄降りたところで、何気なく後を振返ると、先程の猫が後を付けてくるのが見えた。いや、猫がどこへ行こうと、猫の勝手だし、後を付ける理由も見つからない。それでも気になって、交差点のあたりで、もう一度振返ると、猫がすぐそこに居て、こちらを見詰めている。お前....、ひょっとして....。

コメント

稲荷百社詣その一

2007-11-19 12:05:32 | 稲荷百社詣

【1】
 (番外)東伏見稲荷  (保谷市東伏見1)

 今回は、都内のお稲荷さんを巡る積もりなのだが、その前に、京都の伏見稲荷の唯一の分社で、関東の稲荷社の総社でもある東伏見稲荷を番外として訪ねてみる事にした(実を言うと、訪ねたのは今年の春の事であったが)。

 西武新宿線の東伏見の駅を降りると、大鳥居が横向きにずしっと立っている。鳥居は神社の方向を指し示す筈だから、安心してその方向に歩きだしたが、人通りが何時のまにか無くなって、おまけに神社の森らしきものも行く手に見当たらない。誰かに道を聞くのも面倒なので、向きを少し変えて勘を頼りに歩いて行く。それでも、この日は勘が正常に作動していたとみえて、それほど遠回りもせずに神社の裏参道とおぼしき所に行き当たった。参道と云っても山道のようなもので、土の感触を楽しみながら上っていくと、神社から下って来たらしい老人とすれちがった。なにかの荷物を振り分けにして担いでいる。妙な老人だなと思ったが、振返ってみるのは止めにした。

 東伏見稲荷は、京都の伏見稲荷を昭和になってから分霊したもので、新しい割には貫禄がある。玉砂利を敷き詰めた境内は整然として、お稲荷さんらしい雰囲気はまるでない。季節は春、時は昼下がり。今は桜もオーラを引っこめたままだ。ともかく賽銭箱に百円玉を放り込み、形ばかりの参拝をする。これでお稲荷さん詣も無事に運ぶだろう。

 それから、神社の裏手に回ってみた。すると、背の低い朱塗の鳥居が行列しているのが見えた。はじめは、東伏見稲荷創建以前の古墳の主を鎮める仕掛けかとも思ったが、どうもそうではないらしい。入り口の看板からすると、都内の各地から稲荷社を分霊し、ここに集めただけのようである。つまり、ここの稲荷を巡れば、都内の稲荷を回る必要がないという事なんだろう。お稲荷さん巡りなんぞは取りやめにして、ここから帰れというメッセージかも知れないとも思ったが、そうはいかない。やはり、お稲荷さん巡りは続けることにして、稲荷社に黙礼。では、帰ろうかという時になって、先ほど通ってきた裏参道が見当たらないことに気がついた。仕方がないので、正面の大鳥居から外に出た。

コメント

稲荷百社詣

2007-11-16 14:54:09 | 稲荷百社詣

稲荷百社詣の序  「お稲荷さんについて」

 ある日、突然、お稲荷さん巡りを始めてみようと思った。その前に、お稲荷さんについて少々調べてみた。
  
 お稲荷さんは、一般的には、秦氏による伏見稲荷の創建が起源だと言われている。伏見稲荷の祭神ウカノミタマは、「稲の神」(稲魂)とされ、稲荷と言う言葉は稲稔から来たという。一方、東寺の伝承では、空海が翁の姿をした稲荷神を東寺の守護神として要請したのに始るとし、翁が稲を荷っていたことから稲荷の名が起きたとする。また、稲荷鎮座由来の一つである龍頭太を、製鉄に従事していた者と考え、いなりは鋳成りとする説もある。このほか、時代は下がるのだが、豊川市の妙厳寺(豊川稲荷)に始るダキニ天信仰が稲荷と結び付き、伏見稲荷系とは別の稲荷信仰の流れを生みだしたとされている。

 お稲荷さんは、本来は稲の神(田の神)なのだが、地の神と結びついたり、都市部に広がったりした結果、商売繁盛や病気平癒など庶民の願いを入れた、雑多なご利益を提供するようになり、訳が分らなくなってしまったようだ。

 お稲荷さんと言えば、狐がつきものだが、伏見稲荷と狐との関係は諸説あって、はっきりしない。一方、ダキニ天は狐に乗った形で表される事から、こちらの方は、狐が稲荷神の使いだと言う事になっている。伏見稲荷の狐は、豊川系の稲荷の狐が浸透したという説もあるくらいである。また、田の神として狐を祭る風習が古くからある事から、お稲荷さんと狐が結び付けられたと言う説もある。余談だが、天皇の病気平癒の為、稲荷社に神階を授与した事があって、これが後に正一位を授与するきっかけとなったという。

 ここまで分かったところで、いよいよ、お稲荷さん百社詣に出発である。

(注)下記の文献を参考にさせていただきました。

   ・松前健 編「稲荷明神」筑摩書房
   ・笠間良彦著「ダキニ信仰とその俗信」第一書房
   ・吉野裕子著「狐」法政大学出版局
   ・塚田芳雄著「江戸のおいなりさん」下町タイムス社

コメント