夢七雑録

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ロンドン(2)

2010-06-15 19:25:10 | 大正時代の絵葉書による海外の旅

 上の絵葉書は、ウエストミンスター寺院を描いたクイントンによる水彩画です。この絵には、馬車のほかに、ガソリン・エンジンを使用した屋根なし二階建てのバスも描かれています。

 次の絵葉書は、ウエストミンスター宮殿でもある国会議事堂を描いたクイントンのオリジナル水彩画です。国会議事堂そのものの姿は今も変わりはないでしょうが、テムズ川に浮かぶ船の姿から、昔の風景と確認できるでしょう。

 次の絵葉書は、セノタフ(戦死者記念碑)の写真です。セノタフとは、空っぽの墓という意味だそうですが、1918年に終結した第一次世界大戦のイギリス領の戦死者の記念碑で、1920年に建てられました。現在は第一次大戦以降の戦死者も記念碑の対象にしているようです。この絵葉書は写真印画紙を用いており、撮影されたのは1920年から1924年までの間ということになります。
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ロンドン(1)

2010-06-12 10:55:44 | 大正時代の絵葉書による海外の旅
 ロンドンでの日程は分かりませんが、出張の主要目的地の一つと思われるので、ある程度の日数はとっていたのでしょう。仕事の合間に、市内を見て回るのに十分な時間があったようで、絵葉書も比較的多く集められています。イギリスでは、特にクイントンの水彩画の絵葉書を多く手に入れていますが、どこか気に入ったところがあったのかも知れません。クイントンは英国の水彩画家で、村の風景などを得意としていましたが、ロンドン市内なども題材に取り上げていました。クイントンは数多くの水彩画を描きましたが、ポストカードとして出版されることが多かったようです。なお、入手したポストカードのクイントンの水彩画は、1904年から1924年までの間に出版されたものですが、各々の絵の制作年は分かりません。

 上の絵葉書は、バッキンガム宮殿とビクトリア女王記念碑の写真ですが、網版印刷したカラー写真で、リバプールのものよりは上質です。この写真には大勢の人が集まっている様子が写されていますが、観光客ではなさそうで、中には報道カメラマンらしき姿も見受けられます。何かあったのでしょうか。

 次の絵葉書は、セント・ジェームズ・パークの湖の絵ですが、A.R.クイントンのオリジナルの水彩画をもとにカラー網版印刷したものです。この公園は沼地を干拓して公園としたもので、1829年に現在の形になりました。この絵の右側には、湖畔に面して建つ外務省の建物が見えています。

 次の絵葉書は、ホワイトホールにある、ホース・ガード(近衛騎兵隊本部)の絵で、クイントンによるオリジナル水彩画です。クイントンの絵は、写真のように正確で、写真に比べ細部まで鮮明に描かれています。
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リバプール(3)

2010-06-09 19:15:23 | 大正時代の絵葉書による海外の旅
 リバプールに宿泊した折に、次の絵葉書の場所も見て回ったのでしょう。一番上の絵葉書はセント・ジョーンズ・ガーデンの写真。その次の絵葉書は、現在も市長官邸として利用されているという歴史的建造物、タウン・ホールの写真。そして、一番下の絵葉書は、現在、スリーグレイスと称される歴史的建造物群の写真で、手前からロイヤル・ライヴァー・ビル、キュナード・ビル、ポート・オブ・リバプール・ビルです。



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リバプール(2)

2010-06-05 10:02:39 | 大正時代の絵葉書による海外の旅

 上の絵葉書は、ノース・ウエスタン・ホテル(旧)の絵を網版印刷したもので、右側にはライム・ストリート駅も見えています。ホテルを経営していたのは、ロンドン&ノース・ウエスタン鉄道ですが、このポストカードも同社が発行しています。同じポストカードが複数枚あるので、多分、このホテルに宿泊したのでしょう。なお、このホテルはアメリカからの渡航者がよく利用するホテルでした。

 次の絵葉書は、ライム・ストリートの写真です。左側の建物はセント・ジョージ・ホール、右側はノース・ウエスタン・ホテル(旧)です。ライム・ストリートの奥に円柱のようなものが見えますが、ウェリントンの記念碑でしょう。

 次の絵葉書は、セント・ジョ-ジ・スクエアの写真です。円柱は上が切られていますが、ウェリントンの記念碑のようです。観光絵葉書にとって、高い円柱は扱いにくいものだったのでしょう。

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リバプール(1)

2010-06-02 22:07:24 | 大正時代の絵葉書による海外の旅
 ニューヨークから大西洋航路でリバプールに到着したあと、すぐロンドンに向かわず、リバプールに宿泊したようです。今では、ビートルズの生まれ故郷としてリバプールを訪れる観光客も多いようですが、大正時代のことゆえ、観光目的で宿泊したとは思えません。それでも、市内を見て回るぐらいの事はあったでしょう。

 上の絵葉書は、定期航路の客船が発着するリバプールの浮桟橋の写真です。リバプールで入手した、カラー写真版の絵葉書は、イギリスで印刷されたものですが、モノクロ網版の写真に色を重ねた平版印刷のようで、品質もあまり良くありません。

 次の絵葉書は、ロード・ストリートの写真です。この日は、港からホテルまで車を利用したと思いますが、途中、ロード・ストリートを通っていたかも知れません。

 次の絵葉書は、チャーチ・ストリートの写真です。この通りにも路面電車が走っていますが、見たところ二階式のようです。車も少なかった当時、路面電車は便利な交通機関だったのでしょう。

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大西洋航路

2010-05-29 22:31:21 | 大正時代の絵葉書による海外の旅
 ニューヨークでの仕事を終え、今度はロンドンに向かうことになりますが、大正13年(1924)に、ニューヨークからヨーロッパに向かうには、船で大西洋を横断するしかありませんでした。リバプールで入手したと思われる絵葉書の中に、キュナード・ラインの客船の絵をカラー網版印刷したものが三枚入っていますが、多分、そのどれかに乗船し、大西洋を横断してリバプールに向かったのでしょう。大西洋航路の所要日数ですが、当時の渡航案内には、総トン数5万トンのアキタニヤに水曜に乗船すると火曜に到着すると書かれています。ただ、客船によって、また寄港地によっては、もっと日数を要したらしく、例えば、SCYTHIAの例では、11日を要したようです。

 上の絵葉書は、キュナード・ラインの客船、二代目のALBANIAを描いたものです。この船は1920年に建造されました。

 上の絵葉書は、キュナード・ラインの客船で、英国郵船・SCYTHIAを描いたものです。1921年の建造で、総トン数は2万トンです。

 上の絵葉書は、キュナード・ラインの客船で、英国郵船・ANTONIAを描いたものです。1922年頃の建造で、総トン数は1万4000トンです。 

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ニューヨーク(4)

2010-05-26 19:14:24 | 大正時代の絵葉書による海外の旅

 上の絵葉書は、40丁目から北を見た五番街の写真です。左手に少し見えているのはニューヨーク公共図書館で、五番街と42丁目の角にあった巨大な貯水槽の跡地に、1911年に建てられました。この写真が撮影された当時、郊外の高級住宅地であった五番街は既に小売店が集まる商業地へと変貌していたようです。海外出張の折に五番街をショッピングして歩いたとは思えませんが、写真の場所は、1913年に完成したグランド・セントラル駅から遠くない場所でもあり、ニューヨークに到着して最初に見た繁華街であったかも知れません。なお、グランド・セントラル駅周辺にはホテルが多く、駅から地下道で連絡しているホテルもあって、大陸横断鉄道でニューヨークに到着した旅客にとっては、宿泊するのに好都合な地区であったようです。

 次の絵葉書は、1809年に公園となったユニオン・スクエアの写真です。写真の中央、遠くに見える塔は、メトロポリタン・ライフ・ビルの塔のようです。説明書きによると、ユニオン・スクエアは、撤退の日(独立戦争でイギリス軍が撤退した日)の祝典が行われた場所であり、長い間、周辺はホテル地区でしたが、四番街にロフト・ビルが建つようになってから商業地区として発展を遂げたとしています。

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ニューヨーク(3)

2010-05-23 08:32:45 | 大正時代の絵葉書による海外の旅

 上の絵葉書は、ブロードウエイとパーク・ロウの交差点にあった中央郵便局の写真です。この建物には、中央郵便局のほかに地方裁判所、巡回裁判所も入っており、連邦ビルとも呼ばれていました。この建物は、花崗岩で建てられた建造物の中では、世界で最も美しい装飾を持つビルの一つとして知られていましたが、後に移転して、跡地がシティ・ホール・パークの一部となりました。写真の左側の通りはブロードウエイ、右側の通りはパーク・ロウ、そして、中央郵便局の右側の後ろには、シティ・ホール(旧市庁舎)が少し見えています。なお、シティ・ホールの塔の上に立っているのはCivic Fame像です。

 次の絵葉書は、シティ・ホールの近くにある記録保管所の写真です。この建物は花崗岩で建てられ、内装は大理石、ブロンズ、マホガニーで仕上げられていました。説明書きによると、この場所には、登記所、郡事務所、代理裁判所、税務・法律関係部署の事務所が入っていましたが、ニューヨーク郡の土地の記録も保管していました。この建物は現存しており、今は代理裁判所になっているようです。

 次の絵葉書は、1883年に開通したブルックリン橋の1915年版の写真です。説明書きによると、当時の交通量は、通過した人数で一日に50万人、車の台数で5000台となっています。ニューヨーク滞在中に、この橋を渡ったかどうかは分かりませんが、橋を見る機会はあったのでしょう。橋の姿は今もそれほど変わっていないと思いますが、背景となるマンハッタンのビル群が描く輪郭線、ニューヨークスカイラインは様変わりしている筈です。この写真で、右側の塔のあるビルはシティ・ホール(旧市庁舎)。写真の中央に一際高く聳えているのがウールワースビル。その左の二番目に高いビルがシンガービル。その左の方形のビルはエキタブルビル。その左、上が三角形のビルがバンカーズ・トラスト・ビルでしょう。橋の下に目をやると、軍艦らしき船が航行していますが、その正体は分かりません。

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ニューヨーク(2)

2010-05-19 22:30:20 | 大正時代の絵葉書による海外の旅

 上の絵葉書は、バッテリーパーク近くのボウリング・グリーンから始まるブロードウエイの写真です。当時、ここからシティ・ホール・パークまでの間が金融地区の中心で、世界的にも最大級の、また最も高いオフィスビルが集まっていました。絵葉書の説明書きには、代表的なビルとして、アダムス・ビル、シンガー・ビル、エキタブル・ビル、ウールワース・ビルの名があげられています。この写真では、道の奥にウールワース・ビルが見えています。ところで、この写真には路面電車が写っていますが、よく見ると、軌条が三条あります。景観を重視して暗渠式による地中給電方式を採用していたため、第三軌条から集電していたようです。

 次の絵葉書は、シンガー・ビルを写した写真です。シンガー・ビルは、ブロードウエイとリバティ通りの角にあったビルで、高さは186.7m。1908年に建てられた時は世界で最も高いビルでした。このビルは、残念ながら1970年に取り壊されてしまいました。絵葉書の説明書きによると、このビルには5000のテナントが入っていて、16台のOTIS製エレベータが設置されていました。このビルの建設で採用された基礎工法はケーソン工法で、岩盤に36個の潜函を沈めて基礎としていました。

 次の絵葉書は、世界一の高さ241.6mを誇っていたウールワース・ビルの写真で、建てられた1913年に写したものです。この絵葉書は夜景となっていますが、昼間に撮影したビル街の写真に夜空を組み合わせたものかも知れません。このビルは、1929年に高さ世界一の座を譲りましたが、今もなお、ニューヨーク有数のビルの一つとして存続しています。説明書きによると、基礎はケーソン工法を用い、費用は1500万ドルとなっています。なお、写真の左側に見えているビルはシティ・インベスティング・ビルのようです。また、その後ろに見えているのはシンガー・ビル、左下に見えている建物は中央郵便局(旧)でしょう。 

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ニューヨーク(1)

2010-05-16 10:52:57 | 大正時代の絵葉書による海外の旅
 横浜からニューヨークへの経路は複数あり、パナマ運河経由のニューヨーク航路も開設されていましたが、特別の事情が無ければ、北太平洋航路で西海岸に渡り、大陸横断鉄道でニューヨークに向かったのでしょう。日本の海運会社による北太平洋航路を選んだとすると、日本郵船のシアトル航路、大阪商船のタコマ航路、東洋汽船のサンフランシスコ航路の何れかを選ぶことになりますが、仮に東洋汽船を利用したとすると、11000-14000トン級の設備の良い客船が利用出来ました。しかし、ホノルル経由でサンフランシスコまで16日ほど、大陸横断鉄道もシカゴ乗換で5日はかかるので、横浜からニューヨークまで3週間ぐらい要しました。一方、日本郵船の場合は6000トン級、大阪商船の場合は6000-9000トン級の貨客船の利用になりますが、所要日数はもっと少なくて済みました。ニューヨーク以外の絵葉書は無いので、大陸横断鉄道を途中下車して、各地を見て回ったかどうかは分かりませんが、何れにせよ、ニューヨークに着いてやっと一息といったところでしょうか。ニューヨークでの日程は分かりませんが、市内を見物するだけの余裕はあったのでしょう。それでは、自由の女神像から順番に、ニューヨークの絵葉書を見ていきましょう。

 最初の絵葉書は、カラー印刷による自由の女神像の、1914年版の写真です。ニューヨークに出張したのであれば、自由の女神像を眺めることはあったでしょうが、ベドロウ島(現在のリバティ島)に渡って、自由の女神像を見物したかどうかは分かりません。この絵葉書の印刷はフォトクロム方式のようですが、モノクロの網版写真をもとに多色を重ねた平版印刷で、手で彩色したような色ずれがあり、品質はさほど良いものではありません。ニューヨークで入手した写真版の絵葉書は、全て同じ方式で印刷されています。この絵葉書には、トーチについて世界で最も高い場所にある航路標識という説明書きがついています。

 次の絵葉書はマンハッタンの南端にあるバッテリーパークの写真です。左側に低層の建造物が見えますが、この頃は、水族館になっていました。それ以前は、キャッスル・ガーデン・フォートと呼ばれ、移民局が使用していましたが、元々は砦でした(現在はキャッスル・クリントン)。写真右側のビルは高さが126.9mのホワイトホール・ビルです。説明書きによると1911年に460万ドルの費用をかけて増築されましたが、当時は、港に最も近い摩天楼という事になっていました。バッテリーパークの向こうはハドソン川で、三本煙突の客船が航行しています。ヨーロッパに向かう船でしょうか。
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