善福寺川(1)
ある日、ふと思い立って、善福寺池に行ってみた。日は少し傾いているが、池はまだ明るい。散歩する人。座っている人。走っている人。鳥を見ている人。池はただ静かである。上の池はボート池の筈だが、今日は開店休業日らしい。池には、カルガモ、オナガガモ、キンクロハジロ等々、おなじみの鳥たちが来ている。何年か前、コハクチョウが飛来して、話題になったことがあったが、その後は話を聞かない。リピーターになるほどの場所ではなかったのだろう。その代わり、バリケンという顔が赤くて羽が白と黒の奇妙な鳥が棲みついている。食肉用として輸入したものが逃げ出して、あちこちに出没するようになったらしい。確か、秋津の近くにもバリケンの飼育場があったと思うが、今どうなっているかは知らない。
池の西側に、遅野井に因む小さな滝がある。遅野井というのは、この辺りの古い地名で、源頼朝の軍勢がこの地を通った時、喉が渇いたので井戸を掘ったが、水が湧き出すのが遅かったことから、遅野井という地名が生まれたという言い伝えがある。こじつけのような話だが、地名の由来話にはよくあることなのだろう。池の方を見ると、小島があって市杵島神社の祠がある。早い話が弁天様だが、この神社も頼朝が創建したということになっている。この小島、橋を架けた跡はあるが、今は何故か橋が無い。
昔の善福寺池は、葦の根が浮き上がるほどの湧水量だったそうだが、現在は地下水に頼らないと水位を維持できないらしい。遅野井の滝も地下水汲み上げなのだろう。それでも、この辺りの地下水脈は未だ健在なようで、善福寺池の近くの杉並浄水所は、今でも地下水を利用しているのだという。東京の水道がカルキ臭かった頃、善福寺池の近くの水道は湧水を使用しているから美味しいのだという話を聞いた事があるが、この杉並浄水所が話のもとであったらしい。この浄水所の前身は、昭和初期に地下水による水道を近隣に供給していた井荻町水道だそうである。地下水を利用する浄水所は、23区内に三か所あったらしいが、今でも地下水を利用しているのは、この浄水所だけになっているという。もっとも、今は、この浄水所から上井草給水所に送って他の水と混ぜて供給しているらしいのだが。
上の池と下の池は水路でつながっている。水路が金網に囲まれているのは、ホタルでも飼育しているからだろうか。その先は、広場の下を暗渠で通り抜けて下の池に出ている。下の池は自然のままのように見えるが、意図的にそうしたのかも知れない。池から流れ落ちた水は、美濃山橋の下を潜って、善福寺川になるのだが、池の水だけでは不足らしく、暗渠の中からもう一つの水路が合流している。千川上水が青梅街道と交差する地点で7割ほどの水が分かれ、青梅街道に沿った暗渠を流れ、稲荷神社の先の角を折れ、善福寺横の道を流れているという話を聞いた事があるが、多分、この水路がそうなのだろう。
江戸時代、現在の「万世橋」の西側に神田見附があり、筋違い門と筋違い橋があった。明治になると、門と橋は壊され、上流に石橋の万代橋が架けられる。その後、道路が変更になると、万代橋は廃止となり、その上流に万世橋が架けられるが、のちに「昌平橋」に改称する。一方、現在の「万世橋」付近には、私設の昌平橋が架けられていたが、昭和になって、現在位置に「万世橋」が架けられると、私設の昌平橋は廃止される。というわけで、ややこしい話の続きが終わったところで、神田川の南側を歩き、次の橋へ。
(139)神田ふれあい橋
山手線のガードを潜ってすぐ、細い道を入ると人道橋の「神田ふれあい橋」に出る。新幹線を上野まで延ばす際の工事用橋だったものを、地元の要望を入れて残した橋なのだそうだ。橋から戻り、柳森神社の狐と狸にちょいと頭を下げ、柳原土手だった頃を想像しながら、柳並木の道を歩く。ビルに邪魔されて、神田川を眺められないのは残念だが。
(140)和泉橋
江戸時代から、ここに橋があり、橋の北側にあった藤堂和泉守屋敷に因んで、「和泉橋」と呼ばれていた。橋の北側に行くと秋葉原駅だが、秋葉原駅が貨物専用の駅だった頃、駅に隣接して貨物を扱う船溜まりがあり、そこへの運河が、橋の上流側に造られていたという。橋の北側には、運河の跡もあるらしいが、今回はパスして、川の南側の道を先へ進む。
(141)美倉橋
江戸時代は、柳原新し橋と呼ばれていたが、明治以降は「美倉橋」と称するようになる。この辺りは三か所の蔵地があったことから、三蔵地と呼ばれていたが、後に、神田美倉町となり、この地名から橋の名が出たというわけだ。蔵を意識したデザインのトイレが橋際にあるが、間違える人は多分居ないのだろう。橋から戻って、次の橋へ行く。
(142)左衛門橋
明治になって架けられた橋で、当時は有料の私設の橋であった。「左衛門橋」の名の由来だが、橋の北側にあった酒井左衛門の屋敷から、左衛門河岸の名が生まれ、それが橋の名になったらしい。橋は渡らず、川の南側の道を、半ば目をつむりながら歩いて行く。
(143)浅草橋
江戸時代、ここに浅草見附があり、神田川には欄干宝珠付きの「浅草橋」が架かり、奥州街道が通っていた。明治になると、枡形櫓付きの見附は壊され、その石材で「浅草橋」は石橋に変わる。その後、鉄橋となり、さらに現在の橋となる。川の中を見ると屋形船が数多く停泊している。そんな様子を見ながら、ここからは神田川の左岸を歩く。
(144)柳橋
次は、神田川最下流の橋で、江戸時代は川口出口の橋と呼ばれていたが、後に「柳橋」と称するようになったという。橋の名の由来は、近くにあった矢の倉が柳に転じたという説と、柳原土手に由来するという説があるが、実は、薬研堀にあった橋が元の柳橋で、神田川の橋は新しい柳橋だという話もある。現在の橋は、小振りながら落ち着きがあり、柳も植えられていて、神田川を締めくくるに相応しい橋になっている。この先で、神田川は隅田川に流れ込み、25Kmの川路はめでたく終わりを告げることになるのだが、それでは物足りないと言うので、両国橋を渡って対岸から「柳橋」を眺めることになった。これで御終いかと思ったら、また柳橋まで戻ると言う。よくは分からぬが、言われた通りに戻る。どうやら、船宿で何か買う積りらしい。
外で待つ間、退屈なので、階段を下りて水面を眺めていると、何か大きな黒い影が泳いでいるのに気が付いた。なんだろうと思って身を乗り出した途端、足を滑らせて、川に落ちた。犬かきは得意な筈だったのだが、慌てたのだろう、したたか水を飲んだ。その時、少し薄れかけた意識の片隅で、女の子の声を聞いたように思った。
「ママ、見て、見て、ほら、犬が溺れてるゥ」
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「おもとは居ないか。もとはいぬか」「いえ、今朝がた犬になりました」
(完)
【参考資料】今回の連載にあたっては、次の資料を参考とさせていただきました。
東京新聞社会部「神田川」、朝日新聞社会部「神田川」、坂田正二「江戸東京の神田川」、岩垣顕「神田川遡上」、神田川ネットワーク「神田川再発見」、石川悌二「東京の橋」、塩見鮮一郎「江戸の城と川」、芳賀善次郎「旧鎌倉街道探索の旅・中道編」、「三鷹市史」、「杉並区史」、鎌田達也「井の頭線沿線の一世紀」、「杉並の古道」、「杉並の地名」、「中野区史」、「地図で見る新宿区の移り変わり」、「落合の歴史」、「私たちの下落合」、「豊島区地域図」「東京都市地図」、「江戸情報地図」、「江戸切絵図集成」、ホームページ、その他。
関口大洗堰から「船河原橋」までは、以前、江戸川と呼ばれていたが、「船河原橋」から先は、今も昔も神田川である。ここから先の神田川は、水量は増えたが流れは無く、黒く澱んだままである。それと、頭上の高速道路も気になる。歩道が遊歩道風に作られているのが、せめてもの救いだ。まもなく、「小石川橋」。江戸時代は小石川御門の前にあり、「小石川御門橋」と呼ばれた橋である。そのすぐ先で日本橋川が分れている。江戸時代より前、白鳥池から流れ出た平川は、「小石川橋」の東側にあった小石川の大沼に流れ込んでいたが、さらに、この大沼の南側から南流して江戸城の東側を流れ、日比谷入江に注いでいた。やがて、平川から江戸湊に通じる水路となる日本橋川が掘削される。一説に、命じたのは太田道灌だという。江戸時代になり、日比谷入江が埋め立てられると、日本橋川が、平川すなわち神田川の下流となる。その後、お茶の水付近の台地が掘削され、神田川が東に流れて隅田川に出るようになると、日本橋川への水路は不要になり、その上流部が埋め立てられる。明治になって、神田川から日本橋川への水路が再び掘削されるが、それが現在の姿ということになる。少し疲れてきた足と目を労わりながら、「小石川橋」を渡り、ひとまず神田川と別れて、日本橋川を「三崎橋」で渡る。
(133)後楽橋
「三崎橋」の先、神田川に架かる「後楽橋」を渡る。昭和の初めの架橋のようだ。隣に人道橋の「後楽園ブリッジ」が併設されていて、この橋を渡る人が引きも切らない。神田川から離れ、疲れた頭を奮い立たせながら、外堀通りを歩く。江戸時代、市兵衛河岸という荷揚げの場所だったところだ。しばらく歩いていくと、神田川の水面が覗ける場所がある。今は防災船着場になっているが、この辺りで小石川が合流するらしい。小石川は、地下鉄千川駅近くの弁天池を水源とする谷端川の下流で、古くは小石川の大沼に流入していたが、江戸時代は水戸藩邸を通過して、水道橋の上流で神田川に流れこんでいた。今は、すべて暗渠となり、人知れず流れて、人知れず神田川に落ちている。
(134)水道橋
江戸時代の「水道橋」は今より下流にあり、神田上水の掛樋に並んで架けられていたので、水道橋の名が出たという。また、近くにあった寺の名に因んで「吉祥寺橋」とも呼ばれていた。春日通りを渡り、万年樋のレリーフを欄干に填めこんだ「水道橋」を横目に、坂を上がる。神田上水をイメージしたらしい石の造形の横をすりぬけ、分水路の碑を過ぎると、神田上水掛樋跡の碑がある。関口大洗堰で分かれた上水は、後楽園を通ったあと、掛樋で神田川を越えていた。碑がある場所はその跡地だが、今は何の痕跡もない。
(135)お茶の水橋
「水道橋」から「お茶の水橋」へ、交通量の多い道路の横を、ひたすら上がる。緑が割合多く、木々の間から神田川の流れも俯瞰できて、快く歩ける道ではあるのだが、足は疲れ、目も少しかすんでくる。やがて、明治に架橋された「お茶の水橋」。橋の名の由来は、西北の本郷台の南端にあった湧水でお茶をたてたことによる。橋の付近は茗渓と称された深い谷で、左岸の斜面は樹木で覆われている。「お茶ノ水橋」の上からの「聖橋」方面の眺めは、絵になる風景のようで、カメラを構えている人が一人。その横をそっとすり抜ける。
(136)聖橋
JRお茶ノ水駅の南側の道を歩き、「聖橋」に行く。昭和の初めに架けられた美しい橋で、神田川に架かる橋の中で、どれか一つあげるとすれば、この橋をあげたいところ。橋の名は公募で決まったということだが、湯島聖堂とニコライ堂を結ぶ橋の名としては、適切な命名と言えるだろう。橋を渡り石段を下りて、「聖橋」の下をくぐり、もう一度橋を見上げてから、湯島聖堂の塀を見ながら進むと、やがて、「昌平橋」に出る。
(137)昌平橋
江戸時代の「昌平橋」は、今より上流にあり、古くは、新し橋、相生橋、一口橋などと呼ばれていた。その後、湯島聖堂が建造されると、そこに祀られている孔子の故郷である昌平郷に因んで、「昌平橋」と称するようになる。明治になって、この橋が大水で流出した後、しばらくは、橋の無い状態が続いたが、明治の終わりの頃、現在の昌平橋の位置に万世橋という名の橋が架けられる。一方、現在の「万世橋」の近くに、私設の有料橋が架けられ、昌平橋の名を継いだが、昭和になって、この橋が廃止されると、万世橋が「昌平橋」に改称する。ややこしい話は、これくらいにして、次の「万世橋」に行くことにするが、秋葉原の喧騒は避けたいので、神田川の南側の道を歩く。
江戸川橋から船河原橋までの間、短い区間ながら歩くのは誠に煩わしい。車の多い道路の横を歩くのは煩わしいし、何となく汚れて見える川の横を歩くのも煩わしい。高速道路に蓋をされた下を歩くのは、もっと煩わしい。川沿いに歩けずに、橋を探しながら歩くのも煩わしいが、工事中のため大回りさせられるのは、さらに煩わしい。ともかく、我慢して歩く。次の橋は、「華水橋」。橋の名の由来は不明。最初の架橋は大正の頃だろう。前に来た時は、昔ながらの鋼橋だったが、今は軽やかなグレイの橋になっている。
(121)掃部(かもん)橋
次の橋は「掃部橋」。この辺りに、歌舞伎町付近に発する蟹川が流れ込んでいたらしいが、今は暗渠化されて、どこを流れているか分からなくなっている。前に来た時、「掃部橋」は古い緑色の鋼橋だったが、今は灰色のスマートな橋に変わっている。ただ、近辺の風景の中では、弱々しい橋にしか見えない。江戸時代、この橋は無名の橋だったが、吉岡掃部という紺屋に因んで「掃部橋」という俗称で呼ばれていた。今は、その俗称が橋の公式な名称となっている。それにしても、橋に名を残す吉岡掃部とは、どんな人物だったのだろう。
(122)古川橋
この橋は、古川町から小日向水道町に渡る橋ゆえ、「古川橋」と称し、また「そだ橋」という通称もあったという。将軍が鷹狩に行く時に渡っていた橋でもある。前に来た時は古い鋼板桁橋を渡ったが、現在は工事中で渡ることは出来ない。大回りして次の橋へ行く。
(123)石切橋
江戸時代、この辺りでは幅の広い橋であったので、「大橋」という名が付いていたが、通称では、近くに居た石工に因んで「石切橋」と呼んでいた。前に来た時は、まだ緑色の鋼橋のままであったが、今はグレイの軽やかな橋に切り替わっている。明治の中頃、この橋から隆慶橋まで桜が植えられ、花見客で賑わったらしいが、今、その面影はどこにも無い。
(124)西江戸川橋
明治になってから木橋を架けたのが「西江戸川橋」の始まりという。橋の名は、旧町名からだが、前田橋と呼ばれることもあったらしい。前に来た時は青色の鋼板桁橋であったが、今は桜色の軽快な橋になっている。この橋の近く、護岸の壁面に船運の浮き彫りがある。残念ながら、見づらい位置にあり、かなり汚れてもいる。どうせ金をかけるなら、橋に金をかけたらと思うのだが、多分、見解の相違があるのだろう。
(125)小桜橋
橋の名は、桜の名所だったことに因むのだろう。「小桜橋」が架けられたのは昭和の初めだが、大正の頃に架けられていた無名の橋が、その前身かも知れない。今は桜色の軽やかな橋だが、前に来た時は未だ工事中で、化粧途中の姿を見せていた。それから十数年経って、「華水橋」から「小桜橋」の間の六ヶ所のうち、五か所が完了。あとは、「古川橋」を残すだけだが、距離にして1kmほどの区間の改修に、かなりの時間を掛けたことになる。
(126)中之橋
前に来た時は新装の橋を渡ったが、今回、十数年ほど経過して少し大人びてきた橋を渡る。橋の名の由来は、江戸時代、「石切橋」と「龍慶橋」の間に、新たに架けられた橋だからという。明治のころ、この橋の付近は観桜の中心地として賑わっていたらしいが、今は何もない。
(127)新白鳥橋
「白鳥橋」のバイパスとして斜めに架けられた橋で、ただ車を通すためだけの、何の飾り気も無い橋である。上流側には、付けたしのような歩道がついている。
(128)白鳥橋
神田川が大きく屈曲していることから、大曲という地名が生じ、明治になって、ここに石造の大曲橋が架けられる。昭和に入って、この橋の後を継いだのが鋼板橋の「白鳥橋」で、今も、そのままらしい。橋の名の由来は、むかし、この辺りが白鳥池という大きな池であったからという。この池が埋め立てられたのは、明暦の大火のあとである。
(129)新隆慶橋
前に来た時には、未だ存在していなかった橋で、神田川では最も新しい橋になる。道幅が広いので、遠くから見ると、橋のようには見えない。
(130)隆慶橋
嘉稜紀行によると、三代将軍に仕えていた大橋龍慶が、その宅地に穴八幡を勧請して、替え地となった小日向に移り住んだことがあり、その住居に行くための橋が龍慶橋と呼ばれるようになったという。現在の橋は、前に来た時と変わらぬ鋼板の橋で、渡りたいと思う橋には程遠いが、この辺の雰囲気には合っているのだろう。ところで、この橋の東側に奇妙なタバコの広告塔があったように記憶しているのだが、今回は見当たらなかったような気がする。
(131)船河原橋
飯田橋の交差点の歩道橋に上がると、「船川原橋」と「飯田橋」が作る三角形の上を、車が往来しているのが見える。西側にあるのが「飯田橋」で、今は外堀の暗渠出口に架かっている。北側にある橋が「船河原橋」で、斜めに架けられている橋も一緒にして「船河原橋」と呼んでいる。現在の神田川は、L字型に曲がって東に流れているが、江戸時代は、外堀と直交しており、現在より上流に「船河原橋」が架けられ、「飯田橋」は架けられていなかった。橋の名の由来は、橋の下流が船溜まりになっていたからといい、また、落ちる水の音から「どんと橋」とも呼ばれていた。
「面影橋」を渡った先の会社の入口の横に、山吹の里の石碑がある。石碑は再利用品らしい。山吹の里の場所は諸説あるが、所詮、伝説に過ぎぬ故、論議を楽しんでいるだけなのだろう。「面影橋」の名の由来は、姿を写す池があったからという説など諸説ある。何れにしても、ここには、古くから橋があったらしい。この橋を通る古道は、鎌倉街道中道の東回り道だという説がある。その経路は、二子の渡しから、等々力、渋谷、千駄ヶ谷を経て、面影橋から池袋を経て岩淵に出るという。橋から北へ宿坂を上がる道が、その古街道という事になるが、今回はパス。桜の下の遊歩道を歩いて、次の橋へ行く。
(113)三島橋
次の橋は「三島橋」。源頼朝が三島神社を勧請した事から、三島という地名(字)が生じ、それが橋の名になったという。ここに橋が架けられたのは、終戦より何年か前のことらしい。橋から下を覗くと、川の中まで伸びた桜の枝の下に、黄褐色の露岩が続き、その近くをカルガモが三羽、音も立てずに泳いでいる。
(114)仲之橋
桜の下の遊歩道を歩いて、「仲之橋」に出る。面影橋と豊橋の中間に架けられたので、この名が出たらしい。架橋は、昭和になってからだろう。この辺りの川底には、露岩が長々と続いている。上総層群とかいう、東京の基盤になっている地層で、神田川の改修で掘下げた際に露出したものを、そのまま残しておいたようだ。神田川の川床はコンクリートが多いが、高戸橋から下流は、自然のままの川底にしてあるという。
(115)豊橋
最初の架橋は明治の終わり頃だろうか。橋の名は、近くの豊川稲荷に由来する。豊川稲荷は、豊川の妙巌寺を発祥の地とする仏教系の稲荷で、伏見稲荷とは系統を異にするが、所詮、民間信仰ゆえ、あまり区別して考える必要はないのかも知れない。橋から下を見ると、上総層群の露岩がここまで続いているのが分かる。地層の一部が顔を出したもの故、一枚岩の範囲を越えた露岩というわけだ。それに、堆積した砂礫でもあり、見栄えは良くない。ここから、「新江戸川公園」は近いが、行くのは止めにして、桜の道を先に進む。
(116)駒塚橋
もとは「駒留橋」と称したが、いつの頃からか「駒塚橋」と呼ばれるようになったという。駒留橋の由来については諸説あるらしい。川の中をちょっと覗き、両岸の桜を眺め、北側の水神社を遙拝してから、また歩きだす。近くの芭蕉庵は、神田上水の工事に芭蕉が参加したと伝えられる事に因み、後年、作られたものだが、今回は黙って通り過ぎる。
(117)大滝橋
次は、花見の中心地にある「大滝橋」。親柱はレンガになっている。初架橋は昭和になってからだろうか。江戸時代、この辺りには、関口大洗堰があり、神田上水と江戸川を左右に分けていたという。公園内には堰の柱も据え付けられているが、じっくり見るほどのこともないので、先を急ぐ。
(118)一休橋
江戸時代、「関口橋」と呼ばれていた橋が、今は通称に従い「一休橋」となる。その由来は、一休蕎麦という店が近くにあったという説と、一橋から一休に転じたという説がある。橋の由来についての碑が右岸にあるらしいが、読めそうになく、読む気もないのでパス。橋の上から、桜の影になっている江戸川橋の方を眺め、それからまた歩きだす。
(119)江戸川橋
江戸川公園も終わりに近づくと、「江戸川橋」が間近に見えて来るが、巨大な取水口が何とも目障りだ。ここには、創架時期が分からないほど古くから、橋があったらしいが、今の橋は何代目になるのだろう。この橋から北に音羽通りを進めば護国寺に出るのだが、今回は立ち寄る暇は無さそうだ。道を渡り、橋の下流側を見ると、暗渠が口をあけている。池袋駅の西口付近に発する弦巻川と、池袋駅東口付近に発する水窪川とは、別々の経路を流れたあと、音羽通りの左右を流れていたが、現在はすべて暗渠となり、江戸川橋の手前で合流して、この暗渠の口から神田川に落ちている。
旧神田上水は、「田島橋」の手前で北に向かったあと、急角度で南に転じ、東に折れていた。この折れた部分に架かっていたのが「田島橋」である。橋の名の由来だが、北側の台地に安藤但馬守の屋敷があって、大久保方面に行く時は、この橋を通っていたからという。ところで、「田島橋」近くの田圃は、江戸時代、蛍の名所として知られた所だったらしい。今でも、近くの「おとめ山公園」では蛍を飼育しているということだが、夜まで待てないので、立ち寄るのは止めにした。
(104)清水川橋
昭和初期の河川改修以降の橋で、その名は地名(字)に由来する。橋から下流を眺めると、JRと西武新宿線の下で、神田川が川幅を狭めているのが見える。この附近は、しばしば水害に悩まされたが、その原因とされた場所でもある。「清水川橋」から先、川沿いに行けないので、一旦、高田馬場駅に出ることにした。ここで、余談を一つ。田島橋と面影橋の間、川が北から南に折れ曲がる場所に、一枚岩の景勝地があったという話がある。位置的には、清水川橋の北側から、高戸橋の辺りの間が該当するが、今は、その景勝も失われている。現在でも、神田川の川底に露岩が見られる場所はあるが、神田川の流路にしろ、水位にしろ、当時とは異なっているので、同じものを、江戸の人達が見ていたわけではない。
(105)神高橋
高田馬場駅から下っていくと「神高橋」に出る。最初の架橋は大正時代で、橋の名は神田川と高田から付けたという。十数年前に来た時は、橋を一本増設しただけの間に合わせのような橋だったが、今回来てみると、立派な橋に生まれ変わっている。上流側の歩道を歩くと、線路下の狭隘部分を神田川が流れ落ちる様子が見て取れる。豪雨の時には激流逆巻く景観が見られるのかも知れない。ところで、この橋は新宿区と豊島区の境界になっているが、ここから「豊橋」までの区界は入り組んでいる。旧神田上水の跡を境界として残さざるを得ない事情があったのだろう。「神高橋」から「戸田平橋」まで、区境は南側にふくらんでいるが、その経路が旧神田上水の水路跡というわけだ。
(106)高塚橋
「神高橋」から左岸を歩くと、新装なった「高塚橋」に出る。橋の名は、戸塚と高田から名付けられたという。この辺りでは、比較的新しい橋のようだ。川面を見ると、少々汚れているように見える。悪臭がするわけではないのだが、下りてみようとは思わない。
(107)戸田平橋
川沿いに歩くと、新しくなった「戸田平橋」に出る。ここに橋が架けられのは、大正時代で、その名は、戸塚と高田、それに架橋に尽力した平野氏の名に由来するという。近くに橋の記念碑があるが、読む気はないので、一瞥して立ち去る。
(108)源水橋
前に来た時は川沿いの道が無く、川から離れた分かりにくい道を歩くはめになったが、今回は、川沿いの道を「源水橋」まですんなり行くことができた。途中、戸山公園を水源とする秣川という支流が暗渠となって流れこんでいるが、妙な名の由来は、明治の初め、源流部に競馬場があったからだろう。「源水橋」は大正時代の架橋といい、橋の名は源兵衛村の水車が近くにあったからという。今は、橋も新しくなって、欄干には水車の絵が嵌め込まれている。
(109)高田橋
次の橋は「高田橋」。新目白通りが神田川を斜めに越している。この橋の下流で暗渠の中からようやく「高田馬場分水路」と妙正寺川が現れ、神田川に合流している。橋は新目白通りが開通した時に架けられたのだろうが、それ以前にも、近くに橋があったらしい。
(110)高戸橋
「高田橋」と交差するように、次の「高戸橋」があり、明治通りが神田川を越えている。「高戸橋」は、昭和の初期、明治通りが開設された時に架設されたようで、その名は高田と戸塚から付けたという。橋から上流を眺めると、少々汚れているように見えるのが、残念な気もする。下流側は橋の向こうに桜が少し見える。その桜を隠すように都電が通り過ぎて行く。
(111)曙橋
明治通りを渡り、都電の踏切を通ってすぐに左へ、細い道を歩いて行くと、川沿いの遊歩道に出る。この辺りから、江戸川橋までは、両岸に桜が植えられている。付近には、公園や史跡もあって、神田川の流域の中でも景観が良い地域だが、特に花見時が素晴らしい。次の橋は大正時代に架けられた「曙橋」。橋は平凡だが、魚道を下ってくる水の流れは美しい。川を横目に遊歩道を歩いて行くと「面影橋」に出る。ここで、橋を渡る積りだったが、急きょ、予定を変更して甘泉園に行く。甘泉園は、清水家下屋敷跡で、回遊式庭園になっている。無料だが、それほど広くはなさそうだ。結局、当方は中には入らず、入口の小公園で待つことにした。今日は、ここらで終わりになるのでは、ないかな、多分。
(96)小滝橋
「小滝橋」の名の由来は、下流に堰があって滝の音がしていたからという。また、姿見ず橋と呼ばれた「淀橋」に対して、姿見橋とも呼ばれていた。江戸時代は周囲に茶店が並び、涼を求める人で賑わったと言われている。また、ここを通る道は青梅街道の裏街道として利用され、小滝橋を渡って北へ行くと板橋・練馬方面に、南へ行くと中野に出られる、一寸した交通の要所であったため、「小滝橋」の西側は、荷を運ぶ人たちの休憩地になっていた。現在の「小滝橋」は当時とは位置がずれて、堰も失われてしまったが、交通量の多い早稲田通りが通過し、西側に都バス営業所もあって、交通の要所である点は変わらない。この橋から先も、桜は続いている。その右岸を先へと歩く。
(97)久保前橋
桜と桜の間に隙間が出来るようになると「久保前橋」で、大正15年の竣工という。近くの碑に由来が書いてありそうだが、読めそうになく、読む気もないのでパスして橋を渡る。向こう側は落合水再生センターで、上が落合中央公園になっている。階段を上がって、桜の並木を見下ろし、それから、橋を渡って広場に行く。短い距離なら全力疾走出来そうな広さだが、走るのは駄目だという。狭い場所を駆けずり回っても面白くないので、橋まで戻って、今度は左岸を歩く。
(98)せせらぎ橋
せせらぎ橋は、せせらぎの里公苑に由来する、新しい橋である。折角なので、近くの妙正寺川を見に行く。公苑の横の桜の下を通り、下落合駅の踏切を渡り、「落合橋」も渡って、右に折れ、妙正寺川に沿って歩くと、すぐに「西ノ橋」に出る。この橋は、比丘尼橋、落合土橋とも呼ばれていた橋で、今でこそ、昭和になって架けられた「落合橋」に主役を奪われているが、江戸から明治にかけては、この橋が主役で、妙正寺川の上流は中井の「寺斉橋」まで橋が無く、下流はすぐに旧神田上水に合流していた。現在の妙正寺川は、神田川との合流点を先に延ばして、「西ノ橋」から東流し、「千代久保橋」の先で斜面を滑り落ち、「辰巳橋」の下を潜って、暗渠の中に吸い込まれている。じっと見ていると、こちらまで吸い込まれそうなので、早々に切り上げ、踏切を渡って右に行く。念のため、川沿いに歩いて「せせらぎ橋」まで戻り、橋を渡って今度は右岸の桜の下を「新堀橋」に向かう。
(99)新堀橋
新堀橋の手前には、神田川が溢れた時に妙正寺川に水を流す「高田馬場分水路」の暗渠が口をあけているが、桜景色の中では、アクセントと言えなくもない。ところで、旧神田上水は現在の流路とはかなり異なり、北に蛇行して、現・下落合駅の南側で妙正寺川と合流したあと、線路の北側を流れ、「千代久保橋」の下を通って、再び線路の南側へと流れていた。昭和の初期、これをショートカットし、東に流れる水路が新しく掘削されたが、ここに架けられたのが「新堀橋」で、橋の名の由来にもなっている。
(100)瀧澤橋
新堀橋から右岸の桜の下を歩き、「瀧澤橋」に出る。この橋の下流で、神田川は小さな段差を落ちて小滝のようになっている。その手前に、昭和初期の河川改修によって変えられた、妙正寺川との合流点があった筈だが、今はその跡も判別しづらくなっている。この河川改修では、線路北側の妙正寺川も直線の多い流路に変わり、下落合駅の南側にあった旧神田上水との合流点は、一枚岩の名勝もろとも埋め立てられて消滅している。また、妙正寺川は「西ノ橋」から東に流れるよう改修され、旧神田上水の橋だった「千代久保橋」の下を流れ、斜め右方に直進して旧神田上水と合流するよう改修された。この時、合流点の上流部に架けられたのが「瀧澤橋」である。現在はこの合流点も消滅し、神田川と妙正寺川との合流点は、ずっと下流の高田橋付近に移っている。
(101)落合橋
「瀧澤橋」から先は川沿いに歩けないため、南側に回って、古い鋼橋のままの「落合橋」に行く。橋から上流を眺めると、しだれ桜と川の流れの対比が面白く、小さな滝と組み合わせて切り取ると、一寸した渓流美のようにも見える。旧神田上水は、戸塚三小の東側を南に流れ、次いで東に転じ、「田島橋」の手前で北に向かっていたが、昭和初期の河川改修によって、神田上水の流路が変わり、現在の場所に「落合橋」が架けられる。橋の名の由来だが、河川改修により作られた神田川と妙正寺川の合流点の近くにあったからだろうか。
(102)宮田橋
「宮田橋」は、昭和初期の河川改修の際に、現在の位置に架けられるが、南側を流れていた旧神田上水に架かっていた宮田橋が、その前身と言える。橋の名は地名(字)に由来し、橋は今も古い鋼橋のままである。この先、川沿いの道は無い。橋から下流を眺めると、「田島橋」の手前に橋が架かっているのが見える。「富士短大」敷地内の橋である。十数年前に来た時には、橋は一階部分に架かっていた筈なのだが、何時の間にか高い位置に移動している。どのみち、構内橋ゆえ、神田川の橋としては番外の橋にはなるのだが。
次の橋は、青梅街道が通る「淀橋」である。前に来た時は未だ工事中だったが、それもどうやら終わったようだ。前の時の写真と見比べてみると、橋の欄干は新しくなったようだが、親柱などの柱は、洗って再利用したらしい。由緒ある橋だからだろう。この橋には、多くの富を得た中野長者という人物が、その財宝を埋めた際、その場所が漏れないよう、手伝った使用人をこの橋の下で殺したという伝説がある。そのため、帰りには使用人の姿が見えなくなることから、「姿見ず橋」と呼ばれていたという。この話を聞いた三代将軍家光が、不吉な橋の名に代えて「淀橋」と呼ぶよう命じたとする説もあるが、確かなことは分からない。ただ、青梅街道の交通の要所としての役割は、今も昔も変わりが無い。なお、この橋の親柱には、三重丸のような形が彫られているが、近くにあった淀橋水車を表しているのだそうである。
(87)栄橋
江戸時代、淀橋から面影橋までの間には、小滝橋と田島橋の二つの橋しかなかった。それ以外の橋は、明治以降に架けられたものである。その多くは、昭和初期に蛇行する神田上水を緩やかな流路に改修してからの架橋だが、この場所に橋が架けられたのは、それより早く、大正時代のことであったらしい。十数年前に来た時には、川沿いに道が無く、回り道をして橋を探して歩いたが、当時は栄橋も未だ工事中で、仮橋が架かっていた。今回は川沿いに出来た遊歩道を歩いて、新しくなった「栄橋」を渡る。
(88)伏見橋
初架橋は、「栄橋」と同じ頃だろう。橋の名は、近くにあった伏見宮別邸に由来する。橋には魚の頭のようなオブジェが置かれているが、神田川の他の場所でも見られるものである。十数年前に来た時には、既に橋も新しくなっていて、下流には遊歩道も出来ていた。この辺りの神田川は、中野区と新宿区の区境になっているが、今回は、左岸の中野区側の遊歩道、四季の道を歩く。四季折々楽しめる道というわけだ。
(89)末広橋
「末広橋」の手前に、「桃園川緑道」の出口がある。桃園川は天沼弁天池付近を水源とする神田川の支流だが、今は暗渠化されていて、その上は緑道になっている。時間があれば歩いてみたい気もしたが、今日のところはパスして、「末広橋」を渡る。振返ると新宿の高層ビル群が見える。新宿のビル群も、そろそろ見納めである。
(90)柏橋
「末広橋」から先は右岸を歩く。橋の下流側に、暗渠化された桃園川の開口部が見えるが、水量は思いのほか少ない。豪雨の際は大量の水が流れ込むのだろうか。神田川の右岸は新宿区で、水とみどりの散歩道と名付けられている。左岸より緑は多そうだ。やがて、斜めに架けられた「柏橋」に出る。橋の名は柏木の地名に由来するという。
(91)新開橋
明治の終わりの頃、甲武鉄道が開通し柏木駅が開業する。現在の中央線東中野駅である。これにあわせて、駅近くの神田川に二か所の橋が架けられるが、その橋の一つを継いだのが、現在の「新開橋」ということのようだ。新しい駅を中心に新たな市街地が出来る、橋の名は、そんな意味なのだろう。
(92)万亀橋
この橋も、柏木駅の開業の際に架けられた橋を継いだということになるが、昭和初期の河川改修の時に、位置をずらし、新たに架けられたようである。この橋の東側に玉川上水から分流した用水が流れていて、その辺りの窪地を亀窪と称したことが、橋の名の由来という。
(93)大東橋
左岸を歩き、JRのガードを潜って、高層マンションの横を抜けると、「大東橋」に出る。最初の架橋は、昭和の初めであろうか。橋の名の由来は、東中野駅北側の旧地名である大塚に対して、東側にあるからという。橋を渡ると、神田上水公園という川沿いの公園に出る。園内は狭いが、人工の流れもあって、それなりに整備はされている。ただ、ここから先の主役は、何といっても桜である。花見時、この辺りを訪れたのは、これまで何度あっただろうか。
(94)南小滝橋
ここに最初に架橋されたのは、大東橋と同じ頃だろう。橋の名は地名(字)に由来しているという。この辺り、上流も下流も、両岸から桜が枝を伸ばし、神田川の上は、花の雲状態になっている。桜は満開の時よりも、散り際が美しい。橋の上から眺めると、散り終えた桜が、時には流れにのり、時には澱みながら、流れ下っていくのが見える。その流れを追うように、公園の中をゆっくりと歩いて行く。
(95)亀齢橋
初架橋は「南小滝橋」と同じ時期だろう。橋の名の由来は分からないが、「万亀橋」と同様、亀窪からきているのかも知れない。橋を渡り、川を眺め、それから左岸の桜の下を歩いて行く。途中、ジョキングをしている人とすれ違う。新宿区側は、遊歩道をウオーキングの道として推奨しているが、中野区側はジョキングの道として推奨しているらしい。このさき、川が緩やかに曲がり始めると、間もなく小滝橋に出る。
次の橋は「桜橋」と名付けられている。ここから先の橋の名は、風雅な名前が付けられているが、周辺が花街であった頃の名残だろう。前に来た時は、道幅の割に重量感のある鋼橋が架かっていたが、生活感があり、どこか懐かしい場所でもあった。現在は、川沿いの遊歩道の完成とともに、桜色の軽快な橋に変えられている。
(75)花見橋
他の橋より、幅の広い橋である。橋の名は花街ならではといったところ。前に来た時は、川沿いに歩けずに回り道をしたが、今回は川沿いの遊歩道を歩いて、たどりつく。
(76)月見橋
次の橋も「月見橋」という風流な名前が付けられている。前に来た時は、橋の名にそぐわない鋼橋だったが、今は、軽やかな橋になっていて、月見も出来そうである。橋からは都庁が望めるが、前に来た時は、木が茂っていて見えなかったような気がする。
(77)中ノ橋
明治時代、河川改修前の旧神田上水に架けられていた橋が、この橋の前身だろう。橋の名の由来だが、「新橋」と「長者橋」の中間に新しく架けた橋という意味だろうが、以前は「中野橋」とも呼ばれていたようなので、別の由来があるのかも知れない。
(78)皐月橋
この橋も花街ならではの名が付いている。前に来た時は、小学校の裏手に橋がある事に気付かず、通り過ぎてしまった橋だが、もともとは、学校の専用橋のような橋だったらしい。ここから、行く手に新宿の高層ビル群を望みながら、遊歩道を歩いて次の橋へ行く。
(79)桔梗橋
次も風流な名を付けた橋である。この辺、新しく作られた橋が続くが、色を変えて変化をつけているようだ。中ノ橋が青なら、皐月橋は緑、桔梗橋は赤、といった具合である。以前の橋が、緑色の武骨な鋼橋で、どの橋も同じようだったのに比べれば、ずっといい。
(80)東郷橋
次の「東郷橋」の名は地名(字)に由来する。この橋も新しくなった橋である。ここまで来ると長者橋が見えるようになる。川沿いの遊歩道は開放的で、緑はまだ少ないものの、川は改修されたばかりで、川底や岸壁に汚れが少ないのが、何よりだ。
(81)長者橋
次の橋は、山手通りが通る「長者橋」である。以前来た時は、重量感のある親柱の橋だったが、現在は、改修されて明快な橋になっている。ただ、交通量の多い道路の橋としては、存在感が薄れてしまった事は否めない。この橋の名の由来は、近くの成願寺に居館があったと伝えられる中野長者に由来する。現在、成願寺の山門は東側の山手通り沿いにあるが、江戸時代は南側にあり、神田川を橋で渡って参詣するようになっていた。山手通りを渡って左後方に見える森の辺りが、現在の成願寺で、中野長者の塚と称するものがあるが、今回は先を急ぐゆえ立ち寄らない。
(82)宝橋
右岸の遊歩道を歩き、新装なった「宝橋」に出る。江戸から明治にかけて、長者橋から淀橋まで橋は無かったが、昭和の初期に、蛇行して流れる神田川を改修した際、今と同じ四か所に橋が架けられる。その中で、最初に架けられたのが、この「宝橋」であったらしい。本郷堰で神田上水の水を入れて東に流れていた用水堀は、長者橋の下流で神田上水に合流するが、合流点の直ぐ上の用水堀に架かっていた橋が、「宝橋」の前身といえる橋である。橋の名は、中野長者が財宝を埋めたという伝説に由来するのだろうが、伝説が真実なら、西は十貫坂から東は十二社まで、長者の土地の何処かに、財宝が埋まっている筈である。
(83)菖蒲(あやめ)橋
十数年前に、ここに来た時は、工事が始まったばかりで、川沿いに行く道が無く、遠回りをして行き着いたのが、この橋である。今回は川沿いの遊歩道を歩き、新しくなった橋を渡る。それから、前回は歩けなかった左岸の道を、下流に向かって歩いていくと、右岸に暗渠の出口らしきものが見えた。幡ヶ谷付近を水源とする神田川支流の合流点だという。その跡が、遊歩道のようになっているという事だが、先を急ぐゆえ、今回はパス。
(84)相生橋
以前の「相生橋」は、どっしりした親柱のある橋だったが、今回の改修で軽快な橋になり、橋のたもとにあった樹木も姿を消した。ついでに、けやき橋商店街の看板も新しくなっている。けやき橋とは、玉川上水から分水して、淀橋付近で神田川に落ちていた助水用水路に架けられていた橋のことだという。その水路の跡を訪ねてみたい気もしたが、先を急ぐゆえ、以前は無かった川沿いの遊歩道を歩いて、次の「豊水橋」へ行く。
(85)豊水橋
続く「豊水橋」は地名(字)による名である。前に来た時は、工事が始まったばかりだった。それから十数年も経っているので、橋が新しくなっているのは当然だが、この橋から次の「淀橋」までの間の遊歩道の完成には何故か時間がかかり、「淀橋」まで通行出来るようになったのは、つい最近のことである。
和田見橋から少し先に行くと、地下鉄の「中野富士見町駅」がある。人通りも増え、車の往来も多くなって、間もなく、旧町名に由来する「富士見橋」に出る。昭和の初期、神田川と善福寺川の合流点から長者橋の間の、蛇行する神田川を改修し、直線部分の多い流路に直すことが行われたが、同時に周辺の区画整理も行われ、現在とほぼ同じ位置に橋が架けられる。その中で、富士見橋は、他の橋よりかなり遅れて架けられたようである。橋のたもとには記念碑があるが、読めそうになく、読む気もないので、黙って通り過ぎる。
(67)高砂橋
「富士見橋」から先は、神田川に沿って歩けないため、回り道をしながら橋を探して歩く。前に歩いた時は、所々、高圧線の鉄塔が川の中に仁王立ちになっていたような気がしたが、記憶違いかも知れない。次の橋は、「高砂橋」。両岸から樹木が枝を伸ばして、川の上を覆っている。川の流れは意外と早く、そのせいか、汚れた川と言う印象はない。
(68)寿橋
次の「寿橋」は、交通量の多い中野通りが通っており、北へ行けば十貫坂の上に出る。江戸時代、神田川と善福寺川の合流点から長者橋の間には、二か所に橋が架けられていた。現在は、神田川の流路が変わっているため、当時の橋の位置と同じにはならないが、「寿橋」は、そのうちの一か所に該当しそうである。一説によると、鎌倉街道中道の西回り道は、多田神社から北に直進して、十貫坂に出ていたという。道筋からすれば、鎌倉街道が神田川を渡っていた場所は、「寿橋」の近辺になるのではなかろうか。
(69)本郷橋
「本郷橋」の名は旧村名に由来する。明治の末ごろ、旧神田上水にあった橋が、場所的には近いが、この橋の前身と言えるかどうかは分からない。現在、「新橋」から「寿橋」まで、遊歩道を作る計画があるようだが、今は川沿いに行けないので、回り道をして歩く。
(70)柳橋
次は「柳橋」だが、橋の名の由来は分からない。他の橋と同様、ここにも、道幅の割には重たげな鋼橋が架かっている。この橋も、明治の末ごろ旧神田上水に架かっていた橋に、場所的には近いが、関係があるかどうかは不明だ。
(71)千代田橋
次の橋は「千代田橋」で、その名は旧町名に由来する。町名は、田圃が千代に続くことを願ってのものだろうが、この橋が架けられた、昭和の初めには、千代田町から田圃が消えていたかも知れない。
(72)氷川橋
次の「氷川橋」の名は、氷川神社に由来する。ただ、氷川神社の参道ということではなさそうだ。前に来た時は「新橋」の赤い欄干が見えたのだが、工事中のため、今は不可。
(73)新橋
次の橋は朱色の「新橋」。花街だった頃の面影が残っている。地下鉄の中野新橋の駅も近く、橋の周辺は商店街になっている。現在は工事が始まったばかりだが、計画では寿橋まで川沿いに遊歩道が出来るらしい。その時は、「新橋」も塗装し直すのだろう。ところで、江戸時代から明治にかけて、この近辺に橋があり、中野に出る道が通っていたという。道筋からすると、「新橋」が、その橋に該当しそうである。ただ、橋の名が「新橋」である理由が、よく分からない。河川改修前の旧神田上水にあった橋も「新橋」であったらしいが、中野に出る道が開かれた時に、新しく架けた橋なので、「新橋」と称したのだろうか。